この章は、最初の総タイトルを、【京都龍村、宮沢エマの帯、鶴岡八幡宮の次期or次々期のtopは、そこの出身でしょう】としておりました。だが、13日の、午後零時に変えました。
ここで言わんとする最も大切なことは、CIAエージェントが利用しようとする手下、または私兵は、どれほどに、持ち上げられ、洗脳をされているかということなのです。それが谷本守男、51歳の引きこもり男、青葉真司、植松聖、小林遼、山田浩二、保美死刑囚 を、動かした原理です。それが、わかったのは、ご近所の画家、大原光孝さんの態度の激変を経験したからでした。それは、20年前に発生し、その後の20年間を思うと、どれだけ、多数の人間が、しかも、この雪の下の山の住人、のために殺されていったかなのです。だから、鶴岡八幡宮の上級神官さん龍村さんが、私より、安野智紗夫人を上に置くことが問題なのですよ。その説明には、時間が大量にかかります。だけど、説明をし抜くでしょう。
なお、もう一つ言うべきことが残っていました。この章も、ある種の狙いとして、反田君への忠告第五弾となっています。反田君に言いたいのですが、弾く人として、優れていればいるほどに、自動的に嫉妬を浴びます。嫉妬心を表面に出すことは恥ずかしい事なので、面と向かって言われることはないでしょう。だが、嫉妬している存在は、大勢いるのです。そういう人たちが、もう一つのマイナスの感情に見舞われたとしたら、どうなるでしょう。非常に不利になります。ここでいうもう一つの感情とは、「あいつは、生意気だ。27歳でしかなくて、これから、私たちが引き上げてあげる立場でしかないのに、大きなことを言っている」と、思われることを指します。
ショパンコンクールの発表が真夜中の、午前二時まで、かかったというのも、そして、反田恭平が二位だったというところにも、まさしく、そういう現象が反映しているのです。
私と渡辺幸子さんとの確執も、まさしく、幸子さんが、まず、私を裏切り者だと、誤解をして、その次に、私の才能に嫉妬したので、大きくいじめてきたことが初因です。私は計算高くはない人間です。だから、個展の招待状を、知っている人間からもらったら、それが銀座ではなくて、行きにくい場所でもほとんど行きます。しかし、渡辺幸子さんは、計算高い人間なので、日本航空の空港勤務だった、平野和子さんは、会社員としての同窓生なので、その画廊で、私が開いた版画の個展には、来てくれました。しかし、油絵の個展には、来てくれたことがなかったのです。で、私が、油絵の絵かきとして、力量が高いことを、知りませんでした。国画会においては、まだ、会員ではないので、えらくないのだと、考えていたのでしょう。
ところで、私は、1979年ごろ、小学校のPTA広報委員として、島田章三さんの実妹、大沼嘉津恵さんと知り合いました。で、島田章三さんの、性格が悪いことは知っていたのですが、国画会内部で、いじめてくるとは、想像だにしていませんでした。愛知芸大の学長だから、まさか、そこまでの事をするとは思わなかったのです。
島田章三さんがいじめてきた陰には、横須賀市の水道山が、ただで、益山重夫、智恵子夫妻、および、智恵子夫人の実弟・仲野通巳吉に、てわたっていった、実質的詐欺事件があって、地境地主としてその詳細を知っていると、言うことが関連してきます。横須賀市側の代表、杉本俊一氏とは、その奥さん、雅子さんが、大沼嘉津江さんと、三羽烏を組むほどの、PTA仲間だったので、女同士のつてで、島田章三さんが、私をいじめてきたのでした。
益山重夫という人物は、元海軍参謀であり、瀬島隆三・元伊藤忠会長(元陸軍参謀)とは、親友とのことでした。瀬島隆三とは、隠れた、超特権者で、何でもできるので、島田章三を通じて、国画会内部で、私はいじめられていきます。で、1994ねんには、すでに、その仕組みには、気が付いていました。初出品が、1991年ですから、たった4年で、気が付いたと、言うこととなります。しかし、それからが大変です。日本の公募団体展というのは、お上品に表現すると家元制度を取り入れていて、上下関係のある古い組織だと、言うことになりますが、下品に、表現すると、やくざの組織に似ていて、足抜けがしにくいのです。
で、1994年から、実際に、出品をやめた、2002年までは、悶々として悩むこととなりました。しかも、美大でではないわたくしが、公募団体展を離れて、個展などしても、お客が来ないこともわかっていたので、どうしていいのかわからないというほどの苦境に陥っていました。が、まず、版画をはじめ、版画で、海外留学をすることを経験して、と、同時にパソコンを利用して、文章を書き、それを人に読んでもらう生活を初めて、やっと苦界から逃げ出しえる筋道が見えてきました。しかし、これは、絶対に、口外できないことだったのです。それに、抜けられない時のことをも考えて、100号の大作は、作り続けてはいました。
