さて、今は、24日の午後4時ですが、下の文章の続きを書き始めます。
副題1、『私はおちょやんに出た宮沢エマに惹かれて、鎌倉殿の13人を、見ることにした。ただし、この番組の裏に例の鎌倉エージェントがいることは確かなので、途中で、やめるかもしれない』
で、鎌倉エージェントはテレビ遣いを、自分たちの力の源泉としているので、この大河ドラマが始まるずっと前から、これを宣伝する番組が作られていた。で、その中で、宮沢エマは、「スパイみたいに、北条家の中を、周囲が自分に隠していることがないかを、嗅ぎまわるのです。絶対に自分が外される事は、許容できないのです。しかし、教えてもらえないことがあるので、自ら嗅ぎまわるのです」と、自らの役柄を説明した。それは、おちょやんの義母役とは、相当違う設定で使われる模様だ。
しかし、その短い説明だけで、私は、『あれ、それって、従姉妹ベットに似ている』と考えた。何か似ているところがあるというのは、美術の世界、特に現代アートの世界では、ご法度だ。だから、何かと何かが似ていると、言う事は、言う方も慎重でないといけない。
しかし、私が見ているところ、テレビドラマにおいては、本歌取り(元の作品があって、それを換骨堕胎して使うという形を和歌の世界の用語で、たとえてみた)は、多い模様なので、ここで、それを言いたい。三谷幸喜は、バルザックの従姉妹ベットを換骨堕胎して、宮沢エマの、役どころを作ったのだろうと。
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副題2、『私は、結婚する前には、古典と呼ばれる小説群は、読んだ。だが、結婚後は、エッセーとノンフィクションものを好んでいるので、現在の作家が書いて居るものは、ほとんど読んでいない・・・・ところで、ここで、失礼ながら、長いうんちくを、北畠八穂について披露をさせて、いただきたい』
結婚する前、は、中学生頃から、よく本を読んだ。自分の心に深く残ったものとしては、
欧米モノでは、ロマンローランの【ジャンクリストフ】と、バルザックの【従姉妹ベット】
日本語の物では、北畠八穂の【悪たれわらし、ポコ】
(これは児童向けですが、非常に気高い内容です。大人の読書に耐えると思う。それと、今、田中陽希君の、日本300名山踏破(NHK BSP)で、とても有名になっている深田久弥の元奥様で、深田久弥が、作家として、有名になるのを手助けしたというか、ほとんど代筆をしていたのです。
ただ、北畠八穂は、その時代に、今のデルタ株と同じくらい、人々を苦しめていた結核を患っています。特に脊椎カリエスと、言う病を経ています。だから、最近、この欄で、主役を張っている平木夫人みたいにすらっとした、八頭身スタイルというわけではありません。だから、深田久弥は、愛人を作って、離婚に至りました。北畠八穂の方がはるかに才能があるのに、たまたま、登山ブームであると言う事と、田中陽希君という、タレント的、登山家が出てきたので、深田久弥の名前がテレビに頻出しています。ちょっとした不条理です。北畠八穂は、昔の作家なので、映像とは、関係がなく、角野栄子さんほど、お金を儲けたわけではなくて、ひっそりと、鎌倉に住み、ひっそりと、亡くなっていきました。
ところで、ここで、三千字ぐらいが敵さんに消されてしまったので、再び、書き直しましょう。
この小説の舞台は、青森県三沢基地をほうふつとさせ、所謂、パンパンという存在も、そっと、におわせる形で出てきます。しかし、社会派小説ではありません。主人公の父親は、たぶん戦死しています。これは、1953年に出版をされていますので、そういう母子家庭を取り上げています。しかし、お母さんは、或る事情から家出をしないといけなくなります。そこは、この小説の、キーなので、どういう事情かは伏せますが、主人公は、貧乏な上に、お母さんのせいで、差別される側になってしまいます。
