銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

老いた単身親を、理解し大切にしてあげよう・・・そうでないと関係がない他人(=私)がsexまで誘われてしまう

2022-01-27 21:48:51 | 政治

副題0、『ものすごいものを盗まれちゃいました。全財産を2度目として・・・・・でも、平静に』

 我が家には、泥棒がしょっちゅう入るので、非常に気を付けています。ところが、前報を書いた時、疲れ切ってしまって油断をしました。すると、全財産に近いものが盗まれました。常用のバッグが盗まれたのです。ただ、2回目です。いや、大切なものが盗まれたのは、5回目です。そのうち、1回だけ京葉線の終点に近い処の全館ガラス張りの美しい美しい警察署から返してもらいました。しかし、4回は、帰ってきません。これは、ちょっと、大変で、ブログを書くのに、相当に足を引っ張られる出来事です。ただ、だからこそ、平静に、いつもの通り、ブログを書かないといけません。

 でも、税務申告用の元帳が盗まれたので、領収書類を、全部記載しなおさないとならず。本日は、2021年1月分だけ、行いました。そして、夜の10時から、前報(後注)の後半のさらに続きを書き始めます。

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副題1、『実家の北隣のパパから、「一緒に寝ようね」というお誘いを暗喩的に受けたことは、本当に衝撃だった。しかし、このことは、墓場まで、持っていく秘密にしようと考えていた。しかし、異様なことが起き始めて、うーん? それじゃあ、だめかなと、思い始める』

 ここでいうパパとは、最近、NHK ETVの、【ねほりんぱほりん】で、出てきた、パパ活のパパではありません。1950年代(今から、70年ぐらい前)の、幼いお子さんが両親を呼ぶときの呼び方で、一般家庭では、無く、とてもモダンなお宅で、使われていた用語です。

 しかし、もっと、上流階級用の語彙があって、のちにフライブルグ大学(ドイツ、特に音楽で有名)の教授になった新堀真知子さんは、おとうちゃま、おかあちゃまと、両親を呼んでいました。中学生になっても、同じ呼び方を続けるのです。新堀さんは、曾祖父の段階で、明治期の外務大臣だったそうですから、仕方がない家風です。

 私の北隣のお宅は、神戸の出身だと思います。パパは、ストラディヴァリウスかグヮルネリの名器を戦前(少年時代から)、自分のものとして、持っていて、演奏も上手でした。今から、30年前の、土地が高い時に、たぶんですが、2億円ぐらいで、売ったのではないかなあ? で、真田宏之、手塚理美夫妻が、買いました。林真理子さんが、「将来、慶応に入れたくて、日吉に家を建てる芸能人が居る」と言っていたのはこの夫妻を指すと思います。ただ、そういう計算高い目的ではないのですよ。林真理子さんは、誤解をしている。真田さんは、東横線沿線で、少年時代を過ごしたので、日吉が好きだったのです。この家を選んだのは真田さんの方でしょう。

 ところで、母が言うのには、真田夫妻は、本当にきれいでオーラがあったそうです。そして、七五三の飴などをもらっても、見たことのないハイレベルの<あめ>だったと、母が言っていました。母は、子供か、孫の様にかわいいと思っていた模様です。最近私は、田園調布や麻布を中心に、Nationl Azabというスーパーがあることを知りました。そういうところで買ってきたものかなあ?

 でも、手塚さんって、林真理子さんが、からかうのは、間違っていますよ。とても、しとやかで、つつましくて、ご近所の気風に合わせようと努力していた模様です。下手に出ていて、芸能人だから、お高いなどと言う事は全くなかったそうです。町内会のお餅つき大会なども、積極的に参加していたそうです。しかし、夫の真田さんにも参加してもらいたいと、願ったりするのが、真田さんには向いていなかったのでしょう。煩わしいと思ったのね。手塚さんにしてみれば、現代日本で、もっとも階級の高いのは、大手企業の部長クラスであって、お子さんをそういう方向へ、育て上げたかったのだと思います。そして、それは、長い目で見れば真田さんへの愛の成就ですから、決して悪いことをしているわけではないのですが、あのときわ台町内会という地域の雰囲気が真田さんには合わなかったのだと思います。

 前の持ち主は、増田忠さんと言いました。忠さんのご長男が早稲田の建築科を卒業したので、最初の、木造平屋建ての家を、壊して、コンクリートの家になっていたので、売った後で、クレーン車が、来て、長い鎖の先に、大きな鉄の玉をつけてぐわーん、ぐわーんと、庭木と建物を破壊していきました。たまたま、その家のご近所の、小田歯科医院と、言うところに、私は、ずっと通って居て、その破壊工事を、治療を受ける日に、見たので、それには、ショックを受けて、一度、このブログの中で、真田さんの離婚は、あれらの、樹木を、殺したことが災いしたのではないか?と、書きました。変な言い方ですが、そういうことはあり得ます。

