今は、22-1-29の夜11時半です。以下の文章に加筆を始めます。初稿の途中で、加筆した部分には、アンダーラインを敷いておきます。
副題1、『子供時代の、隣家のおじさま、増田忠さんとの、やり取りは、私に、ほぼ、一生、消えない苦しさを与えた。そう、言ってよい。彼は、純粋な日本人なのだけれど、ニュアンスとしては、ショパンみたいな外貌の美しい男性で、内面は繊細で、高度なインテリ紳士だった。1950年代には、深い敬愛の対象だった。そして、私にとっては、20~25歳は年上で、親にあたる世代の人だった。が、1997年に、二人が、突然に再開し、急にお付き合いを始めたのだが、その、当時、彼が同居している(?❓?❓?)息子さん一家とは、話も交わさず、ご飯も一緒に食べない生活を、送っていたらしい。
そこから来る寂しさのあまり、隣の娘だった私に過剰に甘えすぎて、暗喩的だけれど、「寝ましょう」と誘われたので、しかも、私にとっては、非常に、大切な仕事である、油絵をけなされたので、しかも、早朝5時半から一時間も続く長電話をもらったので「もう、お電話をくださらないで、」と言ったのだが、後日の、寺沢夫人との電話による短いお話から、増田さんが、相当深く傷ついたのもわかった。
増田忠さんは、私が、偏差値的に優秀な子供だったと言う事は知っていた。しかし、1997年には、私がひどく、成長し、「彼は、昔の彼ならず」の典型で、頭がさらに良くなっていると言う事には、気が付かなかった。私の方は、考えることが大好きで、毎日、毎日、思考を続ける。それで、驚くべき深さで、哲学的、心理学的、熟成度を、重ねていたのだが、増田さんは、女性というものをステレオタイプ化して、考える人だったのだろう。態度が、優雅で、静かだったら、とても、おとなしくて弱いと、彼は、私をみなし、私が、ちょっとしたことで、違和感を感じると、そこから、100倍ぐらいの、情報をつかみ取ってしまうほど、深く、考え及んでいく人間だと言う事までは、気が付かなかった。
いや、気が付いていたのだけれど、「大丈夫。セックスへのお誘いに、きっと、乗ってくるだろう」と、思ったのか?、または、久しぶりに芽生えた男としての自分を優先してしまったのか? 増田さんとしては、私に甘えることが、快適な湯温のお風呂に入っているみたいに快適だったのだが、小さな策略を弄してしまったのだ。暗喩的言葉で、セックスに誘うという小さな、しかし、私としては、絶対にうなずけない罠を仕掛けてきたのだった。
私は、最近では、このブログで、「こざかしい仕掛けは大っ嫌いだ」と、書いている。雪の下のご近所様が、次から次へと、ばかげた仕掛けをもって、何を考えているかを探ってきたり、ノイローゼにさせようと、わなを仕掛けてきているので、「そんなことをしていると、いずれ、実名で、あなたを分析して行きますよ。特にその醜い姿を」と、警告するつもりで、その宣言をしているのだが、1997年とは、まだ、メルマガも、ブログもしておらず、かつ、ニューヨークでの、複雑で、大量の心理的成長をもたらした体験もなかったので、ぶっちゃけた会話をする能力もまだ獲得しておらず、ただ、お茶や、食事を一緒にして、普通の会話を交わしている限り、私は、とても、おとなしくて弱い人間に見えたのだろう。
散らかったベッドの写真を見せて、「ちえこちゃん、かたづけに来て、」と言ったことで、思いがけず、乗ってこないので、「自分がセックスに誘ったと言う事を、あの子は、わかっていて、断ったのか、そうではなくて、ただ、ただ、単純に、「そこまでのお世話はできません」と、断ったのかが、気になって、気になって仕方がないから、眠られなくなって、徹夜することになってしまった。
