今、11月5日の、22時30分ですが、この一文の推敲が終わりましたので、恒例の△印を総タイトル横につけさせてくださいませ。なお、二万字未満で、完成したので、久しぶりに目次をいれます。
副題1、『今、路線バスを、あっち、こっちで、研究中ですが?』
副題2、『生涯で、初めて、朝、JR久里浜駅からバスに乗り、気が付いたことがあった』
副題3、『ところが、グーグル地図で、検索しても、それ(=障碍者が、共同作業をする場所、あまね)が、出てこないのだが?』
副題4、『JR久里浜駅のバス停では、入り口で、ほかの子を<乗っちゃあだめ。歩け>と、言って押し戻す子が、いたのだが』
副題5、『あまね共同作業所は、学校(教育施設)ではないのだが?』
副題6、『ふと我に返って、鎌倉と、横須賀のブランド力を比較する私だったが?・・・・・実際には、横須賀の人も優しかった』
副題7、『笠松敦子さんのことなど、すっかり忘れていたのに? これは、きっと神様が与えてくれたチャンスでしょう。書くべきでしょうね』
副題8、『本日は、一日中、間が悪いことの連続であり、運が悪いこと、おびただしい一日でしたが、私自身は、超さわやかな気分であり・・・・・』
副題9、『午前一時に、さらに補筆』
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副題1、『今、路線バスを、あっち、こっちで、研究中ですが?』
私は11月5日の水曜日の朝、鎌倉の自宅を7時半に出て、JR久里浜駅に、午前8時半ごろ到着しました。普通はその後で京急久里浜駅に向かい(少々歩くのだが)、京急線で、一駅ほど、北上して、北久里浜という駅に向かいます。そこで、降りて、今リフォーム中というか、ブラッシュアップ中の古い持家に向かうのですが、途中で、ケーヨーデーツーというホームセンターやら、ニトリという家具ショップが、国道136号線沿いにあるので、『どうにかして、そこに寄りながら、自分の古家に向かいたいものだ』と思っています。
鎌倉の家が階段で上がる山の上に存在しているのでは、なかったら、自動車会社に主人が、勤務していたのですから、一生自動車を手放さなかったと思うのですが、そちらに、自宅用の車庫がないので、車は持っておりません。月ぎめ貸し駐車場は、近所にはなく、3分ほど離れた喫茶店、『こかげ』の前の駐車場に、もし、空きがあったとしても、2万円以上だと思われるので、借りることが、お金がもったいなくて、できません。だって、車を持ったって、月に一回も使うかどうかという、生活スタイルですから。
で、車がない人間なのですが、北久里浜というのは、見事に車社会に適応した町であって、横須賀の携帯会社が、4社も軒を連ねているぐらいであり、ダイクマというショップも道路沿いにあるらしくて、車を利用する人には、便利な場所らしいのです。三浦半島の城ケ島まで、通じる道路が堂々と、とおっているわけですし。
ただ、歩いて行動する人には、不便ですから、私は、工夫に工夫を重ねて、ホームセンターによりながら、自宅(旧宅)へ、いかに、時間とエネルギーのロスが、少なく、辿りつけるかを、研究しつつあるところです。
路線バスって、マスターするととても便利なのですね。東京でも、意外な路線バスがあって、それを利用すると、六本木へ行き易かったりするのです。
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副題2、『生涯で、初めて、朝、JR久里浜駅からバスに乗り、気が付いたことがあった』
2014年の11月に入って、初めて、朝、JR久里浜駅前のロータリーから出発する路線バスに乗ったのです。本日のことではないですよ。会社は京急です。すると、気が付いたのは、大川通りというバス停で降りる青年たちに、特徴があるということでした。ダウン症だと見える(または、わかる)青年たちです。
私は直観として、この近所に福祉施設があるのだろうと思いました。私の友人に笠松敦子さんという女性がいて、編集者としては知る人ぞ知る人だと思います。図書館に納本する類の豪華な箱入りの名著、たとえば『失われたときを求めて、新訳)』などを担当している人です。