 なお、ここらあたりで、実名表記になっているのは、この増田さんの家と、そのご近所の沢野さん、寺沢さん、小田歯科医院、そして、少し離れたところにある、水沢勉・現葉山美術館館長のご実家が関連して、複雑な経緯をたどったうえで、カリタス小通学バス襲撃事件が起きたと、私が判断をしているから、こういう風に書いていきます。実名表記をしないと、私が凄まじい損害を後で、受けるからです。書いている途中で、すでに受けていますね。上記の盗難では、すごい内容物を盗まれていますから。

 なお、あの事件は、51歳の引きこもりの男がやったうえで、自殺をしたと言う事となっていますが、違うでしょう。ほかの事件と同じく、警察の特殊部隊が行いました。そして、事件のアイデアは、公的には、自分を死んだことにしているが、実際には、まだ生きている井上ひさしが出したと、思います。あの事件を、大マスコミの報道通りだと、信じた、農水省の、事務次官が、ご自分のお子さんを殺しました。それに、私が、2017年7月10日に妹を殺されたこと、2010年1月17日に、京橋の有名画廊のオーナー、山口みつ子さんが殺されたこと、

 三浦春馬、竹内結子、神田沙也加、京アニの36人、大阪心療内科の、26人など、高槻市の、中一2児童、新潟市のおおももたまき、ちゃん殺し、そして、周南市で、保美死刑囚に殺されたとされている5人の老人、すべて、同じ流れだと、思います。だから、登場人物は、実名で、書きます。

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副題2,『今まで、3回に分けて、増田忠さんについて書いて居る。ここで、簡単に繰り返してまとめておこう』

 増田忠さんは、慶応工学部の前身である、

  • 1939年(昭和14年) - 藤原銀次郎により藤原工業大学(機械工学科・電気工学科・応用化学科)が開校。
  • 1944年(昭和19年) - 藤原工業大学が慶應義塾に寄付され慶應義塾大学工学部となる。を卒業後、中島飛行機 👉 プリンス自動車、👉 日産自動車と、言う経歴を歩んだ方です。
  •  

その文章に、書いて居ることで、重要な部分を、したの、%%%%%%罫線以下に抜き出してそこに、再度コピペで、あらわします。

 しかし、この節では、それ以降を、語りたいです。

私は小田歯科医院にずっと通い続けていて、良い先生だと、考えていた。20年間は、それで、無事に済んだ。しかし、ある時期から、先生がおかしくなった。非常に上手にふるまっておられるが、以前と違うと考えた。何が原因だろうか? 例の鎌倉エージェント(=CIAエージェントからの弾圧だろうか?)と、一応それを心配して、ある日の夕方、ご自宅のお玄関に、奥様(衛生士として、診療を手伝ってあげている)を、呼び出して、いろいろ、説明をし、よろしくとお願いをした。

 しかし、どんどん、悪くなる様な気がする。で、考えに考えて、もしかすると、増田忠さんが、原因かなと、思い始めた。%%%%罫線以下に、詳細に書いて居る通り、私の方が、20歳も年上の忠さんを切ったと、言う形で、お別れしている。しかし、それを恨まれている可能性があった。

 増田忠さんとは、ずっと、別れていた。1968年に私は、結婚をしたが、その前から、下宿をしたりして、増田さんのおじちゃんとは、会う事もなかった。ので、1958年から、1960年ごろ、もっともかわいがってもらったのだと、記憶をしている。いろいろなことを教えてもらって、それは、感謝している。ところが、ほぼ40年後の1997年の初夏、本当に偶然に、再会した。歯医者に向かう私が、ときわ台バス停から、丘の上に登っていく途中で、再会した。腰が悪いそうで、しかも、痛いそうで、その日の増田さんは、上半身を、90度近く、前に倒す状態だったので、心配になって、自分も、一緒にゆっくりと、普通の5倍ぐらいの、時間をかけて話しながら、一緒に上がっていった。それで、すっかり、30年前に戻り、かわいいお隣の女の子、and 教養が高くて、ヨーロッパ文化についてあれこれ教えてくれる素敵なお隣の、おじさんと、言う関係が復活し、電話番号(固定電話の時代だけど)を、交換した。

 それで、何度かデートを繰り返したのだけれど、その間、増田さんが語ったことから、息子さんが、父親を粗末に扱っている事が判った。

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副題3、『増田さんの、ご長男が、父親を粗末に扱っているのは、忠さんが、<自分の家です>と、言って、コンクリートのビルの横にある鉄の外階段を写した1枚を見せてくれた時に、すぐわかった』

 息子さんは、京浜東北線、石川町駅を最寄りとする、土地を買って、3階建てのビルを建てていた。これから先は私が、例のごとく、見てきた様な嘘を言いで、語っていく。日吉の家は、南道路で、樹木の一杯育っている家だった。非常に環境が良い。しかし今度は、北斜面の様だった。しかも、問題は、ワンフロアー、24坪(78平米)ぐらいのビルで、1階は、坊ちゃんのオフィス、そして、お嫁さんのアトリエ、または、工房もあり、それ+ビル内に、個人宅の玄関と、階段がある。そういう、設計になっていると、思われる。2階はメゾネット形式のマンションになっており、ワンべッドルームと、リビングと、台所とか風呂とか、洗面所がある形式で、ビル内階段で、3階にあがるけいしきになっている。3階には、3人のお孫さんの個室(例えば4畳半か、6畳の洋間が3つとトイレと階段があり、10~12坪は使っていたと、考えられる。

