AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

桜井戸の灸について Ver. 1.3

2013-07-25 | 灸療法

1.序

桜井戸の灸とは、家伝の灸の一つで、よう・ちょうの灸として、明治から昭和初期にかけて賑わっていた。ネット検索をすると、断片的な知識は入手できる。筆者も現代医学的針灸のブログ内で、<「麦粒腫に対する二間の灸」雑感>2011.4.22.で少々触れたことがある。ただ今となっては、その詳細な内容を知ることは、困難なことのように思えた。
 
しかしながら故・代田文彦先生宅に残された資料を調べていると、<桜井戸の灸療に就いて>と題して、当時の桜井戸灸療所所長3代目、漆畑淳司氏の文章が臨床針灸第2巻第1号(昭和28年1月)に載っていることを発見できた。そこで、私の知り得た桜井戸の灸の概要をまとめることにした。なお漆畑淳司氏は初代の静岡県鍼灸師会会長(昭和57年、80才で死去)。 

最近、医道の日本昭和57年12月号に、飯島左一氏が「百年つづいた癰疔の名灸」と題して桜井戸の灸に関する記事を書かれていたことを知った。そこでの内容も、本文各所に付け加え、内容の充実をはかった。

 


2.桜井戸と桜井戸の灸の由来  

桜の老樹があり、飲料水の源泉もあった処。現在の静岡市の近くである。このあたりは桜の名所だった。西暦1800年頃のこと霜凍る朝、この井戸の傍らに倒れて苦しむ老僧夫婦がいた。そこを佐治(右)衛門 夫妻に救われ、数十日の看病されたことに感謝感激し、自分の修得した「よう、ちょう、その他一切のはれ物に適応する灸の秘法」を伝えた。以上の話が津々浦々まで世に広がった。

桜井戸の傍らの庄屋でお灸をするということが、次第に「桜井戸の灸」とよばれるようになった。

この地は現在では、この一帯は史跡桜井戸として保存されている。毎年春には、見事な桜が咲く。その地下には防火用水貯水槽が設置されている。
現在では、創始者佐治右衛門の子孫に当たる漆畑勲先生が、その近くで井戸医院(内科・小児科)を開業されていたが現在は閉院している。


3.桜井戸の灸療者のための駅が誕生


漆畑淳司<桜井戸の灸療に就いて>には、「草薙駅は、静岡鉄道(東海道線の傍らを走った軽便鉄道)にある駅であり、当所の灸療患者のために設置された駅」との記載ある。当時「草薙駅」を新設するにあたっては、いっそのこと「桜井戸駅」という名称にしたらどうかとする意見もあったが、売名行為になるとして桜井戸の創始者佐治右衛門は固辞した。その一方で、駅新設の費用は彼が負担したという。静岡鉄道の草薙駅を利用した者は、1日の患者数は500人とも1500人ともいう。施設内には下足番もいた。治療の順番を待つため、さくら荘という宿泊施設もできた。 

なお草薙駅という駅名は、静岡鉄道と東海道本線に2つあるが、まったくの別物で、当時は東海道本線の草薙駅は存在しなかった。この駅が開業したのは大正15年になってからであった。





4.昭和28年頃の桜井戸の灸の現状 


抗生物質出現の影響のためか、これに加えて化膿菌に対する一般衛生知識の普及のためか、ちょう・よう、その他の腫れものの患者は、従前よりはずっと減少した。けれども、連日新患30名を下ることはない。

最近では蓄膿症患者が非常に増した。この種の患者には次のような方法で施灸しているが、80%の好成績を得ている。
 1)合谷(左右):1穴へ50壮(小灸で感ずる程度のもの)。1日2~3回。
 2)風門(左右):1穴へ20壮。1日2回。

 3)膏肓(左右):1穴へ20壮。1日2回。
以上を5週間、毎日連続で施灸する。成績は施灸後1ヶ月くらい後に判明する。

抗生物質がない時代のこと、面疔に対する合谷の灸はとくに有名であった。私が知っていた内容は、合谷に数十~二百壮連続で、痛みがとれるまですえる。自宅への帰路、東海道線に乗ったが、途中で再び痛くなると、列車内で灸する者もいたという内容だった。昭和28年頃には、以前よりも少ない刺激になったのだろうか。

「桜井戸の灸」で施灸する合谷の位置は、一般的な合谷とは異なることに注意。母指と示指を開張させ、その筋縁の中央で、白赤肌肉の境を取穴する。すなわち奇穴の<虎口>に相当する部になる。ここに徹底した多壮灸を行うというもの。

 

 