それで、とんでもない早朝、五時か五時半から、一時間も続く長電話をかけてくることになってしまった。私は、彼の電話の内容やら狙いはむろんわかっていた。しかし、背後に、二人の20代の子供がいる。かつ、一階に主人がいる。一階に寝ていたわたくしが、二階においてある受話器を取り上げるまで、10通話は鳴らしたほどだから、三人は、むろん、目が覚めている。ただ、こういう時間帯の電話だから誰かが死んだのだろうと、思っているみたいだった。私の方は背後の三人が気にかかるから、「増田さん、本当に、ああいういい方はやめてくださいね。〇〇ちゃん(娘さんの名前)が、知ったらどうするつもりですか?」などとは言えない。ただ、ああ、といったり、無言で返答をするだけだ。すると、増田忠さんは、話題をそらして、別の事を言って、同情を得ようとする。「おお、なんとこずるいのだ。はっきりせーよ。ポイントに入って、謝罪せよ」と言いたくなるが、昔は、ジャンコクトーについて、うんちくを傾けて語ってくれたオジサマだ。こっちはあくまで、ああとかフーンとか、言うだけだ。とうとう息子が起きてきた。彼は、7時に家を出る。後10分で、朝食を作らないといけない。で、「増田さん、こういう電話はもうよこさないで、ください」といった。それに<<<<お付き合いそのものもやめたいです>>>>というニュアンスも込めた。
もう、取り返しは付かないことだが、増田さんが、真実安心できる方法がほかに、あっただろうか? 少し考えてみよう。
そこでは、どんなに心配でも、ともかく寝て、昼間、鎌倉の我が家を訪問をしてくれる方がよかった。しかし、腰が悪くて、痛いという状態では、この雪の下の石段を上るのは無理だったのか? 彼には悪気は無かったと思う。それにこれは、政治とは、1997年の時点では無関係だった。しかし、やがて、歯医者さんの態度が変わってきて、それによって、大きな政治問題へと化してくる。
1997年当時は、単純な話だった。だが、彼は、軽はずみに過ぎた。で、そのいきさつは、消えない印象を私に残した。今、増田家の両親も亡くなり、我が家の両親も亡くなり、当時日吉の実家の近隣で、もっとも、誠実で賢い人だった寺沢夫人も亡くなった。水沢家の両親がどういう風になっているかを知らないが。・・・・・フロイトの論理は、ここでも正しかった。
増田さんと、実の子供である息子さんの間には、真実の愛情というものが通じていなかった。同性の親子は、仲が悪いというのが、そこに現れていたのだった。そして、二人とも、それを認めておらず、かつ、重要な問題だとは、考えていなかった。それでも、同居直後はよかったのだ。無事だった。どうしてかというと父親の方に、大金があり、かつクラシック音楽という忠さんの趣味の世界が華やかで、それで、父が満足をしていると、息子さんは、考えたのだろう。同じビルに住みながら、一切の交流がない生活を送っていた。増田さんは、将来は非常階段として使う予定であっただろう、鉄製の、ビルの外についている階段を利用して、トボトボと、暗い三階の家(スペースは、14坪=40平米から、16坪=50平米)の、冷たい部屋に帰る。壁一つ隔てて、三階の一部を使っている三人のお孫さんの声が聞こえるだろう。しかし、交流することができない。彼らはビルの内側の階段を使うので、普段顔を合わせることもないのだった。それは、お嫁さんが、武蔵野美大卒の才媛で、自分の仕事にとっては、舅の世話や、介護が、邪魔になると考えたからだった。
ところが、父親の忠さんは、裕福な子供時代を送ったために、かつ、サラリーマンとして、高給をとっていたために、倹約とか、計画性というものがなかった。で、10年のうちに、7000万円近くが消えてしまっており、それと、血のつながりに、あまりに依存をしてしまったのが、増田忠さんの悲劇だ。増田忠さんは、本当は、ご長女様と、同居するべきだった。しかし、彼女とは、姪という間柄だったので、増田忠さんは、遠慮してしまったのだ。で、100%の親子関係がある、坊ちゃんと同居(?❓?)したのが、悲劇の始まりだった。なおここで、次の日に書き添えるが増田忠さんは、お嬢さんがお嫁入する直前に、本当のことを話したそうだ。カムカムエヴィりボディの雉真家と同じく、増田忠さんは兄のお嫁さんと、結婚したのだった。すでに小さい姪が、生まれている兄嫁と再婚したのだった。忠さんの方が初婚として。
しかし、誰も、それを指摘していないが、最近では、特に親の方が、苦しい。増田忠さんのケースもその一例だ。ただ、心理的に言えば、太古から、親と子では、親の方が損をする様になっているのだが、儒教が、強く支配した江戸時代とその影響が残っていた時期には、親の方が強かった。
しかし、今でも、親の方が強くて、良いのだと、考えているのが、虐待をする親である』
