副題1、『絶対に人前で、歌えない自分になった理由』
副題2、『楽に寄す(シューベルト)』
副題3、『ローレライ(ドイツ民謡)』
副題4、『イムジン川(加藤和彦採譜?)・・・・(セロ弾きのゴーシュのごとく、歌い続けた1965年)』
~~~~~~~~~~~~~~
副題1、『絶対に人前で、歌えない自分になった理由』
音楽に対する思い出がうわーんと押し寄せてきた、16日ですが、二つ目のお話をさせて下さいませ。それは、大きなトラウマを抱えていて、人前でうたうことができない私が、どういう風に自己改造をして、ついに、クラス会とか、500人以上の大パーティの席でもしれっとして歌えるようになったかのお話です。それは、複雑ですが、一種の聞くも涙というお話です。でも、辛いことだから克服する必要がありました。し、今その辛い欠点を克服しえていて、それも、従容として死に付くと言うことに役立っていると思うので、ここに御披露をさせていただきます。
一つ目のラフマニノフのピアノ協奏曲のお話で、先生が助けてくださったと申し上げました。その先生は試験(一人一人が、先生のピアノ伴奏で課題曲を歌う)のときでもずいぶんと励ましてくださいましたが、私は恥ずかしがりやの極致の人で、どうしてもみんなの前で、一人でうたうことができませんでした。私が人前で、どうしても声が出せなかったのには理由が三つほどありました。
ひとつは小さいころ、居候をさせてもらっていたおじの家で、年上のいとこに、『声がキンキンンしていてうるさいわあ』と言われてしまい、母が気兼ねをして、「声を抑えなさい」と言ったので、自分の声に自信がもてなくなっていたと言うことがあります。
二つ目は、母が父をからかっていたと言うことがあります。母は父が寝たきりになってからは、献身的な看病をした人ですが、父が元気なころにはしょっちゅうシニカルにからかっていました。そのひとつに、父が大変な歌好きなのに、どうしてか、音痴だったと言うことがあります。父の兄は、音楽好きで、数学の教師なのに独学で音楽科も教えられるようになっていました。が、父の音痴をまずからかって、「千晴(ちはる)は、変タ調だからね」とよく言っていたそうです。おじは明治32年の生まれで、変ロ長調をもじって、父の音痴を、変タ長調といってからかったわけですから、あの兄弟は二人が二人とも、相当にモダンなことが好きな、おしゃれな人間ではありました。
やがて居候生活は終わり、核家族で暮らすようになりました。が、今度は母が、「お父さんは、変タ調だから」と家の中で笑う現象に接しなくてはならなくて、それを聞くのは私にはとても辛いことで、それによって私は歌うことに対して極端に萎縮していきます。
父には、職業的な挫折がありました。戦後飛ぶ鳥を落とす勢いのある経済安定本部と言うところ(中央官庁のひとつで、後に経済企画庁と名を変えた)に勤務中に収賄事件がおきたのです。下っ端なので、罪には、問われませんでしたが、大変な苦痛で、友人も職場も失いました。これは、ありとあらゆる物資を自由に買うことができない時代で、経済安定本部が一手に分配していたのです。統制経済といいます。その中で、父の部署は石油(もしくは重油)を扱っていたわけなので、大きな狙い目の場所でもありました。
父は、失職の寂しさと苦痛を忘れるために、よく、小さな恋人としての私を連れて、都会へ遊びに行っていました。大変おしゃれな人間で、遊ぶことは戦前から大好きで、浅草オペラは、たくさん見ていて、エノケンのお歌を覚えていて、愛唱をしていたのです。「小さな喫茶店」とか。そのころ、東武野田線と言うのは、人も少なくて、そこで、父は立って、良くうたっていました。それは、小学校、一年か二年の私には、恥ずかしくてたまらない現象でしたが、父が大きな挫折を経て、さびしい境遇だったのは子供心にわかっていて、音楽が慰みになっているのは知っていました。それなのに、最大の味方でなくてはいけない母が、「変タ調が、また、うたっている」とからかうわけですから、私は辛くて、辛くて、それで、お歌が大きな、トラウマになってしまったのです。あれほど、からかわれるのだから、音痴って、とてもいけないことなんだわ。自分が音痴だったらどうしようと思ってね。それが、怖くて、怖くて。
こういうことって、とても不思議なことなのですが、家族ってお互いにわがままになるものなのです。遠慮がないということです。それが、時には、何もいわない、小さな子供の心を痛めきっていても、大人は、気が付かなかったりするのです。