そこに、合唱コンクールが出てきます。NHKが主催する、中学校、高校の合唱コンクールが今、盛んですが、この小説で出てくるのは、小学校段階の、コンクールです。三沢市内で、一番になるか?、青森県内で、一番になるか? そういう競争のあるコンクールです。で、教師は、その成功とか勝利を目指して、貧しい子供とか、障害のある子どもを切り捨てます。主人公は、そういう風に差別をされて切り捨てられた方の子供4,5人のリーダーです。で、大人から見ると、とんがっているので悪たれと、言われています。だが、いくら頑張っても、実際には、悲惨な方の立場です。今だと、富裕層がもてはやされる時期でもあり、私立中学受験が、堂々と、有名雑誌の、人気記事になる時代なので、読者からは、受けない主人公だと、思います。ファンが付かない主人公かもしれないです。
しかし、この小説は、素晴らしい救いが訪れるところで終わります。それは、アメリカ式ハッピーエンドではありません。お母さんが、大金持ちになって帰ってきたと、言う風なハッピーエンドではありません。だけど、心理的に言えば、圧倒的な、そして、とても、静かな勝利で終わります。その救いには、三つのキーワードが絡んできます。ひとつは、詩(poem)です。次にメンターによる、より上位な解釈が、主人公に与えられ、心が、広くなります。許しと喜びが主人公の心に、生まれてきます。それから、主人公に、宗教心が、宿ったことが示唆されます。
その宗教ですが、自分で、洞窟に祭壇を作って、ろうそくをともすという形だけで、示唆されており、宗派は、公示されていません。しかし、・・・・そうですよね。これが、神様です。良かったね。神様に出会えて・・・・・と、思います。
この最後の救いに、メンター(おじさん)が現れてきます。それが、エーリッヒケストナーの飛ぶ教室と同じです。
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副題3、『私は長い間、北畠八穂が、エーリッヒケストナーの飛ぶ教室を読んだのちに、この【あくたれ童子 ポコ】を書いたのかどうかに、ついて、疑問を持っていた。まだ、答えを得るに至っていない』
この童話は、1953年に出版をされていて、私は、1957年に、・・・・父君はじめ一族が、有名な病院を経営する・・・・お友達の家の、ひどく立派な図書室(しかも子供専用)で、この本を見つけて、借りて来て、感動仕切りで読みました。中三か、中二の時だったでしょう。エーリッヒケストナーの飛ぶ教室を読んだのと、時期的に比較して、どっちが早かったかを、覚えていないのです。そして、二つの書物を、連続して読んだわけではないので、そのこと(主要な構想が似ている)には、長い間、気が付かなかったのだけれど、
両方とも、中年のおじさん(親戚ではない他人)が現れて、主人公の悩みに対して、別の、筋道で、考える様に教え、主人公は、スパッと、目の前が開かれる気分になるのです。このメンターが登場するというところが、両者の共通点で、その件に関して、私は最近の20年間、悩まされることとなります。それは、現代アートを制作するものとして、オリジナリティに、ついて、特別に厳しく考えているからです。最近では、ウィキペディア等ができたので、便利ですから、調べてみると、エーリッヒ・ケストナーが【飛ぶ教室】を出版したのが、1933年で、北畠八穂が、【あくたれ童子 ポコ】を出版したのが、1953年です。20年の差があります。
本日は、別の項目から調べようとして、日本語訳が、出版されたのが、何時か? を調べてみて、もっとも古いものが、高橋健二訳で、1962年とあります。そこで、あ、うれしいと、一瞬、ぬか喜びをしたのですが、その数行後に、
- 池田香代子訳、岩波少年文庫 2006年
- と、言う記述を見つけて、だめだ。こりゃあと、思いました。岩波少年文庫は、高橋健二訳で、【飛ぶ教室】を私が子供時代から、出版しているはずです。で、この資料に依拠すると、間違ったことを書くことになる、として、利用をしないことと決めました。こんなところにも、私をひっかける仕組みが潜んでいたのです。
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副題4、『・・・・・そうか、田中陽希君は、私、及び、私のブログ潰しのために、発掘されて、長期間番組制作の、サポートをNHKから、受けていたのだ・・・・・と、納得をした。』
