AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

五兪穴のイメージ(ニーダムの見解を中心に)ver.1.2

2020-09-29 | 古典概念の現代的解釈

1.ジョセフ・ニーダムとは

ジョゼフ・ニーダム(Joseph Needham) 1900年12月9日生- 1995年3月24日没。ロンドン生まれ。中国科学史の世界的権威。もともと生化学の権威だったが、1930年頃から中国の科学発達史に関心をもち、1942年から3年間蒋介石政府の科学技術顧問として重慶に滞在した。帰国後、前人未踏の中国科学史の研究がライフワークとなった。「中国の科学と文明」全16巻の他、多数の書を執筆した。
我が国でも多くの翻訳書が出版された。筆者の手元にある本は、「東と西の学者と工匠中国科学技術史講演集 上下」河出書刊(絶版)と「鍼のランセット 鍼灸の歴史と理論」創元社刊(絶版だが古書で入手可能)である。鍼灸臨床には直接結びつかないが、昔の中国の科学技術を色々な分野で具体的に説明されている。ニーダムにより、昔の中国は、当時として科学技術先進国であったことが理解できる。
昔、私が代田文彦先生に「ニーダムはすごいですね」と話かけたら、同意して「もし対談などの企画がきたら、その準備に5年はかかるだろう」と返答したことを思い出す。

(疑似カラー化)


2.五兪穴の解釈に対する不満

十二経絡には、各経絡ごとに五行穴(五兪穴)が定められ、これらは井穴・滎穴・兪穴・経穴・合穴とばれる。
井穴・栄穴・兪穴は、手と足の指先から数えると、第1番目、2番目、第3番目に列んでいる(胆経だけは例外で、第3番目の地五会を飛び、4番目の足臨泣が兪穴)。合穴は肘関節・膝関節付近にある。

井=経脈の出る所  滎=溜(したた)る所  兪=注ぐ所  経=行く処 

井滎兪経合の性質は水路に例えられてきた。ただし手指の末端から始まる手の三陽経や足指の末端から始まる足の三陰経では、うまく説明がつくものの、手の三陰経や足の三陽経では、説明できない。

井滎兪経合の部位を表現した、出・溜・注・行・入も、水の流れるさまであるとの表面的な解釈はできても、それだけでは納得できない。

疑問だらけの状況にあって、魯桂珍、J・ニーダム著「中国のランセット」創元社刊は、この疑問に対し、ヒントを与えてくれる。
素問霊枢が編纂された漢の時代の治水技術には高いものがあった。人々の集合(都市)→食料の増産→耕作面積を増やすため、計画的な灌漑設備を整備する必要性があったからである。灌漑設備を重視した証の一端としては五行色体表の五蔵六腑の官職の説明として、「三焦は、決涜の官(=溝を切り開いて水を通す役人)」や「膀胱は、州都の官(地方長官。あるいは水液を集める処)との言葉があることでも知れる。


3.井穴とは
井は、水を取り入れ口をさす漢字であり、井は必然的に、泉、井戸、取水用ダム(堰)、用水路などの一部をさす。井が、山奥にある川の水源をさすとの限定はできない。
飲料や洗濯などにも水は使うが、人間が大量に水を必要とするのは、農耕のためである。農耕する条件の一つとして、用水路の確保が不可欠だった。これを人体にたとえるのは、農作物が育つような環境を、人間の身体自身が生きる上で必要だと考えたからであろう。


4.滎とは
滎=①水がちょろちょろ流れる様子。②水が回流する沼。(「漢字源」学研より)
ニーダムは、「井」を湧出とするならば、「栄」は水源に相当すると記しているので、②の解釈である。回転する沼とは、湧水が沼の底から噴出している様子だろうか。井と栄は非常に接近していることになる。滎(けい)とは、古代中国の河南省滎陽県にあった沼地の名。漢代にはふさがって平地となった。


