AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

代田文誌先生の直筆原稿発見 ver.1.1

2024-06-22 | 人物像

 平成25年7月9日、故・代田文彦先生宅に資料を頂戴しにお伺いした。奥様である瑛子先生(内科医)が出迎えて下さった。書籍関係は、大阪針灸専門学校の「針灸ミュージアム」での展示資料として持ち去られた後だったので、ビデオとスライド関係が中心になったのだが、代田文誌先生が著した雑誌の別刷りが数点出てきた。「洞刺の臨床的研究」日本鍼灸治療学会誌、第13巻、第1号(昭38.12.1)もその中にあった。驚くことにその中に代田文誌先生の生原稿が混じっており、「頸動脈洞刺針(洞刺)の研究 Study of To-shi(Puncture of the Carotid Sinus)」と書かれていた。この原稿が日本針灸治療学会誌に載ったのは昭和38年のことであり、文誌63才と思われた。当時、文誌は長野市に住んでいた。(東京の井の頭公園隣に引っ越したのは67才。74で死去)

※この原稿タイトルの英訳部分に洞刺をTo-shi と書かれている。これまで私は洞刺をドウシと読んでいたのだが、トウシであることを初めて知った。北海道には洞爺湖という湖があり、これはドウヤコではなくトウヤコと読ませる。これと同じ要領なのだろう。この稿を読まれている皆様もご注意ください。 

 一般に原稿は出版社に渡されるが、活字になった後は破棄され手元には残らないか、原稿返却されても、本人が破棄してしまうのが普通である。しかし本原稿は、原稿用紙右上に(控)と書かれている。自分の控え用にとっておいた原稿ということになる。本稿が雑誌に掲載されたのは昭和38年で、コピー機が普及する以前の時代なので、カーボン紙でも使って転写させたものだろう。
<人のなりは、文字に現れる>ともいわれるが、この原稿にも真摯な性格がにじみ出ている。

 


代田文彦先生と日産玉川病院研修2年目の私 

2024-04-23 | 人物像

昔を懐かしがる年令になったのかもしれない。代田先生は63才にて生涯を終えられたが、それから14年経ち、奇しくも私もその年令になってしまった。私はここで日産玉川病院勤務時代のことを記録に残そうと思う。私が玉川病院東洋医学に入りたいと思ったきっかけは、以下のような「医道の日本」の記事を読んだことが強い動機となった。その頃私は早稲田針灸専門学校を間もなく卒業するという頃だった。当時私は午後からできたばかりの医道の日本社新宿支店でアルバイトをしていて、卒後は医道の日本社の社員とになる予定だったのだ。医道の日本社そのものは居心地がよく、待遇面を含めても待遇に満足してたのだが、結局代田文彦先生への憧れが強く、大きな人生の決断をした。医道の日本社専務からは「どうしても日産玉川東洋医学の採用試験を受けるというのならば、医道の日本社を辞めてからにしてくれといわれた。

 

 

 

 

1.日産玉川病院の針灸研修制度があった頃

日産玉川病院とは、東京都世田谷区で東急田園都市線の二子玉川駅から徒歩20分ほどにある中規模病院である。元々は日産グループ関連社員の結核療養所として誕生した。今日でも日産という名称はあるが、普通の総合病院になっている。30年も昔のこと、日産玉川病院には針灸研修制度が存在した。当時、玉川病院には東洋医学に情熱を燃やしている代田文彦・光藤英彦という二人の医師が在籍していた。というのも当時は今以上に相当な医師不足だったので、医師を招聘するには多少の医師のわがままを受け入れざるを得なかったという事情があったという。二人の医師の要望は、「病院で針灸治療をやりたい」という明快なもので、その真意は現代医療の現場に、医療システムの一つとして針灸が参入できれば、新しい方向性が生まれるだろう」とするものだった。

当初、現代医療の場を提供すれば、訓練生各人がすでにもっている東洋医学的な知識と融合するだろうと期待したが、実際にはそうならなかった。入局した新人鍼灸師のもつ東洋医学的知識でさえ低いことに驚いたと代田先生は漏らしていた。そこで研修1年目は先輩鍼灸師の助手として働き、研修2年目から代田先生担当の入院患者を診させてもらう。3年目は自分で針灸外来患者を治療する傍ら、2年目同様に代田先生担当の入院患者を診るという研修3年計画が誕生したのだった。なお私が入ったのとすれ違いで、光藤英彦先生は、玉川病院を辞めて愛媛県立病院東洋医学研究所所長として赴任していった。光藤先生は代田先生より一年年令が上だったが丸顔であり、代田先生はおでこに頭髪がなかったので、一人一緒に講習会などに参加すると、光藤先生が鞄持ちに間違えられたという。 

日産玉川病院は永久就職先とはいえなかった。東洋医学科として、毎年新人を募集するためには、スタッフが増えすぎないよう、自主的に辞めることも求められたからだ。
このように書くと、暗く厳しいイメージをもつかもしれない。しかし、みな若く体力があり、部活のように明るかった。誰もが明るい将来像を描いていた。

 

2.代田文彦先生の超多忙な日常

代田先生は入院患者を常時二十名近くかかえていた。それだけでなく他に週に2回半日の外来を担当し、また週に2回数時間の道路公団の保険医として出張でクリニックに出かけ、また週1日は東京女子医大耳鼻科で外来担当と研究をしていた。入院院患者に対しては日中に個別の診察の他に、朝と夕の回診を毎日していた。入院患者は1日3回顔を見せるというのを信条にしていた。このような超人的な活動を行うために朝8時から回診を始めるというスタイルをとっていた。さらに常勤医師の義務として月に3回の夜間当直があった。
研修制度2年目というのは、代田先生の入院患者を診させてもらうこと(診察と患者との心情的なコミュニケーション)とカルテ書きが主な業務だった。必要に応じて針灸治療も行った。実際に針灸を併用したのは代田先生の入院患者の3割程度だった。
日常的に代田先生も、東洋医学科の鍼灸師も自分のペースで動いたが、週に2回の病棟館カンファレンスや終業後にある勉強会ではじっくりと相談できる時間帯が用意されたいた。

文彦先生が残した資料(スライドや写真)整理していた際に、出てきた二十代の文彦先生のお写真。おそらく自撮り。
奥様も初めて見たとのこと。モノクロなのは致し方ないとしても、ピントとコントラストが甘いことが惜しまれる。

 

モノクロ写真をPCで簡易カラー化してもピントはシャープにならなかった。
しかしさらにAIで高精度化すると、見事によみがえった。
これならば奥様の瑛子先生も喜んでくださるだろう。

 

3.代田文彦先生の乱暴な言葉遣いの裏にある心遣い

私が2年目になって初めて経験する代田先生の当直で、夜間病棟回診ということで午後8時頃、あるナースステーションにいた時、あるの肺性心患者が腰が痛いと言っているとの報告を受けた。私も知っている人で、灸治療も普段から受けていた。代田先生は鎮痛剤であるインダシン座薬をオーダーし、看護士が肛門に座薬を入れた。すると数分後、患者は苦しいと叫び出した。あわてて患者のベッドサイドに駆けつけるも、呼吸できない状況に対して打つ手がない。この患者の病気は安定していると思われていたので、8人大部屋にいたのだが、同室患者他の7名は、夜の8時頃だというのにカーテンを閉め、息を殺してどうなることかと耳をそばたてていたのだろう。物音一つたてていなかった。