私の実家では、できるだけテレビを見ない様にしておこうという主義でした。でも、主人がテレビを見る主義の人なので、我が家では、一日中、テレビがついています。ただ、二人とも、ほとんどの時間、BSPに、チャンネルを合わせています。で、田中陽希君のグレートトラヴァース【日本100名山】は、見ていたし、それが、200名山とか、300名山に、発展していったのも、見ています。
で、ずっと、そのことには、気が付かなかったのですが、本日、初めて、『ああ、そうか、田中君は、深田久弥を、大宣伝し、深田久弥を嫌っている私を、弾圧するために、起用されたのだ』と気が付いたのです。
どうして、そういうかというと、私が、最初に、このブログで、北畠八穂について、書こうとしていたころ、突然に、北畠八穂に関するデーターが、グーグル検索上消えてしまったのです。私は、それを私に対するいじめであると、実感をしました。私が、最近、平木夫人の嘘を、詳細に書いて居るのは、(後注1)、この時のwikipediaみたいに、誰が、やっているのか、やっている人間が、見えない形でも、書くこと、及び、調べたい事へ対する、膨大な、いじめと弾圧があるからです。それは、一万回か十万回に及ぶでしょう。でも、それを書いても、人々に共感をさせることが難しいです。しかし、平木夫人という、私を、2014年から、正面切って弾圧してきた人が、その弾圧の、論功行賞として、ご長男が、東大へ、入学できますよと、入試の前の年の秋には、知らされてきているわけですが、
それをうれしいことと思ったご長男が、そのころだけ、電子ピアノの、音を出して、英雄ポロネーズをジャンじゃか、ジャンじゃか弾いていたわけですが、そのいきさつを書かれてしまったことが、平木さん一家にとっても、苦しいことだし、そういう流れを作った伊藤玄二郎ほかの、鎌倉エージェントにとっても苦しいことなので、復讐をしてきたのです。攻撃としては、数度目の事として、次の年、2022年1月17日に、平木夫人を使ってリアルな嫌がらせ、===禁煙運動の、ゴムプレートを新しく、この山の入り口に貼る===を、やらせた上に、彼女に、「うちの息子が弾いていたのは英雄ではなくて、革命です」と言わせたのです。
これは、とんでもないウソです。で、私は平木夫人の陰にいる、何十万回となく、いじめて来た、人間たちに対する、叱責の無知として、平木夫人の嘘を大々的に取り上げました。小ばかにするんでないと、言っておきたいと、はっきり、言い放っています。四年制の大学を出ているはずで、しかも、英雄だと、坊ちゃん自身が私に請け合ったのに、平気で、後日、こういう嘘を言う。その頭の中は、どうなっているのでしょうか?
私をいじめ、弾圧するために、遠くにいる一見、関係がまるでない様に見える人物を利用するのは、小澤征爾にも表れている現象です。
江戸京子さんが、お茶大付属高校の出身なので、私の先輩に、苦杯をなめさせたこととなる、小澤征爾に対して、私は、従来から、批判的です。だからこそ、小澤征爾は、持ち上げに持ち上げられています。小澤征爾の演奏会に、今時、行っている人たちは、庶民中の庶民で、スノッブの典型でもあり、本当の音楽好きではないと思っています。テレビで、頻出する、有名人が演奏すると、素晴らしいのだと、感じこむ人たちでしょう。
ともかく、私は、北畠八穂が、好きで、深田久弥が、嫌いです。だからこそ、田中陽希君という頑張り屋さんを発掘し、利用をして、あの長期間連続した番組を作ったのでしょう。日本100名山というのが、非常に有名になり、したがって、深田久弥の株も上がりましたから。
ところで、こういう記述が、正しいと、信じる論拠がもう一つあります。それは、この番組が、とうとう終了となった時に、特別番組が作られたのです。その時、出席者の一人が、「陽希君、是から、どうするつもりですか?」と質問をしたのです。すると、「彼は、僕は、もともと、プロの、アドヴェンチュアー・レーサーで、チームにも所属しています。そこに戻ります」と言ったのです。
その時に、彼は何と、地味な、目標を持っているのだろうと、驚嘆をしました。