たまたま、2002年の二月に、望月画廊で、大学同窓会展が、開かれることとなっていました。そこでは、渡辺幸子さんと一緒であり、結構、仲良しのつもりでした。電話で田沢先生が与える苦しみとか、新制作展内部で、出世できない苦しみとかを、訴えられていました。私の方ですが、彼女の言う苦しみは、すべて、100%理解ができました。しかし、音声を出す言葉によって、同調することはありませんでした。というのも、私の方は、画家としての出世なんかとっくにあきらめていて、文章を書くことに活路を見出し、公募団体展は、やめようとしていたので、問題点が、すでに、変わってきていて、同調できなかったのです。で、ただ、はあ、はあと、気のない返事をしているだけでした。
というのも、もし、渡辺幸子さんに、「国画会へは、もう出品しないつもりです」などと言ったら、湘南地方で、ひとかどの地位を持っている女流画家の間に、電光石火で、それが、広まってしまい、「国画会はやめられないは、しかも内部では、それまで以上に冷遇されるは」という悲惨な状態に陥ることは、火を見るよりも明らかだったからです。
でも、非常に運が悪い事には、そういう電話のついでに、彼女の予定を聞いてしまったことでした。彼女にしてみると、大学同窓会展は負担以外の何物でもないので、「鎌倉(美術家協会展)に出した8号を望月画廊にも出すわ」と、言う計画だそうです。で、それは、言葉として言えば、使いまわしで、一見すると、大学同窓会展を、粗末に扱っているみたいに見えます。でも、渡辺幸子さんほどの、ランクになると、そういう風に言うことは、別に悪い事でもないです。大学同窓会展というのは、親睦を目指すもので、美術的に高度なものを発表することは求められていません。で、私は、それも、「はあ、はあ」と聞いておきました。
しかし、私の手元には、四月締め切りの国画会ように準備した100号がありました。・・・・・ラッキー望月画廊に回してそこで、日の目を見せてあげれば、国展に出品しなくても、この子(絵の事)への愛情は、示せるわ。それで、いい。・・・・・と、考えて、プロの、搬入業者に頼んで、銀座に運んでもらいました。上野より高いのよ。鎌倉に近いが、上野は、ほかの人も一緒に運べるが、銀座へ、100号を運び込む人は少ないからでした。
ああ、それからの、一週間、どれほどの、苦労を味わったでしょうか? 彼女は誤解しました。「自分は、8号の、すでに、発表した作品を出すと、予定を語っていたので、彼女は裏切ってきた。未発表の、100号を出すなんって、ひどい裏切りだ」と。そして、潜在意識の中では、私の作品が良すぎたので、嫉妬心が舞い上がってしまったのにもかかわらず、裏切りという、方向で、責めると、ほかの人が、すべて、乗ってきて、
「そうだ、そうだ、あなたは正しい。彼女はひどい人間だ」と、電話内で、ヒロインとなり、同窓会展の、全フィールドを、占拠できたのですから、快感も、たっぷりと味わえたでしょう。
私の方が、傷を負ったかですが、私は、自分で本を出版するという目標に移行をして、それを、必死で、実行をしていくことになります。それで、悲しみをいやすことができました。
しかし、その途次で、システム異常に見舞われます。特に、ADOBEがひどくて、一晩で、50回ぐらいシステム異常を起こしてしまって、自宅で、仕事ができないと、言う始末になります。インデザインCSIIも、買ってあるにシリアル番号が違いますと、言われたりして・・・・・そのシリアル番号は、6枚組のCDケースに張り付いているのですよ。しかし、違うと言われる。
私の、1965年以降はいじめ、いじめの、55年間だったのです。
しかし、すごいいい事にも気が付いています。それは、神様が、慈愛を示してくださると、言う法則です。私をいじめた人には、何らかの災禍が、下るのです。特に、その人が善人であると、災禍が、下ります。
死、病気、経済的失墜など。
私が何らかの、工作をするから、そうなるのではないですよ。だって、鶴岡八幡宮の参拝客が毎年減りつづけているなどという事は、私が支配してできることではないですし。
という挿入を入れて、元へ戻ります。初稿の冒頭へ戻ります。
本日は、いろいろ、書くつもりです。ところが明日、国立劇場に、歌舞伎を見に行く予定があるので、短い話題で、終わらせるつもりです。