間もなく大便が漏れると叫び出した。その直後から意識消失しチアノーゼとなった。私にとって死ぬ間際の人を見たのは初体験でもあり衝撃だった。結局インダシン座薬による副作用のせいだった。インダシン座薬のような当たり前の薬であっても、このような結果になり得ることを知った。
 私が「まさか死ぬとは思わなかった」と言うと、代田先生は「俺は死ぬと思ったよ」と言った。その後は死後の処置が行われるが、それをするのは看護士の役割。プロとして粛々と自分の仕事をこなすのだった。ナースステーションの雰囲気は、慌ただしさはあっても悲壮感とは無縁だった。

最近、私は救急外科である渡辺祐一著「救急センターからの手紙」という本を読んだ。救急センターにおける医師の苦悩を書いたものだが、よくあるテレビのドキュメンタリー番組の内容とまるで違った。この医師も非常に言葉使いが悪いので、思わず代田先生のことを想い出してしまった。病棟内や東洋医学科内で内輪中では、代田先生の言葉使いは結構乱暴だったのだ。救急病院では日常的に人が死んでいる。すると普通であればやりきれない想いがして、厳粛な気持ちになるものだろうと考えたいところだが、ナースステーションでは医師とナースが結構冗談を言い合っている。「今晩飲みに行くか?」「行く行く!」などというやりとりのある雰囲気。それを見ていた新人ナースが、「人が死んだというのに、死に慣れるというのも恐ろしいことだ」と思って憤慨したりする。
実はそうではないのだ。医師もナースも死に衝撃を受けた。しかし自分らはプロだから死には慣れている。そう無理矢理自分をだまそうとしていて、その結果、あえて明るく振る舞っているというのが本当のところだと著者は記していた。


4.病棟カンファレンスにて

おもに2年目と3年目の鍼灸師が、分担して代田先生の患者を診させてもらってたが、週に一回、代田先生担当患者の病棟カンファれンスのまねごとをしてもらった。 2年目は4名、3年目は2人程度の入院患者を担当した。その時、この一週間の病状を報告するのだが、そのときカルテを見ることは禁止された。自分の担当患者くらい、重要点は記憶しているのは当然だろうとする立場からであった。研修生は自分の担当分だけ理解していればいいのに対し、元々は代田先生の入院患者であって、その数は二十名程度にもなったが、現在の処置、検査値を本当に記憶していることに仰天した。こんな頭の良い人はいるのかと思った。このようなカンファレンスは三井記念病院のレジデントで行われているというが、それはエリート医師の方法であって、つくづく自分の頭の悪さを思い知った。


5.代田先生の当直の夜の楽しみ

夜の病棟回診は午後8時頃から始まる。玉川病院には7つの病棟があって、当直医と婦長はこれを順番に回り、看護士から急変しそうな患者に対する状況の報告を受ける。その時、東洋医学科2年目の鍼灸師数名も金魚のフンのようについていく。こうした機会は月に3回程度あった。夜、救急患者が来た時は、守衛さんに東洋医学科にも知らせてほしい旨を伝えておく。
代田先生に時間的余裕がある時、夜の回診終了後、医局に行って酒をごちそうになりながら色々な雑談ができたのは楽しい思い出であった。代田先生は信州大学医学部在籍時、2年生から空手部の主将をしていた。対外試合では相手の打撃がモロに自分の命中しても、痛い顔を見せなかったとのこと。フルートも学習したが、上前歯に隙間があって息がもれて具合悪いので、前歯の隙間を埋めるよう金歯をつくったといって、実際に金歯をみせてもらいもした。学友の前で、本邦初公開などといって得意になったいたという。
そばにいるだけで、こちらが楽しくなるような雰囲気だった。

 


代田文誌のご家族集合写真(1962年)

2024-04-23 | 人物像

長野市のご自宅居間にて(1962年) 元のモノクロ写真

 

疑似カラーに変換、さらにAIで高精度化


代田泰彦氏(文誌先生の次男)から、暑中見舞いのハガキが届いた。コロナのため巣籠もり状態で、昔の写真を整理していたら、今まで忘れていた代田文誌一家の家族写真が出てきたとのこと。それをわざわざ送って下さった。

この代田家の御家族集合写真は1962年、文誌が長野市に住んでいた頃で、文彦先生が二十二歳の誕生日記念ということで座敷で撮影された。文彦先生も松本にある信州大学が夏休みということもあって帰郷し、全員が集まれたのだろう。みなくつろいだ表情をしているのが印象的。
この5年後、文誌は東京の井の頭公園傍に転居し、67才にして新たに治療院「延寿堂」を開くことになる。そのバイタリティに驚かされる。

向かって写真左側から、代田文誌(62才)、泰彦(次男20才)、文彦(長男22才)、千恵子(次女)、やゑ(夫人)、宏子(長女)。文誌先生はこの当時、長野県鍼灸師会会長をしていた。泰彦氏は早稲田大学政経学生、文彦氏は信大医学部学生。

モノクロ写真を手軽に疑似カラー化できることを知った。これまで20代の代田文彦先生のモノクロ写真を載せていたが、これも疑似カラー+AIにて高精度化したのでご覧下さい。

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/dd61c3e0d3149c068ee7a941120cfc8f

 


代田文彦先生の言葉と日常

2024-02-28 | 人物像

代田文彦先生は鍼灸師の心を、よく理解する希有な内科医だった。鍼灸師や鍼灸界特有の欠点があることも熟知していた。病院にいる鍼灸師には、苦笑いしつつ、時には辛辣な発言もしたが、鍼灸師の心情や立場をよく理解した上での発言で、またマトをついた指摘だったので、どの鍼灸師も反論できなかった。


1.「まず、足元を固めよ」
鍼灸師になると、すぐに将来の夢を語りたがる。そうした話よりも重要なのは、現在の立場や生活を確保することが先決だと語った。玉川病院流の鍼灸を統一しようという話もあったが、そんな暇があったら各人が自分の技量を磨いたほうがいい、と取り合わなかった。


2.「人に頼るな」
人に仕事を頼むと、がっかりした結果になることがある。全部自分でやるつもりで行うことが大事だ。 


3.「机の中身を見ると、頭の中身が分かる」
ともに整理整頓が大事だということ


4.「本田先生(私の尊敬している医師)の力が100点だとすれば、××先生(私が個人的に嫌いな医師)の力も98点はある。医師の力に大きな差はない」
代田先生の前で、私が本田先生のことを、あまり褒めるので、私をたしなめたのだろうが、真意は必ずしも明らかでない。 