5.兪穴・経穴とは
兪=いよいよ、ますます。前の段階をこえて進むさま。流出。(辞書同上)
経=縦糸。まっすぐ通る。(辞書同上)
   兪も経も、水の流れるさまの形容である。兪は水源前の段階である水源を越えて進むのだから、流出と考える。それも栄→兪→経と下るにつれ、しっかりとした水流に変化している。井から経への4段階を、
ニーダムは、湧出→水源→流出→流れ、と考察した。


6.合穴とは
合=合う、集まる。あつめて一緒になる。合流(辞書同上)
従来の解釈によれば、「合」は川が海に流入する河口部分だという。しかし合穴に続くのも、同じ経脈なのであり、「海」という説明は合理性に欠けるものであろう。
ニーダムは、次のように解釈している。「手指の末梢部(=井穴)から湧き出るようにして表出した経脈は、合穴に至るまでに流れをスピードアップあせる。一定の流れ以下の速度(あるいは強さ)では、効力水準点(ポテンシイ・レベル・ポイント)点に達しない」
これを私なりに比喩で表現すると、一般道から高速道路に入る場合、高速で走る車の流れに合わせるため、加速レーンを使うが、この加速レーンの役割が五行穴の作用だと考えることもできる。
逆にいえば、手足の肘以下、膝以下を除く身体の経脈は、高速道路本線であって、この本線が経脈として正しく機能していることが生理活動として不可欠だと考えたのだろう。

 

                                               

 

 


フェリックス・マン著「鍼の科学」の内容紹介

2020-09-25 | 古典概念の現代的解釈

 

今から30年ほど前の昭和57年、フェリックス・マン Felix Mann著「鍼の科学  Scientific Aspects  Acupuncture」西条一止・佐藤優子・笠原典之訳(医歯薬出版社刊)が出版された(すでに絶版だが古書として入手可能)。私はすぐに本書を購入して中身を覗いたが、そこに従来的な解剖学的鍼灸よりも進化した<現代医学的鍼灸>を発見した。私が待ち望んでいたのは、このような本に相違なかった。
 
私は「鍼の科学」を熱心に読んで、傍線を引いたり、自分なりに索引
を作ったりもした。本稿では内臓体壁反射などのベーシックなものは省略し、興味深い部分をピックアップする。ただフェリックスマンは、実験動物を使った生理学的変化など非常にアカデミックに自説を展開しているのだが、これらを十分に理解できない部分があった。自分の理解できる範囲内でのまとめになるのはやむを得ない。


1.フェリックス・マンの略歴

1931年4月10日生 - 2014年10月2日没。 医師、鍼灸師。
ドイツ生まれ。3才でイギリスに移住。イギリス国籍。

1)1950年代当時、若手医師だったフェリックスは、ガールフレンドの虫垂炎による腹痛が鍼で鎮痛したのに驚き、これを契機として鍼灸に興味を持った。しかし当時イギリスでは鍼灸を勉強できず、1958年からフランスのモンペリエ、ドイツのミュンヘン、オーストリアのウィーンに行って鍼灸を学んだ。さらには古典的テキストを読めるようになるため中国語を10年間学習した後、中国に渡って中国伝統鍼灸理論を学んだ。その後はイギリスに戻り、当時ほとんど顧みられなかた鍼治療を日々の診療に取り入れ始めた。

2)最初に行った鍼治療は伝統的スタイルだったが、ツボでないところに鍼を刺してもツボに刺した時と同様の効果を示したことで、經絡や経穴に疑問を持ち始めた。そして治療点を、点よりも面としてとらえるべきだとする立場に変わった。

3)1960年代、フェリックスは医師に鍼治療を教え始め、1970年代には学習者の数も増え、55カ国以上1600人以上の医師が彼の元で鍼灸を学んだ。このことは、医学の痛みに関する科学的な理解が進み、現代用語で鍼治療の機序をより理解できるようになったことが理由だった。特筆すべきは、1972年にニクソン大統領が中国を訪問したことで、鍼麻酔のニュースが世界中に流れ、多くのイギリス人やアメリカ人医師の間で鍼治療への関心が高まったことだった。