そして、歌が唄えない三つ目の理由は、どうしてか、『私に両親の期待がかかっているわ。だから、失敗しちゃあダメなのよ』と思いがあって、自分で自分を縛っているのでした。無論、この想像は正しかったのです。日吉と言う地域社会で、一番成績がよくて(?)有名だったわが子に、一家の再生やら、再興を、両親が託して、願っていたのは、ひそかに、自覚をしていて、それゆえに、礼儀正しく、絶対に悪いことをしない子でしたが、面白みは無かったでしょう。18日土曜日 1:42
副題2、『楽に寄す(シューベルト)』
中学校はお若い男性の先生が多く、雲居先生は紅一点であり、決して威張らないけれど華やかで明るいムードの方でした。そこは横浜国大付属中学です。で、高校は東京へ進学して、お茶大の付属高校へ入りました。こちらの音楽の先生は、岩永先生とおっしゃって寡黙な方でした。が、大正生まれの女性としては、非常に、知性にあふれたお顔をなさっていて、骨格はしっかりした背の高い方なのに、やや、やせていて、女性としては地味な方でした。中学時代の雲居先生のように、内面からあふれるエネルギーがあるとも見えませんでした。が、個人的に、ひどい抑圧を内面に抱えている私には、先生の寡黙さの中に、何かを感じて『素敵な雰囲気の方だなあ』と思っていました。無論芸大出身です。
ところがある日、音楽室で、驚くべき話が出ていて、私は、嘘だろうか、本当だろうかと悩むこととなります。それは、こちらにも音大進学志望のお嬢様がいて、その人がやはり、情報通であり、ほかの人へ披露をしてくれた話なのですが、『岩永先生は、失恋をして自殺未遂をなさったので、声がつぶれたのよ』というものです。このお友達のその後を語って、彼女を弁護すれば、お茶大の付属って、日本一のお金持ちとか、日本一の官僚の娘とか、大臣の娘とか、生まれたときから銀の匙をくわえて生まれて来るお嬢様が多いのです。で、挫折を知らないので、残酷になってしまうケースもあるのでした。
彼女はその後、お子様に恵まれなかったり大病をされたりしたので、ものを深く考えたり、表現も慎重になっていくのです。だから、今、こんな話をしたら、「まさか、私がそんな話をした覚えはありません」とおっしゃるとは思います。が、少女期には、あらゆることに恵まれた人特有の、ある種の残酷さがあったのです。
私はその話を聞いて、岩永先生に深い同情心をもったし、自分の裏側にある家族が抱えているどうしようもない悲しみもありましたので、何もお話をしていないのに、岩永先生と心が通う感じはありました。
で、また、試験の時期がやってきました。先生はベートーヴェンの『アデライーデ』と、シューベルトの『楽に寄す(今は寄せるとも書くらしい)』を課題曲として選ばれました。私は例のごとく試験が怖くてたまらない人間ですから、早く終わる曲として、より短いシューベルトを選びました。リズムも四分音符やら、二分音符が多くてシンブルでした。だから、『できるだろう』と思ったのに、実は、うたうのには、大きな恐怖を伴う曲だったのです。何が恐怖かと言うと、音程が、ひどくかけ離れた声を出さないといけないのでした。
ソドドミーラと、ニ長調で運んでいくのですが、最初のソと、ドの間がポーンと上がる感じで4度の差があり、かつ、その後で、急に下がるドとミの間が、6度です。上がって下がってと言う感じが、遊園地の恐ろしく刺激的な遊具に乗っている感じで、先生が伴奏をお初めになったとたんに、一種の高所恐怖症のに、かかったようになって、その二つの音程の差が怖くて怖くて、もう、声は出せないのでした。
岩永先生は励まして励ましてくださって、前奏だけを、六回ぐらい弾いてくださったのに、結局のところ、私は歌えませんでした。顔、青ざめて、足が震えるだけでした。で、岩永先生も、とうとうあきらめてお仕舞になりました。そのまま、先生とはお別れしていて、現在の状況をお見せできないのは、本当に悲しいことです。ただ、私の死後はもう一回お会いできると信じていますが・・・・・死後の世界があるだろうと信じていますので・・・・・
副題3、『ローレライ(ドイツ民謡)』
でね、お歌と言う意味では、生涯暗黒の中に閉じ込められるはずでしたが、この高校で、ひとつの救いに出会います。それは、文化祭の発表にドイツ語部が、ローレライをドイツ語でうたうという挑戦をしたのです。
そのころの私は人前でうたったことがないのですから、自分がどのパートにむいているかもわからないわけですが、でも、下手だからこそ、難しいパートはダメだと感じて、メロディそのものをうたうソプラノを選びました。