今、グーグル検索をかけると、昔はもっとあった、彼女自身の項目が、ひっそりと引っ込んでいて、私が書いた一文が、第8位の検索部門に見つかった次第です。(後注1) これも、例の敵さんたちが引っ込めた、一種の策略だと思いますが・・・・・
彼女のお子様が、40年前に障害があるとわかり、彼女は、正規の出版社づとめを、リタイアして、在宅の編集者となり、一方で、福祉の充実を図る運動をすすめるひととなりました。
彼女の言葉の中で、光あるものとして記憶をしているのは、『それを育てる力のない家庭には、障害児は生まれない』というものです。で、1970年代当時には、高校を卒業すると、行き場のなかった、障害児に、高校卒業後に、通園できる施設を作ろうとする運動を、仕事と並行してなさったのです。
私はその種の施設が、バス停大川通りを、東側に入った地域にあるのだと、推察しました。一回目は、3人の青年たちが下りていき、二回目の本日は、二人の青年たちが下りていきました。
笠松さんが、作り出したのは、狛江市にあるものですが、久里浜にもできたのだと、喜びました。慶賀に堪えないと思いました。一人の個人の思いが、全国的な規模で展開するということに。
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副題3、『ところが、グーグル地図で、検索しても、それ(=障碍者が、共同作業をする場所、あまね)が、出てこないのだが?』
大変重要な施設だと思うのに、グーグルの地図で、検索してもそれが出てこないのです。不思議なことだと思いました。そういう施設の存在を知らない人に、教えてあげて、そこで、作っているものを知り、注文を出したりしたらいいでしょう。それなのに、グーグルの地図にそれが載っていない。グーぐるって、とても、変なサービスだなあと思います。
で、そういう施設を作り出した、笠松敦子さんの頁を探しました。そこから検索が、可能かもしれないと思ったわけです。しかし、2007年ごろは、いっぱいあった、彼女の名前を主役にした検索項目が、ほとんど見当たらず、かろうじて、バオバブという施設名の紹介欄に、彼女の名前が、見えたのと、後注1で上げている、私が書いた文章が、出ているだけでした。しかも、笠松敦子という項目で、過去にアタックしたのは、139回だけだったそうです。
ここが、副題7以降で、重要な項目となっていくのですが、ここでは、ただ、単に、施設名がなかなか見つからなくて、いろいろ苦労をしたという話で終わらせてくださいませ。
で、さんざん苦労をして、『違うかもしれない。民間企業で、障碍者を、雇用することに熱心な企業が、あそこら辺にあるのかもしれない』と思い始めたころに、『そうだ、横須賀市に電話をかけてみよう』と気が付きます。しかし、北久里浜には固定電話が通じていないので、無論のこと、電話帳はありません。だが、幸いなことに、スマホを持っています。長らくそれを携帯しないこととしていましたが、今、主人とこのリフォームの件で、しょっちゅう連携を取る必要があり、スマホは、持って外出しています。
しかもありがたいことに主人と一緒だと、ワイファイが、利くのです。それで、北久里浜に置いてあるパソコンで、横須賀市のホーム頁に入ってみて、電話番号を探そうと渡来しました。しかし、電話番号よりも、先に、この施設へたどり着きました。
あまね共同作業所、横須賀市、舟倉1-12-1と、出ていました。あまねとは、天の音と書いて、あまねと読ませるらしいのです。それがわかったのちに、ヤフーの地図で検索すると、きちんと出ていました。「グーグルちゃん、ダメねえ」と言っておきましょう。
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副題4、『JR久里浜駅のバス停では、入り口で、ほかの子を<乗っちゃあだめ。歩け>と、言って押し戻す子が、いたのだが』