4)1977年頃には、フェリックスマンはツボ、經絡、陰陽、五行など伝統的な考えを事実上すべて否定し、<科学的鍼治療 Scientific Acupuncture>を目指すようになった。鍼灸を解剖学や生理学の現代的な理解で説明できる治療法として捉えていた。もはや気や陰陽について、話す必要性はなくなっていた。鍼が効くのは神経生理学的に説明が可能であり、鍼治療に関与する反射の大部分が脊髄性であることが解明された、鍼が効くのが神経システムの活動による調整作用からだと説明した。

5)時間が経つにつれ、フェリックスは、多くの伝統鍼灸主義者が患者を過剰に治療していると考えるようになった。フェリックスは、数本の鍼(時には1本だけ)を挿入し、鍼を刺す時間は短く、1~2分以上、数秒で済ますような、非常に穏やかな治療法を支持するようになった。 このやり方は、現代医学の訓練を受けた医師にとって理解しやすく受け入れやすいもので、また多くの者が学びたいと思っていたものだった。

6)1980年には、フェリックスの元学生を中心に構成された英国医学鍼灸学会(The British Medical Acupuncure Society)が設立され、彼が初代会長となった。現在の会員数は2000人を超えた。医学的鍼治療学会(Medical Acupuncture Society, 1959年 - 1980年)の創設者であり、元会長でもあった。
  ※参考文献:Felix Mann(Wikipedia )「Arrt Dry Needling & Massage 」HP)

 

2.内容紹介

1)足には6つの器官を代表する6つの經絡がある。これら足の一連の經絡は、たとてば胃経が通っているスネは胃の治療に、あるいは膀胱経が通っているふくらはぎは膀胱の治療にも影響を与えうる。

大腸経や小腸経は腕にあるとされている。しかし私の考えによると、これはまったく間違っている。なぜなら、これらの器官に対する病変は、下半身の刺激によってのみ治療できるからである。三焦経もやはり定義しがたい。(p24)


2)頭顔面部におけるツボの大半は、近傍の器官に作用する。それらの作用は、脊髄分節性反射に類似した局所反射弓によって説明できると思われる。

たとえばKoblankは、鼻と心臓との反射について、ヒトや動物実験で調べた。上鼻甲介の周辺には、鍼治療によって心臓性不整脈を起こす特定領域のあることを発見した。このことから、上鼻甲介への刺激は、三叉神経によって中枢に伝えられ、そこで反射的に迷走神経核を興奮させ、迷走神経を介して心臓に影響を及ぼすのではないかと考察した。
(筆者註:迷走神経反射の典型:肩井に刺鍼して一過性脳貧血を起こすのと同じ)

Koblankは、下鼻甲介と生殖器官との反応について調べた。若齢時に下鼻甲介を除去すると、動物が成体になった時、体重は除去していない動物と変わりなかったが、子宮・卵管・睾丸などの生殖器に異常が認められた。また
実験動物の中鼻甲介を刺激すると、胃液の分泌と運動が増加することを報告した。

これらから、上鼻甲介は心臓、中鼻甲介は胃、下鼻甲介は生殖器に作用する。(p25-26)


3)健康な器官の機能を変えるには相当大きな刺激が必要である。一方罹患した器官の治療には小さな刺激で十分である。したがって鍼をわずかに刺入しただけで重い病気のいくつかを治すことができるのに対して、健康な器官に間違って治療を行っても、まったく無害になるのが普通である。(p28)


4)中国の文献では、ツボはとても小さく、数ミリ程度のものとされている。しかしこれは必ずしも事実ではない。1デルマトーム(周辺が過感作になっていれば数デルマトーム)のどこを刺激しても十分な治療効果があることが少なくない。
このデルマトーム内を注意深く探ってみると、圧痛の強い部位がいくつか見つかる。これがツボと呼ばれるもので、これらの圧痛の最も大きい部位は、鍼に対し回りの部位よりも大きな反応を示す。


もちろん適切なデルマトーム内のどのような部位に刺激を与えても効果のある場合もあるが、その効果はツボに対する刺激よりも小さくなる。一方、全体の1/4に相当するくらいの広範囲のどこに刺激を与えてても、それが適切ば部位ならば十分な効果のある場合もある。(p28)