今週木曜日販売の、週刊誌の広告(いわゆる中づり)を見ると、新潮でも、文春でも、埼玉県で、中三の男の子が、変死した、事件の、内幕を取り上げている。第一報が出た時に、私が、想像した通り、中三の男の子が変死したのは、家庭内暴力だった。やったのは誰だったのだろう。ともかく、79歳の身では、読むのが恐ろしくて、買う気にもなれない。
そんな事件に比べれば、日吉町(旧1番地)に住んでいた、60軒の人たちは、上等も上等だった。それでも、その人たちがなした、失敗やら悪を、私が見破ったと、推察した鎌倉エージェント(CIAエージェント)が、カリタス小通学バス襲撃事件を起こしたのだ。そのいきさつは、複雑極まりないが、絶対に書かないといけない。
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副題2、『カリタス小通学バス襲撃事件が、どうして起こされたかというと、小田歯科医院(小田先生夫妻)をまもるためだった。小田先生の、後ろに、悪人がいて、私を苦しめる様に命令をしていると言う事が判ったのは、先生が、お孫さんの優秀さを、披露した時だった。私は、それを、つい、昨日のことのように聞いた。しかし、先生が、その話題を出した時期の、10年近く前の出来事だった。
増田忠さんも、お孫さんの自慢をした。こちらは政治的な裏はない。ただ、私は、それを聞いた時、つい昨日の話だと、思ったのだが、正確に指を折って数えると、こちらも、その話を聞いた時点より、10年は前の話だった。その時制の隔たりから、増田さんは、大変苦しくかつ寂しい、毎日を送っていたことを知った。それも10年近くの長きにわたって。増田さんは、日吉の家を売らない方がよかった。息子さんは、住まいとオフィスを別に持つという形で、父が亡くなるまで、自社ビル建設を待てばよかったのだ。
増田さんの思い出話は、こうである。ある時、お孫さんが、喧嘩をしたそうである。長子が、7歳で、次子が5歳ぐらい、末っ子が、3歳ぐらいの時、上の二人が喧嘩をしたそうである。そうしたら、両親が、お兄ちゃんの方を叱った。すると、お兄ちゃんが、下を向いて、小さな声で、「さは、さりながら」と言ったのだった。そこにいる大人たちは、みんな仰天をしたそうだ。聞いている私も仰天をした。
7歳の子供が武士言葉を身に着けており、しかも、それを、概念として、まことに適切に使ったからだ。(なお、蛇足ながら、私は、鎌倉殿の13人で、役者たちが、口語体で、セリフを語るのは嫌いだ。いやなのだ。が、三谷脚本には、大量のセリフがあるので、仕方がないということになっているのだろう)私も仰天しているが、秘密は解いている。ママは武蔵野美大卒だ。で、お子様が学校とか、幼稚園に行っている間に、必死に美術の仕事をする。
で、お子様が帰宅してから、楽なことをする。兄弟が3人なので、「遊んで、いてね」と言ってお出かけをする。お買い物程度だと、思うけれど、2時間ぐらい外にいると仮定すると、お子様方はその間、自由に、テレビを見るのだ。午後に時代劇の再放送があったのだろう。1980年代の事だ。勝新太郎、中村錦之助(初代)、吉右衛門、中村敦夫、藤田まこと、加藤剛、高橋英樹などが、主演したシリーズものがあり、それを見る。それは、大人向けなのだけれど、賢いお子さんだったら、十分に理解できる。したがって、江戸時代の武士の表現を、7歳にして、適切なタイミングで、再現できた。
ただ、こういうケースはまだ、良い。リヴェンジポルノで有名な被害者は、家が吉祥寺にあった。繁華街である。レンタルビデオ屋さんもあっただろう。お母さんが、しょっちゅう外出して家にいない人なので、お嬢さんが、アダルトビデオを見たりしていたと、思う。それが、16歳にして、とんでもない結果をもたらした。
しかし、「さは、さりながら」という名言以降の、孫に関するエピソードが、忠さんから出なかった。同じビル内で、息子さん一家は、うち階段で、上下し、増田さんだけ、鉄製の外階段で、3階に上下し、お正月でも、懇談することが無かったと、推察される。それでは、寂しいであろう。特に日吉に住んで、増田さんが、男やもめ時代は、よかった。同居がかえってけなかったのだ。至近距離中の至近距離に住んでいて、お孫さんの声も、ビルの内側から聞こえてくるのに、会えないというのは、本当につらかったと思う。息子さん一家は、残酷なことをした。