京急バスとは、後ろの扉から客を乗せるシステムになっています。私が乗った時には、前方の椅子はほとんどが埋まっており、私は運転席に向かって左側のドアそばに座りました。その時に、左側に座っている青年が障害者だとは、気が付きませんでした。バスは発車まで、5分程度停車していて、次の電車かバスが来たらしく、新しい乗客が、3人程度、乗ってきました。
その時に、私の左側の席の緑色のジャンパーの青年が、つと立ちあがって入口まで行き、ステップに足をかけている、赤いジャンパーの別の男の子(18歳は優に超えている背の高い子)を、左腕で、押し戻しながら、「歩け。乗っちゃあいけない。歩け」と命令しました。その時に初めて、乗ろうとしている子もダウン症であり、乗せないと、意地悪をして、押し戻している子もダウン症であることに気が付きました。
どういうことであろうかと、一瞬戸惑いました。でも、非常に勘が鋭く、理解力も確か・・・・・(自慢をしているわけではなくて、ただ、説明上、そう書くだけですが)・・・・・な、私は、障害の程度が、二人の間に差があり、いじめている子が、より、知能が発達しているから、よりトロい子を、いじめているのだと、考えました。
それで、その場所より、1.5mは、離れていましたが、席に座ったままで、子どもへともなく、大人へともない言葉づかいで、「あのね、いじめちゃあ、ダメでしょう」と、呼びかけました。決して大きな声ではなくて、静かな声で、呼びかけました。「歩くの、大変でしょう。乗せてあげなさいね」とも、言いました。
右腕で、バスのドアそばの縦の鉄の柱をしっかりと、つかみ、左腕で、力いっぱい相手を押し戻している、緑色のジャンパーの子が、こちらを見ました。私は、自分の声が届くことを、なぜか確信をしていました。ソプラノで歌える私の普段の声は、高いのですが、極めて低く聞こえるように、話しかけました。二度目に呼び掛けたころ、その緑色のジャンパーの子は、手を緩めました。それで、赤いジャンパーの子は乗車し、後ろの方の席に座りました。
緑色のジャンパーの子は、また、元の席(=私のすぐ左側)に座りました。私はこういうところが障害児(または、大人の障害者)の良いところだと思うのです。ある一つのことには、こだわる。でも、健常者みたいに、二重、三重に気をまわして考えません。健常者だったら、『う、あの婆あメ、俺に恥を掻かせやがって。殴ってやろうかな?』とか、考えかねないでしょう。そこまで考えなくても、『いやな奴目』と、思えば、私の隣には戻らないでしょう。そこには、座らないでしょう。でも、緑色のジャンパーの男の子にとっては、私は、不思議極まりない、人間だったと思われます。彼には、今まで、「自分より弱いものへ、同情をしなさい」とか、「憐憫の情というものを学んで獲得をしなさいね」ということを教えてくれる人がいなかったのでしょう。でも、いやな存在とは見えなかったらしいです。彼は怒っている様にも見えず、いらいらしている様にも見えない形で、私を見つめた後に、私のすぐ隣に座りました。
そして、大川通りというバス停で、降りていきました。彼が運転手さんに見せたのは、透明なラミネート加工したパスであり、障碍者の人特有の無料パスの様でした。赤いジャンパーの子も続いて降りていきました。『よかった。歩かないで、済んで』と私は思いました。
その時点では、彼らが通所しているところが、公的な施設か、民間の会社かはわからなかったので、ともかく、遅刻すると叱られる場所かもしれないから、バスに乗ることができて、本当によかったです。
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副題5、『あまね共同作業所は、学校(教育施設)ではないのだが?』
いえね。ダウン症であったって、または、ほかの障害があったって、家庭の雰囲気がよかったら、憐憫の情や、同情心の厚い子はできると思います。特にダウン症は優しい心構えの子が多いと聞いています。
で、どうして、あれほどの意地悪をしたのかが不思議です。通所先で、どういう生活がまっているのだろうと、不思議です。そして、気がかりでもありました。障害児、および、障碍者への教育は、今のところ、高校まででしょう。それ以降は、教育の場がありません。無論のこと一芸に秀でていて、それ相応の大学とか専門学校へ通う可能性のある子もいるでしょう。だが、今日彼らが向かった、その通所先には、教育の義務はないのです。