鍼治療が効くような病態であれば、医師によって異なったツボに鍼をしても患者の大多数は治すことができる。(p35)


5)刺激領域を表現するには、デルマトームではなく、皮膚-筋-硬節という言い方をするのが適切だと思われる。内臓やその他の器官の病気では、しばしば疾患部と関連した体表面に反射性圧痛を感じる場合がある。その際、筋緊張や血液循環の変動を伴うこともある。おそらく疾患部に関連した組織の組織構造が深部にまでわたり過敏になり圧痛を生じていると思われる。(p36)

(筆者註:硬節とはスケルトームのこと。骨における分節(デルマトームのような縞模様)のこと。デルマトームは皮膚・筋・硬節の他に、交感神経性デルマトームもある。


6)神門穴は少海穴よりも効果的なツボである。それは少海刺鍼が脂肪組織を刺激するのに対し、神門の方が少海より厚い皮膚と硬い靭帯を突き抜く。つまりは神門の方が多数の神経線維を刺激することになるからである。神門のように骨膜も刺激されるツボの方が大きな効果をもたらす。(p38)
関節周辺の骨膜を刺激すると、その表層にある上皮を鍼でさすよりも効果が大きくなる場合がある。これは刺激に興奮するニューロンの数の違い、すなわち局所反射の活性化の差異によるものと考えられる。(p38)


7)神経幹を刺激すると激痛を引き起こすが、これは決してより効果的というわけではない。いわゆる頸椎々間板症やその関連疾患では、第6頸椎の横突起を刺激する方が腕神経叢を形成している数本の神経を鍼で刺すよりも効果的である。(p38)


8)
研究者の中には、皮膚の電気抵抗の減少が認められるよう小さな領域がツボであると主張する者もいる。しかし電気抵抗の減少を示す皮膚領域は大小何千とあり、その中でツボと一致する者はほとんど認められなかった。神経生理学的理論に従えば、電気的にもあるいはその他の方法を用いても小領域に独立して存在するツボなどとうものは見つけ得ないはずである。(p39)


9)臨床的な観点からすると人口の約5%が超過敏反応者であり、これに普通の過敏反応者を含めれば、人口の10%あるいは多めにみて30%は過敏者になるかもしれない。

鍼麻酔というものは、私の経験上、超鍼響過敏者の場合にしか効かない。ただし専門家の中には私の意見に反対する者もいる。1974年に私は、鍼麻酔を受けた患者のうち10%の人に完全ではないが、ある程度鍼麻酔の効き目があったと報告した。その後、私がその時用いた麻酔状態の基準は、少々甘いものであり、その数値は5%に修正すべきだとの見解に達した。(p50)


10)Kellgrenの一連の研究から、痛みの分布を次の3層に区分して述べた。

①一般に皮膚の刺激による痛みの分布は小さな区域に局在する。(非常に強い刺激を除く)
②筋膜、骨膜、結合組織、腱など、皮下にある中間層の刺激による痛みは、刺激部位の辺縁部あるいは刺激部位から少し離れた部位など、少し広い領域に存在する。
③深層にある筋層の刺激による痛みは、放散性であり多少なりとも分節的な分布をしてくる。とくに棘間結合組織、肋間腔や体幹部体壁の深部組織に起因する痛みは、明確な分節性を示し、手足の筋肉や関節に起因する痛みは局在して現れる。
手足の筋肉の痛みは、その筋肉の結合している関節が筋と同じ分節に属する限り、関節に関連痛を興す傾向がある。(p58)

 


代田文誌の知られざる話 ver.1.5

2020-09-02 | 人物像

代田文誌先生(以下敬称略)の年譜を調べていると、これまでほとんど知られていない事実が分かったので、ここに紹介する。(平成25年3月24日)。
追伸:代田泰彦先生から、東城邱著「耕雲紀行の背景」(耕雲紀行 和合恒男遺稿刊行会編)という資料コピーを頂戴した。代田文誌先生と和合恒男の関係が記録されているので、部分的改訂版として加筆することにした。(平成25年5月19日)