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副題3,『小田先生には、4人のお孫さんがいる。カナダにいるお孫さんの話をされるときには、何の問題もなかった。そうですか。そうですかと、驚いたり感心をしたりして聞いていた。
このカナダのお孫さんは、いくばくかは、私の孫と関係がある。自閉症だという話なので。しかし、本日、紀平カイル君のピアノ演奏を聴いてきたが、自閉症とは、ある部分が、特に、集中して発達したお子さんだと思う。
私の四人目に生まれた孫にも、それが出た。小田先生のお孫さんは、非常に良い指導者に出会い、美術の方面に進まれ、才能を開花させているらしい。「おめでとう御ざいます。よかったですね」と、言いたい。
私の息子は、その子を大変かわいがっている。紀平君と似ていて、本当にお人形さんみたいな、(または、有職びなみたいな、古風な美形の)顔をしている。ただ、紀平君は、ピアノ、特に作曲や編曲の道を見つけたみたいで、周辺の人を感心させている存在だが、私の孫が、何に向いているかは、まだ、息子一家は、発見していない模様だ。ばーばとしては、やきもきしてしまうが、息子は、私がでしゃばるのは、非常に嫌がるので、手も口も出せない。
しかし、小田先生には、日吉に住んでいるお孫さんもある。そちらは、スープの冷めない距離に一戸建てを建てて住んでいるご長女様のお子さんだ。このお孫さんが、野球が好きで、小6の時、野球ができる学校を選び、受験し、すべて合格をされたのだが、それを先生は、一つの学校ごとに、大変、長時間をかけてお話をされるのだった。ひとつの中学受験から、次の学校のえぴそーどに至るまで、非常に時間を空けてお話になったのだった。ほぼ、2年か3年にわたって、私は、ちびちびと、それを、聞いていった。
最初は、鎌倉学園、次に立教中学、最後に、慶応普通部が出てきて、お孫さんは、慶応に進学をされ、慶応・高校か、慶応・大学在学中の時点で、野球をおやめになったそうである。
つまり、自分が普通部に入学した時点より3年後に、高校から、入学する優秀な選手が入ってきたので、やめたとなる。慶応という名声にあやかろうとして、プロになるレベルの、才能高き子供が大勢、入学してくるので、「自分は違う。プロになるレベルではない」と感じたそうだった。
しかし、ほぼ、2年にわたって、それが、語られたために、私は、・・・・・これは、先生が、違う事を目的として、話している・・・・と、感じ始めた。つまり、私を心理的に追い詰め、悲しませ、ノイローゼにさせるために、この私立中学受験成功譚を語っておられると、気が付いて来た。
私が1980年代に、小田先生に通い始めたころ、すべての歯にすでに、虫歯があって、刺し歯もすでにできている状態だったが、先生は、できるだけ、生かそうとしてくださって、根幹治療というのをしてくださった。
で、昔は、一本の調子が悪い歯が出てくると10~12回小田先生に通った。しかし、最近では、ワンクール、5~6回である。ただし、私は入れ歯を盗まれたりするので、小田先生に通う機会が多かった。それは、半年か、1年開けて、また、別のところを治療してもらうという形。で、本当に多数回小田歯科医院には、通った。
ところが、その間、先生は、鎌倉学園を受験した話を、合計4回はなさったと思う。そのついでに、北鎌倉から、江ノ島まで、歩いたとおっしゃる。後で、ここでも、時制のまやかしがあって、先生が、北鎌倉から、江ノ島まで歩いたのは、1990~2005年ごろまでの話であって、先生が、大腸がんを患う前の、話だったと、理解をしてくるのだけれど、治療台に乗って、治療を受けながら、先生のお話を聞いている真っ最中には、そこまでの、解析はできず、思わず、「我が家に寄ってください。その道の途中にあります」と言った。
ところが先生は、上の空で、乗ってこられない。で、そんな小さな違和感が、大きな真実を見破っていくことになる。大きな真実とは、カリタス小通学バス襲撃事件が、NHK他が報道するのとは、全く違った、裏側があるということだ。それが私の常なのだ。
でも、私が治療台に乗って、先生の、鎌倉・長距離・徒歩旅行の話を聞いていたころ、すでに、大腸がんを患って、人工肛門だったはずだ。しかし、再度手術をなさって、人工肛門が、取れたという話なので、・・・・・もしかすると、人工肛門の時代というのは嘘?