その歌詞をドイツ語で歌うと言う件ですが、実は私は暗記と言うのが大っ嫌いな人間でした。で、これが不思議な功を奏しました。ドイツ語にかかりっきりだったので、いわゆる自意識と言うのを捨て去ることが、自然にできたのです。先ほど述べた、4度と6度の音程を超えられなかったと言うのも『ここで、とんでもない音痴振りを発揮してしまったら、恥ずかしいなあ。みんなが見ているわけだし』と思ったからですが、それも自意識のひとつでしょう。
でも、あまりにもドイツ語が、難しいと感じたので、そればかり考えていて、そのほかのことは何も考えられませんでした。むろん、音程をはずしたりして、恥ずかしい結果になるとも思いませんでした。だって、合唱ですから15人ぐらいいるソプラノパートの一人です。その中で、みんなに溶け込めばいいのです。そのことは安心しきっていました。
その演目のときに、舞台前の座席、一列目に、のちに東大の理一に進む友達が座って、聞いていました。彼女とはまったく親しくありませんでした。良く大賢は大愚に似たりと言うでしょう。彼女は遠目には、素敵には見えない人でした。いろいろなことを深く考えるのが好きで、良く慣れている人にしか心を開かない私は、好きなことの分野がかぶらない彼女のことは、まったく知らなかったのです。クラスも一度も一緒になったことも無くて、会話も交わしたこともない間柄でした。
しかし、お歌が終わって、舞台を降りると、その将来の理一さんが、「しろちゃん、あなたって信じがたいほど、声がいいんだね」と言ってくれました。ちなみにしろちゃんというのは当時の私のあだ名です。
私はきょとんとはしました。だって、それは、生まれて初めて聞く言葉でした。でも、思い返せば、自分が、自由自在に歌えていたのにも気がついていました。生涯はじめて、自由自在にお歌がうたえて、そして、それを、目の前の、親友でもなんでもない、ただ、133人のうち、36人の、高校から入学したと言う共通点があるだけの子が、ほめてくれている。将来、理一に進むような女の子ですから、口数も少なくて、『むしろ、ぶっきらぼうな人だなあ』と思わせるような普段の言動の人です。
が、そういう人が、ほめてくれたのですから、信じました。『あれ、私、いわゆる無明の境地だといい声が出るのかも知れない』と、思ったのは、のちのちの大いなる救いにつながっていきます。
土曜日 2:36
副題4、『イムジン川(加藤和彦採譜?)・・・・(セロ弾きのゴーシュのごとく、歌い続けた1965年)』
今、私はわが音楽体験を書いているわけです。高校まで進みました。でも、堅苦しくて、しかもたくさんのコンプレックスを抱えている私は、お歌どころではないのに、とても華やかなお嬢様がいっぱいいる、大学へまたまた、進学してしまいました。国際キリスト教大学と言うところです。高校時代だけで、すでに、お嬢様方にはへきへきしていたはずなのに、英語が好きだということや、国際関係のことが好きだというのと、何しろ暗記が嫌いで、受験勉強にはむいていないなどと言うことが、この大学を選ばせました。この大学の入試には、暗記は関係ないのです。英語力があり、応用力があれば解ける問題を、大量に短時間に処理すれば入れるのですから、自分には願ってもないほどぴったりでした。
そこへ、上位20番以内で、入学できて、奨学金さえいただけるはずでした。その書類に判をもらいに高校へ行ったら、担任の先生がとても喜んでくださいました。ただし、父の納税額がおおくて日本の上位6%以内であると言うことで、奨学金はもらえませんでした。父は若い日の大失敗に懲りて、羹に懲りて膾を吹くというほど、慎重に暮らしましたので、納税額は大きかったみたいです。だけど、そんなに大金持ちではないのですよ。
そこへ、私は政治とか、経済の部門を勉強するべく入ったのですが、時はベトナム戦争の時代です。政治を勉強すると言うこと、特に国際基督教大学でそれをするということはアメリカに対して、絶対に反対しない人間になるということを差すような気がしてきてしまいました。
実際には、そこらあたりを厳密にしないでおいた方が、人生は得だったでしょうね。ともかく外国大好き人間だから、57歳で、はじめて海外一人暮らしをするのは遅かったと思います。もっと早く海外に出ているべき人間だったと思います。ただ、仮定についてあれこれ、考えても仕方がないので、当時の実情を言いますと、私はひそかに、小さな胸を痛めながら、政治学専攻よりも化学に転科しちゃおうかなあと、考え始めました。