面疔の治療は、化膿を待って切開するのか常で、したがって手の一穴(合谷)へ灸をすえれば必ず口が開いて排膿治療するとして、桜井戸の灸は救いの神とされた。

※面疔:黄色ブドウ球菌感染症。常在菌である黄色ブドウ球菌が顔面の毛孔から侵入し、毛嚢炎が起きた状態。抗生物質が有効。ほとんどは自然治癒する。
病巣部である眼窩や鼻腔、副鼻腔などは薄い骨を隔てて脳と接しているため、場合によっては髄膜炎や脳炎などを併発し死に致る可能性も少なくない。沢田健は面疔で死亡した。

※深谷伊三郎は「合谷へ100 壮、200 壮と多壮灸をすえるのである。50壮ぐらいで面疔のズキンズキンする痛みが止まってくる。灸を止めると痛みだすのですぐ続ける。そのうちに痛みが止まって、ひとりでに口が開いて膿が排出されてしまう。」と記している。(「家伝灸物語」、三景)


耳鳴りの針灸治療改訂版 その2

2013-07-24 | 耳鼻咽喉科症状

1.耳に対する直接刺激<難聴穴刺>

難聴・耳鳴に対する直接刺激点としては、難聴穴がある。難聴穴とは深谷伊三郎の命名で、それを知る以前、筆者は下耳痕穴と称していた部位である。耳垂基部に新穴の耳痕という穴があることから、そのすぐ下方にあるので、下耳痕と命名した。同様の意味をもつものに柳谷素霊の翳風穴がある。
要するに鼓室神経(舌咽神経の分枝)刺激をする部位である。本穴への刺激の与え方について、はすでに当ブロクの別項で記載済である。要するに、この穴に刺針するとまず顔面神経を刺激(針響なし)し、2㎝ほど刺針して鼓室神経を刺激できる。鼓室神経は鼓膜知覚を支配しているので、耳奥に針響を与えることができる。

響きを与えた後、30~40分間置針する方法をとると、耳鳴りに有効な場合がある。このような長時間置針が必要なのは、冷え症の治療に仙骨や下肢の30分以上の置針が必要なように、内耳血流量増加を企図したものと私は考えた野田か、浅野周氏は、本当に筋を緩めるには20分程度では足りないとする観察が根拠になっているようだ。

私は内耳血流量の増加内耳に直接影響を与えることは困難なので、中耳を刺激し、「玉突き」の原理で内耳血流を増加させた結果だと考えたこともあった。しかしこの考えは、あまりに非医学的である。そこでさらに調べてみると、次のように捉える学者がいることがわかった。

耳鳴を起こす病理機序の一説として、次のように考える学者もいる。耳鳴は難聴と同様に蝸牛神経障害であるが、延髄において蝸牛神経背側核は、体性神経核とつながっている。この体性神経核は中耳と外耳を支配している三叉神経、楔状束、顔面神経、迷走神経、舌咽神経に枝を送っている。すなわち舌咽神経と耳鳴は関係があるということだが、他のいくつかの脳神経も耳鳴に関与しているらしい。
(Byung In Han MD Tinnutus:Characteristics,Causes,Mechanism,and Trearment TheJournal of Clinical Neurology 2009;5:11-19) 

 

 

2.舌の動きにより変化する耳鳴の治療

成書にほとんど記載はないが、舌を突き出し、左右に動かすなどすると、音調が変化する場合がある。舌運動は舌下神経が中心となって支配する。とくに舌を前に突き出す運動は、オトガイ舌骨筋の役割なので、舌骨上筋とくに舌根穴刺針(オトガイ舌骨筋への刺針)を行ない、舌の運動をさせるとよい。

 

3.むち打ち症と耳鳴り

頭頸部への急激な力学的衝撃後に生じた耳鳴りは針灸で改善の余地がある。その典型にむち打ち症がある。病態的には頭頸部捻挫をきっかけとした頸部交感神経刺激症状(=バレリュー症候群)であろうか。
本病態の治療の基本は、頸椎一行への深刺と、後頸部筋の頭蓋骨付着部への深刺にある。顎関節との関連でいえば、C3椎体の高さが重要で、C3椎体が顎関節運動における力学バランスの支点になっている。

先ほど頸部交感神経緊張と記したが、頭部外傷後に一側の眼瞼下垂を呈している症例を経験したので、実は頸部交感神経緊張低下状態なのかもしれない。ペインクリニック科で行われる星状神経節ブロックと異なり、針灸で行う星状神経節刺や大椎一行から行う星状神経節に影響を与える深刺は、頸部交感神経節機能低下でも亢進でも用いられる。

 