 そうなると、増田忠さんの使えるスペースは、12坪~14坪、(40平米から50平米)しかない木造賃貸アパートで、鉄製の階段で上り、家賃6万円から、12万円ぐらいの貸間と、同じ様な間取りしか取れない。しかも、いつか、将来は、パパは死ぬのだから、パパが今使っている鉄製の階段は、非常階段となし、子供部屋と、忠さんの部屋の、仕切りを取っ払い、3階は6畳程度の個室を3つと、4畳半を2つ作り、夫婦それぞれの書斎と、子供部屋にする。さらに、将来は、3人の子供の内の一人が結婚をしたら、その家族に、24坪(80平米)の2LKにでも、リフォームして与えれば、ほぼ、70年は、使えるビルとなる。

 そういう設計だと思われた。何よりもきついというか、つらいであろうことは、うち階段を使えないことだ。それと、3階の隔壁は、後で壊すことが予定をされている限り、木製だろうから、お孫さんの声などは、聞こえると思う。だが、会話を持ち掛けられる、ドアが無い。すごく切ないと思う。

 そして、何よりも痛ましいのは鉄製の階段だった。冬など吹き曝しで、上がるのがつらいだろう。内側にコンクリートの壁で囲まれた階段がある。3階まで。それを使いたいなあと、忠さんが考えたことは、察するに余りある。

 私は、それに対して、口をはさんだのだろうか? 今ではしかと、覚えていないが、忠さんが、こういったのは確かに覚えている。

 「お嫁さんはね。武蔵野美大卒でね。自分の仕事が有るんですよ」と。富裕なご家庭に生まれたお嬢さんで、武蔵野美大を出て居れば、それは、仕事をしたいであろう。すでに、3人子育てをしましたしと、思っていると、考えられるし。もし、うち階段で、忠さんが上がる形式だったら、90度ぐらい、前に身をかがめて歩くお父さんとか、おじいさんを見て、お嫁さんも、お孫さんも、そして、おぼっちゃま自身が、「これは、ひどい。1階に寝室を、急遽作るか?」と、言う風に考えたと思う。「腰が痛くてたまらない」と言う事をも言うチャンスもあっただろう。しかし、父親と、息子一家は、お正月さえ、一緒に食事をとらない形になっていた模様で、何も気が付かなかったのだった。

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副題4、『増田さんは、息子側の3人のお孫さんについてあるエピソードを語ってくれた。7歳にして、大人顔負けの、ものすごく頭がいいお子様だと、わかるエピソードだった。私はこのブログで、増田家のお孫さんであるという実名は伏せて、そのエピソードを語っている。ここでは、再現しない。しかし、そのエピソードを聞いて、それが、生起したのは、1997年のお正月の事であろうと、考えた。

 で、1997年のお正月に、増田さんは、7歳、5歳3歳の孫と、一緒におせち料理を食べたのだと、考えた。しかし、今、丁寧に、各・登場人物の年齢を考えると、増田忠さんが、72~80歳、私が56歳、坊ちゃんが、47歳だから、一番上のお孫さんは、17歳から、20歳の間だと、考えられた。

 そうか、ビルが完成し、同居開始にパーティがあったのだ。それ以外、お正月だって、一緒ではないらしい。それは、気の毒ですなあ』と考えた。それで、「上の方(お嬢さん)は❓ どうしているの?」と、聞いてみた。

 すると、現在の話ではなくて、1960年代、お嬢さんが結婚するときの話が出てきた。

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副題5、『お嬢さんが、本当の子ではないという話を聞いた。増田忠さんの兄と、今の奥様との間の子供であって、‥…所謂カムカムエヴリバディと、同じケースだった。そして、話は発展をして、水沢家のご長女様の離婚まで、そして、親が、工作をした話まで出てきた。私は、そういうことを聞かせられるのは、苦手だった。しかし、増田忠さんの、お嬢さん(遺伝学的に言うと姪)との間柄がとても良いことは分かった。お嬢さんは、結婚前夜、初めてそれを知り、滂沱の涙を流し、「お父さん、ありがとうございました。これからも、お父さんと、娘ですよね」と、言ったそうだ。しかし、その娘さんは、同居しているわけではないし、忠さんは、その娘に、世話になるつもりはなかった模様だ。それは、本当は娘ではなくて、姪だから、迷惑をかけたくないと、言う誇りがあったからだと思う。

 坊やは遺伝的に100%自分の子である。しかし、その坊やとの同居生活は、坊やに、日吉の家を売ったお金を取り上げられてしまったという形で終わっていて、坊やからは、愛情のこもった措置を受けていなかった。私は、母の寸言としての、ご近所主婦たちの、評価を思い出した。「寺沢夫人と、東隣に、やって来たお嫁さんの、人柄がよい」と、言う事。「沢野さんは食えないわ」と言う事。しかし、ミセス増田については、一言も語らなかった。なるほどと、今では、思う。

