銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

My Way と、長崎の女・・・・・いじめをすっきり覆す話

2012-02-23 09:51:08 | Weblog
副題1、『My Way (フランクシナトラが、唄う)・・・・PTAという政治の現場に巻き込まれてしまう』

  23歳から56歳までの私は主体性ということとは無縁でした。世の中には今でも似たような生活をしている女性は多いと思いますが、子供が生まれると、いろいろな面で制約を受けて、自由がなくなります。今、私がフェイスブックでお付き合いをしている人たちは表現者としての自分を確立している人が多いので、その点である程度以上に幸せな人たちだと感じます。が、そういうことができない、おさない子を抱えた母にとって、学校とか、幼稚園で、子供がいじめられるということほど、恐怖の体験はありません。私はね、自分自身が先生にいじめられたり、友達にいじめられたりしたことは、あります。だけど、それを、今書こうと思うほど、それは、辛いことでもなかったのです。だけど、まだ4歳の娘が幼稚園の担任の先生にいじめられているのを知ったときほど、恐怖と辛さを味わった時期はありません。
  毎週、毎週、娘が『ぞうり袋の名札が、取れていると、先生に叱られる』と、土曜日に半べそで、私に訴えます。それは、洗った上履きを入れて、月曜日に幼稚園に預けて、土曜日に子供が汚れた上履きを入れてかえる、ビニール袋に、縦5センチぐらいの名札ウィンドーがついている形式です。で、無論のこと、私が名札を入れ忘れるはずがないので、不思議に思って、ある週だけ、両面テープで、名前を書いた小さな画用紙の裏をとめておいたのです。
  すると、その週は、土曜日に、ちゃんと名札がついた形で、ぞうり袋を持って返ったのですが、小さな画用紙の上に、斜めに爪で引っかいた跡はありました。想像通り、先生が、いつの間にか爪で滑らせて名札を取ってしまい、その上で、娘をみんなの前で叱るのでした。恐ろしくも汚い心の先生だったのです。目が意地悪そうで、人相からして嫌いでしたが、予想通りのひどい先生でした。