1.代田文誌が針灸に目覚めるきっかけ

1)著書「療病神髄」

代田文彦先生(故)の奥様、瑛子先生から文彦先生のお父様である代田文誌先生(以下敬称略)著による「療病神髄」(絶版)という本を頂戴した。この著作は、昭和9年20才の時、文誌が喀血して以来、27、8才頃までの療病中の随筆集である。序文には人生の問題で悩みつつ、病みつつも人生を生かす道を発見した。(中略)神のこころを知り得たのである‥‥と書かれている。代田文誌は、法華経の信者となった。医師は、治せない患者を放置する。しかし病は治らなくても幸せになる方法があることを発見した、との記載がある。


2)代田安吉(父)の精神異常と按摩

本書の中で「体と体が触れあうことが精神と精神の触れ合う始めとなる」との記載後、「(大正14年頃)私の父の発狂の看病をした時、何としても父の病を治そうと苦心し、朝夕ねてもさめてこれをのみ思い念じる‥‥1日4時間位按むことは珍しくなかった」とくだりを見つけ、非常に驚いた。お父様が発狂したとは、どういう意味だろうか。さっそく代田文彦先生の弟の代田泰彦先生にメールで質問してみた。以下は、泰彦先生の返事である。

「父の追憶」(昭和6年2月下旬)と題した文誌の手書きの文書が残っている。これによると代田安吉(父)は大変元気であったが、「大正14年の春、製糸工場統一問題で考えすぎた結果、発狂してからはずっと体が弱くなりました。発狂してから7ヶ月ばかり床についていましたが、ある朝忽然として夢の覚めたように良くなり、再び元の父上にかえり‥‥」と元気になったらしい。この期間は、おそらく鬱病を発していたと推測される(ある時突然良くなるというのは鬱病の特徴で、むかし話「三年寝太郎」状態)、と書かれていた。発狂したと書いているが、大正14年頃の文誌の医学知識は未熟なものであっただろうから、その後の昭和6年に回顧して鬱病だったと訂正したのだろう。泰彦先生自身は、強迫神経症だったのではないかと思っているらしい。


3)代田文誌の針灸への契機

「父の追憶」の文書は続く。「お父様の精神異常を治すため、飯田病院の神経科に連れて行ったり、岡崎にある寺に<狂>を治す名灸があると聞いて兄弟3人で岡崎に行ったりしているが、一番多くの努力を費やしたのは、文誌が自らが按摩をしたことで。この按摩というのは「飯田の古本屋で“handbook of massage” というオックスフォード大学から出版された英語の本を買ってきて、辞書と首っ引きでこれを読み按摩の原理を知った」と書いてある。また「和漢三才図會の経絡の部の発狂に効くというツボに灸をすえたりし、これが後に鍼灸治療に携わる契機になっている」と書いている。(安吉は昭和2年に奥様の<やすえ>に先立たれた後、次第に元気がなくなり、認知症も進行。昭和5年に老衰で死去した)


2.沢田健先生の治療見学していた頃と沢田健先生の死後

「鍼灸真髄」によれば、代田文誌が沢田健先生の治療を見学したのは、昭和2年6月10日から昭和4年12月16日までの5回(実質50日間程度。だたし正確な日数は記載がない)で、その後も、昭和5年、9年、10年、11年、12年に各1日ずつ見学した。

では見学日以外には、何をしていたのだろうか。年譜をみると昭和6年から3年間、長野県日赤病院の研究生となっていたことを知るが、それ以外にも和合恒男(詳細後述)とともに、現在の安曇野市に瑞穂精舎(みずほしょうじゃ)を設立し、その指導員となった。
なお昭和12年(37才)に、この時の生徒の一人で、「やゑ」という女性と結婚した。
昭和13年、沢田健は病死。文誌の生活は下に述べるように瑞穂精舎設立と運営の協力者という立場であったが、茨城県の内原訓練所における施灸指導の要望の声もあがった。ただしこの当時、代田文誌は非常に多忙で、実際に内原訓練所に出向いたのは数回程度であった。 