そこが、公的な場所だとしても、そこに、勤務している健常者の人々にとって、そこは、横須賀市から、お給料をもらう立場の場所ですから、高度すぎることを求めてはいけません。
だが、通所者の定員が、20名というその施設で、あの、二人は、どういう風に昼間過ごしているのでしょうか? 「バスには乗せないぞ。歩け」と、言うぐらいですから、昼間作業中にもいじめがあるとも、推察されます。
グーグルのストリートビューでは、その施設は、平屋らしく、しかも、大きくはありません。もし、同じ部屋で、作業をするとしたら、作業中にもいじめはあると、考えた方がいいでしょう。この施設は、重度の人のお風呂サービスなども行うみたいなので、スタッフは忙しいと推察されます。だから、私は二度目のこととして、勤務しているスタッフには求めないものの、心配で、赤いジャンパーの男の子のお母さんは、これを知っているのだろうかと、思うのです。『自分の子が、施設で、いじめられていて、バスにも、乗せてもらえないことを知っているだろうか?』と、考えて。バスのほかの乗客は、全員そっぽを向いていて、知らん振りなので、私は自分の心中にある複雑な思いを、誰にも、言えず、ただ黙っていただけですが、心底から、いろいろな事を、考え込みました。
そして、ここで、盛岡駅のトイレで、首つり自殺をした鹿川君のことを思い出すのです。上等なモカ(または、ミルクコーフィー)色のアンサンブルを着て、テレビカメラの前に何度も姿を現したお母さんから、鹿川君は、愛されていなかったと、私は見ています。面倒も見てもらっていなかったはずです。お洋服も汚かっただろうし、お弁当も質素だっただろうし、髪の毛さえ、自宅カットもしてもらえなければ、散髪代ももらえなかったと推察しています。
自宅というシェリターの中で、親に愛されなかった子が、学校という共同社会でも、また、いじめにあうのです。でも、担任さえ巻き込んでお葬式ごっこなどといういじめが行われ、社会がそれに対して怒ったので、お母さんは、いってんしてマスコミでは、勝者扱いになり、テレビカメラに追い回されて、そして、それを、うれしがってもいるらしい、態度。そういうこと全体をあわせた不合理。そして、不条理。
だけど、世の中って、そういう風にできているのですよ。神様は確かにいらっしゃるのですが、神のご愛顧に、まだ出会えない存在も、確かにいるのです。気の毒だし、哀切極まりないが、いるのです。
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副題6、『ふと我に返って、鎌倉と、横須賀のブランド力を比較する私だったが?・・・・・実際には、横須賀の人も優しかった』
ここに書いたエピソードが実際に完行したのは全体で、五分ぐらいです。私が奇妙に感じたのは、バス中の乗客が、私とその緑色のジャンパーの男の子との、やり取りに、聞き耳を立てているのにもかかわらず、絶対に、こっちを見ようとはしないことです。これが鎌倉のバスだと違うのです。奥様連中が、じっと、こちらを見つめてくれていて、もし、目顔で、私が話しかけると、目顔で答えてくれます。または、言葉でも、あれこれと支援の言葉を添えてくれます。それが鎌倉マダムの余裕と、見識だといえばいえるでしょう。
ある日など、いじめとは関係がない話題でしたが、お子様が、二人とも医者なので、「自分は、世界中を旅行して歩いていて、すでに、70か国に行きましたし、来週から、マダカスガルへ行きます」という奥様にも出会い、いろいろ、お話を聞きました。
それで、ふと、現実にかえって、『うーん、民度が違うのかなあ? どういう風にしても(というのは、投売りに近い形で、安くということですが)、北久里浜の家を、手放した方が、いいのかしら? そのお金で、有料老人ホームへ入る?』と、思い直すのでした。鎌倉の家は、車の入る道路から132段の石段を登る場所に位置しているので、車椅子生活に入ったら、暮らせません。今のところ、北久里浜の家に引っ越すのが、どういう形の棲家に比較しても、一番安上がりです。固定資産税と、光熱費だけ払えば、それ以外の出費は、食費だけで済みますので。だから、キープしようとしているのに、『久里浜の人たちは、心がないのかしら』と、思えば、『こちらの家は売るか?』となるのでした。