 ミセス増田は、原節子に似ていて、しかも、原節子より小顔で、背が高くて、非常に美しい人だった。しかし、鈴木紗綾ちゃんの母、一ノ瀬智恵子さんと、似ていて、地味なこと、縁の下の力持ち、に相当することはやらない人だった。お正月のおせちも作らないのだと、言う事は、両方の家に出入りしていたお手伝いさんが言っていた。まあ、神戸育ちで、洋風なシステムの家だから、それで、いいのだろう。しかし、母は嫌っていて、沢野夫人よりも低い評価を与えていて、したがって、寸評も出さなかったと、考えられるのだった。

 そして、これも、急に、最近になって気が付いたのだけれど、増田忠さんが、何時も、工場最寄り駅の、傍の居酒屋で、夜9時ごろまで、飲んでいて、その後、夜の11時過ぎに帰宅し、家では、お食事をとらず、ただ、ヴァイオリンを弾くのは、言わず、語らずのうちに奥さんを避けたかったのではないだろうか? 奥さんは手芸とか編み物は、上手だ。ご主人のセーターなども手編みで、作っている。だけど、所謂愛情の何たるかを知らなかった人である可能性は、今にして思うとあり得るだった。

 坊ちゃんは、小さい時から、お顔が、ママに似ていた。お嬢さんの方が、実子ではないのに、パパに似ていた。つまり、パパのお兄さんの方の血をひいていたのだろう。同居初期は良かった。増田さんがお金を、7000万円から、1億円近く持っていたからだ。華やかなクラシック音楽の世界に没頭をしていて、人間関係も豊富だったからだ。しかし、増田さんは、裕福な家のお子さんだったので、倹約という考え方を知らない人だった。しょくじも ほとんどが外食で済ませていたはずだ。で、「年金はあるのだし、退職金もあるのだから』と、思っているお子さん方は、増田さんの、実情を知らず、彼が、私に、「千恵子ちゃん、おごって頂戴。僕、退職金使い切っちゃったのですよ」と言うbeggingをしたことを知らなかった。しかも、私が内心で激怒する様なジョークを放った直後にである。

 私は内心を抑えて、お料理をごちそうした。しかし、その席で、暗喩的だけれど、ベッドインを誘われた。つまり、一緒に寝ませんか?と、言われたのだ。それでも、喧嘩をせずに別れて帰ってきたのだけれど、増田さんは、優しい人の真実の姿を知らなかった。やさしい人とは、強い人と同義語なのだ。だから、もう駄目だわ。この人は、と、判断をすると、それは、転覆できないことなのだ。

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副題6、『急に私が何を考えているかが心配になった忠さんはあれこれ、考えだしたので、眠れなくなった。そして、結論として、私が、完璧に自分を嫌いになったと判断をした。そうとなると、今度は、私の口を封じないといけない。自分がお隣の娘に、セックスしようと、もちかけたおと=こんなことを外に出されると大変だ。で、増田さんは日吉の、沢野夫人+寺沢夫人の、二人に、自分の心配と屈辱感と、悲哀と、川崎千恵子の悪口を言った可能性がある・・・・・と、私の方が、気が付いた。

 そういえば、1997年、ときわ台バス停傍の差かで、出会ったときも沢野家を訪問するところだったのだ。もう、増田家はないのだし、奥様も長らく入院をしていたと、聞いている、井田病院で、すでに亡くなっているからだ。でも、教養が高い高い、増田忠さんが、沢野夫人みたいな庶民的な感覚の人の家に、愚痴を言いに来るとは意外だった。ただそれだけ、息子さんとの、愛のない、ほったらかしの生活がつらかったのだと、思う。で、今度は、愚痴の対象が私に変化した・・・・・そういうわけだった。で、寺沢夫人に、直接に電話をかけてみた。私の方はスパッと、本題に入る。増田さんが、私の悪口を言っていませんでしたか?」と。ここから、前報の、副題6に続いていく

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副題6、『カリタス小襲撃事件が、起きたのは、寺沢夫人という実家の近所に住む奥様が、増田忠さんについて、或る重要なことを教えてくれたことが、カリタス小が狙われた原因となっている。寺沢夫人も増田忠さんも故人だが、重要な存在だ。寺沢家のお嬢さん二人がカリタスに昔、通学していたことが原因だった』

 寺沢夫人について、ちゃんと書きたくて、母についてまず、書こうと思っている。というのも母は、あの【ときわ台】住宅街60戸の中で、寺沢夫人を一番、大切で、誠実な人だと、考えていたからだ。

 そして最後の、電話の内容を考えても、その通りだと、思っている。寺沢夫人は、こういった。「確かに増田さんは、あなたとのトラブルを話しに来ました。でね。私たちは、〇〇〇さん(お坊ちゃんの幼名)が悪いと考えたのですよ」と。私はその時に、よほど、詳細にいきさつを語ろうかと思った。ベッドインを求められたのは、本当に嫌だったのだと。それから、その前の3つに、語り口も徹底的に嫌だった。私はバカではないし、弱い人間でもない。ただ、ただ、しつけがいいというかなんというか、人間を大切にしてきた母の影響下で、丁寧に他人に接するだけで。限界を超えれば相手を切る。それは当たり前の権利だ。