つい最近クラス会があって、帰りの電車内で、当時の同級生が、私の心のうちに踏込んで質問をしてくれたのです。それで、その人のおかげで、自己分析も見事に果たすことができたのですが、・・・・・実は政治が、好きなほうで、政治分析が好きな人間であって、だからこそ、なんとはない恐れを抱いて、わざと政治学から遠ざかったのではないかと、・・・・・言うのが真相のようです。
で、大学時というのは、みなさん、華やかでね。男の子や女の子で、恋愛を始める子が多いのですが、私は慎重にして、傷つくのがいやな子ですから、予備校時代に知り合った、主人と手紙を交わすぐらい(そして、一年に一度会うぐらいの交流にとどめて)、大学時代に誰かと恋愛関係に入ることはありませんでした。ともかく地味な方だったのです。
大学の校舎はウィリアムズ・ヴォーリーズの設計で、中央に階段ホールがあり、両翼に長い廊下があります。それで、校舎の中で歌を歌うと、ものすごい音響で響くようになっておりました。
のちに、朝日新聞の記者になった、W君という格好の良い男の子などが、校舎を歌いながら闊歩すると大変美しく、声がひびきました。
そういう校舎内で私は昼から夜に掛けて、一人ぼっちで、10時間を過ごさないといけないという羽目になりました。化学実験に、長時間が必要なケースだったのです。
あまりにも退屈で、しかたがないので、ふと、W君のまねをして歌を歌ってみたのです。すると、自分の声が、ものすごくいい声のように聞こえるのです。
化学実験室というのはドアが常に開いている部屋であって、そこから声が、ほぼ200メートルはあるだろう廊下に逃げていくわけですね。天井高は、4メートル程度ですが、辺り一面に本物か、人造かはわからないものの、大理石が張ってあるのです。で、ものすごい反響です。しかも節電など考える必要も無かった1960年代ですから、校舎内のその長い廊下は、ピッカピカです。そのトンネルを、私の声がはるか遠く200メートルの東側の入り口まで届く感じで伸びていくのです。しかも誰も聞いていないので、恥ずかしがる必要がないのです。すごく気持ちがいいです。
で、毎晩、お歌を、二,三時間歌ってすごしました。そして、『もしかしたら、私の声って、あの東大の理一に進んだ、ぶっきらぼうな友達が言ってくれたように、いいのかもしれない』と、ひそかに思うようになっていきました。
そのころ愛唱したのは、当時の学生の愛唱歌で、ロシア民謡、インターナショナル、イムジン川などです。世界民謡アンニーローリーや、ローレライ、(ああ、いまでも、イム アーベント ゾーネン シャインと、ドイツ語で歌えるほど、暗記嫌いの私が唯一歌詞をドイツ語で覚えた歌なのですが)等々。それらは小さな歌集(歌詞だけの刷ってあるもの)に頼ってうたって行きました。この少し後の世代はビートルズや、に耽溺していくのですが、私の生まれた1942年までの学生は、上に上げたような歌が好きなはずで、それは今、歌声喫茶の再来とか言われていて、東京では熟年の間で、はやっているらしいです。
その後、共産圏国家の凋落が激しくなりました。特に北朝鮮の裏側の忌々しさが明らかになり、イムジン川など、そのタイトルを口に出すのもはばかられるようになりましたが、美しいメロディラインを持つ曲です。
ところで、この1965年秋の数ヶ月ほど、集中して、お歌を歌う時間があったことはありません。そして、誰も聞いていない中で、だから、恥ずかしさも感じないで、何十回も同じ歌を、大きな声で、誰にも気兼ねせずに、歌うことが、実は、大きな音楽の自習、勉強になっていたことを、後で、気が付くのでした。
補遺、今、いろいろとグーグルで検索してみて、イムジン川を、採譜して、はやらせたらしいフォーククルセーダーズの加藤和彦さんが、2005年公開の映画パッチギの音楽を担当して、この曲を大いに使ったと出ていました。で、映画のおかげで、この曲の命は永らえたみたいですね。
それはそうと、私は1962~1965年ごろまで、テレビもラジオも一切聴きませんでした。下宿や寮に暮らしていて、そこにはテレビは、無かったと思うし、ラジオを聴く趣味がなかったので、あの大学時のイムジン川のメロディをどうして覚えたかが不思議です。それは、ラジオではやり始めた最先端のころです。だから、学友の誰かが好きになって、校舎内で、歌っていて、それを聴いて覚えたと思われます。
2012年2月18日に初稿として書いたものを、21日に整理して、こちらに揚げます。
雨宮舜(本名、川崎 千恵子)
