銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

保美死刑囚が今はwikiでHと呼ばれる。私が大物である証拠だ。だが今問題にすべきは、カリタス小襲撃事件の方である

2022-01-26 01:50:41 | 政治

 本日は、非常に重要なことを多数書きます。

副題1、「前報は、まとまっていなかったと思います。何を書こうとしているのかが、皆様には、ご理解不可能だったと思います。しかし、私としては、カリタス小通学バス襲撃事件の裏側を書くつもりでした。それは、最初期には、カリタス小通学バス殺傷事件とか、言うタイトルで、報道をされていましたが、いつの間にか、登戸殺傷事件と、改名され、さらに川崎殺傷事件と改名されて行きました。

 その事件は、51歳の引きこもりの男が、ミャンマー語に堪能な若い外交官(お嬢さんをカリタスに通学させていたお父さん)を殺し、優秀な6年生をも殺し、数人の生徒を傷つけて、自分も自殺をしたという事になっていますが、違うのですよ。彼は、何らかの形で、リクルートをされた作られた犯人です。で、学生服を着てくる様に言われていました。ご褒美をもらえるので、とても明るい気分となっていて、珍しく、自宅=====しかし、叔父の家だと、言われている。本当だろうか、実の両親の家だったのではないだろうか?=====の、ご近所様に、朝早くの挨拶を自らしてから、電車に乗っていったそうです。

 これから先は見てきた様なウソを言いの類ですが、当たらずとも言えず。遠からずでしょう。

 現場につくと、他にも学生服を着た大人の男が数人いて、それらが、実際の殺人行為をします。で、最初の殺人とか傷害事件が起きると、警察はすぐ規制線を張ったので、一般人が、事件現場を、見る事がありませんでした。しかも、もし見ていた人がいたと仮定しても、マスコミに対しては、すぐさま、ミャンマー語の堪能な外交官の動画が、配信されたので、大手マスコミは、現場について、丁寧な取材をすることはやらなかったと思います。ともかく、朝の8時から9時にかけて現座取材は、行われず、しかも、現場取材が、始まったころには、規制線が張られたうえに、被害者と、犯人と、みなされている男の遺体、ともども、現場からは、運び出されていたのです。

 しかも、あのミャンマー語に堪能な外交官が、アウンサンスーチー氏の後ろを歩いている動画が、午前11時の、短いNHKニュースにはすでに出てきたので、NHKは、午前10時にはそれを手に入れていたと、考えられますので、現場取材は、ヘリコプターの映像程度でした。(もしかしたら、午前10時には、すでに、NHKの画面に登場していたのかもしれませんが、私は、その時間帯には、ニュースを見てはいません。

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副題2、『ここで、数多く、生起した、この種の謀略事件(大量殺人事件といわれるものも含む)の犯人をどう処理するかは、すべて、私が、ひとつ前の事件を、どういう風にブログで、解析したかに、依って変わってくる。いかにも犯人らしく整えていくか❓(山田浩二のケース)できるだけ秘匿しておくが、鎌倉雪ノ下と関連があると書かれると、慌てて、表に出してきて、裁判も二審まで行う(保美死刑囚の場合)、しかし、事件が、特に私を脅かすために、私を直に狙って、いるケースだと、犯人は、事件現場で、殺される(カリタス小通学バス襲撃事件の、51歳の引きこもりの男性)+(大阪雑居ビルで、西澤弘太郎さんと、言う大変評判の高い、医者を、焼き殺し、患者さんもついでに、焼き殺した、谷本守雄は、病院へ収容をされたのち、何らかの方法で殺された)とか、そのひとつ前の京都アニメーション放火事件は、菊之助と宮崎俊を守るために起こされたものなので、私に対する攻撃としては、やや、間接的なものであるので、犯人青葉真司は、現場では、殺されていない』

 さて、私は今、カリタス小通学バス襲撃事件に特化して、語っています。

 この事件は、例の連中(CIAエージェント)のうちの誰かが計画をして、警察の特殊部隊にやらせたと思います。で、やまゆり園事件の時の失敗を、よく検討していて、犯人役は現場で、殺してしまうと、言う脚本が、事前に練られていたでしょう。

 今回の大阪雑居ビル放火犯、谷本守雄も、同じですが、この手の、謀略事件のうち、私がブログで、分析していることとは、できるだけ反対の、脚本が練られます。やまゆり園事件の時は、植松聖を生かしました。だが、一審死刑で、上告をさせないという形で、隠匿しました。また、その前(または、後だったか?)の、寝屋川のアーケード街を真夜中にさまよっていて中1の児童二人の殺害事件の時も、山田浩二を生かしておいて、一審で、死刑にして、上告をさせないという措置を取りました。

 しかし、周南市の限界集落で起きた、最初期は、平成の八墓村事件と呼ばれた事件で、保美死刑囚は、一審と、二審ともに死刑という判決を下したのですが、一審判決の夜も、二審判決の夜も、NHK ニュースウォッチは、報道をしませんでした。なぜか?