新・耳鳴の針灸治療 体性神経性耳鳴

2013-07-18 | 耳鼻咽喉科症状

耳自体に異常がない場合、解剖学的に耳のすぐ前にある顎関節の問題で耳鳴が起こることも知られている。口を大きく開いたり、下顎を横にずらしたり、舌を強く前に出した時など、耳鳴の音調が変化するのであれば、顎関節症による耳鳴を疑う。
耳鳴を主訴とする患者の中には、自分が 顎関節症であることを気づかない者もいて、咬筋や側頭筋の圧痛が余りに強いので驚く者が結構いる。このような筋緊張が原因となった耳鳴を、体性神経性耳鳴(あるいは体性耳鳴)と生ずる。体性耳鳴は難聴を伴わず、一側性であるという特徴がある。一般に体性耳鳴は、針灸を含めた理学的治療が奏功しやすい。

トラベルは、耳鳴を起こす顎関節症関連筋は、咬筋・外側翼突筋・胸鎖乳突筋だと記しているので、この3筋への刺激法について記す。

1.咬筋
1)咬筋と耳鳴
「咬筋を押すと音程が変わったり音の質が変わることがある。咬筋のトリガーポイントは耳鳴りを起こすが、聴力の低下は起こさない。」とトラベルは記している。咬筋が緊張するのは、睡眠時やストレス下での、歯ぎしりや歯のくいしばり。あるいは歯科的要素(齲歯、歯並びなど)が関係する。          

  ※咀嚼筋はストレス筋の一つ。動物が敵と出くわした時、噛みつき攻撃をする。

2)咬筋への刺針
咬筋の骨付着部に刺針。とくに開口状態で刺針すると運動針効果がプラスされる。咬筋の起始部である頬骨弓部分、停止部である下  顎枝部の圧痛点に刺針する。刺針した状態で開口運動をさせると運動針効果が加わる。

 

2.外側翼突筋
外側翼突筋の役割は、下顎の「横方向へのずらし」と「前への突き出し」である。開口時、顎が左右にずれる原因は、外側翼突筋の左右の緊張度の違いにある。たとえば口を開けて顎が左に動くのは、顎の右サイドが前へ突き出せない結果であって、右側外側翼突筋が過収縮していることを示している。
外側翼突筋翼突筋の緊張の有無を調べるには、まず下顎を前方に突き出し、その状態のまま下顎を左右にずらす動作を行わせる。緊張があれば、前記動作がしずらかったり、痛みを発したりする。

1)外側翼突筋下頭の触診
内側翼突筋が容易に触知できる(咬筋の裏側。口腔内から触知する)のに対し、外側翼突筋の触知はやや難しい。
口内に示指を入れ、上顎の左右端にある奥歯を触知。さらにその奥まで指を伸ばし、舌にある中央と逆に、歯茎と頬の粘膜に指を入れる。頬と歯茎の間に指先が入ったら、示指の指腹を上に向けて、粘膜の最も奥あたりを軽く触ったり、軽く押し上げたりする。そのあたりが外側翼突筋下頭の位置である。

2)外側翼突筋上頭の緊張症状
外側翼突筋の上頭は、顎関節の関節円板に付着し、開口に応じて、関節円板を前方に移動させる力を生む。外側翼突筋のトリガーポイントが常に緊張状態にあると、顎が前に引っ張られがちになり、関節が外れたり、亜脱臼したりする。顎が音を立てる症状は、亜脱臼から派生したものである(1999,383;Reynolds 1981,111-114;Marbach 1972,601-605)。

外側翼突筋の過緊張では、筋緊張自体(=Ⅰ型顎関節症)の適応があることは当然として、筋牽引により生じた関節円板の前方への位置ズレ(=Ⅲ型顎関節症)や、関節包刺激(=Ⅱ型顎関節症)にも効果あるかもしれない。 

3)外側翼突筋上頭への刺針

外側翼突筋上頭の停止は顎関節の関節円板である。この関節円板に刺入するには、客主人を刺針点とし、針先を耳門(顎関節部)方向に斜刺する。置針した状態で、顎の前後の滑走運動を行わせる。

4)外側翼突筋下頭への刺針

外側翼突筋下頭の起始は蝶形骨、停止は下顎枝である。外側翼突筋下頭には、下関から深刺する。針はまず表層筋の咬筋を貫き、次いで外側翼突筋下頭に入る。置針した状態で、顎の前後の滑走運動を行わせる。
 

 

 3.胸鎖乳突筋

1)耳鳴の胸鎖乳突筋緊張の関与

胸鎖乳突筋の障害といえば、ムチウチなどにより頸痛ととに生ずる頸性メマイがよく知られている。平衡感覚は、耳・眼・深部感覚受容器の3者からの情報が延髄の前庭神経核に集合し、互いに照合されて保全される。その1つのである深部感覚受容器は、全身いたるところに存在しているが、頭位とのかかわりを考えた場合、頸部筋とくに頸部筋の左右の緊張の違いとのとの関わりが深く、一側の前庭の興奮は、同じ側の頸部筋の緊張に影響を与えていることが、頸性メマイを説明づけるものとなっている。
   