5.「ある鍼灸師だが、20年間勉強を続け、医師なみの力をもった人がいる」と代田先生は語った。それを聴き、一人の針灸研修生は、少々驚き、「そんなに時間がかかるものですか?」と問い直した。代田先生は「そんなもんだ」と返答した。


6.「今(30年前)は、鍼灸師にとって、一番よい時代だろう」
   「医師にできないレベルの針灸をせよ」
 30年前の話。10年後に、鍼灸師は食えなくなる時代が来るかもしれない。医師 が鍼灸をやり出す。その対策としては、医師にできないレベルの鍼灸をすることだ。


7.「針灸は、何と頼りない医療だろう、と思う時がある」
   「針灸の守備範囲を心がけよ」
   「針灸治療が効くのは、五十肩以外は、みんな自律神経失調症だ」
 「 鍼灸をして、鎮痛剤の薬が1日3回から2回に減ったとしても、手間や費用を考えると、割に合わないでのはないか?と質問すると、「それでも鍼灸の効果はあった」と判断するのでいいことだと返答した。


8.玉川鍼灸研修生の一人(M.K氏)が、代田先生に向かって「患者に鍼灸治療をすると、邪気をもらってしまうので、非常に疲れる」と話したことがあった。先生は「それこそ気のせいだ。治療に集中するから疲れるだけだ」と返事をした。代田先生は「気」を認めていなかった。 


9.「鍼灸師は、いつまでたっても親父(代田文誌先生)の本を金科玉条にしている。よほど頭が固いんだな」と言った。


10.代田先生は、外来診療とは別に、常時20名前後の入院患者を担当していた(ちなみに常勤医師の平均入院担当は10人程度)。その入院患者は、鍼灸研修生ごとに2~4人程度が割り当てられ、助手として診ることができ、必要ならば鍼灸治療も行った。
週1回は入院患者のカンファレンスを行った。鍼灸師が担当患者ごとに現状や問題点を説明したが、その際カルテを見ながらの説明は許さなかった。代田先生には「担当した患者であれば、重要点は記憶していて当然だ」との信条があったからだ。鍼灸師の頭の中には、自分が担当した数名の入院患者のデータ(それも不確かな)しかないのに、担当入院患者20名のデータは、すべて代田先生の頭の中にあるようだった。今想い起こしてもても驚異である。


11.間中喜雄先生も針灸が大好きだが、鍼灸そのものが好きなのだ。そういう点で彼は天才だ。しかし病気を治す目的で、より良い鍼灸臨床を目指そうと考えている我々とは方向性が違う。

12.有効性の統計学的な検定は、臨床家にとってあまり意味がない。効いたか効かなかったかは、実感としてすぐに認識できる。


13.玉川病院当時の代田先文彦生は、東洋医学もできる内科医としてユニークな地位を築いていた。私が玉川に入って1年目頃には、自ら週2回の半日、針灸外来を担当していた。しかしその翌年から針灸をしなくなった(針灸は週2回女子医大耳鼻科に出向して行っていた)。
私は玉川研修生5期生だったが、玉川6期生以降の者は、おそらく代田文彦先生が実際に患者に針灸する姿を見ていないのではないだろうか。玉川で代田先生が針灸をやらなくなった理由は、内科医として多忙になり過ぎたせいであったが、本当かどうか、もう一つ理由を、先生独特の苦笑いしながら教えてくれた。自分が針灸をすれば、針灸を希望する患者が全員、自分の処へ来るので、針灸師の仕事がなくなってしまうということだった。

そして代田先生はこういった。「自分も本当は針灸したい。玉川の針灸師がうらやましい」


14.代田文彦先生が、医者になりたての頃、片手挿管法の練習をしていると、文誌先生がこう言った。「お前は医者なのだから、片手挿管法など練習しなくてよい」
以来、片手挿管法の練習は中止し、文彦先生の刺針は、常に両手挿管法によるものだった。
それから二十年経った頃、代田文誌先生の治療風景を収めた8ミリフィルムを観る機会があった。文誌先生も、両手挿管法で刺針していたのであった。

 

 15.代田文彦先生は、大学時代に空手部に所属していたのだが、大学2年時から6年時まで計5年間、主将を務めていた。対外試合の際、相手の打撃を受けても、全然効いていないような平然とした顔をして審判を欺き、相手にポイントを与えなかったという。あとで確認してみると肋骨にヒビが入っていたとか。

 

16.代田先生は、大学時代にきちんと先生についてフルートを習っていた。年に一度の玉川病院のクリスマスパーティーの演目として玉川交響楽団と称して、楽器を演奏できるドクター数名と「聖よしこの夜」を演奏したのだが、まともに演奏できたのは代田先生ただ一人だった。先生の上前歯には隙間があり、フルートを吹く時に息が漏れるということで、歯と歯の間にはさむ金でできた金型をはめ、演奏に臨んだのだった。フルートのケースには、金型も入っていた。

 

17.年に2回、玉川の東洋医学科では宴会を開いた。午後6時から開催という場合、それに間に合うように会場に来ていたのが文彦先生だった。人一倍多忙なはずなのに、これは驚きだった。他の針灸師メンバーは、いろいろな理由をつけて遅れるのが常であった。本当に忙しいひとほど時間を守ることを知った。そうしないと後の日程も狂うことになる。

 

18.先生は結構カーマニアだった。私が玉川2年目の頃、三鷹の自宅から二子玉川(通称ニコタマ)の病院まで白いフェアレディーZで通勤し始めた。職員駐車場にあっても非常に目立ち格好よかった。何回か助手席にのせてもらう機会があり、信号待ちからのスタート奪取で、背もたれに押しつけられ、他車を出し抜く加速にしびれたものである。下の写真は昭和54年製フェアレディーZだが、私が26才の頃だったので、まさしくこの外観だった。
数年後に、今度は三菱パジェロに変わった。パジェロは外見的には砂漠をキャラバンするような無骨な外見だったが、助手席に乗ってみると、高級乗用車のようなクッションと静寂性があった。フェアレディーZとは、また別の魅力があった。

 

19.代田先生は週に2回、火曜の午前中と木曜の午後2時間づつ、アルバイトで道路公団診療所で外来診療を行っていて、仕事の行き帰りには中央高速を利用した。その際、高速道路入口の係員にチケットを渡すだけでフリーパスだった。まあ当然のことであろう。他に毎週金曜は、玉川病院には出勤しないで、東京女子医大でメニエールの鍼灸臨床研究をしていた。他の常勤医師から比べ、玉川病院で仕事する時間は短いようであったが、玉川病院では朝8時から病棟回診を始めていた。朝と夕に担当患者を回診し、昼にはきちんと入院患者の処置をしていたので1日3回患者の顔を見ることにしていららしい。他に週に2回、午前と午後に漢方外来をしていた。東京女子医大での月給の額を私に漏らしたことがあった。月給××万円と、驚くほど少額だった。駐車場代(1日2万円)が女子医大負担という点が気に入ったらしい。

 

 

このお写真は、奥様の瑛子先生からお借りし、掲載の許可を頂戴しました。

 