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副題3、『平成の八墓村事件は、今では、改名をされている。wikipedia では、山口連続殺人放火事件と、呼ばれている。しかも、保美死刑囚は、Hと、呼ばれている。これは、私のブログを、目立たせない措置である。保美死刑囚は、広島に収監だそうだが、事実上隠匿されており、だれも、訪問をせず、インタビューを行うものもいない。しかも、

必ず、録画をしているNHKニュースウォッチでは、一審判決、死刑を報道をしなかった。事件は、参議院選挙の選挙速報が、大報道をされている2013年7月21日に起こされ、その夜は、一切報道をされなかったが、

すみません。私は、この事件が起きた日付として、このブログ内で、時々、2014年と記載をしておりました。しかし、実際は2013年でした。

第23回

平成25年7月21日

平成25年7月29日

令和元年7月28日

私は、この事件後8本のブログを書いています。それを以下に、現在の書き方による解説付きで、まとめていきます。当時は、相当に抑えております。 

そして、敵さんたちに特に強い影響を与えた文章を太字で、表記しておきましょう。

*0)副題7で、ちらっと触れている。

参議院選を終えて、一旦は平和な日本だと思ったが、・・・・・・

2013-07-22 21:34:51 | 政治

*1)副題4と6で触れています。63歳の男(周南市)の遺体は見つからない筈。もし出てきたらそれは、偽モノのだろう。

*2)これは、非常にシンプルである  周南市の、重要参考人が、身柄を確保・・・・・・ドラマ激流(NHK)と、日本の天才の悲劇

*3)これは、実際には、23日に書いた。それを書いた日には公開をしなかった。だが、25日に公開したので、保美は、26日に身柄確保となったのだった。どうしてかというと、この章の、副題6で、事件直後の月曜日安野夫人がおおよろこびをしているとかいたからだった。

保見被告(替え玉?)が、精神鑑定でおかしいという事になったら、永遠に真実が封印されるだろう

2013-07-25 21:11:41 | 政治

*4)ここでは、割と、穏やかな、書き方で、わざと外している問題がある。それは、自分の文章*3)が正しかったがゆえに、保美が、発見されることとなったと、言う喜びがあったからである。保美は、5人も惨殺したはずなのに、真っ白な、アンダーシャツを着ていて、しかも、山の小高い場所で、樹木が切り払われている場所で、ヘリコプターによって、見つかったこととなっている。

保見容疑者と、神田日勝との違い・・・・・(メンターの有る無し)△

2013-07-27 12:08:03 | 政治

*5)   保見容疑者ー5・・・・・彼は、ロマンローラン言うところの、ピラミッド内部の石だった△

*6)  保見容疑者の6・・・・・カラヴァッジョだって、殺人を犯していたのだったが?

*7)  毒入り餃子事件の裁判がなぜ、今(=発生・五年後)に、行われたか?

2015年7月28日に開かれた第一審判決公判で山口地裁(大寄淳裁判長)は山口地検側の求刑通りHに死刑判決を言い渡した[37]

 この日の夕方前田祝一の喜んだこと、喜んだこと、後で、リンク先を探しておこう。ともかく、本日は先を急ぎたい。

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副題4、『実は、この事件の際、平木夫人も子供を使って、CIA連中に協力している。私は内心では、非常に怒っているが、お子さんがまだ、小学生だったので、我慢をして、ブログに取り上げなかった。だが、下書きの段階で、書いたはずで、したがって、保美が発見されると、言う方向に事件が動いた。23日までは、連中は、切り抜けられると思っていて、警官たちが、600名も出ているが、見つからないという話だった。それを伝えるNHKのニュースの画面を写真に撮っておけばよかった。今、ウィキペディアを見ると、170名動員したと出ている。600名が嘘なのか、170名が嘘なのか?

 ところで、平木夫人の実名を伏せて、我慢我慢の歳月が、7年と9か月を過ぎた時、突然に、あそこのおぼっちゃまが、一種の裏口入学(表向きは、秘密中の秘密という形)として、東大へお入りになったことを語り始めた。というのも、2020年のに、「あなたは、来年の4月から、東大へ入れますよ」というお知らせを受けて、坊ちゃんは、喜びのあまり、それ以前は、1回も音を出して引いたことのない、電子ピアノを、その時だけ、音を出して、ジャンじゃか、ジャンじゃか、英雄ポロネーズを弾いたのだった。

 しかも、東大の入学式は、次の年の4月12日に行われるのに、それを私に察知されない様にするために、前日の午後、一家は、最上級のおしゃれをして、外出していった。

 で、私は、数本のブログを書いているが、それに困った連中は、2021年12月20日にセールスマンとしては、極めて優秀な青年を我が家に、わざわざ訪問をさせて、NTTから、JCOMへネットの乗り換えを提案した。テレビが自動的に二台見られるそうで、危うく乗りそうになった。しかし、たまたま、26日の夜に、その契約は一種のだまし討ちであり、

 それに乗ると、このブログが、自動的に消滅してしまい復活が不可能なことに気が付いた。それで、危機一髪で、契約を破棄した。解除したというのかな?