  このときは、どういう風にこの苦境を逃れようかと悩みに悩みました。
  ともかく、原因は、複雑でした。先生自身の家庭が乱れていたのです。それは二年後に先生の坊ちゃんが、高校受験に失敗するという形で、地域社会中にうわさが広まって、私も知るところとなりました。神奈川県では、高校はほぼ全入に近くて、子供が高校へ行かれないというのは特別なことだから、地域社会中のうわさになったのです。原因は、家庭内別居かな。または、お父さんが、家出しているのかな? で、その手の隠されたストレスを、優しい人であり逆らわないであろうと先生の方が見ていた私に、一手にぶつけてきていたのです。それから、これは、言いたくないのですが、もうひとつ原因があって、それは、私にどうも、魅力があるらしいということです。先生方というのも、自信が無くて、母親に嫉妬することがあるのです。それは後日、べつのお母さんが別の先生に親子ともいじめられているケースを傍見して、『実際に、あるのだ』と、納得をしました。その、先生の方が気にして嫉妬するポイントは、出身大学の名前(入試偏差値の高さのこと)だったり、そのほか多種多様なのですが、ひとつ、確実にいえるのは、お母さんの方になんらかの輝きがあるといけないみたいです。でも、わかいお母さんは無理をしなくても輝いているものですから、これは、母親の方にとっては、防衛するのは、至難の技というものですが、ともかく、何かで、目立つ優越点のある、お母さんは先生に嫌われることがあるのです。
  私はね、劣等感の強い方で、徹底的にじみ目に暮らしているのですが、どうしてか、何かで、目立つ華やかさがあるそうで、女性からいじめられたことは数多いのです。そして、このときの娘へのいじめも、やはり、10歳ぐらい年上の先生の私へのなんらかの嫉妬が原因だと、今はわかるのですが、分析をいくら重ねたって解決のしようが無くて、これほど、辛いものはありませんでした。
  しかも当時、娘は遠視が強いので、横浜市大病院へ、矯正に通っていて、週に三回早引けをしなくてはならず、そのたびに現場で、そういういじめの現象を見るわけですから、辛さもきわまります。ただ、娘が結構けろっとしていて、今でも、当時も、愚痴も言わず、へなちょこにはならなかったのには、本当に助かりました。
  ああいうケースで、苦難を、解決をするためには、引っ越す以外にないと思いますが、年子で、長男が同じ幼稚園内にいて、そっちの担任には問題が無くて、その子は移転をさせられないとなると、本当にがんじがらめで、進退きわまりました。
  で、仕方がないので、週に三回行くうちの、一回は菓子折りを持参することとなりました。迎合して下手に出たわけです。すると、お金持ちと誤解をされる方の、目立つお母さんのほうになりますよね。それで、次の年、に、PTAの会長に任命されてしまいました。
  これもまた、たいへんに困ったことでした。大幼稚園で、園長は金儲け主義です。で、26人もいる先生方の夏冬のボーナスを、PTAは、バザーで稼ぎ出さないといけないというシステムになっていました。子供の数が少なくなったいまどき、そんな変なシステムがあったら、すぐ 悪評が立って、つぶれると思いますが、あのころはベビーブームの時代で、新興住宅地では、幼稚園側が売り手市場で、威張っていたのです。
  で、26人いる先生に今のお金にして夏に五万円、冬に五万円のボーナスを出すとして、260万円を利益としてあげるバザーを、取り仕切るのがPTAで、その全責任が私にかかっているわけです。バザーって不要不急のものを売るのです。刺しゅう入りのエプロンとか、刺しゅう入りのバッグとかを売るのです。またはお汁粉とか、おでんとか。
  幼稚園バスで生徒を集める仕組みですから、バスの便もない不便なところに、御父兄に、来てもらって、一家で、一万円以上の散財をしてもらわないと、総売上が、500万円を越えません。必死のバザーです。私は平役員だった前の年に、『どうして、そういうことが、特に儲けるべき金額が、ハナカラ決まっているのですか?』と質問をしてしまっていました。これは、ごく当たり前のことです。クラスに40人以上の子供がいて、毎月一万円以上のお月謝を取っています。上手に運営すれば、ボーナスはお月謝から出るはずです。『何か忌まわしいからくりが、裏に、あったのですが、それに御父兄が、気がついてしまうと、困る。だから、彼女をまつり上げて、トップにしてしまい、かえって、それで、発言ができないようにしてやろう』という目的で、会長にさせられたのでした。
  で、実質上は会計の人にすべてをやらせて、私はお飾りで、いわゆる無能の人扱いになりました。悔しかったですが、前の年の、娘が担任にいじめられているという足かせもあって、その流れの中のことなので、逃れられないくびきとして、辱めをうけつつ、おかざり無能PTA会長をやり続けたのです。
  で、この恥を何とかしてそそごうと考えました。前の年に、どういう風な打ち上げパーティがあるかを知っていました。大変派手なものです。コース料理が振舞われ、プロのギター弾きがきて伴奏してくれる中で、お歌自慢が歌います。
  私は、せめてその席でがんばろうと誓いました。『お歌なら、うたえるはずよ。娘のためにも、お母さんが、地域社会の中で、劣った人だ、という評判だけで終わったらダメでしょう』と思い、ひそかに練習を開始しました。
  私は楽典のことは、とてもよくわかっていて、誰に習わなくても、伴奏用和音のつけ方は、わかっていました。で、右手で、ピアノでメロディを弾き、左手で、伴奏用の分散和音をつけながら、どんどんどんどん、お歌を練習していきました。これもまた、三ヶ月ぐらいです。
  何か、ひとしごとを、まとめるのには三ヶ月は、必要にして十分な期間であるようです。秋のバザーが終わって練習を始め、打ち上げごろには、なんとかMy Wayがマスターできていました。その歌詞は、とても、素敵でした。自分の気持ちを、ぴったりと、代弁してくれていました。
・・・・・私はひたすらに努力をしました。そして、ずるいことはやりませんでした・・・・・と、言います。絶好の歌でした。で、私は英語の歌詞と、日本語の歌詞を必死で暗記しました。

  しかし、パーティの当日、その歌はお客様には、受けませんでした。盛り上がりませんでした。大失敗でした。さあ、どうなる、川崎千恵子さん。・・・・・『会稽の恥をすすぐ』という中国の故事がありますが、もう、恥はすすげないのです。娘のために思って取り組んだことが不成功です。さあ、さあ、どうする千恵子さん。。。となりますが、・・・・この後は『長崎の女(春日八郎、唄う)へ続くとさせてくださいませ。 · 2月19日 2:55
2月19日 3:15 · いいね!

副題2『長崎の女(春日八郎が、歌っていた)・・・・ああ、助かった。芸は身を助けるのだ』

  私は緊張しきって、My Wayを唄いました。ただ、幸先がよくなかったのは、ギター弾きがこの歌を知らなかったことです。私は親戚がレコード会社に勤めていたので、試聴版(ラベルが白いもの)のLPをたくさんもらっていて、いわゆるポピュラーという分野の英米のバラード調の音楽を、たくさん聴いていて、My Wayなど、自家薬籠中のものでした。が、まだカラオケのない当時、横須賀市内を流して歩いているというギター弾きさんは、それを知らなかったのです。
  で、私は「Dです」と言いったのですが、それもわからないみたいなので、彼が恥ずかしく思わないように、小声で、「レファラでお願いします」と、言いました。Dとは、ニ長調の主和音で、レファ#ラで、構成をされています。だけど、そう言ってもなんとも、把握ができないみたいで、もしかすると楽譜は読めないタイプだったのかもしれません。だけど、素敵なヤングママたちの大宴会に呼ばれている人ですから、格好は悪くはない人ですよ。でも、私の言うことがすべて、把握をできないし、歌そのものも知らないみたいでしたので、まったく伴奏の役目は果たしませんでした。それだけで、今の言葉で言えばしらけるわけで、盛り上がりません。