これは、電車の中でも同じなのです。横須賀線のボックス席の中では、すぐ、知らない同士でも打ち解けあうことができます。それは、奥様連中に自信があるからなのです。だけど、同じことが京急の車内で、成立するかどうかは疑わしいです。
赤いジャンパーの男性と、緑色のジャンパーの男性が下りてから、私が下りる予定にしていた、舟倉というバス停までは、一分もありません。そのたった一分間に、目の前に、私とは、90度の角度をつけて座っている女性がいて、彼女が、メガネをはずして、その曇りを指で、ぬぐっていることに気が付きました。その時、今まで潜在意識の中でしか見えていなかった、その女性が、数十秒前に、涙を同じく指で、ぬぐっていた姿も思い出しました。
でも、バスが所定のところに到着したので、私は彼女に話しかけることは一切せず、バスを降りて、目的のお店に向かいました。しかし、そこまで、行くと、なんと、一時間も開店を待たないといけないそうです。鎌倉から電話をかけて、8時半開店だと、聞いたはずでした。が、それは、カンブリア宮殿という番組に出てきた、lixil 経営の、専門家向けホームセンターの始業時間と、ごっちゃになって、間違えて覚えていたらしい時刻で、素人向けのここのお店は、午前九時半に始まるのでした。
『今日は、大変な無駄骨だった。ともかく、仕方がない』と、とぼとぼと歩きながらも、新しい企画を思いつきました。北久里浜駅殻歩いて、3分のところの崖に、設置された、地上から、6階分の、高さまで一気に上昇させてくれるエレベーターの入り口まで、主人に、自転車で、迎えに来てもらい、自分が、今手に持っている、鎌倉から持ってきた重い荷物だけは、運んでもらおうとして、スマホから、主人に電話を入れました。すると、なんと、エレベーター用のパスを、彼は、忘れて来たんですって。そのエレベーターはただでは乗れないのです。特別なパスが必要なエレベーターなので。で、大笑いです。
『今日は、なんと間が悪いんでしょう』と、結局はタクシーを呼び出すことになるのです。が、その6時間後の今、主人に通じさせてもらったワイファイを利用して、このブログを北久里浜の旧宅で、書きながら、『今日は、損もしたけれど、得もありましたね』と、思い至ってているのです。美しい心のご婦人にも出会い、シャイな日本人特有の、声には出さないものの、本当に優しい思いを見せてもらいました。つつましく、ひそやかで、ただ、涙をほろほろと流すだけで、ご自分の深い思いを、私に垣間見せてくれた人。朝の八時半にバスに乗っているということは、この舟倉一帯にある会社に勤めている主婦にして母親でもある人でしょう。ニッポンの典型的なおかあちゃんです。つつましい人。
彼女が考えたであろうことは、私も考えたことです。
障害児が自分の家庭に生まれることの意味、そして、育てることの大変さ。そして、そして、と、続く数多い思いがあり、それは、ここに書いたものの、数倍に当たります。それを私と彼女は共有をしたのです。そして、その涙を見た、7時間後、この文章を書きながら、私も涙を流していました。
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副題7、『笠松敦子さんのことなど、すっかり忘れていたのに? これは、きっと神様が与えてくれたチャンスでしょう。書くべきでしょうね』
ここから、突然にムードが変わります。創作と編集の違いと、それから翻訳と創作の違いと、有名な実績ある出版社に所属をすることと、私の様に無名ながら、実質的に読者に面白いと言っていただける人間と、どちらが、上なのかという話に入っていきます。****罫線より上は、童話みたいな美しい話でありましたが、こちらは突然に、醜い政治の話に入って行きます。