 で、困った伊藤玄二郎と、井上ひさし(まだ実際には生きていますよ)は、新たな脚本を練り上げ、それを、松尾崇市長から、れくちゅあーし、その通りに、発言する様に、2022年1月14~16日の間に教え込んだ。この松尾市長というところは、別の人間が入ったと仮定してもいいだろう。

 しかし、ばかげた嘘の連続だった。まず、坊やが引いていたのは、英雄ではなくて、革命だそうだ。そのうち、改名されるかもしれない。しかし、リヒテルとかホロビッツ、及びブレンデルのレコードまたは、CDのラベルには英雄と、記載をされていると、思う。なお、それは、シューベルトの即興曲でも同じ。Op90と Op142と、記載をされている筈だ。

 それが、一つ目だったが、2つ目は、2021年4月11日の午後出かけたのは、次男の三浦学苑入学式だったそうだ。ネットで、調べると、その学苑の入学式は、特に、2021年度は、4月5日だった。そうだ。その通り。小学校、中学校、高校の入学式は、だいたい、4月5日~7日の間に行われる。大学だけは、遅いケースもあるが、慶応だって、7日だったはずだ。東大だけが、異様に遅かった。2021年度だけだったかもしれないが?????

 この「次男が、三浦学苑に、入学しました」というセンテンスにも嘘が含まれている可能性がある。三浦学苑に関しては、昔私が、一本ブログを書いている。そこの卒業生が、大変、元気で、優秀だと書いたのだ。不動産屋の社員として、であった人だと思う。仕事もよくできるし、若いのに、すでに、お子さんが3人いて、自分の家も建てたそうだ。総タイトルに三浦学苑とは、つけていない筈なので、今の私が、見つけ出すことが困難だけど、毎日私のブログを点検している井上ひさしが、そのブログから、取った名前かもしれない。井上ひさしは、それが、自分特有のユーモアの発露だと、思っているのだろう。彼は、常に私のブログから、私への攻撃用の種を探す人でもある。公的には、自分を死んだことにしているが、いまだ、生きている。

 ともかく、それほど、大人数の生徒を入学させる学校ではないので、武道館での、入学式もないし、5日に、入学式が行われたことは、確実だ。だが、平木家の次男が、2019年度入学だったらどうだろう。その可能性もある。

 2022年の1月17日に平木夫人から、直接聞いたのだが、あのご夫婦は、お子様がうまれる前に、ここに引っ越してきたそうだ。そうなると、ミスター平木は、30代で、鎌倉駅徒歩圏内(公称8分)の中古の物件を手に入れた事になる。退職金で、大きな家を建て直し、一部を、2DKの、アパート2軒に、直しておけば、子供たち二人ともと、一緒に住むことができるし、将来の、遺産相続が、面倒だと思えば、他人に貸したらいい。

 というのも我が家は公簿上は89坪なのだけれど、がけや私道部分で、取られていて、実際に使えるのは、40坪程度である。ただし、大金をかけて新築し直しをすれば、基礎の、土木工事如何で、我が家も、2LK三戸の住まいに建て直せる。ただし、宝くじが当たった場合だけである。

 平木家も、公簿上は75坪はあるはずで、我が家よりも平地感が強いので、総2階なら、56坪程度の家を建てられると、思う。で、子育てが終わったら、無理なく、不動産収入が、現在の貨幣価値に直すと、20万円以上手に入る老後となる。めでたし、めでたしだ。あそこは現役のサラリーマンで、しかも土木建築会社だそうだ。月給も高いであろうし、退職金も高いであろう。楽々建て直しが利く。

 坊ちゃんたちは、上は東大卒で、年収1000万円は固い職場に、就職できるだろう。もし、医学部入学であって、卒業後、成功した個人病院でも立ち上げたら、億万長者になれる。

 下のお子さんだって、東大へは進学しないかもしれないが、お母さんが、上手に子育てをしているし、CIAえーじぇんとの支援があるので、良いところに就職できるはずだ。

 安野家の、次男なんて、おなり中学時代は、通信簿に、1と、2しかないと、言うことで、有名なお子さんだった。おいちに、おいちに、の、アヒルさんと呼ばれていた。しかし、国立大学の付属高校にご入学あそばされたそうで、海上保安庁にご就職あそばされた。CIAのお気に入りになれば何でも、自由に手に入る。