江の島の今昔と杉山和一の墓 ver.1.1

2024-02-21 | 人物像

1.江の島道

私の住む街の隣に立川市があり、そこに「江の島道」とよばれる通りがある。この道は江の島まで続くのかと前から気になっていた。調べてみると、江戸時代以前の道の名前は大きな街道は別として、付近の住民が勝手に名前をつけることがあったという。江の島道は数百メートルの長さしかないが、地図でみると確かにその南の方角に江の島があった。

江戸時代頃から江ノ島は信仰の島とされ、庶民の間では江ノ島参りが流行した。これにあやかったものだろう。

 

 

2.今と昔の江の島
 
外国人が撮影した江戸時代の江の島の写真が残っている。モノクロなので疑似カラー化してみた。江ノ島は陸とは砂州でつながっていて、干潮時は歩いて渡ることができた。その時以外は舟で渡った。

江戸時代の江の島遠景は、現代とあまり変わらない。ただ手前にある北側(片瀬地区)は緑豊かである。あまり目立たないが、現代の江の島は島の東側は埋め立てられコンクリートで広く造成され、ヨットハーバーや市民公共施設などになっていて、面積も江戸時代にくらべ倍増している。江の島ヨットハーバーは、1964年と2021年の東京オリンピックのヨットレース会場にもなった。

ところで浮世絵師の葛飾北斎も、富岳三十六景のシリーズとして「相州江の島」として下記の絵を描いている。意外にも写実的描写になっている。


3.信仰の山としての江の島

宗像(むなかた)大社とは沖津宮(へつぐう)、中津宮(なかつぐう)、辺津宮(おきつぐう)の総称で、それぞれ天照大神の三女神を祀っている。福岡にある宗像大社がとくに有名で、その沖津島は世界遺産に登録されいる。江の島にもにも宗像大社がある。辺津宮の女神が美人だったことから最も人気があって、弁財天(通称、弁天様)との別称がついている。江戸の住民にとり、江の島の弁財天にお参りできる信仰の山であると同時に、門前町特有の賑わいがあった。江戸の人にとって、お伊勢参りは遠く、その点江の島は手頃な観光地だった。

上写真は、辺津宮にある弁財天。通称、はだか弁天。辺津宮の女神である。人づてにこの噂を聞きつけ、これを見たさに多くの者がここを訪れたことだろう。



          

    江の島仲店通りと一の鳥居

 

江の島の入口には翠(みどり)の鳥居があり、なだらかな坂を過ぎると朱の鳥居がある。ここから道は3本に分かれた急坂になる。正面道は竜宮城のような建物をくぐり階段を登ると辺津宮に着く。左の道はエスカー乗り場である。エスカーとは、数十年前につくられた有料の連続する何段ものエスカレーターのことで、楽して辺津宮まで連れてってくれる。ただし下りのエスカーはないので階段で下りる他ない。和一の墓石は、右の急坂を上ってすぐ右手にある。


 


4.杉山和一の墓石


杉山和一は85才で没した。和一の墓は両国の杉山神社にっほど近い弥勒寺にあったが、和一にゆかりの深いということで江の島にも分祀した。この墓は江戸時代に建立された。墓石が苔に覆われて歴史の重みが伝わってくる。弥勒寺のものと比べても規模が大きい。


5.江の島灯台から岩屋までの道

辺津宮からの道は割合平坦で、間もなく江の島灯台に着く。ここは展望台を兼ねている。展望台にはシーキャンドルという、つまらない名前がつけられてしまった。
参拝者は、辺津宮、中津宮、奥津宮の順番でお参りすることになるが、次第に歩く人は減り、道も細くなる。奥津宮を
過ぎると道は急な下り坂となり、海岸に達する。この岩だらけの海岸は稚児の淵とよばれる。海岸には岩屋とよばれる2本の海蝕洞窟がある。第一岩屋は152m、第2岩屋は52mの長さであり案外短い。これが岩屋である。この洞窟こそが江島神社の発祥地になる。

江戸時代の奧津宮は、この岩屋にあった。和一は、この岩屋で21日間の断食修行し、針管法を着想した。岩屋は一年の半分くらいは洞内に水が入ってくるので、現在の奥津宮は山の上に移設されたものである。


4.江の島「岩屋」と杉山神社「岩屋」

上写真は、現代の岩屋。左下にあるのは岩屋までのびる高架通路。足が海水に浸かることなく洞窟見学ができるようになったのはよいが、「苦労して洞内に入りました」との達成感も失われてしまった。 

江戸時代の岩屋は、浮世絵の人気の題材で、多くの絵師が描いている。下は歌川国貞のもので、これを見たら一度は行きたくなるに違いない。

 

杉山和一は、江ノ島の岩屋で断食修行し、針管法を発明したので、宗像大社に厚い信仰をもってた。八十才を越え検校(盲人針医の最高位)にまで上りつめた後も、月に1度は江ノ島詣を欠かさなかった。両国から江の島まで直線距離でも60㎞はあって、当時の人は健脚だったにしても片道丸二日の行程だった。これを知った将軍綱吉はこれをねぎらい、両国の本所一つ目の地の江島神社内に江ノ島岩屋に似せた洞窟を造成し、参拝できるようにした。江戸庶民も、わざわざ江ノ島までお参りに出向く必要がなくなったといって歓迎し、江島杉山神社は大きな賑わいをみせた。
 
江島杉山神社については、以下の拙著ブログを参照のこと。本稿をもって杉山和一についてのブログ三部作が完成しました。これは杉山流三部書にあやかったネーミングになります。

江島杉山神社と弥勒寺参拝 ver.1.3

2024.4.18

三重県津市、偕楽公園内<杉山和一、生誕の碑>参拝

2022.11.1

6.べんてん丸

岩屋を参拝した後は、渡し舟「べんてん丸」に乗船すること約10分で、江の島弁天橋のたもとまで運んでくれる。ただし気象状況によって運休になることもある。昔私が行った時は、運休していた。やむなく行きと逆コースを徒歩で戻った。急坂に苦労した覚えがある。

 


江島杉山神社と弥勒寺参拝 ver.1.3

2024-02-18 | 人物像


 新年の令和4年1月2日、江島杉山神社と弥勒寺の見学に出かけた。新コロナ禍の中なので、今回は一人で出かけた。両国駅から徒歩10分ほどで隅田川が見た。水上バスが宇宙船のような形だ。それを過ぎるとマンション風の鉄筋建造物があり、出入り口がお寺のような形をしている。何かと思って近づくと「春日野部屋」と書かれていた。このあたりは両国国技館も近く相撲部屋が多いのだろう。

隅田川と水上バス

春日野部屋の正門

 

両国駅から歩くこと10分くらいで江島杉山神社に到着。近所の方々だと思うが、次から次へと参拝に来る人が多く、気合いを入れて合掌する人もいたのは驚きだった。着飾っている人もあまりないことから、日常的存在として逆に地元の方々の信仰に根付いていることが知れた。そもそも本来は江の島なのに、なぜ江島と命名したのか謎だったのだが、結局どちらでもよく意味が通じればよいらしい。