副題2、『楽に寄す(シューベルト)』
副題3、『ローレライ(ドイツ民謡)』
副題4、『イムジン川(加藤和彦採譜?)・・・・(セロ弾きのゴーシュのごとく、歌い続けた1965年)』
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副題1、『絶対に人前で、歌えない自分になった理由』
音楽に対する思い出がうわーんと押し寄せてきた、16日ですが、二つ目のお話をさせて下さいませ。それは、大きなトラウマを抱えていて、人前でうたうことができない私が、どういう風に自己改造をして、ついに、クラス会とか、500人以上の大パーティの席でもしれっとして歌えるようになったかのお話です。それは、複雑ですが、一種の聞くも涙というお話です。でも、辛いことだから克服する必要がありました。し、今その辛い欠点を克服しえていて、それも、従容として死に付くと言うことに役立っていると思うので、ここに御披露をさせていただきます。
一つ目のラフマニノフのピアノ協奏曲のお話で、先生が助けてくださったと申し上げました。その先生は試験(一人一人が、先生のピアノ伴奏で課題曲を歌う)のときでもずいぶんと励ましてくださいましたが、私は恥ずかしがりやの極致の人で、どうしてもみんなの前で、一人でうたうことができませんでした。私が人前で、どうしても声が出せなかったのには理由が三つほどありました。
ひとつは小さいころ、居候をさせてもらっていたおじの家で、年上のいとこに、『声がキンキンンしていてうるさいわあ』と言われてしまい、母が気兼ねをして、「声を抑えなさい」と言ったので、自分の声に自信がもてなくなっていたと言うことがあります。
二つ目は、母が父をからかっていたと言うことがあります。母は父が寝たきりになってからは、献身的な看病をした人ですが、父が元気なころにはしょっちゅうシニカルにからかっていました。そのひとつに、父が大変な歌好きなのに、どうしてか、音痴だったと言うことがあります。父の兄は、音楽好きで、数学の教師なのに独学で音楽科も教えられるようになっていました。が、父の音痴をまずからかって、「千晴(ちはる)は、変タ調だからね」とよく言っていたそうです。おじは明治32年の生まれで、変ロ長調をもじって、父の音痴を、変タ長調といってからかったわけですから、あの兄弟は二人が二人とも、相当にモダンなことが好きな、おしゃれな人間ではありました。
やがて居候生活は終わり、核家族で暮らすようになりました。が、今度は母が、「お父さんは、変タ調だから」と家の中で笑う現象に接しなくてはならなくて、それを聞くのは私にはとても辛いことで、それによって私は歌うことに対して極端に萎縮していきます。
父には、職業的な挫折がありました。戦後飛ぶ鳥を落とす勢いのある経済安定本部と言うところ(中央官庁のひとつで、後に経済企画庁と名を変えた)に勤務中に収賄事件がおきたのです。下っ端なので、罪には、問われませんでしたが、大変な苦痛で、友人も職場も失いました。これは、ありとあらゆる物資を自由に買うことができない時代で、経済安定本部が一手に分配していたのです。統制経済といいます。その中で、父の部署は石油(もしくは重油)を扱っていたわけなので、大きな狙い目の場所でもありました。
父は、失職の寂しさと苦痛を忘れるために、よく、小さな恋人としての私を連れて、都会へ遊びに行っていました。大変おしゃれな人間で、遊ぶことは戦前から大好きで、浅草オペラは、たくさん見ていて、エノケンのお歌を覚えていて、愛唱をしていたのです。「小さな喫茶店」とか。そのころ、東武野田線と言うのは、人も少なくて、そこで、父は立って、良くうたっていました。それは、小学校、一年か二年の私には、恥ずかしくてたまらない現象でしたが、父が大きな挫折を経て、さびしい境遇だったのは子供心にわかっていて、音楽が慰みになっているのは知っていました。それなのに、最大の味方でなくてはいけない母が、「変タ調が、また、うたっている」とからかうわけですから、私は辛くて、辛くて、それで、お歌が大きな、トラウマになってしまったのです。あれほど、からかわれるのだから、音痴って、とてもいけないことなんだわ。自分が音痴だったらどうしようと思ってね。それが、怖くて、怖くて。
こういうことって、とても不思議なことなのですが、家族ってお互いにわがままになるものなのです。遠慮がないということです。それが、時には、何もいわない、小さな子供の心を痛めきっていても、大人は、気が付かなかったりするのです。