 尖閣諸島問題は、すべて、私が安野智紗夫人について、その悪辣さを書いた後で、起きている。中国、艦船の200日、連続、周辺海域への出動も同じ。

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副題5,『保美死刑囚が起こした事件は、村八分になっている人間は殺人事件まで起こすのだと、することで、警察の特殊部隊が起こした。保美は、以前、読売新聞に、Uターンの代表として、取材をされたそうなので、その記者にリクルートをされたのだと、思う。で、私が、当時、村八分状態だったので・・・・・

 それは、安野智紗夫人がお砂糖を借りに来たので、「そういうお付き合いは致しません」と断ったからだったが、そういう風に村八分になっている人間は、将来、殺人事件でも起こしかねないのだ・・・・・という事にして、私を悪人として、決めつけていくことが目的だった。

 しかし、カリタス小学校通学バス襲撃事件は、少し違う。

 その真相を丁寧に、分析していこう。

 カリタス小襲撃事件の前に、やまゆり園事件というのが起こされた。

これは、私を、周辺の人間がそろって、「あの人は精神病である」と、決めつけて、周囲の人間が、私を精神病院に入れてしまおうと、言うたくらみの実践だった。

 植松聖というのは、やまゆり園の園長がとった、措置入院の仕組みで、二週間程度、精神病院へはいっていたそうである。で、日本国中に、その語彙を、広めるために、起こされた派手な派手な事件で、尾野一矢さんだけは、喉あたりを切られた模様だが、殺された人間は、一人もいない筈だ。

 この措置入院の根拠だが、睡眠導入剤アモバンを、半年に一回、28錠ほど処方してもらっているのが、その根拠になっているらしい。それは、JR東日本が、横須賀線車内に貼っているポスターとか、横須賀中央駅そばの、中央内科の、すぐそばに、工事車両が、「緊急工事用」という張り紙をつけて止まっていて、運転台で、運転手が居眠りをしていたのを見たりして、察知した。したがって、アモバンは、もう、もらわないことにした。最近は、たんぱく質で、眠れますという広告が盛ん(五個ぐらい発見をしている)なので、それを試しの段階だけで(最初は安い。継続して買うと高い)申し込みは、しているが、指定通り飲んだら、2時間ぐらいで、目が覚めるので、何も飲まないで、過ごしている。・・・・・次の日に国会へ登院しないといけません・・・・・という、早稲田ゆきさんとは違うので、眠れなかった日は、眠れないままで、自然に任せている。

 ところで、中央内科で、特に受付事務員にひどい事をされた。それを書いているので、駅そばの雑居ビル4階という共通項がある大阪の心療内科が、狙われた。これも、対私脅かし用だが、この1月13日、新橋演舞場に行っている間に、西澤弘太郎先生に関する大量の情報が出て、それもなるほどだと、思う。私は之も、カリタス小襲撃事件と同じく、谷本守雄という人間は、何らかの餌を与えられて『こういう風にしなさいと、言われていた通りに行動をしただけで、

 この医院には、通院した過去もないだろうし、先生への恨みも持っていなかっただろうし、拡大自殺への願望もなかったと、思う。でも、今は、こちらには踏み込まず、カリタス小、襲撃事件に取り組みたい。

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副題6、『カリタス小襲撃事件が、起きたのは、寺沢夫人という実家の近所に住む奥様が、増田忠さんについて、或る重要なことを教えてくれたことが、カリタス小が狙われた原因となっている。寺沢夫人も増田忠さんも故人だが、重要な存在だ。寺沢家のお嬢さん二人がカリタスに昔、通学していたことが原因だった』

 寺沢夫人について、ちゃんと書きたくて、母についてまず、書こうと思っている。というのも母は、あの【ときわ台】住宅街60戸の中で、寺沢夫人を一番、大切で、誠実な人だと、考えていたからだ。

 そして最後の、電話の内容を考えても、その通りだと、思っている。

 私は、今まで、ブログの中で、増田忠さんについて、少しずつ書いている。後で、リンク先をさらそう。ストラディヴァリうす級の名器を、自分のものとして、戦前から持っている人で、演奏も上手だった。