私は、この独特な番組は、彼本人が企画したもので、彼の方がNHKに、売り込みに行ったのだろうと、考えていました。しかし、その発言を聞いたとたんに、『違うわ。この人は、とても地味で、シャイな人で、自分から、自己宣伝用の、番組を企画するタイプではない。NHK側が、リクルートをしたのだわ。何のためにと言えば、深田久弥を持ち上げて、彼のゴーストライターをしていた北畠八穂を、好きな私を、へこませるためでしょう』と、考え直したのです。
まあ、グレートトラヴァースは、大変な労力がかけられている番組ですが、北畠八穂が、文学の世界の人なので、日本ペンクラブ会長である、井上ひさしとか、鎌倉ペンクラブ会長である、伊藤玄二郎の二人は、「お前、俺たちの、なわばりに入ってくるつもりか、しばいたろうか」という感情を抱いて、この長寿番組を、企画したのだと、推察しています。
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副題5、『中勘助の【提婆達多】と、幸田文の、【闘】は、構想というか、骨格が大きいと思う。底流に、人間とは何かを、突き詰めようとする哲学が、流れている作品で、私は二つとも大好きである』
中勘助には、【銀の匙】という評判の高い小説があります。夏目漱石に認められて、第二作目であるのにもかかわらず朝日新聞に連載をされます。で、筑摩書房の、黄色い表紙の、日本文学全集、中勘助編を借りて来て、まず、そちらを読みました。が、「別にー」という感じを、受けました。それに、こういう感情を持っていて、一族内に、滞留して居たら、一族内不倫になるのではないですか? などと思って、共感できなかったのです。まだ、中学生だったので、自分自身の経験が少ないわけですから、そういう風に見なしました。
ところが、同じ全集内にある、『提婆達多】を、読んで、圧倒されました。こちらの小説に関しては、感想を、書いて居る良いブログを何本か見つけました。お読みいただくことをお勧めいたします。ともかく構想が大きく、かつ、人間とは何かという追及も大きく、そして、仏教とは何だ・・・・と言う事を、知識としてではなく、その根本にあるものを、教えてくれる、という、そういうところもあり、これは、世界に、翻訳されていくべき小説だと、感じています。世界で、流通し・シェアしてもらいたい小説です。
そして、上は、シッタルダと提婆達多と、二人が主な登場人物ですが、幸田文の【闘】の方も、要領が良く、割り切りも早くて、結核を患いながらも、スキルアップして退院していく男性と、対照的に、凝り性で、心理的に、うまく、変節できない不器用な男性と、二人現れます。舞台は、結核病棟です。提婆達多も、闘の方も、第一の、主人公は、ひねくれているのです。非常に深い劣等感というか敗者意識というか、何とも言えない、複雑さを持っているのですが、『人間って、こういうところがある。絶対にある。ここに描かれているのは、真実だ』と、思わせるところがあるのです。
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副題6、『さて、やっと、今期の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】に登場する宮沢エマの、役どころが、バルザックの【従姉妹ベット】に出てくる主人公と、相似形になっているのではないかと、言う問題に入ります』
上で、いろいろ取り上げた小説は、従姉妹ベット以外は、涙が、あふれ、心が洗浄化される作品です。読後、カタルシスが与えられる作品です。
しかし、従姉妹ベットだけは、一瞬、困惑させられ、最初は、嫌いだと、考えた小説です。しかし、年を取り、経験を重ねるにつれ、バルザックは正しい。ああ言う存在は、この世に確かに、いる筈だと、考える様になって、それは、最初に読んだ時から、50年間、強まりこそすれ、消えることはありません。
従姉妹ベットは、宮沢エマとは、違って、さえない女性で、すでに、50を過ぎて独身です。ただ、富裕な家の、大家族の中に埋没して生きていて、食事とか、最低限の衣装代とかは、なんとなく生み出せるし、親の遺産は、持っている方でしょう。しかし、ただでさえ、さえない風貌の上、当時は、負け組中の負け組だった、結婚できなかった、女なので、きわめて、身を低くして生きています。