いや、先生が悪意を持っておられたと、言うのが、今では、確実にわかってしまったので、そういうところまで、あれは、本当の話だったのだろうかと、疑ってしまう。
・・・・・ともかく、人口肛門の身で、北鎌倉から、江の島まで、そんなに、長距離を歩くのは無理だ。しかも、その旅行に関する奥様の感想が全く出てこない。先生は、一人で、歩かれたのだろうか。非常に仲が良いご夫婦なのに? しかもがんを患っていることがわかっている夫を、一人で、そんなに長距離徒歩旅行に、奥様が出した? 不思議である。
で、私は、先生の体を心配して、次に、「欧林洞という喫茶店があります」と言ってみた。+++(なお、このカフェは、今は、閉鎖になっている。高級な材料と、高級な食器を使っていて、大体のメニューがお高かったうえに、駅から遠いので、コロナ禍で、老人の観光客が減ったのが痛かったと思う。若い人は、こういう高級な喫茶店に入るほど、食事には、お金をかけないのだ。で、お客が少なくなったのだろう。ただし、二子玉川に、支店があるとのこと。そちらは、どうなっているかなあ? ともかく、小田先生と鎌倉長距離徒歩旅行について、話し合ったのは、2021年よりは、前で、そこがまだ開いていた時期だ)しかし、是にも乗ってこられない。
そうか、なるほどと、私は腑に落ちてくる。
前から、それは、感じていたのだけれど、私の長男が、私立中学を受験して、2校とも不合格だったのは、裏があるのだ。わざと、不合格にされたのだ。そして、息子もひどく、傷ついたし、その後も、繰り返し、息子に損失や、攻撃があった。
西原理恵子を利用して、三国屋善五郎の社長自らが、息子が辞めざるを得ない様にした話は、何度も書いてきている。大前勇介、大前研一氏なども関与している。「それ以外にもいっぱいある。なぜ、そんなことをされるのか? (明日か? または、将来、リンク先を明示します。後注として)
答えはこうだ。
北久里浜において、横須賀市所有の水道山が、地籍変更届、(2.75平米しか、私のとちが無いのは、間違っています。実際には、4200平米あるはずなのです。修正してください)を、関東法務局横須賀支所に、提出するだけで、市民には、まったく知らされることがないままに、無償で、水道山1200坪が、ある個人(=益山重夫、智恵子夫妻)の手にわたってしまった。しかし、二人とも死んでいるので、智恵子夫人の実弟、仲野通巳吉が、相続をしていて三人の娘のうちの一人に益山姓を継がせている。
益山重夫というのは、戦時中は海軍参謀だった。で、この悪事には、横須賀市の当時の土木課長、杉本俊一も絡んでいるし、京急の幹部も絡んでいるはずだ。何よりも、大きな被害を、私に、もたらしているのが、瀬島隆三で、陸軍参謀として、益山重夫とは、親友だそうで、この件について、真実を見破っている私を殺そうとしている最中である。
瀬島は、戦後最大のCIAエージェント化していて、死んだのちも、伊藤玄二郎とか警察庁、それから、鶴岡八幡宮様を使って、すさまじい攻撃を私に対して、向けてきている。旧名酒鬼薔薇聖斗、芸罪名少年Aが神戸で土師淳君の頭を校門の扉の上に置き、首から下の遺体を水道山に遺棄したという事件(中学生が、小学生の遺体を一人で、運べるはずがないでしょう)とか、都筑区の傾きマンション事件など、また、赤木俊夫の自殺なども、すべて、この地籍変更届と関連している。
1月26日の水曜日だったかな? 前々報(後注3)を書いている最中に、鶴岡八幡宮様は、9時15分から、10時、11時、12時、1時と、五回ほど、異様な形で、太鼓をたたいた。しかし、私が、・・・・・増田忠さんが、セックスしようと持ち掛けてきたので、彼を切ったのだ・・・・・と、書いたら、急に静かになった。それを書く前までは、私の方が冷たい人間だと、このブログの読者がみなすだろうと、井上ひさしたちが、考えていたので、それが、起きた。
自分たちが勝てると思っているときはさらに重層的な攻撃を仕掛けてくる。それが、井上ひさしの行動の、典型で、彼から、伊藤玄二郎、鎌倉警察署、龍村さんという経路で、ああいう異常な太鼓音が流されたと思う。
しかし、私には増田忠さんの本心も読めるし、小田歯科医院の院長先生の本心も読めるし、鎌倉警察署を経由して、八幡宮を支配している、今だ、実際には生きている井上ひさしの心も読めるので、一派、全部をひっくるめて、なんて幼稚なんだろうと、あざ笑うしかない。