  で、フロアー全体から、冷やかな空気が伝わってきました。「あら、いやねえ。川崎さんたら、まーた、偉ぶって、英語の歌なんてうたっちゃってさー。大卒なのを見せびらかしている。いやあーねえ。実力も無いくせに。ほら、本当の働き者は私たちよ。彼女、それが、わかっているのかしらー」という感じです。

  私は自分の目論見が外れたのを知りました。でも、できるだけさりげない形で席に戻り、できるだけさりげない形で、お料理を食べたり同じテーブルの人とお話を交わしていたりしました。そのうち、次から次へと、マイクがわたり、一応の芸達者ママは歌い終わりました。で、二度目とか三度目としてマイクを握る人がでてきました。

 その中で、誰もが『彼女の前身は水商売だろう。多分、芸者さんだったのだろう』と、思うママがいて、アップの髪を高々と盛り上げ、着物はやや着崩して、そして、演歌を何か歌いました。私はビールの酔いに任せて、彼女の演歌に、乗っていきました。とても、気持ちよくてリラックスのきわみになりました。

  それで、まったくの予定外でしたが、つと立って、下座(上座からは、20メートルは離れている)のマイクを握り、「もう、一曲唄わせてくださる。今度は長崎の女」と言いました。すると、まってましたとばかり、ギター弾きの人が伴奏を始め、私はそれに乗っかって、『恋ーの旅路ーは、』と唄い始めました。ギター弾きは上座にいます。私は下座で歌を歌っています。二人は乗りに乗っています。ということはまず、物理的に皆さんを巻き込むことになります。広くて豪華な宴会場を満たす、春日八郎の長崎の女です。

  これには何のメッセージもこめられないので、私は事前には歌うつもりはまったくありませんでした。が、『あのパーティで、お母さまのお好みは大体、フォークか演歌でしょうね。世界民謡の類ではない。映画音楽でもないかもしれない。もちろんのこと、オペラアリアではない』とは、思っていて、演歌も数曲、練習だけはしていたのです。この春日八郎の『長崎の女』は珍しくもハ長調で、お歌としては全体的に明るいのでした。三橋美智也の歌とか、三波春夫のそれと比べると単純で、かつ弾むような明るさもあるのです。それは、当時の会場にいた若いママたちの気分にフィットする歌だったのでした。私もそれが、わかりましたが、ギター弾きもすぐ、お客さんが乗ってきているのを感じて、とてもうれしそうに、伴奏もさることながら、彼本人が歌いだしてしまいました。
  背が高くて、健康的な感じの男性で、声も素直で艶のあるものでした。

  私は、二番ですでにお株を奪われてしまったわけですが、それを悔しいとは思わないでとっさに、バックコーラスぶぶんを、非常に高い音程で、唄い始めました。そんな場所は練習さえしていないのに、見事にそれは、曲の一部であり、その場で、歌いこなせたのです。で、主役の言葉を言う男性の声にかぶさって、華やかに展開するバックコーラスを私が歌うのです。会場がひじょうに盛り上がってきて、三番が終わると、ギター弾きは一番の歌詞を再びうたい始めました。私は一番はしっかり歌詞を覚えていたので、彼と、ほぼ同じ声量で、下座で唄いました。お母様たちが、きゃーっと言う嬌声を上げたのにも気が付きました。私たち二人は、まるで、『ちあきなおみが歌っていたら、このぐらいに受けるだろう』と思うほどの、大歓迎を受けていました。
  信じがたい成り行きでした。私は狙っていなかった歌で、自分の望みどおりの成果を挙げることができたのです。それはあの『元芸者さんだ』と、みんなが目している特別な雰囲気を持つママの、導入のおかげでした。私は彼女の雰囲気に乗っかって、彼女と、同じように自分の自意識を捨てて、お色気を全開して、かつかわいらしく、忘我の境地で唄ったのです。

  宴会が終わって、狭い階段を通って、ニ階から一階へと皆さんが降りていきました。そのときに私は、腕を触られたり、肩を触られたりしながら、「川崎さんって、私たちとは、ぜんぜん違う人なのね。やっと、川崎さんがなぜ、会長に選ばれたのかがわかった」と、言ってくれる人や、「素敵だったわア」とあこがれるような目つきで言ってくれる人たちに、囲まれていました。 なんとほっとしたことでしょう。『ああ、娘が来月から学校へ行く。でも、お母様方には、誰もいじめる人はいないわ』と思って。
  それ以来、いじめを受けても、『何とか挽回できる』、そして、『きっと、挽回ができるものだ』という信念を持ちました。そして、それは当たっていて、だんだんにいじめを受けないようにもなって行ったのです。
  あれは、本当に、うれしい経験で、そして、『芸は身を助ける』を実感した次第です。三ヶ月にわたるひそかな努力や練習が実った瞬間でした。
いいね! · · シェア · 2月19日 4:28

  24日に署名を入れます.雨宮舜(本名,川崎 千恵子)
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