副題1、『書くことはいっぱいあります。本日は、本当は、宮沢エマが、知恵泉【占い】の章で、着てきた帯について、触れて、そこから、鶴岡八幡宮の上級神官、龍村さんに、触れるつもりでした。
その時の着物本体もすごいものでしたが、帯もすごくて、西陣の、もので、模様は、【銅鏡裏】というものでした。ところで、NHKアナ(司会者?)は、わざと、帯について触れてほめ、それが、銅鏡裏という昔からの、名前のついている由緒ある模様であることを視聴者に知らせました。その時、瞬時に、それが、京都、龍村製のものだと、推察され、宮沢エマという、朝ドラ【おちょやん】以来、私が、ファンになった女優を、伊藤玄二郎たちが、「自分たちのものだよ」と、宣言をしたことを知りました。
それ以前には、まったく知らなかった彼女に、私が、惹かれたのは、おちょやんで継母として、現れ、最初は意地悪なじょせいだったが、最終場面では、視聴者を画面に、くぎ付けにしたからです。しとやかで愛情豊かな女性の典型でした。ので、急に惹かれて、彼女を、見たくて、久しぶりに大河ドラマも、見るつもりになっています。本当は大泉洋も、三谷幸喜も嫌いで、見たくなかったのです。人物として、嫌っています。
それから、鎌倉が舞台です。ということ、そのドラマものが、伊藤玄二郎たちが、いろいろ、利用しようという意図が丸見えです。
ところで、ここで、大・CIAエージェントである伊藤玄二郎がらみで、中島千波さんに飛びます。その中島さんが、どうして、このブログに登場するかというと、大原光孝さんの、行動ゆえなのです。
ご近所の画家、大原光孝さんという男性が敵方に、リクルートをされてしまい、美術評論家としての私を、貶めるために、自分が卒業した創形美術学校の、後輩の、画像、テーマ、模様とそっくりな絵を描き、それを、三越で、開かれる、春季院展に、わざと入選をさせた…‥そういうあたりから、「あんたの方が、川崎千恵子より上なんだよ」と、持ち上げられ切って、態度が激変しました。
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副題2,『中島千波さんは、芸大教授なのに、ずいぶん軽い態度で、CIAエージェントに協力なさいましたね?』
で、彼=大原光孝がいけないひと=悪人だと、わかるのは、種々理由があるのですが、ここでは、一点だけ取り上げます。
その後輩の作品の模倣が、質的には、似ても似つかぬもので、たいへん出来が悪いものなのに、伊藤玄二郎や、酒井忠康氏が、中島千波さんに、頼んで、絶対に、春季院展(三越)に入選させましょうと、画策していたことが、大問題なのです。その二人は、鶴岡八幡宮のぼんぼり祭りの、常連だから、鎌倉で、一緒に飲みましょうという形の中で、事が運んだと思っています。ただね、宮田亮平さんが絡んでいるかもしれません。その論功行賞で文化庁の、長官になったり、国立劇場の支配人になったりしたのかなあ? 芸術家にしては、極端なほど、政治的に動いていて、個性的な学生をつぶしたらしいですよ。恐ろしい人でもある。
元の、大原光孝さんの、模倣作品の方へ戻ります。
オリジナルの作品の方は、3号か、4号の小さなキャンバスに、ものすごく細い筆で、詳細な、模様(学校の校庭を俯瞰的に見下ろした図)を描き、稠密で、複雑な画肌を、構築しているものです。
比較して大原光孝さんの絵の方は、ベニヤ板に描き(もしかしたら、材料費が出なかったかもしれませんね。いや、政治的に作業代として、5万~10万円は出たかもしれないけれど、光孝さんは、その全部は、材料費として使わなかったのでしょう。ベニヤ板に、アクリルで、描いていました。ただ、ただ、模様が、同じ形だったと、言うだけです。俯瞰的に見下ろした、小学校の校庭であると、言うところだけが同じで、剽窃そのものの絵でした。
中島千波さんは、「芸大教授なのに、こういうことに手をお貸しになって、どうしたのですか? 道徳的に?」と、言いたいです。
ただ、もし、中島さんは、三越では、なにも動いていなくて、大原さんの模倣作品が、すらりと審査に通ったのだったら、その期の院展審査員って、どういう眼力だったのでしょうか? べニア板に、アクリル絵の具で、描いた作品何って、院展では、かつて、見たことがありませんが?
そして、奥野ビル他で、何度も、個展を繰り返して居て、油絵としては、画料も高くなっているオリジナルの作品に関して、一切の知識がないのでしょうか? え? そうですか? 美術界では、相当に話題になっている作品だと思いますが、日本画、以外は、脳内に取り込まないことにしていらっしゃるのかしら?