ところが、裏側では、一家、一族の全体を支配している存在です。その力は、すべての家族の性格とか、考え方を正確に察知しているところにあります。行動も察知しています。行動の裏に隠されている動機なども、正確に把握をしています。特に若い人をもてあそんで、恋愛に関する忠告を求められると、最初は、それが、見えないが、最後には、不幸になる様な、助言を与えます。それが、真実の姿ですが、周囲は、彼女が、表の顔として、使う・・・・よく訓練され、よくできた人間で、性格美人であり、信頼すべきカウンセラー像・・・・が、彼女の本当の姿だと、思い込んでいるのでした。
バルザックから、大河ドラマの方に移ります。このドラマでは、男性の方では、小栗旬が、主役です。しかし、今のところ、忍耐する場面ばかりです。光が当たっているのは、坂東弥十郎、片岡愛之助あたりです。しかし、結局は、小栗旬が、この一族、及び武士集団の支配者になっていくのでしょう。しかも、とても地味な形で、グループ指導をしながら。
一方で、女性陣の中では、小池栄子、宮沢りえ、新垣結衣などが、今のところの主役です。意味のあるセリフもあり、見せ場もあり、しどころもあります。ところが、宮沢エマには、それらがありません。ただ、あっちこっち、動いていて、視聴者は、TVの画面内で、何度も彼女を見かけることとなっています。私は、これは、彼女が、情報収集をしているところだと、見ています。いっしゅの伏線であり、将来、彼女は、視聴者を、「そうだったのか」と、納得させる方向で、動くはずです。
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副題7、『何か、事をなす場合に、情報収集が大切だと、言う事は、私が住んでいるこの山でも、目の当たりにすることが出来る。私が引っ越してきてからすぐ、この山で、人間関係が難しいのは、安野智紗夫人に原因があり、
彼女が、自分がボスになるために、情報収集をしようとして、毎日午後開く、井戸端会議が原因であると、判断をしました。宮沢エマとバルザックの小説について、長い前置きを書いたのも、その情報収集という件を語りたかったからです。
私は、平木家の南側の家が、1984年に、売りに出されたとき、見に来ています。その家は、なんと、四回も住民が変わっている家なのですが最初の住民(建築した人)が、身分が高いがゆえに、正直で、警戒心のない人で、いろいろ、教えてくれたので、その二年後に、別の家が、売り出されたときには、絶対に近所付き合いをしないで、暮らそうと、決意して、引っ越してきました。子供がすでに、中学生だったので、親が手助けして、友達を作るという時期でもないので、親は、子供のために、動く必要はないのです。それに私は、横須賀時代、すでに、PTA会長をしてきて、450人(幼稚園だが、通園している子供は、470人)程度の女性と、接してきているわけです。だから、専業主婦というものがどういう風に動く、かも、熟知しています。鎌倉では、絵描きになり、かつ、昔から好きだった文章や、詩を書くという、行動様式をとろうと思っていました。そうするためには、ご近所づきあいは、絶対にご法度でした。
ところがある日、、玄関のベルを押す人が居て、出てみると安野智紗夫人でした。彼女は、「子供の友達が遊びに来たので、お紅茶を出したいのです。でも、お砂糖が無かったので、お砂糖を貸してください」というのでした。その瞬間、「きたー」っと思いました。私はバカではないです。で、その瞬間、私が考えたことを言いましょう。