そして、歌が唄えない三つ目の理由は、どうしてか、『私に両親の期待がかかっているわ。だから、失敗しちゃあダメなのよ』と思いがあって、自分で自分を縛っているのでした。無論、この想像は正しかったのです。日吉と言う地域社会で、一番成績がよくて(?)有名だったわが子に、一家の再生やら、再興を、両親が託して、願っていたのは、ひそかに、自覚をしていて、それゆえに、礼儀正しく、絶対に悪いことをしない子でしたが、面白みは無かったでしょう。18日土曜日 1:42
副題2、『楽に寄す(シューベルト)』
中学校はお若い男性の先生が多く、雲居先生は紅一点であり、決して威張らないけれど華やかで明るいムードの方でした。そこは横浜国大付属中学です。で、高校は東京へ進学して、お茶大の付属高校へ入りました。こちらの音楽の先生は、岩永先生とおっしゃって寡黙な方でした。が、大正生まれの女性としては、非常に、知性にあふれたお顔をなさっていて、骨格はしっかりした背の高い方なのに、やや、やせていて、女性としては地味な方でした。中学時代の雲居先生のように、内面からあふれるエネルギーがあるとも見えませんでした。が、個人的に、ひどい抑圧を内面に抱えている私には、先生の寡黙さの中に、何かを感じて『素敵な雰囲気の方だなあ』と思っていました。無論芸大出身です。
ところがある日、音楽室で、驚くべき話が出ていて、私は、嘘だろうか、本当だろうかと悩むこととなります。それは、こちらにも音大進学志望のお嬢様がいて、その人がやはり、情報通であり、ほかの人へ披露をしてくれた話なのですが、『岩永先生は、失恋をして自殺未遂をなさったので、声がつぶれたのよ』というものです。このお友達のその後を語って、彼女を弁護すれば、お茶大の付属って、日本一のお金持ちとか、日本一の官僚の娘とか、大臣の娘とか、生まれたときから銀の匙をくわえて生まれて来るお嬢様が多いのです。で、挫折を知らないので、残酷になってしまうケースもあるのでした。
彼女はその後、お子様に恵まれなかったり大病をされたりしたので、ものを深く考えたり、表現も慎重になっていくのです。だから、今、こんな話をしたら、「まさか、私がそんな話をした覚えはありません」とおっしゃるとは思います。が、少女期には、あらゆることに恵まれた人特有の、ある種の残酷さがあったのです。
私はその話を聞いて、岩永先生に深い同情心をもったし、自分の裏側にある家族が抱えているどうしようもない悲しみもありましたので、何もお話をしていないのに、岩永先生と心が通う感じはありました。
で、また、試験の時期がやってきました。先生はベートーヴェンの『アデライーデ』と、シューベルトの『楽に寄す(今は寄せるとも書くらしい)』を課題曲として選ばれました。私は例のごとく試験が怖くてたまらない人間ですから、早く終わる曲として、より短いシューベルトを選びました。リズムも四分音符やら、二分音符が多くてシンブルでした。だから、『できるだろう』と思ったのに、実は、うたうのには、大きな恐怖を伴う曲だったのです。何が恐怖かと言うと、音程が、ひどくかけ離れた声を出さないといけないのでした。
ソドドミーラと、ニ長調で運んでいくのですが、最初のソと、ドの間がポーンと上がる感じで4度の差があり、かつ、その後で、急に下がるドとミの間が、6度です。上がって下がってと言う感じが、遊園地の恐ろしく刺激的な遊具に乗っている感じで、先生が伴奏をお初めになったとたんに、一種の高所恐怖症のに、かかったようになって、その二つの音程の差が怖くて怖くて、もう、声は出せないのでした。
岩永先生は励まして励ましてくださって、前奏だけを、六回ぐらい弾いてくださったのに、結局のところ、私は歌えませんでした。顔、青ざめて、足が震えるだけでした。で、岩永先生も、とうとうあきらめてお仕舞になりました。そのまま、先生とはお別れしていて、現在の状況をお見せできないのは、本当に悲しいことです。ただ、私の死後はもう一回お会いできると信じていますが・・・・・死後の世界があるだろうと信じていますので・・・・・
副題3、『ローレライ(ドイツ民謡)』
でね、お歌と言う意味では、生涯暗黒の中に閉じ込められるはずでしたが、この高校で、ひとつの救いに出会います。それは、文化祭の発表にドイツ語部が、ローレライをドイツ語でうたうという挑戦をしたのです。
そのころの私は人前でうたったことがないのですから、自分がどのパートにむいているかもわからないわけですが、でも、下手だからこそ、難しいパートはダメだと感じて、メロディそのものをうたうソプラノを選びました。