そして伊藤玄二郎など、中心にいる人間は、自分からは動くことがなく(だって、真実が世に出たら大変ですから)手下を使うわけですが、この時は、大原光孝さんだったのです。
ところで、この案件で、中島千波さんに、フォーカスして、書き始めたのは、ここ4,5年です。で、そうし始めたら、急に中島千波さんが、目の前に現れる様になりました。美術家連盟の事務室だったり、鶴岡八幡宮の境内だったり、本当にすぐそばに中島千波さんがいると、言う経験を何度もしました。
もしかしたら、皆様は、「なんで、関連付けるのよ。偶然だったでしょう?」とおっしゃるかしら? いいえ違います。ある日、ガレリアグラフィカの二階の、絵を見に行ったのです。一階は、主に貸し画廊として使われていますが、二回は、画商としての栗田玲子さんが売りたい絵が、飾られています。
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副題3,『渡辺幸子さんと、栗田玲子さんと、酒井忠康氏は、三人つるんで、大量ないじめを行ってきた。その三人の中で、幸子さんが、一番善人なのだろう。彼女は、今、不思議な形で腰が曲がってしまった。で、私は、神様は、存在すると、言う定義に、まさしく幸子さんは当てはまると、考えている。私をいじめると、その量に応じて、死、病、経済的損失などが、その人に襲ってくる。ただし、その人が善人の場合のみである。その三人のうち、ほかの二人の、隠れて行っている、悪逆行為っといったら、驚くほどの事なのだ。まだ、全部は、書いていないけれど』
ガレリアグラフィカの二階で、私は栗田玲子さんと、酒井忠康氏から、激しいいじめを受けたのでした。その件を、説明すると、中島千波さんが、目の前に現れたのは、決して偶然ではないと、言うことをご理解いただけるでしょう。納得してもらえるでしょう。しかし、私がいじめられている一方で、特別に大事にされている人間もいて、それが渡辺幸子さんでした。幸子さんが大切にされるのは、昔、ひどい形で、私を、いじめたことがあるからです。でもね。彼女は不思議な角度で、腰が曲がってしまいました。あれiじゃあ、車の運転ができないでしょう。彼女は、鎌倉駅を利用する人ですが、家からは、車で出てきて、駅徒歩圏内の実家に、車を、おいて、電車で動く人です。
彼女が、ガレリアグラフィカの一階で、お客様を接待しているときに、私は、ちゃんと入ってきちんと挨拶を交わしましたよ。幸子さんも、昔よりは、私の存在を認めていると、言う形に変化しています。しかし、総ガラスの壁の外、道路から、彼女を見ていた時間帯には、こういう風に考えていたのでした。「あれって、まるで、カマキリが、鎌首を右や左に、揺らしている様だわ」と。
渡辺幸子さんは、最初期の、日本航空スチュワーデスなのです。それで、背が高くてやせています。その、右前、水平角30度、足から見上げた仰角、120度ぐらいで、曲がってしまった体で、お客様に対して、華やかな応対をしていると、象徴的な特徴として、カマキリを思わせるのでした
なお、スチュワーデスという言葉は消えキャビンアテンダントと、ことばがえをされています。それも、私は、自分が、大物であるがゆえにそうなると、言う風に考えています。
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副題3、『清泉の小学生に、追い抜きざま、「逮捕するぞ」と脅かしの、言葉を浴びせられたエピソードとか、ファミリーマート、二の鳥居そば店で、コピーを取った後で、店を出たら、目の前をパカパカとお馬に乗って、洋服姿の、鶴岡八幡宮トップの、吉田茂穂宮司が、一の鳥居向かって、進んでいった、エピソードなどを考えわせると、次の三つの方法で、私が今、どこにいるかが、正確に把握できるのだろう。それで、タイミングよく渡辺幸子佐野、がれるアグラフィカ二階へ、誘導し、恥をかかせようとした事案の経過や、裏側が、理解できるのだった』
私がどこにいるかを探り、正確に狙っていいじめるやり方は、皆様ご存じのもの、まだ、知らなかった方法を含めて、5、6っこ在ります。
まことに住みませんが、本日は、ここまでで、終わりとさせてくださいませ。
@@@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。
副題3、『アド街ック天国で、新聞のラテ欄には、その週の、個別タイトルは、鎌倉砂岩となっているが、実際には、石も岩も出てこなかった時がある・・・・・これは、大原光孝さんを助けるための、重要な、ポイントであり、CIAエージェントが、鎌倉市や国家のお金を、自由自在に使えるということを、示した、最初の例だった』
が、宮沢エマが、北条政子の、妹を演じると、言う点で、二人の対比が、相当、描き分けられると、見ています。女性として、二つの典型を描き分けるでしょう。
しかし、あまりにもあくどい泥棒を発見したので、ちょっと、話題を変えます。というのも、龍村さんの問題点は、私よりも、ご近所主婦、安野智紗さんを上に置いた点にあり、それが、どういう問題を含むかを、20年かかって、分析して行くつもりであると、2020年の5月から言っています。