 しかし、あえて、それを言わなかった。それで、私一人が悪者になっているのだった。そしてそれから、さらに、二転三転、そして、加わってくる人が増えて来て、カリタス小通学バス襲撃事件へ向かうのだった。ただし、この青字の部分から先は、本日は、語らないで起きた。そして、それを、読者の皆様には、お許しいただきたい。とても、とても複雑なので体力を消耗するからだ。

 私は、今まで、ブログの中で、増田忠さんについて、少しずつ書いている。後で、リンク先をさらそう。ストラディヴァリウス級の名器を、自分のものとして、戦前から持っている人で、演奏も上手だった。

 自宅は、敷地85坪ぐらいの土地に、有名な設計家に設計をしてもらった筈の、木造平屋で、建坪25坪ぐらいだったが、リヴィングの前に、長さ4畳か、または、長5畳、または、4畳半、または、6畳の、ウッドデッキがあった。これは、金曜日の妻たちが、大流行をした40年以上前の設計だから、どれほどにモダンなおうちだったかがわかる。この家か、次の家の、東南の個室にお招きを受けて入ったことがあるが、リヴィングとか、ウッドデッキには、入ったことがない。しかし、北隣だから、ウッドデッキは、最初の10年ぐらいは、植木が、細かったので、見る事が可能だった。そこで、奥様が、刺繍とか、編み物の、お教室を開いていた。今でいうシロガネーゼだ。ただ、1950年代だから、ミセス増田は、お金は取っておらず、お茶菓子(上等なケーキ)を当番制にするなどという、形だったと思う。神戸の出身で、原節子似の美女だった。

 それで、読者モデルなどは、公募しない婦人之友の、口絵写真として、お子様二人が、お洋服のモデルとなった。今は、家庭画報とか、婦人画報とかが、女性雑誌の一番だと思う。または、ハルメクなど、宅配専門の雑誌? しかし、1970年代までは、女性誌の、一番上位のモノは、婦人之友だったと、思う。その口絵写真に、お子様が、採用されるのはセレブのあかしだった。その上、お嬢様が、学芸大学の付属小学校に、五年生の四月から、転校をした。

 こういう募集は、ほとんど公開されないと思う。たとえ、一部の生徒が、海外へ、駐在する親と一緒に、行ってしまったとしても、新しい編入生は、募集はしない筈だ。それでも、転入できた。どれだけ、セレブなのだ? 破天荒な程度で、偉い人だったのだろうか?

 で、そういうわけで、上流社会の風を吹き付け続けた人だから、周辺の人はあおられた人が多かったと、思う。母は黙って、40年間、増田家から道路に、落ちてくる落ち葉を、掃き続けた。増田家では、白樺とかケヤキとか、縦にすくっと伸びる樹木が好きで、しかも植木屋を入れないので、落ち葉は、いつも激しかった。道路には、我が家の落ち葉はなかった。そちらは、北側なので、家屋が、塀のそばまで、占領していたからだ。でも、母は黙って掃除をつづけた。特に速攻を掃除した。

 母は、一日に二時間ぐらいは、株式投資に時間を割いていて、配当金で、パンパンにしたお財布をもって、日本橋に出かけて、そのシーズンで、私が、好む洋服をセットとして買ってくれた。ただ、お針仕事も好きで、毎晩、一本程度、和服用のひもを作っていた。ただし、増田夫人のような、きれいなものを新しく作ることはしなかった。増田夫人は、絶対に、自分の方が我が家よりも上だと、考えていたのだけれど、我が家がどんどん、お金持ちになっていくのと、子供三人が、学業的に優秀だという事は、ひそかに気に入らなかったと、思う。したがって、増田夫人にかわいがられたという記憶はない。

 しかし、ご主人の方、忠さんには、結婚する前は、相当にかわいがられていた。日吉発の、電車がたまたま、同じ時間に乗る事になると渋谷までの、30分間、いろいろなことを教えてもらった。しかし、子供時代を過ぎると、ずっと、別れていて、会うこともなかった。

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副題7、『ある時、日吉のときわ台バス停から、坂を上る、坂道で、偶然に出会った。それも、普通だったら、話が盛り上がらない筈だったのだが、増田さんの、腰が、90度、前に曲がっていたので、不思議に思って、「増田さん、こし、どうしたのですか?」と聞いた。私は、意地悪な人ではない。本性としては、他愛的、特にアガペーの意味も解り、実践をしている人間だった。短い質問だったが、増田さんは、それがわかって、相当に私を信頼し、打ち解けてくれた。

 「腰を痛めて、痛くて、痛くてしょうがない」で、「千恵子ちゃん、もっと話したいね。やっぱり、楽しい話をしていると、気がまぎれるから。今度、どこかで会いませんか?」と言われて、電話番号を交換した。1996年か、1997年だったと、思う。だから、無論、固定電話の時代だった。何回かデートをしたと思う。増田さんは、山下町の近所に住んでいると、言うので、神奈川県民ホールに呼び出した。それまでは、まあ、まあ、関係は、大丈夫だった。しかし、その展示室での、デートの時に、増田さんが私に甘えすぎているのを感じて不快だった。