その歌詞をドイツ語で歌うと言う件ですが、実は私は暗記と言うのが大っ嫌いな人間でした。で、これが不思議な功を奏しました。ドイツ語にかかりっきりだったので、いわゆる自意識と言うのを捨て去ることが、自然にできたのです。先ほど述べた、4度と6度の音程を超えられなかったと言うのも『ここで、とんでもない音痴振りを発揮してしまったら、恥ずかしいなあ。みんなが見ているわけだし』と思ったからですが、それも自意識のひとつでしょう。
でも、あまりにもドイツ語が、難しいと感じたので、そればかり考えていて、そのほかのことは何も考えられませんでした。むろん、音程をはずしたりして、恥ずかしい結果になるとも思いませんでした。だって、合唱ですから15人ぐらいいるソプラノパートの一人です。その中で、みんなに溶け込めばいいのです。そのことは安心しきっていました。
その演目のときに、舞台前の座席、一列目に、のちに東大の理一に進む友達が座って、聞いていました。彼女とはまったく親しくありませんでした。良く大賢は大愚に似たりと言うでしょう。彼女は遠目には、素敵には見えない人でした。いろいろなことを深く考えるのが好きで、良く慣れている人にしか心を開かない私は、好きなことの分野がかぶらない彼女のことは、まったく知らなかったのです。クラスも一度も一緒になったことも無くて、会話も交わしたこともない間柄でした。
しかし、お歌が終わって、舞台を降りると、その将来の理一さんが、「しろちゃん、あなたって信じがたいほど、声がいいんだね」と言ってくれました。ちなみにしろちゃんというのは当時の私のあだ名です。
私はきょとんとはしました。だって、それは、生まれて初めて聞く言葉でした。でも、思い返せば、自分が、自由自在に歌えていたのにも気がついていました。生涯はじめて、自由自在にお歌がうたえて、そして、それを、目の前の、親友でもなんでもない、ただ、133人のうち、36人の、高校から入学したと言う共通点があるだけの子が、ほめてくれている。将来、理一に進むような女の子ですから、口数も少なくて、『むしろ、ぶっきらぼうな人だなあ』と思わせるような普段の言動の人です。
が、そういう人が、ほめてくれたのですから、信じました。『あれ、私、いわゆる無明の境地だといい声が出るのかも知れない』と、思ったのは、のちのちの大いなる救いにつながっていきます。
土曜日 2:36
副題4、『イムジン川(加藤和彦採譜?)・・・・(セロ弾きのゴーシュのごとく、歌い続けた1965年)』
今、私はわが音楽体験を書いているわけです。高校まで進みました。でも、堅苦しくて、しかもたくさんのコンプレックスを抱えている私は、お歌どころではないのに、とても華やかなお嬢様がいっぱいいる、大学へまたまた、進学してしまいました。国際キリスト教大学と言うところです。高校時代だけで、すでに、お嬢様方にはへきへきしていたはずなのに、英語が好きだということや、国際関係のことが好きだというのと、何しろ暗記が嫌いで、受験勉強にはむいていないなどと言うことが、この大学を選ばせました。この大学の入試には、暗記は関係ないのです。英語力があり、応用力があれば解ける問題を、大量に短時間に処理すれば入れるのですから、自分には願ってもないほどぴったりでした。
そこへ、上位20番以内で、入学できて、奨学金さえいただけるはずでした。その書類に判をもらいに高校へ行ったら、担任の先生がとても喜んでくださいました。ただし、父の納税額がおおくて日本の上位6%以内であると言うことで、奨学金はもらえませんでした。父は若い日の大失敗に懲りて、羹に懲りて膾を吹くというほど、慎重に暮らしましたので、納税額は大きかったみたいです。だけど、そんなに大金持ちではないのですよ。
そこへ、私は政治とか、経済の部門を勉強するべく入ったのですが、時はベトナム戦争の時代です。政治を勉強すると言うこと、特に国際基督教大学でそれをするということはアメリカに対して、絶対に反対しない人間になるということを差すような気がしてきてしまいました。
実際には、そこらあたりを厳密にしないでおいた方が、人生は得だったでしょうね。ともかく外国大好き人間だから、57歳で、はじめて海外一人暮らしをするのは遅かったと思います。もっと早く海外に出ているべき人間だったと思います。ただ、仮定についてあれこれ、考えても仕方がないので、当時の実情を言いますと、私はひそかに、小さな胸を痛めながら、政治学専攻よりも化学に転科しちゃおうかなあと、考え始めました。