 自宅は、敷地85坪ぐらいの土地に、有名な設計家に設計をしてもらった筈の、木造平屋で、建坪25坪ぐらいだったが、リヴィングの前に、長さ4畳か、または、長5畳、または、4畳半、または、6畳の、ウッドデッキがあった。これは、金曜日の妻たちが、大流行をした40年以上前の設計だから、どれほどにモダンなおうちだったかがわかる。この家か、次の家の、東南の個室にお招きを受けて入ったことがあるが、リヴィングとか、ウッドデッキには、入ったことがない。しかし、北隣だから、ウッドデッキは、最初の10年ぐらいは、植木が、細かったので、見る事が可能だった。そこで、奥様が、刺繍とか、編み物の、お教室を開いていた。今でいうシロガネーゼだ。ただ、1950年代だから、ミセス増田は、お金は取っておらず、お茶菓子(上等なケーキ)を当番制にするなどという、形だったと思う。神戸の出身で、原節子似の美女だった。

 それで、読者モデルなどは、公募しない婦人之友の、口絵写真として、お子様二人が、お洋服のモデルとなった。今は、家庭画報とか、婦人画報とかが、女性雑誌の一番だと思う。または、ハルメクなど、宅配専門の雑誌? しかし、1970年代までは、女性誌の、一番上位のモノは、婦人之友だったと、思う。その口絵写真に、お子様が、採用されるのはセレブのあかしだった。その上、お嬢様が、学芸大学の付属小学校に、五年生の四月から、転校をした。

 こういう募集は、ほとんど公開されないと思う。たとえ、一部の生徒が、海外へ、駐在する親と一緒に、行ってしまったとしても、新しい編入生は、募集はしない筈だ。それでも、転入できた。どれだけ、セレブなのだ? 破天荒な程度で、偉い人だったのだろうか?

 で、そういうわけで、上流社会の風を吹き付け続けた人だから、周辺の人はあおられた人が多かったと、思う。母は黙って、40年間、増田家から道路に、落ちてくる落ち葉を、掃き続けた。増田家では、白樺とかケヤキとか、縦にすくっと伸びる樹木が好きで、しかも植木屋を入れないので、落ち葉は、いつも激しかった。道路には、我が家の落ち葉はなかった。そちらは、北側なので、家屋が、塀のそばまで、占領していたからだ。でも、母は黙って掃除をつづけた。特に速攻を掃除した。

 母は、一日に二時間ぐらいは、株式投資に時間を割いていて、配当金で、パンパンにしたお財布をもって、日本橋に出かけて、そのシーズンで、私が、好む洋服をセットとして買ってくれた。ただ、お針仕事も好きで、毎晩、一本程度、和服用のひもを作っていた。ただし、増田夫人のような、きれいなものを新しく作ることはしなかった。増田夫人は、絶対に、自分の方が我が家よりも上だと、考えていたのだけれど、我が家がどんどん、お金持ちになっていくのと、子供三人が、学業的に優秀だという事は、ひそかに気に入らなかったと、思う。したがって、増田夫人にかわいがられたという記憶はない。

 しかし、ご主人の方、忠さんには、結婚する前は、相当にかわいがられていた。日吉発の、電車がたまたま、同じ時間に乗る事になると渋谷までの、30分間、いろいろなことを教えてもらった。しかし、子供時代を過ぎると、ずっと、別れていて、会うこともなかった。

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副題7、『ある時、日吉のときわ台バス停から、坂を上る、坂道で、偶然に出会った。それも、普通だったら、話が盛り上がらない筈だったのだが、増田さんの、腰が、90度、前に曲がっていたので、不思議に思って、「増田さん、こし、どうしたのですか?」と聞いた。私は、意地悪な人ではない。本性としては、他愛的、特にアガペーの意味も解り、実践をしている人間だった。短い質問だったが、増田さんは、それがわかって、相当に私を信頼し、打ち解けてくれた。

 「腰を痛めて、痛くて、痛くてしょうがない」で、「千恵子ちゃん、もっと話したいね。やっぱり、楽しい話をしていると、気がまぎれるから。今度、どこかで会いませんか?」と言われて、電話番号を交換した。1996年か、1997年だったと、思う。だから、無論、固定電話の時代だった。何回かデートをしたと思う。増田さんは、山下町の近所に住んでいると、言うので、神奈川県民ホールに呼び出した。それまでは、まあ、まあ、関係は、大丈夫だった。しかし、その展示室での、デートの時に、増田さんが私に甘えすぎているのを感じて不快だった。

 その前の事もここで、記載をしておかないと、いけない。

増田さんは、非常に打ち解けてくれて、NHKにクラシックの演奏会を、録画するにあたって、どれをえらびなさいと、指導の電話を掛けたりしているとか、自由が丘か田園調布で、クラシック音楽の、お教室(楽器の演奏方法を教えるのではなくて、音楽理論他、音楽を、哲学的に教える)を開いていたと、言っていた。