というのも、ここで、友情を壊されてしまった、大切な友との、別れの話に入っていくからです。彼女、笠松敦子さんには、長年(ほぼ、30年以上にわたって)仲良くしてもらってい手、鎌倉の家まで、遊びに来てもいただいているのに、この数年、ひどい措置を取られ続けています。
それは無論のこと裏があるわけで、典型的な、友人引っ剥がしの実例にあたります。その上に、それに、彼女が乗りに乗ってしまっていることが問題なのです。彼女は、ここ、五年ほど、それが信じられないほどの、上から目線で、ものを言いはじめ増した。いじめている人は常に、自分がいじめているという意識がないでしょうから、ご本人は気がついていないかもしれませんが、明瞭に縁を切ろうとしているのは、感じます。その流れで、私の方では、豚扱いをされていると、感じています。それ故に、大変、残念ながら、これからの、数章を書かざるを得ないのです。復讐というわけではなくて、神様が、その機会を、今、あたえてくれたと感じていますので。
というのも、グーグルが素直に、拡大率、50m近辺で、あまね共同作業所という固有名詞を明らかにしてくれたら、笠松敦子という項目で、高卒後の障碍者が、かよう施設名を調べる必要はなかったのです。ヤフーの地図を後で念のために、引いてみると、拡大尺が、20mのところで、きちんと、尼ね共同作業所が、出てきました。ヤフー地図を先に調べると、こういう展開にはならなかったでしょうが。
下の後注1にかいている通りで、箱入り上製本の、『吉田秀和エッセイ集』が送られてきたときにすべては読めました。笠松さんは、仕事上の上司、または、仕事上の人脈を利用して、私から離れる様に、徐々に徐々に、馴致をされていった人なのです。
お金と仕事上の名誉を与えて、友人を、私から引っ剥がすという手法は、ほかにも何人もの人物に適用されている手法です。この文章を、神への捧げものとして、書くゆえに、許されると思うのですが、もっとも、敬愛している人物が、その様に、私を裏切ってくるという、拷問にも似た、いじめと弾圧を受けています。それも、また、五億円の被害の一つではあります。
今、神奈川県立文学館で、須賀敦子特集をやっているそうですが、そちらも川名昭宣君(書きかけて中断をしているICU動悸のこれまた、有名編集者)と関係があるのではないかな? ただ、川名君は、別に親友でもないので、「あ、そうですか」という程度の傷ですが、笠松さんから受けた傷は大きいです。
ところで、上にJ-pegを挿入しています。そこに、139という数字が見えますね。彼女は、私に向けて、「ブログは、やめなさい」と、強調しました。「その時に、「私もネットの世界に名前が載っていますが」という言葉が添えられました。で、そのネットの世界で、彼女を検索した過去の人間がいて、そのヒット回数は、139回ということです。これが嘘の数字か本当の数字かは、わからないのですが、
なんとなく、『あれっ、彼女は、あのころから、私を、裏切っていて、ブログを開設させない様に、動いたのかしら? どこからか、<彼女には、絶対にブログを開設させない様に>と、頼まれていたのかしら?』と、疑わざるを得ない数字ですね。だって、139回しか他人および五字分が訪問したころがないのなら、ブログの弊害の何たるかは、わかっていないも同然です。私は、1999年から、パソコンでメルマガを配信することを始めており、最初は、他人に苦労話をしなかったものの、すさまじい妨害をうけ続けて来ています。
すさまじい努力と勉強法で、それを乗り切ってきています。一方で、彼女の方は、その仕事ぶりを見ていると、伊藤玄二郎や、井上ひさし氏側に立っているのが、微妙にもわかりますから、ブログを開設されると、超、困る側の、人間の仲間内と、今はなっているのです。たとえば、メルマガを配信していましたので、私が吉田秀和段とは何度も、電車や駅で、出会いがあって、云々、かんぬんとかいているのですから、「吉田秀和さんのご葬儀に、一緒に行きましょう」といってくれてもいいでしょう。だが、その知らせはありませんでした。