つい最近クラス会があって、帰りの電車内で、当時の同級生が、私の心のうちに踏込んで質問をしてくれたのです。それで、その人のおかげで、自己分析も見事に果たすことができたのですが、・・・・・実は政治が、好きなほうで、政治分析が好きな人間であって、だからこそ、なんとはない恐れを抱いて、わざと政治学から遠ざかったのではないかと、・・・・・言うのが真相のようです。
で、大学時というのは、みなさん、華やかでね。男の子や女の子で、恋愛を始める子が多いのですが、私は慎重にして、傷つくのがいやな子ですから、予備校時代に知り合った、主人と手紙を交わすぐらい(そして、一年に一度会うぐらいの交流にとどめて)、大学時代に誰かと恋愛関係に入ることはありませんでした。ともかく地味な方だったのです。
大学の校舎はウィリアムズ・ヴォーリーズの設計で、中央に階段ホールがあり、両翼に長い廊下があります。それで、校舎の中で歌を歌うと、ものすごい音響で響くようになっておりました。
のちに、朝日新聞の記者になった、W君という格好の良い男の子などが、校舎を歌いながら闊歩すると大変美しく、声がひびきました。
そういう校舎内で私は昼から夜に掛けて、一人ぼっちで、10時間を過ごさないといけないという羽目になりました。化学実験に、長時間が必要なケースだったのです。
あまりにも退屈で、しかたがないので、ふと、W君のまねをして歌を歌ってみたのです。すると、自分の声が、ものすごくいい声のように聞こえるのです。
化学実験室というのはドアが常に開いている部屋であって、そこから声が、ほぼ200メートルはあるだろう廊下に逃げていくわけですね。天井高は、4メートル程度ですが、辺り一面に本物か、人造かはわからないものの、大理石が張ってあるのです。で、ものすごい反響です。しかも節電など考える必要も無かった1960年代ですから、校舎内のその長い廊下は、ピッカピカです。そのトンネルを、私の声がはるか遠く200メートルの東側の入り口まで届く感じで伸びていくのです。しかも誰も聞いていないので、恥ずかしがる必要がないのです。すごく気持ちがいいです。
で、毎晩、お歌を、二,三時間歌ってすごしました。そして、『もしかしたら、私の声って、あの東大の理一に進んだ、ぶっきらぼうな友達が言ってくれたように、いいのかもしれない』と、ひそかに思うようになっていきました。
そのころ愛唱したのは、当時の学生の愛唱歌で、ロシア民謡、インターナショナル、イムジン川などです。世界民謡アンニーローリーや、ローレライ、(ああ、いまでも、イム アーベント ゾーネン シャインと、ドイツ語で歌えるほど、暗記嫌いの私が唯一歌詞をドイツ語で覚えた歌なのですが)等々。それらは小さな歌集(歌詞だけの刷ってあるもの)に頼ってうたって行きました。この少し後の世代はビートルズや、に耽溺していくのですが、私の生まれた1942年までの学生は、上に上げたような歌が好きなはずで、それは今、歌声喫茶の再来とか言われていて、東京では熟年の間で、はやっているらしいです。
その後、共産圏国家の凋落が激しくなりました。特に北朝鮮の裏側の忌々しさが明らかになり、イムジン川など、そのタイトルを口に出すのもはばかられるようになりましたが、美しいメロディラインを持つ曲です。
ところで、この1965年秋の数ヶ月ほど、集中して、お歌を歌う時間があったことはありません。そして、誰も聞いていない中で、だから、恥ずかしさも感じないで、何十回も同じ歌を、大きな声で、誰にも気兼ねせずに、歌うことが、実は、大きな音楽の自習、勉強になっていたことを、後で、気が付くのでした。
補遺、今、いろいろとグーグルで検索してみて、イムジン川を、採譜して、はやらせたらしいフォーククルセーダーズの加藤和彦さんが、2005年公開の映画パッチギの音楽を担当して、この曲を大いに使ったと出ていました。で、映画のおかげで、この曲の命は永らえたみたいですね。
それはそうと、私は1962~1965年ごろまで、テレビもラジオも一切聴きませんでした。下宿や寮に暮らしていて、そこにはテレビは、無かったと思うし、ラジオを聴く趣味がなかったので、あの大学時のイムジン川のメロディをどうして覚えたかが不思議です。それは、ラジオではやり始めた最先端のころです。だから、学友の誰かが好きになって、校舎内で、歌っていて、それを聴いて覚えたと思われます。
2012年2月18日に初稿として書いたものを、21日に整理して、こちらに揚げます。
雨宮舜(本名、川崎 千恵子)