江島杉山神社の一の鳥居

本殿。左に見えるのは杉山和一記念館

 

1.杉山和一の管鍼法発明のきっかけ

和一は江戸時代、伊勢の津で生まれた(三重県の津市の偕楽公園には「杉山和一生誕の碑」がある)。幼い頃失明した和一は鍼で身を立てるため、江戸に出て山瀬琢一に入門した。しかし師から経絡経穴の教えを受けても記憶することができず、師はこれを怒って追放してしまった。悲観した和一は江戸自体信仰修行の場だった江ノ島の岩屋にこもり7日間の断食修行したが満願の日になっても収穫らしきものは得られず、悲観して帰路についた。その道中、石につまずいて倒れたが、足に刺さるものがあるのに気づき、手に取ってみると、それは 筒状になった椎の葉に松葉が包まったものだった。このような筒に鍼をいれて刺入すれば痛くなくさせるのではないかと考えたのが、今日主流の「管鍼術」であった(江戸時代の鍼は太かった)。
なお上記の鍼管法発明のきっかけとなったエピソードは、今日ではよく知られているものだが、”筒状になった椎の葉に松葉が包まったもの”が刺さるということは、少々できすぎた話ではないかとの疑問が残った。杉山流三部書の序を書いた今村亮(明治十三年)によると、「岩屋で断食修行中の夢うつつの状態の時に、鍼管と鍼を授かったということである」とだけ記載がある。

和一の著として非常に有名なものに「杉山流三部書」がある。どのような内容なのか読んでみると、意外なことにすでに知っている内容ばかりだった。このことは現行の鍼灸学校教育に内容が吸収されたことを示している。改めて杉山和一の影響力が大きかったことに気づく。

2.綱吉の褒美としての本所一つ目の土地を提供

杉山和一は時の将軍徳川綱吉(生類憐みの令で有名)の難病を治療・回復させた。綱吉から何か欲しい物はないかと問われ、和一は「この世で何もほしいものはありません。それでもと言うのなら、(盲目の私は)物を見ることのできる目を、と願うばかりです」と応じた。哀れに思った綱吉は、本所一ツ目に三千坪の土地を下賜し、和一は総録屋敷(盲人の職業自治組織)と針灸按摩講習所を設立した。なおこれは世界初の盲人教育の場だった。

和一は、ついに検校の位にまで上り詰めた。検校とは、鍼灸あんまを職業とする盲人の最高位で「けんぎょう」と読ませる。将軍とその家族の治療にあたる者をいう。ちなみに座頭市とは、座頭という低い身分のあんま師で、名前が”市”という意味である。市中を杖をもち笛を吹きつつ歩き、客をとって生活していた。

和一は八十を過ぎても月一度の江ノ島の岩屋の月参りを欠かさなかった。これでは身体がもたないと思った綱吉は、この敷地内に岩屋風の洞窟を造成し、江ノ島弁財天の御分霊をお祀りすることにした。これはすぐに「本所一ツ目弁天社」と呼ばれ名所になり、江戸庶民の信仰を集めた。和一が没したのは、八十五才の年だった。

 

3.江ノ島にある宗像(むなかた)神社

宗像神社とは海難事故の安全祈願の神様で、海辺にあるのが特徴。本家は宗像大社といい、福岡県にある。その支社は宗像神社で全国に数カ所あって江ノ島(江島ともよぶ)もその一つ。宗像神社は、3つで一組になっており、辺津宮(へつぐう)・中津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)とよぶ。津には”何々の”といった意味がある。三つの神社には辺津宮=田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮=湍津姫神(たぎつひめのかみ)、沖津宮=市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が祀られている。
辺津宮の女神は美人であることも知られ、弁財天(通称弁天様)ともよばれる。弁財天は<水の神>そして<銭の神>とされている。水の神なので、境内にある池を渡ってお参りする。またそれを守るのは、狛犬ならぬ白蛇と決められている。

池には滝に見立てた水流れが注ぎ、その傍らには琵琶を弾区弁財天の石像がある。

辺津宮、中津宮、沖津宮だが、辺津宮は最も規模が大きく交通の便もよい。しかし沖津宮は小さく行き着くのが難しい。宗像大社の沖津宮は福岡県の北、玄界灘中央の小島にあり、中津宮からは海を隔てて沖津宮を眺めることができる。沖津宮は、現代にあっても女人禁制どころか一般人も立ち入りできない。神職のみ上陸時には海中での禊を行い、神事を司るが一木一草一石たりとも持ち出すことができない。神職は一ヶ月毎に交代で勤める。
 
江ノ宮の沖津宮は元は岩屋にあったというが、1年の半分は洞窟が海水に満ちて入れなくなるので、現在は島の高い処に移されているた。

琵琶を弾く弁財天。手前にあるのが銭洗い場

 

 

4.岩屋の中はどうなっているか

池にかかった小さな太鼓橋を渡ると、すぐに岩屋入口になる。内部に蛍光灯は光っているが少々薄暗い。5mほど歩くと杉山和一像があり、そこがT字路の分岐。右手すぐには
宗像三姉妹の女神を祀っているが暗くてよく見えない。左に曲がって3mほど行くと
大きな蛇像があり、その周りを陶器の小さく可愛い白蛇が何十体ととぐろを巻いていた。

杉山和一像

 

 

宗像三姉妹の像?

 

白蛇の石像

 


5.その他境内にあったもの

江島杉神社は、誕生した経緯が複雑なので、祀っている内容も、多彩で興味はつきない。

①本殿、②杉山和一のレリーフと点字の説明文、④力石(力自慢大会用)、⑤杉多稲荷神社の鳥居と石碑。綱吉が和一に贈った土地は、元は杉多神社だったというが、杉多神社は隅に追いやられた形になっている。
本殿左には近年、杉山和一記念館が設立された。1Fは杉山和一の資料館、2Fは杉山按治療所になっている。ただ正月中は休館ということで見学できず残念だった。

 

和一のレリーフと点字の説明文

杉多稲荷

6.2019年に発見された杉山和一の木像

2019年、和一木造座像が江島神社で見つかった。木像の存在は知られていたが、注目されてこなかった。このたびの調査で和一自らが作らせた唯一の像と判明した。木像は高さ約50cm。頭巾がないこともあって、これまでの和一像と比べて年は若く写実的で、等身大の人間として彫られている。

 

 

7.杉山和一の墓

杉山神社は「神社」であり、神を祀るところなので境内に墓はない。といよりも杉山和一は85歳で没したが、その当時そこは江島神社であって杉山神社ではなかった。明治二十年頃になって杉山和一の霊牌所が再興し、江島神社境内に杉山神社が誕生。昭和27年に合祀し江島杉山神社となった。

杉山和一の墓は、江ノ島にあるが、徒歩15分ほど離れた弥勒寺にもあるので、当日は弥勒寺も参拝した。外見はごく普通のお寺で、正月だというのに参拝する人は見あたらない。正門を入って、右側は墓地となっている。すぐ左側にはお目当ての「杉山和一の墓」と「はり供養塔」が並んでいた。両者とも質素なものだった。和一の墓前には、なぜかセイリンディスポ針のカラの包装が落ちていた。鍼灸学生が和一に見守られながら、この場所で刺針練習したとでもいうことだろうか?
はりというと、普通は裁縫用の針の供養のことをさすが、こちら鍼治療用としての鍼である。石碑の上から鍼柄がとび出ているかのような趣向ということは、縦長の石碑は鍼管を表現しているものではないか! 実によく考えられている。この石碑が鍼管法の創始者、杉山和一の墓にあることは憎いばかりの演出である。

 

弥勒寺

現在の杉山和一の墓。(あまり特徴がない。昭和以降に新たに造り替えたものだろう。墓石を墓誌は江戸時代のものか?)