という最近の鎌倉雪の下の事情を書いて、そののち、小田先生が、孫の私立中学受験の、島のされたところに戻ります。上の⇔のところから、続きます。
だから、鎌倉学園についてしつこくお孫さんが、合格をした話をなさるのだ。そこは、我が家からバス停にして、2つ目の学園なので、近い。歩いて行かれる場所にある。それで、井上ひさしあたりが、「そこを受けたのだろう」と、誤解をしているので、こういう風に、小田先生は、何度も取り上げるのだ。
しかし、息子が、中学受験をしたのは、1982年で、ここに引っ越してくる前だった。(ここですが、いつも年度を間違えて書いています。真実は、1983年の二月の事でした。小六でも、次の年度で、入試がありますので、1983年だったのです。何度も書いてきていますが、過去の時制は、間違っています)
したがって、京急北久里浜駅から、通学可能な私学を選んだので、鎌倉学園は、受験をしていない。しかし、小田先生は、間を十分に開けたうえで、四回もお孫さんが、鎌倉学園を、受験し合格したと、おっしゃるのだった。とても上品に、しかし、深い深いとげをさすために。立教については一回だけだったし、慶応普通部について、合格の話も一回だけだった。これは、徹底的に悪意ある攻撃だった。それで、
なるほど、わかった。私は、これから、小田先生が、わなを仕掛けてきたことを、てこにして、それについて戦うぞ。しかし、やり方は、なんと難しいことだろうと、考えた。
そして決定的なことが起きた。先生は、カーテンが下がった診察室の窓から、50mぐらい東に見える私の実家を、眼で、さして「今、あの家、どうなっているの」とおっしゃった。
その時に、突然、・・・・・妹が他殺なのに、自殺とされている事、そして、それを小田先生も聞かされているのだ。そして、先生は、それを正しいことだと、信じ込まされている。・・・・・と、思い当たった。これは、本当に大変なことだった。
しかし、寺沢夫人は、亡くなっている。彼女は、「裏に回っている・うわさ・は、こうですよ」と、本当のことを、増田忠さんについて、言ってくれて、しかも理性も情愛もある人だった。そういう人間だった寺沢夫人は、もういない。私は大河ドラマ篤姫を見ていて、篤姫が、常に、「片方聞いて沙汰するな」とおっしゃっていたことを知った。つまり、コンフリクトがあるときに一方だけの言い分を聞いて、審判を下してはだめだと言う事。さて、どうするか?
この時の戦いに対して、敵が防衛路線として使ったのが、カリタス小通学バス襲撃事件だったのだ。・・・・・あいつなら、それが、自分狙いだと、わかるはずだ。だから、脅かしと成りえる。あいつをを脅かして、小田先生や、水沢勉先生、もしくは、その後ろにいる酒井忠康氏に関する真実を書くのをやめさせるのだ。…‥
と、伊藤玄二郎たちが考えたために、その事件=カリタス小通学バス襲撃事件が、起こされた。そして、「俺たち、鎌倉エージェントが、警察に命じて、行わせたのだ」と、高笑いをしている、いまだ、実際には生きている、井上ひさしの哄笑が、聞こえる様だった。そう言う真実が、音もなく、日吉、1丁目24-12(実家付近)の四つ角に、漂った。
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紀平カイル君のピアノを聞きに出かけるので、金曜日の深夜は、ここまでとさせてくださいませ。浜離宮ホールの切符も買っていたのに、当日午前10時ごろ外部からメヌエル氏病状態を生起させられて、たちあがることもできなかったからです。で、一回ミスっているので、今度は聴きに行きたいです。
尚、とうじつ(土曜日)の朝、激しいけいれんで、十分な睡眠がとれない時間帯に目覚めさせられた。これも外部からの攻撃だと思う。しかし、非常によく効く薬を処方していただいているので、痛みが消えて、二度寝をすることができた。したがって、気分良く、紀平カイル君の、演奏を聴くことができた。
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ここまでの、加筆推敲だけで、4時間かかってしまって、すでに午前三時だ。就眠しないと体がもたない。だけど、これだけは、蛇足として、書いておきたい。それは、どうして、あれを書いたかの本当の理由だ。あれとは、