耳鳴と胸鎖乳突筋を結びつける根拠は薄いのであるが、一側性胸鎖乳突筋短縮→顔の傾斜→顎関節に加わる圧受容器や筋張力の変位→耳鳴という機序を想定すれば、ぼんやりとながら納得できることでもある。 

それにしても、胸鎖乳突筋に一側性の強い筋緊張が存在するにもかかわらず、自らはそれに気づかず、耳鳴のみを訴えることのあることは驚かされる。 
 
2)胸鎖乳突筋刺針のコリを緩める刺針法

左右それぞれ胸鎖乳突筋を軽くつまむようにして圧痛をみることで、本筋の異常の有無を診る。一般に筋緊張を緩めるには、単に刺針するよりは、該当筋を緊張させた状態で刺針した方が効果的である(=神経・筋促通作用)。胸鎖乳突筋の場合、仰臥位で治療側の反対側に顔を回旋させる(右胸鎖乳突筋に刺針するのであれば、顔を左に回す)。
そして、後方から前方(天牖から市乳、天容方向に刺入)に向けて胸鎖乳突筋を刺入。
ただし貫通はさせない。その状態で患者に正面を向くように指示する一方、術者はそれと釣り合う力を患者の側頭部に与える。1.2.3.とかけ声をかけ、患者と術者の力のタイミングをそろえ、5~10回程度のリズミックスタビリゼーション手技を行う。


代田文彦先生の家

2013-07-14 | 人物像

  私が玉川病院に在籍していた頃、他の鍼灸研修生とともに代田文彦先生のお宅に何回かお邪魔させていただいた。JR中央線の吉祥寺駅から徒歩15分ほどで、井の頭公園の雑木林に隣接している。昔ながらの木造の一戸建てであった。4畳ほどの玄関を入ると、すぐ右手に15畳ほどの板張りで広い居間があった。部屋の西側には大きな窓があって、武蔵野の林がよく見える(下記イメージ図)。
廊下の横には、細長い書庫があり、お父様である代田文誌先生の膨大な蔵書を収めている。久しく人が踏み入れたことがないためか、ほこりが厚く積もっていた。

 

  文誌先生は最初は長野で鍼灸開業していたが、65歳頃になってこの地に移転して開業した。この居間は、元は治療室だったという。そこにベッドを3台並べ、1日40~50人治療していた。従業員は、指示した灸点に灸をすえる係が一人のみ。患者は朝早くから順番待ちで並び、これがうるさいと近所から苦情が出て、番号札を配ることにして一件落着したという。手早く患者を治療するため、今日は胸と腹、次回は背中と腰というように、3回程度に分けて全身を診た。興味をひいた患者には皮電計を取り出し、皮電点を調べ出すことがあり、時間がかかって周囲の者を困らせたという。

 
  代田文誌先生が長野市で開業していた頃、長男である代田文彦先生は、まだ子供ざかりで、父親の治療室に勝手に出入りしているうちに、鍼灸に馴染み、門前の小僧となっていった。
 
  文誌先生のもとには、鍼灸師が時々集まり、鍼灸につて難しい話をしていたという。それを端で聴いていた少年時代の文彦先生は、さっぱり理解でなかったが、「鍼灸師って何てすごいのだろう」と思ったそうだ。そのメンバーとは、倉島宗二、塩沢幸吉、木下晴都、清水千里、米山博久、森秀太郎、三木健次(敬称略)などの、かつての日本を代表したそうそうたる顔ぶれであった。 
 
  ちなみに、代田文誌先生の詠んだ短歌に、つぎのようなものがある。信州上田の温泉旅館に、集まり、酒を飲み合って鍼灸を語りあった様子を詠んだものである。この集まりを「きさらぎ会」といった。

 きさらぎの
 諏訪のほとりに集まりて
 鍼灸語りて 
 命がけなる

  文誌先生は毎晩夜遅くまで、勉強や執筆をしていた。これまでに出版した書籍も非常に多いが、実際の執筆量はこの三倍ほどあって、その中から出来のいいものだけを活字にしたのだというから驚かされる。

  病院では厳しい顔をしていることが多かった代田文彦先生も、我々が訪問した時は上機嫌で、奥様の瑛子先生の手料理を楽しみ、夜遅くまで痛飲した。私は、その時初めて中国のマオタイ酒を飲んだ。飲みやすいのでスイスイと飲み過ぎ、足をとられた。  

  当時から二十年経ち、代田文彦先生がお亡くなりになった後、所用でお宅を訪問したことがあった。家は近代的な建築に建て替えられ、昔の面影はもうなくなってしまった。