江戸時代の和一の墓はこのようだった。この形は、江の島にある和一の墓石と同じタイプのようだ。

はり供養塔

昭和53年、東京都鍼灸按マッサージ指圧師会、社団法人東京都鍼灸師会など関連六団体により建立された。


9.回向院(追加分)

江島杉山神社と弥勒寺に行った道すがら、回向院にも立ち寄った。回向とは死者を供養するという意味がある。江戸時代に明暦の大火により10万人以上の人命が奪われた。回向院は、将軍家綱は、このような亡骸を弔うべく、万人塚という墳墓を設けた。これが無縁寺・回向院の始まり。交通の便が良い地だったので、江戸中期からは全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、参詣する人々で賑わった。境内はさまざまなものが祀られているので、逆に宗教色はあまりない。昔から庶民のたまり場といった感覚で、庶民とともに歩んできた寺院ある。すぐ隣地には江戸時代に土俵が置かれていた場所というのが残っていて、回向院でも勧進相撲が行われていた。力塚と刻まれた大きな石碑が残っている。

 

一番人気は、大泥棒「鼠小僧次郎吉」の墓で、手を合わせる人が尽きることはない。やばい事をしても捕まることがないとされ、墓石を刻んで持ち去る者が非常に多かった。そこでお寺の対策であるが、”お持ち帰り用”として墓石の前に白い塩の塊ようなものが置いてある。これは勝手に削っても叱られることはない。

 

神社内には、水子塚もあって、多数のかざぐるまで囲まれている。このかざぐるま幼くして亡くなった子供を慰めるためにある。青森県の恐山にあるかざぐるまは、北風にビュービューと吹かれているのに対し、回向院のかざぐるまは、暖かいそよ風にゆっくりとクルクルと回っている感じで暖かい。

 

 

 


代田文誌の年譜(代田文誌の鍼灸姿勢その1)ver.1.3

2023-08-21 | 人物像

 1.「鍼灸真髄」を著した頃

代田文誌先生(以下敬称略)の鍼灸は、前半生が沢田流太極療法、後半生は現代鍼灸に変化したことはよく知られている。沢田健の神業のような治療効果に仰天し、心酔したことは「鍼灸真髄」に詳しく記されているが、文誌の年譜を調べてみると、沢田健の治療を初めて見学した時は、文誌は鍼灸免許を取得して、わずか1年しか経過していないことを知った。すでにこの段階で、沢田流を受け入れる下準備ができていたことに驚いた。
 
ところで沢田流太極療法とはどのような治療法なのだろうか。今となっては、その名前だけしか知らない鍼灸師が多くなってしまったので、その概要を解説する必要があるだろう。これは次回ブログに書くことにする。

 


2.科学派鍼灸への転向

また文誌の後半生は、現代鍼灸に変化したが、私は沢田健の治療である沢田流太極療法に見切りをつけた理由が知りたいと思うようになった。これについては「經絡論争」(昭和24~25年頃)の時期、經絡肯定派と經絡否定派との間で、医道の日本誌上で討論がなされたが、それについて文誌は次のように記した。

「古典を古典のままに学びとり、これを生ける人体に応用し、それによって古典の真価を証明するとともに鍼灸古典の中に伏在する科学性を見さんとしたと述べた、さらに古典を生ける人体に合わせて実験し、死物の古典を以て生ける活物の人体を読んで、古典の真意をすっかり体得してから、然る後に現代科学を以てこの生ける事実を批判し解刻し、そこに伏在する科学的真理を探り求めねばならぬ」
 
すなわち文誌の求める鍼灸とは、古典鍼灸ではなく科学的針灸だったことが理解でき、ライフワークとして鍼灸を研究する順序として沢田流鍼灸から入ったとみるべきだろう。
 まさしく守破離を地でいった人であった。經絡論争にみる代田文誌の発言を、もう少し詳しく見ていく必要があるだろう。これは次々回ブログで書く予定にする。

上写真は、Data Chef によりモノクロ画像を、疑似カラー化した。

 

3.代田文誌年譜

<世に出るまで>


1883(明治16) 医制免許規則布告。漢方医排除された。ただし一般大衆に親しまれた鍼灸術は、一般の家庭で盛んに実施され続けた。

1990(明治33)  長野県飯田市の農家に生まれる
1911(明治44) 按摩・針術・灸術の営業取り締まり規則が発布。
1920(大正9)20才 正月に喀血、東京私立錦城中学校を結核にて中退。この闘病体験が以後の死生観に大きく影響し、仏門に入る。この年、マッサージ術、柔道整復術の営業取り締まり規則が発布。
1926(大正15)26才 早稲田大学文学部通信教育卒。
 鍼灸術検定試験合格し鍼灸師となる。当時は針灸学校というものはなく、鍼灸師の元で4年間以上修業をしたという証明書があればそれが針師灸師試験の受験資格となり、試験を経て鍼灸師となることができた(鍼灸師免許という大層なものではなく業として鍼灸してもよいという鑑札だった)。代田文誌は飯田市の盲人鍼灸師の処で「4年修業した」というニセ証明書を書いてもらい、ともかく鍼灸師になることができた。今となっては考えられないことである。
(皮内鍼で有名な赤羽幸兵衛も、当時のカネで金5円で証明書を書いてもらった。)

※20才~27、8才まで、結核により長い療病生活を過ごしていた。

<第1期(沢田流鍼灸と現代医学の研修時代)>
1927(昭和2)27才  沢田健氏に師事(以降12年間。沢田健死去まで)、 同年母、やすえ死去
 (沢田健氏の見学を見学し始めた段階では、ほぼ針灸臨床経験ゼロだった)
※沢田健は1877(明治10年)大阪の剣道指南の家に生まれた。青年時代に京都武徳殿で柔術を修業し、活殺自在の
法や接骨術を習得。青年期、朝鮮に渡り、釜山で鍼灸治療所を開設。
1922(大正11年)、後に沢田健の門下生となる城一格氏の招きで、45才で日本へ帰国。城氏は沢田に鹿児島で針灸免許を取得させようとしたが、灸の免許取得はしたが針の免許は取れなかった(当時の都道府県の針師灸師の認定試験の合格率は20%前後)。東京で開業。関東大震災(1923)で一切を焼き尽くすも、再び小石川雑司ヶ谷にて治療院を再開。