・・・・・安野家の次男が、お成績がとても悪いのに、国立大学付属高校にご入学あそばされて、かつ、海上保安庁に、就職なさいました・・・・・と、いう文章。それを書き続けてきたかの、本当の理由だ。安野家の次男は、男成中学で、通信簿に1と、2しかないということで、有名のお子さんだった。それは、おいちに、おいちにの、あひるさんという呼び名でも明らかだった。
そして、私が、1984年に、ここに引っ越してきたときに、安野夫人が、直々に、音声で、私に、「うちの子は、成績が悪くて」と、言ったほどだった。しかし、1984年の二学期に、私の息子(安野家の次男と、同学年)の、通信簿から、すべての教科で、一ランク成績が下がるという現象が起きた。これは、親としては抗議はできない。しかし、奇妙だった。今では、すべての、五段階評価分が、安野家の次男に回ったのだと思っている。しかし、それでも、2と3になるだけだ。だから、当然のごとく、国立大学の付属高校へのご入学には足りない。だから、ほかの子供からも、少しずつ安野家の次男に、高い評価が移ったのだろう。
ところで、国立大学の付属高校、特に男子の募集は、非常に数が少ないはずだ。お茶大付属高校だけは、中学期まで、男女共学で、男子がごそっと抜けるので、36人合格するという、数値だが、学芸大学付属高校、筑波大学付属・駒場、筑波大学付属・茗荷谷の三校とも、非常に少ないはずだ。
しかし、安野家の次男みたいに、政治的工作がなかったら、1と、2しか、通信簿にないというお子さんが、どれほど頑張っても、入学できないはずなのだった。しかし、タイミングを見事に図って、+++(外出して、安野家の門前を通る)+++、私に、わざと、聞こえる様に、石川和子さんが、はっきりと、「国立大学付属高校ご入学おめでとうございます」といったのだった。
あとから思えば、私が国立大学付属高校出身だから、それをからかっていると、言うことも言える。また、私が安野夫人が井戸端会議に誘い込むために、「お砂糖を貸してください」といったのを断っていて、しかも、それ以降、一種の村八分状態に陥ったので、それを嘆く電話を大学時代の、友人にかけている。したがってあの当時から、電話が盗聴をされていたと考えると、
敵の敵は、味方だということになり、安野家の次男に、ご褒美が与えられるという形で、国立大学付属高校へご入学ということとなったのだろう。
しかし、どうしても不思議極まりなかったので、私は、その後、ずっと、耳を澄ましていた。私にもそれなりの情報網があるからだ。国際基督教大学の1966年度卒業生だということは、北久里浜では何の効力も発揮しない資格だったが、鎌倉には、その大学名と、その実力のほどを知る人が多かった。したがって、丁寧な扱いを受けていたのだった。しかし御成中学がシーンとしている。公立の中学から、国立大学の付属高校に入学するのは、一種の大事件だから、噂が、ハチの巣をつついた様に広がるはずだった。
この謎は、卒業式の日に溶けた。進路表は、一番上が、湘南高校で、何人進学したと、書いてあった。そして、一番下に、海上保安学校という記載があった。海上保安学校は舞鶴に在る。そして、海上保安大学校は、呉に在る。両方とも、学費と生活費は国から出る。だから、国立とはいえる。しかし、国立大学の付属高校と言えば、普通は、80%が大学に進学する高校である。しかし、海上保安学校から、80%が呉に進学するとは思えなかった。
それに、高校の段階で、都落ちするとは? 呉の保安大学校なら、鎌倉から進学することはありだった。しかし、舞鶴の学校からは、保母、自動的に海上保安庁に就職できて、生涯賃金二億か、三億かは貰えるのだから、通信簿に、1と、2しかないお子様に取っては、上々の選択だった。
しかし、私は、石川和子さんと、安野智紗夫人の教養の無さには、あぜんとしたのだった。私の実の祖父は柳井商業の校長を40年間務めた。その人は、日吉の家にも訪ねてきているし、母の兄とは、ちゃんとした記念写真を旧制中学時代に撮影をしている。ただ、養父母(八木家)とは合わなかったらしい。小糠三合あれば、養子に行くなという風情で、気骨のある人間だったので、養子を好まなかったのだが、明治時代・高商(現在の大学経済学部と、商学部を兼任している学校)を出ている人間は、非常に少なかったので、秋山家から望まれて再度用紙にはいり、そちらで、七人の子をなした。また、父の兄は、旧制萩中学の校長だったし、父の実の姉、または、兄嫁も、旧制師範学校を出ている。