 その前の事もここで、記載をしておかないと、いけない。

増田さんは、非常に打ち解けてくれて、NHKにクラシックの演奏会を、録画するにあたって、どれをえらびなさいと、指導の電話を掛けたりしているとか、自由が丘か田園調布で、クラシック音楽の、お教室(楽器の演奏方法を教えるのではなくて、音楽理論他、音楽を、哲学的に教える)を開いていたと、言っていた。

 しかし、腰が痛いし、前に、90度曲がってしまって、スタイルが衰えたので、シロガネーゼというか、講師は、辞めてしまった模様だった。そう言う昨今を話してくれる際に、同時に、ご自分の結婚にまつわる秘密とか、水沢家の、悦ちゃん(妹と、小学校時代の同級生で、弟さんが、現在葉山の美術館の館長である)の、結婚と離婚にまつわる秘密などを聞いた。

 その時は、偶像が落ちたと、言う感じだった。我が家では、父も母もご近所の噂など、話さなかった。たまたま、下関の路上で、三菱重工の元ニューヨーク支店長をしていたという事を母が知っている、東大卒のご近所様の奥様とばったり出会った。日吉で、すれ違ったら、そういう流れには、絶対にならないのだけれど、下の関で出会ったので、「我が家によっていらっしゃい」と、言われたそうだ。そして上がって、庭を見て本当に驚いたそうだ。家屋は、古い数寄屋造りで、平屋建てだが、何室あるかが、数えられないくらい、ひろい家で、その広縁の前に、広い芝生の庭が、広がっていて、その先には、眼下に、関門海峡のすべてが見える形だったそうだ。

 私はいつか愛新覚羅溥傑さんが、来日した時の、次女さんの家ではないかと思った。ただ、三菱重工が、下の関に工場を持っているとも思えなかったので、その方は,旧八幡製鉄の、工場長だったのではないかしら? 車が朝迎えに来て、関門海峡トンネルを、ひとっ走りで、走り抜ける。その時期だけ、技術的なことで、一種の、短期的な合弁が起きた?

 で、母はこの話をしながら、「ああ、現代の殿様って、大企業の工場長を指すのよ。しみじみ、そう感じた」といった。母の友人が、呉造船所の、所長の、妻になっていて、そこを母と一緒に訪問をしたことがある。同じく、眼下に、呉市街を一望する家だったが、関門海峡を下関の丘の上から、見下ろす、その大邸宅の、広々とした、勘次は、本当に、初めて出会うものだった。

 しかし、この話題は、その工場長・一家の隠された秘密が話題になっているわけではない。 

 悦ちゃんの離婚にまつわる秘密を聞いたあたりから、増田忠さんに対する落ちた偶像化が始まっていたのだけれど、それがさらに、拡張したのは、神奈川県民ホールの画廊(展示室)での、事だった。腰が悪い増田忠さんにとって、そこなら、現在の住まいと近い筈だった。だから、気を使ったつもりで、そこを指定したのだけれど、大失敗だった。

 増田さんは先に来ていて、私の絵の前のソファーに座っていた。それは、神奈川県展といって、入選するのは、なかなか、難しい展覧会だったが、私は、非常に勉強家で、根を詰める人だったので、どこに出品しても落選をしたことがないという時期だった。ただし、上野の都美館の女流展に、入選し始めて、7年目、国展に入選し始めて、6年目だったので、勉強優先の時代だった。

 最初は灰色を研究していた。このことなのだけれど、国画会入選、四年目にして、銀座のギャラリーセンターポイントという画廊で、個展をした、そこは、シロタ画廊とか、望月画廊と同じく、上野の公募団体展に、入選する人が個展を開いている画廊だった。正方形の展示室で、結構広い。

 私は1981年にすでに銀座で、個展を開いていた。(こんぱる画廊)。それに父が満州文展で、1943年に、特選を取って、たくさんの新聞記事として、取り上げてもらっていたので、美術作品の制作に置いて、つよい自負と、自信を持っていた。ところが、国画会の人たちにとって、たった入選四回目で、銀座の広くて、有名な画廊で、個展をするという事は、とんでもない、はねっかえりだ(苦笑)と、なるらしかった。

 こういう経験が、反田恭平君のTV画面内の発言を、心配することにつながっている。

 国画会が、それほど、古い体質を持っていて、上下関係が厳しい組織だとはまるで知らなかった。

 しかし、この個展そのものは大盛況だった。国画会以外の、お客様が、大勢来てくださったからだ。ところが渡辺幸子さんとは、まだ、知り合いではなくて、彼女は来ていなかった。

 この個展で、後日裏切ってくる渡辺豊重さんが、「こんなに華やかなオープニングは、久しぶりです」と言ってくれた、赤塚侃さんなどの、オープニングパーティの当時の授連だった人もちゃんと写真に写っている。