その1)、安野夫人の、お砂糖がないというのは、口実に過ぎなくて、ただ、ただ、私を井戸端会議に誘い出したいだけであると。本当に子供を愛していて、ご近所迷惑を避ける方向で考えるのだったら、お菓子と緑茶を出すので、十分である。どうして、中二にもなっている男の子をそこまで甘やかすのだ。しかし、口実をはがして裏側の真実を語れば、彼女は、井戸端会議を強化するために、我が家にお砂糖を借りに来たのだった。井戸端会議は、情報収集の場でもあるが、そこで、ヒエラーキーを作り、村八分を作り出し(当時は、藤本昭氏夫人悌子さんが、いじめられていた最中だった)、それによって、22人の生きている主婦の中で、自分がボスと、なるための、作業場所だったのだ。ただ、世代が、二世代ぐらい上の主婦もいてそれらは、参加を免除されていた。また、9時から、5時までの、勤務が、有るという主婦もいて、それらの人も、参加は免除されていたので、彼女が参加させたいと願っているのは、11人だけだった。が、その中で、私の主人の日産自動車・研究所の仲間が、10人も手伝いに来てくれた我が家の引っ越しは、非常に派手なものだったので、彼女は、私を意識せざるを得なかったのだろう。当時は引っ越し業者というのは、トラックを運転するぐらいが、せいぜいの仕事で、物を運ぶのは、引っ越す方の、人間の義務だった。その上、彼女は誤解をした。私がその井戸端会議に参加をしないのは、ビビっているからだと。だから、親切にこっちから、手を差し伸べてあげましょうと、言う感じで、「お砂糖を貸してください」という口実をもって、やって来たわけです。
その2)、ひそかにそうではないかと、以前から思っていたが、これで、推察が、100%、正確だと分かった。彼女は、略奪婚の人であって、ここに引っ越してくる前までは、子育ても、したことがないし、専業主婦として、暮らしたこともない・・・・・と。子供を自分の手で育てると、様々なトラブルにも直面するが、それで、女性は賢くなる。彼女は、ご近所主婦の時間をdisturb してでも、自分の子供の方を上にしているがそんなことが通らないことは、未就学時代までに、嫌というほどに、自覚をさせられる。彼女の子供は、既に中学生とか、高校生になっているのにそれが、わかっていないとは、変です。
その3)、現代・・・・・1960年代以降の、ブランド住宅街の、不文律として、秘められた競争社会でもあるので、お砂糖を貸してくださいとか、お醤油を貸してくださいとは、自分が主婦としてだめな女であると、告白する様なものだから、普通の人なら、絶対にやらない。それに、15分も歩けば、大きなスーパーがあるので、自分の努力で、他人を煩わせないでも、解決できる。彼女は、よっぽどの下町で、木賃アパートで育ったのか、それとも母親がいなかったかのどちらかだ。ともかく、橋田寿賀子のドラマを見ていると、想像できる。そこでは、そういう形が、展開しているのだろう。
しかし、そういう主婦は、現実には、すでにどこにもいない。橋田寿賀子さん自身、熱海の豪邸に住んでいて、ご近所付き合いなど、していないのだし、それ以前だって、脚本家としてプロになるために、ご近所付き合いなどしていたら、成れっこないのだから、彼女の描き出す主婦像とは、架空の物であり、現代日本のどこにも存在していないものなのだ。
で、私は、「私はそういうお付き合いは致しません」と言ってお砂糖を貸すのを断りました。
橋田寿賀子さんのドラマの中で、お風呂屋さんが、舞台になっているものがあったらしい。ところで、我が家には、本当の、元、お風呂屋さんのおかみがお手伝いに来ていた。だから、余計、安野智紗夫人の思い込みが間違っていると、わかる。
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副題8、『このブログの世界で、・・・・静岡県から、ひとの紹介で、来てもらった、元バレーボール実業団、ユニチカの選手が、女中さんとして住み込みで働いていたことがある・・・・と、すでに書いて居る。彼女は、静岡に子供も置いて来て離婚をしてきたそうで、世慣れていたし、セックスアッピールも強いし、金銭に関する欲望も強い女性だった。で、父を相手に略奪婚をしそうだったので、当時中一だった私が父に「あの人には、やめてもらってちょうだい」と言って父が私の言う事を聞いてくれたので、危うくセーフだった。危機一髪だった。もし、日曜日に、二人がラブホとか、シティホテルで、セックスを交わすほどに進展をしていたら、私の方が、母と妹と一緒に追い出されたであろう。弟の事は、明治生まれの父が、長男として大事にしていたので、彼女は、引き取るつもりになっていて、7時ごろ母が帰ってきても返さなかった。私は、母が悲しそうな顔をしているのを見て、たまらなくなって、父に現状を訴え、抗議したのだった』