1)瑞穂精舎時代

昭和の初期、長野市に和合恒男という人がいた。郷土の士として「人を相手にせず、天を相手とする」百姓生活を通して、心と体を磨きあげようとする求道者であり、東大卒業後、その実践の場として昭和3年に現在の松本市に財団法人、瑞穂精舎を設立した。その協力者となったのが代田文誌だった。瑞穂精舎との命名は、法華経の精神を生かし、瑞穂の国の理想を実現するための精神の道場という意味。
朝五時に起床、午前中は授業、昼から夕までは農業実習、午後9時就寝という厳しいものだったが、家庭的な温かさがあったという。
この瑞穂精舎は修業の一環として行脚(あんぎゃ 仏法を広めるため徒歩で各地を巡る)が実施された。とくに満朝(満州と朝鮮)行脚は修業の総仕上げとしての重大な意味があった。

この時期、政府は満州や蒙古に3万人の開拓農民を送る計画をたてた。その移民準備のため、3~6ヶ月程度の訓練施設(後に2ヶ月間に短縮)として、満蒙開拓少年義勇軍訓練所として15才~19才の青少年が集う施設を全国各地につくった。瑞穂精舎の人員も、指導者として満蒙開拓少年義勇軍訓練所に送られた。
※和合恒男は昭和10年、農本政治をかかげ積極的に政治活動を行い、長野県会議員に当選。しかし当選直後から肺結核を発病。昭和16年、40才にて死去。


2)満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所時代

代田文誌は、昭和13年(38才)より瑞穂精舎の流れで茨城県にある満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所にて灸療所と開拓医学指導の手伝いをした。ただし代田文誌は多忙のため顧問という立場(他に顧問は田中恭平氏)となり、齋藤誠一という青年鍼灸師が訓練生に灸することになった。施灸部位は、左右足三里・大椎・左右風門の計6カ所。義勇軍に参加する者全員に2ヶ月間、毎日の日課施灸し続けたというから、さぞかし多忙なことだっただろう。灸治専用の建物として、兵舎内に一棟「一気寮」が建てられたことは、灸治が健康増進に役立つことを当時の政府が認識した現れであり、この集団施灸が、国家プロジェクトの一貫だったことが理解される。

この「一気寮」については、山下仁氏の調査報告が発表され、詳細な内容が明らかになった。内原訓練所内には茨城県内で2番目に大きな病院(常勤医師12名,職員合計86名)もあった。灸を希望する者は当初は少なかったが次第に増加し、患者の自由選択にしたところ、その2/3は一気寮に集まったとのことだった。このような情況となったことで病院からは怨まれるくらいだったと代田文誌が記している。
山下仁:満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所の灸療所「一気寮」に関する報告、日本東洋医学雑誌、Vol.71 No.3 251-261,2020


日本内地で訓練された農民は、満州や蒙古に渡り、農業開拓に従事した。代田文誌も、内原訓練所から満州に向かう1200名の青少年義勇軍の出発を見送った機会があることを記している(「満蒙開拓青少年義勇軍と其灸」漢方と漢薬、第5巻第8号、昭和13年7月1日)。全員皆国防服に身を固め、戦闘帽をかぶり、リュックサックを背負い、手に手に鍬の柄を握りしめて整列し‥‥という記載がみられる。

大いなる希望および苦難を覚悟した彼らであったが、昭和20年の日本敗戦で、ソ連軍が満州に急に侵攻したため、逃避行せざるを得なかった。逃げ切れず捕虜になったり殺された者も多数いた(このあたりの話は、山崎豊子著「大地の子」が有名)。

代田文誌には兄弟がいたが、次男夫婦も満州に渡った。終戦をきっかけとして、他の者同様に非常な苦労をしたらしい。文誌にとっては生涯この問題は痛恨の出来事だったに違いない。代田文誌の幾冊もの著書の後に載せられた略歴には、満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所のことは省略されている。

※平成25年4月、ついに「満蒙開拓平和記念館」が建設された。所在地は長野県阿智村711-10