 しかし、腰が痛いし、前に、90度曲がってしまって、スタイルが衰えたので、シロガネーゼというか、講師は、辞めてしまった模様だった。そう言う昨今を話してくれる際に、同時に、ご自分の結婚にまつわる秘密とか、水沢家の、悦ちゃん(妹と、小学校時代の同級生で、弟さんが、現在葉山の美術館の館長である)の、結婚と離婚にまつわる秘密などを聞いた。

 その時は、偶像が落ちたと、言う感じだった。我が家では、父も母もご近所の噂など、話さなかった。たまたま、下関の路上で、三菱重工の元ニューヨーク支店長をしていたという事を母が知っている、東大卒のご近所様の奥様とばったり出会った。日吉で、すれ違ったら、そういう流れには、絶対にならないのだけれど、下の関で出会ったので、「我が家によっていらっしゃい」と、言われたそうだ。そして上がって、庭を見て本当に驚いたそうだ。家屋は、古い数寄屋造りで、平屋建てだが、何室あるかが、数えられないくらい、ひろい家で、その広縁の前に、広い芝生の庭が、広がっていて、その先には、眼下に、関門海峡のすべてが見える形だったそうだ。

 私はいつか愛新覚羅溥傑さんが、来日した時の、次女さんの家ではないかと思った。ただ、三菱重工が、下の関に工場を持っているとも思えなかったので、その方は,旧八幡製鉄の、工場長だったのではないかしら? 車が朝迎えに来て、関門海峡トンネルを、ひとっ走りで、走り抜ける。その時期だけ、技術的なことで、一種の、短期的な合弁が起きた?

 で、母はこの話をしながら、「ああ、現代の殿様って、大企業の工場長を指すのよ。しみじみ、そう感じた」といった。母の友人が、呉造船所の、所長の、妻になっていて、そこを母と一緒に訪問をしたことがある。同じく、眼下に、呉市街を一望する家だったが、関門海峡を下関の丘の上から、見下ろす、その大邸宅の、広々とした、勘次は、本当に、初めて出会うものだった。

 しかし、この話題は、その工場長・一家の隠された秘密が話題になっているわけではない。 

 悦ちゃんの離婚にまつわる秘密を聞いたあたりから、増田忠さんに対する落ちた偶像化が始まっていたのだけれど、それがさらに、拡張したのは、神奈川県民ホールの画廊(展示室)での、事だった。腰が悪い増田忠さんにとって、そこなら、現在の住まいと近い筈だった。だから、気を使ったつもりで、そこを指定したのだけれど、大失敗だった。

 増田さんは先に来ていて、私の絵の前のソファーに座っていた。それは、神奈川県展といって、入選するのは、なかなか、難しい展覧会だったが、私は、非常に勉強家で、根を詰める人だったので、どこに出品しても落選をしたことがないという時期だった。ただし、上野の都美館の女流展に、入選し始めて、7年目、国展に入選し始めて、6年目だったので、勉強優先の時代だった。

 最初は灰色を研究していた。このことなのだけれど、国画会入選、四年目にして、銀座のギャラリーセンターポイントという画廊で、個展をした、そこは、シロタ画廊とか、望月画廊と同じく、上野の公募団体展に、入選する人が個展を開いている画廊だった。正方形の展示室で、結構広い。

 私は1981年にすでに銀座で、個展を開いていた。(こんぱる画廊)。それに父が満州文展で、1943年に、特選を取って、たくさんの新聞記事として、取り上げてもらっていたので、美術作品の制作に置いて、つよい自負と、自信を持っていた。ところが、国画会の人たちにとって、たった入選四回目で、銀座の広くて、有名な画廊で、個展をするという事は、とんでもない、はねっかえりだ(苦笑)と、なるらしかった。

 こういう経験が、反田恭平君のTV画面内の発言を、心配することにつながっている。

 国画会が、それほど、古い体質を持っていて、上下関係が厳しい組織だとはまるで知らなかった。

 しかし、この個展そのものは大盛況だった。国画会以外の、お客様が、大勢来てくださったからだ。ところが渡辺幸子さんとは、まだ、知り合いではなくて、彼女は来ていなかった。

 この個展で、後日裏切ってくる渡辺豊重さんが、「こんなに華やかなオープニングは、久しぶりです」と言ってくれた、赤塚侃さんなどの、オープニングパーティの当時の授連だった人もちゃんと写真に写っている。

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副題8, 『私は絵を、発表する際に入選はどうか?、賞がとれるかどうか? という事は考えていない。自分なりの筋道があって、それにのっとって、研究を続けていく。1990年から、1996年までは、灰色の研究をしていた。1997年の春から、緑色の研究を始めていて、増田忠さんに、神奈川県民ホールで、見せた絵は、研究途上だから、たしかに成功しているとはいえなかった。ただし、「千恵子ちゃん、こんな汚い絵を描いていてはだめよ」と言われては、心がすっと離れていく。それは、当たり前の、話だった。増田忠さんは、どうしてあそこまで、私に甘えたのだろうか?』