それから、ほかにも学校の先生になった人は大勢いるので、学校制度とか、学校の評判とか、その学校が持っている特徴とかは、自明の理だった。国立大学の付属高校とは、大学進学率が、80~90%の学校で、高校では男子を、募集しないというのが表向きの、概念である。
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しかし、この様なことを書いていると、私の方が意地悪だと、思った読者は、いっぱいいると思う。それは、理解していたが、私としては鎌倉エージェントに読ませるためにこれを書いていた。特に、私の息子の私立中学受験の失敗は、わざと裏から手配をされた結果だと、確信をし始めてから、このケースを書き始め、幾度となく、書いている。彼らに、伝えたい本当の事は、うちの息子の、人生をめちゃくちゃにしましたね。という話なのだ。ある時期、ファンを名乗る女性が近づいてきた。二人いて、安藤てる子さんの方は女性刑事だと、わかっている。
しかし、もう一人の方は、上流社会のマダムである。産休補助、高校教員をしていて、お子様は三人とも御三家と呼ばれる私立の中高一貫校に入学し、一人はお医者様になっている。その人が或るとき、「ねえ、川崎さん、日本で上流階級になっていくのは、有名私立中学に入学させる事なのですね」といった。彼女に悪気はなかったと思う。ただ、地方の出身で、しかも、先生という職業が、一部上場企業の社員よりも低くみなされていた時期の、先生(ただし校長先生だが)のお子様なので、どこか、自信がないのだった。彼女は頭がよくて、教養も高いので、客観性がありすぎるのだった。それは、安野智紗夫人とか、石川和子さんとは、正反対の、性格表現だった。
私は内心で、ひどく傷ついていたし、彼女が歌舞伎座の一階で、ご主人と一緒の写真を送ってきたときには、抗議をして、絶交状態に陥った。というのも彼女とのデート中の話題は、カルチュアーサークルで、いじめられるということとご主人とは合わないと、言う話だったから。
いじめられる方は、助言ができたと思う。彼女がいじめられる原因は、本当は、上流階級なのに、それを自覚していないので、その態度が、嫌みに見えるから、いじめられるのだった。上流階級なら、威張っていいというわけではないが、へりくだって、接触し始めたら、途中で、真実の姿(例えば、高価な洋服を着て居たり、和服を着ていたりする)が見えて、サークルの仲間が、裏切られたと感じるからいじめられるのだった。
しかし、彼女から、「ねえ、川崎さん、日本で上流階級になっていくのは、有名私立中学に入学させる事なのですね」と言われたときは、本当につらかった。というのも、すでに、私が北久里浜の、実質的詐欺事件の全貌を知っているからこそ、私を死亡させるために、まず、精神病院へ入院させてしまおうと、言う動きがあるからだった。そこに入院させてしまえば、あとは薬で、緩慢に殺していくことができる。
小田先生が、お孫さんが、鎌倉学園を受験して、合格をしたことを数年にわたって、四度もおっしゃったのは、まさしく、その一環だったが、あの、津田塾卒の女性も、そういう目的で、近づいてきた人だったのだろうか? そういえば、彼女の同僚に、国際基督教大学を出た人がいると、言っていた?
ともかく、私は、相当に深い苦難を抱えているので、息子の不幸を語る前に、安野家の圧倒的な得を書いた。読者から、誤解をされることを恐れずに。
なお、これは、ご本人の実力だとは思うが、前田家のお嬢さんが、東京女子大卒なのに、明治大学の教授になっていく、ことができる、と、言うのも、これも、CIAエージェントたちが、特権を利用して、あっせんしている席だと、思う。
そして、前田家のご長男が、新卒時は、違う就職先だったはずなのに、いつの間にか朝日新聞社の正社員になっているのも同じことだろうと思う。
そして、最近は、安野家に奉仕をしている、平木家の、ご長男が、前年(=2010年)の秋に、「来年の四月から、坊やは、東大へ入学できます」というお知らせを受けている。