※代田文誌著の沢田健治療の見学記「鍼灸真髄」は昭和2年~昭和12年のもの
1929(昭和4)29才 東大の医学解剖学教室で勉強(以降2年間)
1930(昭和5)30才 父、代田安吉死去(昭和2年の母の死後、父も生きる気力を喪失)

1931(昭和6) 31才 長野県日赤病院研究生(以降3年間)
    昭和8年頃から東京は上野駅前の旅館「東洋館」で出張治療開始。月1回、治療日は一両日。
1936(昭和11)36才 長野に移転
1937(昭和12)37才 結婚(夫人の名前は、やゑ)

1938(昭和13)38才 澤田健は疔を背中に発病。同年61才にて死去 
文誌は、この年より終戦頃(昭和20年)まで、
茨城県東茨城郡内原村にある満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練の衛生課顧問として、灸療所の開設および開拓医学の指導を行なってきた。この施設で訓練を受けた者たちは満州へ送られたが、敗戦と前後してソ連軍が満州に侵攻したことにより、落命した者も多い。 

 

<2期(GHQ旋風と科学派鍼灸の確立へ)>

1939(昭和14) 39才 代田文彦(元、東京女子医大教授)出生

昭和8年この頃、1944(昭和19) 44才 長野市で開業。倉島宗二、塩沢幸吉らと共同で臨床に従事(1966年, 代田68才)まで。代田文誌は、末尾が、7、8、9のつく日。すなわち月9日間担当。
他の二名の先生も同様に月9日づつ担当した。 この頃の東京出張は、東大正門前の新星学寮で施術。治療は6畳、
2組の布団。助手を1~2名使って非常に多忙だった。治療費は初回500円、次回以降は400円。
もぐさ一袋30円。なお 同時期、長野市で行った治療代金は、初回170円、次回以降130円だった。
  ※新星学寮とは、篤志家H氏が主として優秀学生のために共同管理、共同経営した学生寮。  
  毎月、月初めの、一両日。東京以外でも松本・上田等でも出張治療。これは日帰り、または一両日の治療だった。
1945(昭和20) 終戦
1947 (昭和22)  昭和21年、日本国憲法制定に伴い、GHQは鍼灸禁止令を指示しようとしたが、
  石川日出鶴丸(当時、三重医学専門学校長)は「鍼灸術ニ就イテ」という陳情論文を提出。また同年、代田は日本鍼灸
医学会の再建決意。
元京都大学生理学教授の石川日出鶴丸博士の門下に入り、求心性自律神経二重支配法則などを学ぶ。

1948(昭和23)48才 鍼灸術禁止令解除。日本鍼灸学会発足
  金沢大学病理学教室石太刀雄博士の下で内臓ー皮膚血管反射の研究開始。
1949 (昭和24)49才 皮電計について研究開始。東京小石川にて開業
  ※この頃から約2年間、「經絡論争」が起こった。經絡否定派は、代田文誌、米 山博久。經絡肯定派は、柳谷素霊、竹山晋一郎ら。昭和25年米山はついに「經絡非否定論」を医道の日本誌上に発表。
1951(昭和26)長野県鍼灸師会初代会長(昭和40年まで)
1960(昭和35)日本針灸皮電研究会(現、日本臨床鍼灸懇話会)を発足
1967頃(昭和42頃)67才 東京の井の頭公園傍に移転し、針灸院開業
1974(昭和49)74才 死去


間中喜雄著「PWドクター沖縄捕虜記」と平和碑  ver.2.1

2022-11-09 | 人物像

1.「PWドクター 沖縄捕虜記」とは

間中喜雄先生は医師となって間もなく招集を受け、5年余を軍隊で過ごしている。この間の最後の1年、すなわち終戦直前から沖縄本島での捕虜生活の様子が、自著「PWドクター 沖縄捕虜記」(1962年金剛社刊)に記録されている。なおPWとは、prisoner of war (戦争捕虜)のことである。私は35年ほど前に古本で800円で入手したが、すでに絶版で入手困難である。
間中先生が世間に広く知られる存在になるのは1950年の日本東洋医学会設立時頃からであり、以後は中国、アメリカ、フランス等世界中で講演活動することになる。
本書は、いわゆる"世に出る"前の下地形成の資料として格好な読み物となっている。

2.間中喜雄の前半生の年譜
明治44年 小田原生まれ
昭和10年(24歳)京都帝国大学医学部卒業。その後、東京で2年間の外科研修
昭和12年(26歳)父親の代から続く小田原の「間中外科病院」を継承
昭和15年7月(29歳)招集 東部12部隊野戦化学実験部に配属。その後復員。
昭和16年(30歳)宮古島、豊部隊山砲兵第28連隊に陸軍軍医中尉として再度配属。
昭和19年10月 アメリカ軍の宮古島空爆開始、以後連日のように空爆を受ける。
昭和20年9月(34歳)無条件降伏 
昭和20年11月 アメリカ占領軍が宮古島初上陸。捕虜となり、沖縄本島へ輸送。
         屋嘉戦争捕虜収容所で10日間過ごす
昭和20年末 嘉手納第7労働キャンプに移動。医師として10ヶ月間労働
昭和21年12月(35歳) 那覇港→名古屋、復員。10ヶ月間の労働賃金は90ドル。
           (以後省略)

3.PWドクター時代の間中先生の日常

間中喜雄先生(本書では新納仁としている)は沖縄の一孤島である宮古島(本書でM島としている)に陸軍軍医中尉として配属された。宮古島は沖縄の遙か南200㎞下った孤島である。
宮古島に間中先生が配属されて数年後からアメリカ軍の空爆が連日のように始まり、軍事基地だけでなく市街地も廃墟同然となり、深刻な食糧難、非衛生状態の蔓延から、風土病であるマラリアが大流行していた。当時宮古島には、終戦当時、2万人の日本兵がいた。

しかし本書は、そうした凄惨な状況には触れていない。基本的にはユーモラスな自伝であり、終戦宣言後の、混乱状態から書き起こしている。宮古島では激しい爆撃はあったが、アメリカ軍の上陸による戦闘はなかったせいか、戦後に来島したアメリカ占領軍に対しても、敵愾心がおきないらしく、元日本兵は従順にアメリカの指示通りに動いた。
(沖縄地上戦の後に捕虜となったものは、宮古島出身兵と異なり、極限的な体験をしたので、捕虜生活というのは魂の抜け殻のようだったらしい。)

嘉手納労働キャンプで、初めてナマでアメリカ人の社会の一端を知ることとなり、カルチャーショックに襲われた。豊富な物資、機械化、スピーディーな事務処理、あけっぴろげな人間性について、驚きは大きかった。一方、厳しい軍紀下にあった日本軍内での将校や兵も、同じ捕虜として対等な立場になった。いままでの価値観や規律は一気に崩壊した。