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副題8, 『私は絵を、発表する際に入選はどうか?、賞がとれるかどうか? という事は考えていない。自分なりの筋道があって、それにのっとって、研究を続けていく。1990年から、1996年までは、灰色の研究をしていた。1997年の春から、緑色の研究を始めていて、増田忠さんに、神奈川県民ホールで、見せた絵は、研究途上だから、たしかに成功しているとはいえなかった。ただし、「千恵子ちゃん、こんな汚い絵を描いていてはだめよ」と言われては、心がすっと離れていく。それは、当たり前の、話だった。増田忠さんは、どうしてあそこまで、私に甘えたのだろうか?』

 そして、別の日、G.Center Pointのオーナーの新田さんが、「川崎さんの絵って、川崎さんの絵だけを集めると、とてもきれいなのですね」といってくれた。それは事実だと思う。灰色を研究していた時代で、灰色の濃淡の中に、ちょっとだけ、黄色を、さすなどという時代だから、上野の都美館で、森本草平とか、馬越陽子と比較すれば、それは絶対に目立たない。

 ところで、ここで、心配ごとを挿入しないといけない。こんぱる画廊のオーナーも新田さんも、その後、零落した可能性があるのだ。それが、とても心配だ。

 さて、新田さんと、こんぱる画廊のオーナーについては、今は、触れないでおきたい。灰色の研究は、1997年の春以降やめた。五月120号を毎日展に出して、入選した。それの出来が良いことは、自分でもわかっていたし、

 星兼雄さんが、シニカルな反語として、褒めてくれたのをきっかけとして、灰色の研究を終わらせることとした。

 星兼雄さんという方は、文化学院出身だっただろうか? したがって、国画会主流派ではない。でも、文化学院の教授でもあり、国画会内部の悪弊(いろいろ、あらーな)を改革しようと努力をしている人だった。事務局長(名目上のトップ)も引き受けている方だった。神奈川県在住で、せめて神奈川県在住の人だけでも、まともにしていこうと努力をなさっていたが、島田章三さんのいじめには勝てない方だった。国画会・神奈川支部展を開こうとすると国という字を使うなと、島田さんに言われたらしい。鵠沼に使われている、【鵠】という字を使えと島田さんから言われたらしい。で、星さんは、「鮎子さんの絵を章三さんは、使っているのに」、と、既に会員になっている人に話していた。私も、1991年から、それに気が付いていたし、1982年島田さんの、実妹から、いろいろなエピソードを、PTA広報委員会の平会員と、委員長といて、聞いていて、彼女の話から、それ=島田さんが、狭量で、実は,自信がない人であるという事は、はすでに、しっているつもりになって、国展出品を決めたのだけれど、聞きしに勝るものだった。

私は星さんとは、関内の教育センターとか裏手にあった中華料理店の二階で、20人ぐらいで打ち上げをしているので、お互いに顔を知り合っていた。1997年の五月のある日に上野の都美館内で、すれ違った。その時、星さんは、低い声で、「川崎さん、あっちにいいのを出したね」といって、顔も見ずに通り過ぎて行った。

 星さんは、国画会内部を改革しようとしていて、私なんかをその担い手の一人として、考えていてくださったからこそ、怒ったのだった。だけど、私はうれしかった。星さんは、ちゃんと勉強している人だった。国展と同時期に開かれている、毎日現代展をご覧になっていたのだ。国画会の中には、他の展覧会なんて、見る必要がないというほどに不勉強な人もいた。イタリアの作家(具象系なので、マスメディアに乗らない人)の絵を毎年剽窃して、国展に出して居た人もいた。芸大卒で、愛知県在住。もう絵にかいた様に、島田章三派閥の人だった。だから、国展も、都美館も、なめ切って生きている人だった。

 星さんは、1938年生まれで、2020年9月10日に亡くなっている。で、もう間に合わないけれど、言っておきたい。「星さん、私は、毎日展を上に置いたわけではありません。サイズの問題だったのです。毎日展の作品は、120号だから、国画会のサイズ制限を超えていて、出せなかっただけなのですよ」と。

 このあたりについては、三田晴夫さんの事、今関一馬さんの事、大久保忠春さんの事、山口みつ子さんのこと。十束さんと金成さんの事、島田省三さんの実妹・大沼嘉津江さんの事、嘉津江さんのお取り巻き、杉本正子さんの事、いろいろ書きたいことへつながっていく。しかし、ここでは増田忠さんに、引き続き,糊付けをすることを、お許しいただきたい。私も必死なのだから。

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副題9、『緑色を研究中の、ごく初期の絵を汚いと言われた。言い返す、言葉もない。黙っていた。というのも、これが、二つ目としての驚かされ事項だったから、一つ目の、水沢悦ちゃんの離婚のいきさつを知らされた時で、いささかの免疫もできていた。

 で、黙って下を向いている私に向かって、増田さんはあくまでも無邪気にこういった。「千恵子ちゃん、お昼をごちそうしてくれない。僕ね、退職金、みんな使っちゃったのよ。ほら、音楽会に行くでしょう」と、言う。それは、その通りだと思う。