2007年ごろの、ブログ開設時に、「あなたは繊細な人だから、ブログの世界などの、修羅場には耐えられないわ。やめた方がいい」と、口を極めて言ってくれた彼女が、そのときに、本当に私を心配してくれたのか、そうではなかったのか、今では、交流がないので、質問するわけにも行かないのですが、すでに、そのときに、あちら側に立っていた可能性も感じています。ともかく、今、現在は、私の敵側陣営の一員です。残念ながら、そういうこととなっています。
私は、2011年の9月に、訪問回数が、ふと、PVという数字に気がついたし、グーぐる検索でも、そのときにすでに、98万回を超えております。そのことを、このブログの世界か、メルマガかのどちらかで、書いた途端に、数が、36万5000回に減らされて、そのまま、ずっと、四年間据え置きです。だから、毎日、数えて、その実数をここに記載しています。
上にはうっすら、かつ、ぼんやりと、766万回という数字が映っています。これは、2011年の秋に撮影したものです。それ以降も莫大な数の訪問回数がありますので、別に、数を誇示する、必要もないですが、すさまじい世界とも、このブログはすでになっているのです。大変な苦労と努力の上に到達した世界ですが。
尚、グーブログ側が、教えてくれる数字があり、それを、毎日積み重ねています。それは、本日までのところ、2564696です。なお、ここで、北久里浜の家から外出をしないといけないこととなりました。ある意味で、書ききれていないと思います。笠松敦子さんの部分については、25%ぐらいしか、書けておりません。もっと深い内容に構成できると思いますが、本日は、ちょっと与えられた天からのチャンスを生かして、彼女がどれほど、ブログの開設を反対したのかを、語りたいと思いました。彼女自身はブログを開設していないのですよ。それでも、「私は、自分の経験から、考えて、あなたのブログ開設には、反対する」と言ったのはなぜだったのか? 疑問はいっぱいです。友達を裏切っても、上司は大切だということなのかしら。?!?!? そうなのでしょうね。そういう価値観なのでしょう。残念です。
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副題8、『本日は、一日中、間が悪いことの連続であり、運が悪いこと、おびただしい一日でしたが、私自身は、超さわやかな気分であり・・・・・』
さて、上の行まで書いて、午後4時55分に北久里浜の家を出て、6時15分に、京急から乗り入れた都営浅草線の新橋駅に着きました。だが、残念なことに、汐留のパナソニックビルを出たところで、歩道橋を、どこで降りていいかが、わからなくなって、なんと、25分もロスしてしまい、二回目の銀座訪問で、またまた、取り残す画廊が出てしまいました。三回目の銀座訪問をしないといけない週なんて、本当に損ばかりの一日でした。
だがね、気分は晴朗なのです。夜、もう一回北久里浜に行って、泊まり、今夜と明日に、作業をするつもりです。昨夜は、4時間しか寝ていないのに、元気いっぱいです。
でも、ありていに言って、内心では重いものもあるのです。『今日は、本当は、<別に、書かないでもいいこと>を書いたのではないかしら?』とか、『私が内心で、どれだけ、<誇りがあります>といったって、リアルな世界では、箱入り上製本として、全国の大学図書館とか、公立図書館に納本をされるであろう、『失われたときを求めて』(鈴木道彦新訳本・集英社刊)とか『ファーブルの昆虫記(奥本大三郎訳・集英社刊)』の豪華箱入り本が、貴重な本の置かれる棚に、ずらっと並んでいるのを、見て、私のこのブログと比較をすると、誰もが、「笠松敦子さんのほうがリアルな世界では、うえでしょう」というと思います。それを内心で、しっかりと、自覚をし受け止めながらも、私はなお、天啓にも似た、み言葉を、天からいただいているのを感じるのでした。
『お前には、お前固有の仕事があり、お前固有の、生きる場所があるのだ』と。