 そして、別の日、G.Center Pointのオーナーの新田さんが、「川崎さんの絵って、川崎さんの絵だけを集めると、とてもきれいなのですね」といってくれた。それは事実だと思う。灰色を研究していた時代で、灰色の濃淡の中に、ちょっとだけ、黄色を、さすなどという時代だから、上野の都美館で、森本草平とか、馬越陽子と比較すれば、それは絶対に目立たない。

 ところで、ここで、心配ごとを挿入しないといけない。こんぱる画廊のオーナーも新田さんも、その後、零落した可能性があるのだ。それが、とても心配だ。

 さて、新田さんと、こんぱる画廊のオーナーについては、今は、触れないでおきたい。灰色の研究は、1997年の春以降やめた。五月120号を毎日展に出して、入選した。それの出来が良いことは、自分でもわかっていたし、

 星兼雄さんが、シニカルな反語として、褒めてくれたのをきっかけとして、灰色の研究を終わらせることとした。

 星兼雄さんという方は、文化学院出身だっただろうか? したがって、国画会主流派ではない。でも、文化学院の教授でもあり、国画会内部の悪弊(いろいろ、あらーな)を改革しようと努力をしている人だった。事務局長(名目上のトップ)も引き受けている方だった。神奈川県在住で、せめて神奈川県在住の人だけでも、まともにしていこうと努力をなさっていたが、島田章三さんのいじめには勝てない方だった。国画会・神奈川支部展を開こうとすると国という字を使うなと、島田さんに言われたらしい。鵠沼に使われている、【鵠】という字を使えと島田さんから言われたらしい。で、星さんは、「鮎子さんの絵を章三さんは、使っているのに」、と、既に会員になっている人に話していた。私も、1991年から、それに気が付いていたし、1982年島田さんの、実妹から、いろいろなエピソードを、PTA広報委員会の平会員と、委員長といて、聞いていて、彼女の話から、それ=島田さんが、狭量で、実は,自信がない人であるという事は、はすでに、しっているつもりになって、国展出品を決めたのだけれど、聞きしに勝るものだった。

私は星さんとは、関内の教育センターとか裏手にあった中華料理店の二階で、20人ぐらいで打ち上げをしているので、お互いに顔を知り合っていた。1997年の五月のある日に上野の都美館内で、すれ違った。その時、星さんは、低い声で、「川崎さん、あっちにいいのを出したね」といって、顔も見ずに通り過ぎて行った。

 星さんは、国画会内部を改革しようとしていて、私なんかをその担い手の一人として、考えていてくださったからこそ、怒ったのだった。だけど、私はうれしかった。星さんは、ちゃんと勉強している人だった。国展と同時期に開かれている、毎日現代展をご覧になっていたのだ。国画会の中には、他の展覧会なんて、見る必要がないというほどに不勉強な人もいた。イタリアの作家(具象系なので、マスメディアに乗らない人)の絵を毎年剽窃して、国展に出して居た人もいた。芸大卒で、愛知県在住。もう絵にかいた様に、島田章三派閥の人だった。だから、国展も、都美館も、なめ切って生きている人だった。

 星さんは、1938年生まれで、2020年9月10日に亡くなっている。で、もう間に合わないけれど、言っておきたい。「星さん、私は、毎日展を上に置いたわけではありません。サイズの問題だったのです。毎日展の作品は、120号だから、国画会のサイズ制限を超えていて、出せなかっただけなのですよ」と。

 このあたりについては、三田晴夫さんの事、今関一馬さんの事、大久保忠春さんの事、山口みつ子さんのこと。十束さんと金成さんの事、島田省三さんの実妹・大沼嘉津江さんの事、嘉津江さんのお取り巻き、杉本正子さんの事、いろいろ書きたいことへつながっていく。しかし、ここでは増田忠さんに、引き続き,糊付けをすることを、お許しいただきたい。私も必死なのだから。

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副題9、『緑色を研究中の、ごく初期の絵を汚いと言われた。言い返す、言葉もない。黙っていた。というのも、これが、二つ目としての驚かされ事項だったから、一つ目の、水沢悦ちゃんの離婚のいきさつを知らされた時で、いささかの免疫もできていた。

 で、黙って下を向いている私に向かって、増田さんはあくまでも無邪気にこういった。「千恵子ちゃん、お昼をごちそうしてくれない。僕ね、退職金、みんな使っちゃったのよ。ほら、音楽会に行くでしょう」と、言う。それは、その通りだと思う。