 音楽会って、たいてい、7000円の入場料を取る。交通費、それから一緒に行く人がいたとして、その人と、しかるべきレストランで、終わった後、お食事を一緒にする。これで、月に、10万円か15万円は、費やす。もし、メトロポリタンオペラでも,やって来ようものなら、一回で、6万円は飛ぶ。だから、増田さんが、旧、中島飛行機☛ プリンス自動車 ☛ 日産自動車で、勤務し、あがなってきたお金は、それが7千万円だとしても、アッと、言う間に消えるはずだった。

 私はないしんの嫌悪感を抑えながら、「増田さん、あたくしは、そばは嫌いなので、お店を知りません。お隣に東天紅があります。そこへ行きましょう。と、誘った。東天紅横浜は、今は、桜木町のワシントンホテルに移動をしているらしい。しかし、1997年は、産業貿易ビル(または、センター)の八階か、10階に、存在した。このビルの二階で、パスポートを発行してもらうビルだけど、アクセスが悪いせいか、お客が全然いなかった。

 お料理は量は少ないが、上品でおいしい。それは、私にとっては、満足だったが、増田さんはなんと、四個目の爆弾を落としたのだった。

 白いテーブルクロスの上に、彼の部屋のベッドの、写真を置いた。ベッドの上に、ポールが渡されていてそこに何着もの洋服がぶら下がっていた。『あれ、息子さんは早稲田の建築科卒なのに、お父さんのために、クローゼットを作らなかったのかしら? まあ、増田さんは、お金持ちの家の子供で、奥さんもそうだったから、整理整頓は、嫌いでしょうね。お掃除も嫌いでしょうね。だけど、家政婦まで、させられるのは、まっぴらごめんですよと、思いながら、どういう風に断ろうかと思って、ふと、増田さんの顔を見た。

 すると、彼が目を見開いて、じっと、こっちを見ているのだが、その眼の中に、小さいが、確実に、探るという気配を感じ取った。その途端に、気が付いた。整理をしに来てというのは、口実で、「千恵子ちゃん、一緒に寝ない?」と、問いかけられているのだった。

 増田さんは、「写真を準備してきたぐらいだったから、産業貿易ホールの一階、または、県民ホールの一階に、待機しているタクシーを、ひろって、本日中に、彼の家に誘い込むつもりかしら」と、思った。

 私は、「増田さん。私、忙しいので、それは、できません」といって、その日は別れた。

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副題10,『その数日後だった。早朝、五時か、五時半に電話が鳴った。電話は二階にあり、そこに、サラリーマンの息子がいた。娘も、いた。彼は午前7時に出るし、娘は午前8時に出る。

 私は、増田さんが、午前五時か、五時半に電話をかけてくるなどという非常識な人であるとは、夢にも思わず、

 ・・・・・増田さんの、例のお誘いも、そういう事なのか? 彼が開いていた、音楽教室のマダムの中に誰か、彼と寝た人間がいますね。一盗二卑と、言って、人妻とセックスするのが、もっとも、楽しいそうですよ。でもね。ジャンコクトーについての、素晴らしい解説を、高校時代に東横線の車内で、聞いて感嘆した間柄です。一夜のアヴァンチュールといえども、ありえないです。

 ああ、あなた、奥さんが、ガンで、長い入院・闘病をしていたけれど、その頃からですか? どこか、ねじが外れて、狂ってしまいましたね。増田さんが過去に誘い掛けた女性は、みんな物分かりよく、応じたのかしら?・・・・などと、思った。

・・・・・増田さんは、私が鎌倉に住んでいるというだけで、そういう種類の有閑マダムと同じだと思ったのかしら?

 この早朝の電話だけど、私の家族は、誰か、知人が死んだのだと、思ったみたいで、差し止めをしなかった。しかし、午前6時半になったので、「増田さん、私ね。出勤する子供たちのご飯を作らないといけません。それからね。こういうお電話は困りますので、もう、電話をよこさないでくださいね」といった。それには、「電話がくる時間帯が問題なのです」というニュアンスよりも、「もう、絶交をしたい。二度と会いたくない」と、言うニュアンスがこもっていた。

 受話器の向こうで、増田さんの、息をのむ気配がした。だけど、こっちにしてみると、じっと、我慢をしているうちに、爆弾が、六発も、落下したのだった。仏の顔も三度とよく、いう。今回は、その二倍だった。で、自分の正当性を疑わず、例のごとく、神様がどうにかしてくださるだろうと、思って、慰撫の電話は、かけなかった。そして、増田さんからも二度と電話が来なかった。

 しかし、これが、カリタス小通学バス襲撃事件を引き起こした。だから、今、これを書かないといけない。ところで、私は、すでに、30時間、連続して起きている。このことが、どうして、カリタス小襲撃事件に、結び付いていくかについては、また、長時間がかかります。ので、本日は、ここまでで。

 

 

後注1,

保美死刑囚が今はwikiでHと呼ばれる。私が大物である証拠だ。だが今問題にすべきは、カリタス小襲撃事件の方である

2022-01-26 01:50:41 | 政治

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