つまり、私は、13歳のころから、略奪婚を目指す女性を身近にみてきたわけです。30年後の、1984年に、こちら、鎌倉雪の下で、安野夫人を見たときに、その小太りな感じ、セックスアッピールの強さなどなど、で、あの元ユニチカの選手だった、40代の女中さんと、そっくりだから、そこからも、彼女が略奪婚の人であることを理解をしたことでした。
父は、木曽ヒノキで、日吉の家を作りたいと考えていて、静岡県の営林署に出入りしていて、静岡県に、知己ができていたのです。で、父が引っ張ってきた女中さんが、大失敗だったので、母が自分で探すことにしました。それは、だんだん上手になって、女医さんに紹介してもらうなどという形で、高齢の、上品な人に、5~10年務めてもらうという形になったのだけれど、そういう風に定着する前に、ご近所に住んでいた、元、お風呂屋のおかみさんという人に来てもらう時期があった。
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副題9、『元お風呂屋さんのおかみさんは、増田忠さんが、インテリ中のインテリであることを理解できなかった』
このご近所様だけれど、東急が開発した分譲地に住んでいるわけではなくて、そこのインフラを利用して付属みたいに、開発された、より小さな、区画の土地を二つ買って、二つの家を建てて、一家眷属という、大家族が一緒に住んでいる、そういう家の奥さんだった。東京の蒲田とか、横浜の鶴見とか、昔は、小さな町工場がいっぱいあった下町で、お風呂屋さんを、経営していたのだけれど、空襲で、焼け出されたので、日吉に引っ越してきたと、言う一家だった。
お風呂屋が立っていた土地が借地だったのだろうか? それとも、すでにお風呂屋さんは斜陽な職種であると判断をして、子供さん方を大卒サラリーマンにしていこうという趣旨だったのか? どちらかは知らないが、昔は、派手な暮らしをしていたわけだし、子供も、もう中学生以上で、大きいのでそれだけ手がかからないから、お手伝いさんでもいいから、働いて、収入を増やそうと言う事だったと思う。
そのお手伝いさんは、最近、急に実名が登場してきた、増田忠さんの家に、週に三日、我が家に週に三日来ると言う事だった。それは、お互いのプライヴァシーを守るという意味では、危うい選択だったが、そのお手伝いさんも、戦前は、一国一城の主だったわけだから、バカではなかろうと、判断をしてお願いをしていた。そして、母は、住み込みの女中さんに懲りていたので、父の会社に出勤をすると言う形を避けて、自宅で、父の会社の経理を行う事になった。自宅で行っているからこそ、ご近所様にも、分担してもらう事となった。そのお願いしている家のお嬢さんが、カリタスに、進学した。これも、カリタス小通学バス、襲撃事件が起きた、理由の一つだけど、ここでは、そこには踏み込まないで置きたい。ただ、この奥様を寺沢夫人という。そのお名前は、ここらあたりで晒した方がいいかもしれない。ただし、カリタス小通学バス襲撃事件が起きた時には、すでに、寺沢夫人は、亡くなっていた。
そのお手伝いさんは、確かに増田さんの家で、どういう種類の、どういいうランクの、牛肉を買っているかとか、言う部分のプライバシーには、触れなかった。ある程度は賢い人だった。しかし、彼女にとって、これは、面白い。笑っちゃうわと、思う出来事は我が家で、話をせざるを得なかったみたいだった。
これから、そのエピソードを語りたい。「ねえ、奥さん、増田さんちって、小さな掲示板があるんですよ。そこにね。パパが、<<< ママ、靴下に穴が開いているから直して置いてください >>>と、書いた紙が貼ってあるのよ。ぐわっ、は、は」と。
その時の笑い方って、本当に豪快だった。だが、母は、すぐさま、それを嫌がって、彼女の妹さんに、彼女の代わりを、お願いをして、週に、六日来てもらう様にして、おかみさんを、傷つけずに、上手に出入りを断った。
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副題10,『増田家の、お子さん方は、婦人之友の口絵写真に、子供服のモデルとして載っていた。私の母は、ずっと、婦人之友をとっていたので、私は、小学生時代に、すでにそれを見て知っていた。ずっと後で、大学時代の、友人の一人が、これまた、親、または、お子さんが洋服のモデルになって、口絵写真に載っていた。