 音楽会って、たいてい、7000円の入場料を取る。交通費、それから一緒に行く人がいたとして、その人と、しかるべきレストランで、終わった後、お食事を一緒にする。これで、月に、10万円か15万円は、費やす。もし、メトロポリタンオペラでも,やって来ようものなら、一回で、6万円は飛ぶ。だから、増田さんが、旧、中島飛行機☛ プリンス自動車 ☛ 日産自動車で、勤務し、あがなってきたお金は、それが7千万円だとしても、アッと、言う間に消えるはずだった。

 私はないしんの嫌悪感を抑えながら、「増田さん、あたくしは、そばは嫌いなので、お店を知りません。お隣に東天紅があります。そこへ行きましょう。と、誘った。東天紅横浜は、今は、桜木町のワシントンホテルに移動をしているらしい。しかし、1997年は、産業貿易ビル(または、センター)の八階か、10階に、存在した。このビルの二階で、パスポートを発行してもらうビルだけど、アクセスが悪いせいか、お客が全然いなかった。

 お料理は量は少ないが、上品でおいしい。それは、私にとっては、満足だったが、増田さんはなんと、四個目の爆弾を落としたのだった。

 白いテーブルクロスの上に、彼の部屋のベッドの、写真を置いた。ベッドの上に、ポールが渡されていてそこに何着もの洋服がぶら下がっていた。『あれ、息子さんは早稲田の建築科卒なのに、お父さんのために、クローゼットを作らなかったのかしら? まあ、増田さんは、お金持ちの家の子供で、奥さんもそうだったから、整理整頓は、嫌いでしょうね。お掃除も嫌いでしょうね。だけど、家政婦まで、させられるのは、まっぴらごめんですよと、思いながら、どういう風に断ろうかと思って、ふと、増田さんの顔を見た。

 すると、彼が目を見開いて、じっと、こっちを見ているのだが、その眼の中に、小さいが、確実に、探るという気配を感じ取った。その途端に、気が付いた。整理をしに来てというのは、口実で、「千恵子ちゃん、一緒に寝ない?」と、問いかけられているのだった。

 増田さんは、「写真を準備してきたぐらいだったから、産業貿易ホールの一階、または、県民ホールの一階に、待機しているタクシーを、ひろって、本日中に、彼の家に誘い込むつもりかしら」と、思った。

 私は、「増田さん。私、忙しいので、それは、できません」といって、その日は別れた。

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副題10,『その数日後だった。早朝、五時か、五時半に電話が鳴った。電話は二階にあり、そこに、サラリーマンの息子がいた。娘も、いた。彼は午前7時に出るし、娘は午前8時に出る。

 私は、増田さんが、午前五時か、五時半に電話をかけてくるなどという非常識な人であるとは、夢にも思わず、

 ・・・・・増田さんの、例のお誘いも、そういう事なのか? 彼が開いていた、音楽教室のマダムの中に誰か、彼と寝た人間がいますね。一盗二卑と、言って、人妻とセックスするのが、もっとも、楽しいそうですよ。でもね。ジャンコクトーについての、素晴らしい解説を、高校時代に東横線の車内で、聞いて感嘆した間柄です。一夜のアヴァンチュールといえども、ありえないです。

 ああ、あなた、奥さんが、ガンで、長い入院・闘病をしていたけれど、その頃からですか? どこか、ねじが外れて、狂ってしまいましたね。増田さんが過去に誘い掛けた女性は、みんな物分かりよく、応じたのかしら?・・・・などと、思った。

・・・・・増田さんは、私が鎌倉に住んでいるというだけで、そういう種類の有閑マダムと同じだと思ったのかしら?

 この早朝の電話だけど、私の家族は、誰か、知人が死んだのだと、思ったみたいで、差し止めをしなかった。しかし、午前6時半になったので、「増田さん、私ね。出勤する子供たちのご飯を作らないといけません。それからね。こういうお電話は困りますので、もう、電話をよこさないでくださいね」といった。それには、「電話がくる時間帯が問題なのです」というニュアンスよりも、「もう、絶交をしたい。二度と会いたくない」と、言うニュアンスがこもっていた。

 受話器の向こうで、増田さんの、息をのむ気配がした。だけど、こっちにしてみると、じっと、我慢をしているうちに、爆弾が、六発も、落下したのだった。仏の顔も三度とよく、いう。今回は、その二倍だった。で、自分の正当性を疑わず、例のごとく、神様がどうにかしてくださるだろうと、思って、慰撫の電話は、かけなかった。そして、増田さんからも二度と電話が来なかった。

 しかし、これが、カリタス小通学バス襲撃事件を引き起こした。だから、今、これを書かないといけない。ところで、私は、すでに、30時間、連続して起きている。このことが、どうして、カリタス小襲撃事件に、結び付いていくかについては、また、長時間がかかります。ので、本日は、ここまでで。

 

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