2014年11月5日の午前8時半、JR久里浜駅から、JR衣笠駅に向かう、京急バスの入り口で緑色のジャンパーを着たダウン症の男の子が、赤いジャンパーを着た同じくダウン症の男の子を、いじめることは、事前には想定できなかったことです。現代の日本社会において、えらくなり、お金をもうけるためには、事前に予定を組会議をしてと、手順を踏まないといけません。だが、私は、そういう世界とは、すでに無縁になっている年です。いまさら、どういう組織に入り込めましょう。ただ、一人で、孤立して生きていくだけしか道は残されていないのです。
でも、目の前に与えられた任務だけは見事にこなすことができます。宮沢賢治が言っていた、北に困った人があれば行って助けてやり、を、実践する力が出てきたのです。私は涙が出るほど、ありがたく、天の恩恵を受け止めております。私は私なりに、祝福をされており、それなりに、充実をしており、幸せであるのです。誰にも引けをとらないほど。でも、敵がいて、苦しめられるので、内心では、こういう風に考えているのですよと、久しぶりに真情を吐露しました。
「笠松敦子さんが威張りかえっても平気なのよ」とか、そのまた向こう側にいる、「妹尾冨紗子さんが、威張りかえっても平気なのよ」と、ここで、言っておきましょう。
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副題9、『午前一時に、さらに補筆』
私は毎日聖書を読むわけでもないのです。また、あまたのほかの宗教の経典を読むわけでもないのです。ただ、折々に、昔、読んだ、これは、真実なのだろうと思う教えを思い出すだけです。でも、『その言葉だけは、意味がよくわからないなあ』と思った聖書の言葉があります。
うろ覚えでしかないのですが、繰り返し出てくる言葉として、キリストは、あたかも権威あるごとく話したので、皆付き従った。という文言だったと思います。私は聖書は、若いころに、文語体で読んでいて、のちに新訳も何冊も買いましたが、文語体でしか、受け入れがたく思っています。文語体って、ながれがあって好きなのです。英語で言うイントネーションを日本語でも感じられますから。
ただし、こういう表現だと、キリストが詐欺師みたいに、みえてしまうので、もっと、意味だけを取り上げて、正確に言うと、『キリストの言葉には、権威があったので、みんなが言うことを聞いた』となります。
しかし、これがわからないのです。キリストとはあまたの映画とか、リライトノベルにその姿が現されています。散髪にもいかないだろう長髪で、髭もそっていません。当時は、化繊はまだ発明をされていないので、天然素材のウールを着ていたと思われますが、ドライクリーニングをしていたわけでもありません。旅から旅へと放浪を重ねていたので、誰かに、水で洗ってもらうということもなかったでしょう。顔だけは高貴な顔をしていたとしても、今でいうホームレスに近い姿だったのでしょう。
でも、これはいいことなのです。日本でも江戸時代には、いわゆる乞食を、尊いもの、神の化身として、尊んだと、言われています。しかし、一方ですでに私有財産の蓄積ということは始まっていて、現代の言葉でいう富裕層も現れており、貴族も生まれており、王族も生まれていました。外見だけを言えば、キリストは下層階級で、馬鹿にされる方だったでしょう。
しかも、磔刑に使う十字架を掲げながらゴルゴだの丘を登るときに、キリストが予言したとおり、12人の弟子は、誰も、彼を助けなかったのです。それほど、立場的にみじめな人なのに、彼が、村々を回り、人々に教え諭す時に、人々は、素直に言うことを聞いたと、書かれており、その理由は、キリストに権威があったからだとも、書かれているのです。
しかし、いじめの現場で、いじめている子を諭して、言うことを聞いてくれた時に、上の文言の本当の意味がわかりました。普通の人だって、そういう機会は訪れるのです。他人が全く素直に言うことを聞いてくれるというチャンスも。
いくばくかの誤変換は残っているでしょうが、総タイトル横に推敲が済んだしるしの三角をいれ、日付も入れます。なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、2564696 です。2014年11月5日、午後一時から書き始め途中に中断を入れて、夜の10時半に完成させた。
雨宮舜 (本名、川崎 千恵子)
後注1、