私の母は、結婚して以来、ずっと婦人之友をとっていたが会員登録はしていなかった。だけど、もし、会員登録をしていたとしても、私や、私の兄弟が、婦人之友の口絵写真のモデルとして、採用されることはなかったと思う。それから、もし私が、母に引き続いて、婦人之友をとっていて、会員登録をしていたとしても、私の子供が口絵写真のモデルになることはなかっただろう。だから、増田さん夫妻は、神戸育ちで、朝ドラ、【べっぴんさん】のモデル級、または、須賀敦子の実家クラスのお金持ちだったと、推察している。で、そこからも、忠さんのバイオリンが、ストラディヴァリウスか、グヮルネリだったと、推察するのだった』
これは、本当に象徴的な出来事だった。1945年に、士農工商の、カーストは、廃止になった。しかし、依然として、階級が残っていることを証明する出来事だった。こういう部分を文化資産というらしい。増田さんは、文化資産が高い家のお坊ちゃまであり、ママもその手のお嬢ちゃまだった。その上、ご長女様が、小学校五年生の時に学芸大学付属小学校へ転校した。これも、とても不思議なことだった。小学校一年の時に、試験を受けて入るという形が普通で、中一の時にも再び募集があって、入学の機会が訪れる。しかし、小学校4年生か5年生の時の編入は、普通はない。あれ、変だなとは思った。ともかく、この時点で、編入が可能なのだから、増田家は、ものすごい上流階級だとなる。そのころ、私は、むろん、CIAエージェントたちに目をつけられてはいない。だから、これは、平木家とは違う。昭和天皇の御料車を、設計したという点で、天皇家? または、宮内庁が動いた? うーん、よくわからない。
ともかく、増田忠さんは、日産自動車・村山工場を引退した後で、自由が丘か、田園調布で、どこかの富裕なお宅の応接室で、サロンを開いて、上流マダムを相手に、クラシック音楽の口座を開くほど、クラシック音楽に関する知識は、豊富で、ヴァイオリンも、上手で、かつ、ディレッタントといいって良いほど、博学な人だった。
それで、雰囲気はショパン風で、本当に上品だった。私は、増田さんのパパ=忠さんには、とてもかわいがられていたので、忠さんが、毎晩、居酒屋で、飲んでから家に帰るのを知っていた。「千恵子ちゃん、僕、大きなストレスがあるのよ。だから、毎晩飲んでから帰る。僕ね、工員さんと一緒に飲むのは好きなの。とても解放される」と、言っていた。だから、夜11時から、バイオリンを弾くというわけだった。だけど、ものすごくいい音だったので、ご近所は誰も文句を言わなかったのだ。でも、ママとは、毎晩会わないで、過ごすという形だ。だから、メモ用紙に、「ママ、靴下直しておいてくださいね」と、パパが書いていたとしても、私は、それは、別に変わっているとも思わなかった。しかし、元、お風呂やのおかみさんだったある時期の我が家のお手伝いさんにとっては、奇妙極まりない事だった。こういう風にして、文化遺産というものが影響して、言わず、語らず、階層ができているのだった。私は、小学生にして、そのことに気が付いていた。
私は、小学生の時から忠さんには、かわいがってもらっていた。日吉の街中でだ。そして、中学時代は、東横線では、反対方向に進むので、邂逅は無いのだが、高校大学、そして、東大勤務時代は、私は北へ向かって進むので、よく日吉発の電車の中で、隣に座って、いろいろなことを教わっていた。だから、増田さんが、奥さんへメモで、連絡をするのは、全く、受容出来ることで、笑うべきことでもなかった。
しかし、鎌倉雪の下に引っ越して来てみたら、安野智紗夫人が、橋田寿賀子ドラマを真似していて、
驚くほど、文化資産が、低い生活を送っていた。で、略奪婚の人だから、前の奥さんを追い出した時点で、道徳という、バリアーを破ってしまったので、普通に、専業主婦を送ってきた主婦だったら、絶対にしないことを彼女はやるのだった。それで、私は、鎌倉へ引っ越してきてから、予想外の生活を余儀なくしなくては、いけないこととなった。