本キャンプには、二千名ほどの捕虜が集められたが、英語の達者な者は2名のみ(うち1名は二世)。間中先生も、少々英語を操れるというので、重宝された。
元々秀才だった間中先生にしても、ナマの英語を身近で見聞きするという生活は、初めての訳で、実践英語の良い英語訓練の場となった。手元に辞書がないので、相手の言っていることを推理する他なかった。アクセントを間違えたら、ありふれた言葉も通じないこと。自分は、アメリカ日常用語を知らないことを痛感した。間中先生は、近い将来、国際的に活躍することになるが、その下地が形成されたらしい。
  report→出頭する(報告せよ) observe→出席する(見る
  火が消える→go out   火を消す→put out    cot→簡易ベッド
  必要である:It is indispensable. →I cannot do without it.
英語では、このDO  TAKE  MAKE  PUT  GO  GET というようなやさしい言葉の組み合わせで、いろいろな言い廻しができる。読み物もないので、米軍娯楽用の小説を図書館から借り受けて読んだ。辞書がないので、判らない字は飛ばして読むのだが、こうした楽な読み方が非常に英語の勉強になるという。

一般兵(将校以外)は、強制労働で、木工、土工、給仕、コック、ペンキ吹きつけ、倉庫番、荷役、掃除など。午前8時出発、作業中止が午後4時、午後5時到着。土曜は半休で午後はスポーツ。祝祭日は休み。食い物は米軍と質・量ともに同じ。きびしく鍛え上げられた日本兵からすれば、非常に楽な生活だった。日本人は働き者が多く、しばらく作業所に通っているうちに信任を得てアメリカ軍の監督なしで作業する者も多くなった。
終いには、爆弾庫の管理、武器の管理まで捕虜に任せた。
敵と戦う必要がなく、食べ物も豊富にあるとなると、暇つぶしの方法が問題になってくる。

捕虜の一人が踊りのお師匠さんがいて、踊りの稽古が始まった。これが高じて、カテナ納涼大会が発足。盛大に踊りの輪ができた。やがて風呂設備や床屋、スポーツ施設(野球、ピンポン、バトミントン、バレーボール、バスケットボール)も完備。収容所同士のリーグ線や米軍と試合するのもできた。土俵もつくり、番付までできた。最も豪華だったのは演芸分隊で、田舎の芝居小屋ぐらいにはできた。この演芸が収容所生活最大の慰安だった。手元には脚本や参考書もないはずなのに、毎週出し物を工夫した。

4.面白かった文章の一部

1)宮古島の対空射撃について:我が軍の対空砲砲火は、まったく敵飛行機に当たらなかった。後期になると、砲弾を節約するため豊式爆弾を使用。豊式爆弾というのは要するに打ち上げ花火のことである。これで飛行機が落ちますか?と問うと「落ちはしまいが、敵は驚くだろう」(大きな音がするので)と答えた。
2)終戦後、宮古島にも飛行機がDDT(新型殺虫剤)を散布。人畜無害なのに、目立って蚊や蠅が減り、その効果に驚いた。
3)宮古島から沖縄本島への輸送船内では、あちらこちらで車座になってサイコロ、トランプなどの賭博横行。湯飲み大の缶詰を2缶配給された。1つはビスケット・レモンジュース・ジャム、もう1缶には、肉や豆が入っている。久しぶりの美味に、こんなうまいもんが世の中にあったのかと思う。
4)かつての大隊長も同じ捕虜キャンプに集められた。間中先生の姿をみて大隊長曰く「やあ貴公もここへ来たかや」と言ったといって、ご機嫌だった。同じ不幸は仲間が多いほど慰められるし、同じ幸福なら仲間が少ないほど得意なものである。
5)カデナ労働キャンプ内には、他に医師もいた。大柄なその医師に身長を問うと、「目の下170です」と奇妙な挨拶をした。
6)毎日、ジャムの5ガロン缶が十人に1つの割合で配給がある(1ガロン≒3.8リットル)。始めは珍しくてペロペロなめていたが、だんだんと飽きて見向きもしなくなる。そのジャムとイーストを混ぜて五ガロン缶に入れておいた。次の日衛生兵が大声を挙げて「できました。こりゃいけます‥‥」とジャム酒をもってきた。甘口のどぶろくと化した。酒の醸造法も、たちまちカデナ全体の流行になった。
7)ラジオが日本の君が代を放送した。日本を敵として戦ってきたはずの米兵たちが起立して敬意を表している。日本の捕虜たちは戦争が負ければ国家もくそもあるものかいといった顔で知らん顔している。

 

5.間中喜雄の「平和碑」について

私は「PWドクター沖縄捕虜記」を読み、間中喜雄にとって、太平洋戦争が世間一般の常識とは異なり、苦しみの体験という印象はあまりないように感じた。ところが最近、間中の地元である小田原市郊外の東泉院という寺に、間中作の「平和碑」のあることを知った。間中が死去したのは1989年なので、少なくとも30年以上前に作られたことになる。間中は書画の才能もあったので、石版に文字を刻み石像も自作した。石碑の文章をみると、間中の戦争体験が悲痛であったことを改めて知らされた。

東泉院入口

 

 

以前は違ったが、石碑の文字の周りが白くなっている。タワシなどで擦ったのだろうか。誰かが文字を鮮明にさせるためにやったものだろう。

「何のために死んだのか判らない人たちに捧ぐる碑」
平成元年十一月、間中喜雄によって小田原市久野の東泉院に造立された慰霊碑)

間中喜雄 平和碑

戦争の狂気が国々を侵すとき無数の
無辜の人々がいたましくもその犠牲になって殺されてゆく

無辜(むこ):罪のない者

この碑文は、民間人が戦争で殺された不条理に対する無念を表しているものだが、具体的には原爆で亡くなった犠牲者に対する無念のようだ。脇にある詩碑の写しには次のように示されている。

九泉の地底より 千仞の天まで
一と数え 拾百千と読み 万億兆と叫び 
血を吐きて、なお反響も無き寂滅 
頭を打ちつけ 地団駄を踏み 転輾反側すれど こたえも無き無明 
迷蒙より諦観へ 暗黒より光明へ身をもんで求むれと無
真理は虚妄 善は仮象 愛染も空し
右顧左眄して 眼睛何を見んとするや 
須是を永遠とし 屈折し 展しまさぐり 喝仰し 何をか得たる
神神は死し 大地は枯渇し 七つの海に魚も住まず 
魂魄も息づかざるに いづかたに理想あるや
うめけ泣け苦しめ是れ 形骸を烈火に点し 無に帰れ 
すべてのもの失せて消滅せん

原爆の日にうたえる

間中喜雄(印)
平成元年十一月

 

 


三重県津市、偕楽公園内<杉山和一、生誕の碑>参拝

2022-11-01 | 人物像

  令和4年10月30日の日曜、「三県合同鍼灸研修会」講師として招かれ、三重県津市の三重県鍼灸師会ビル内で講演をする運びとなった。講演内容に関してはは稿を改めて記すことにする。”三県”とは三重県・愛知県・岐阜県のことである。同時に講演したのは昭和大学医学部、生理学講座生体制御学部門教授の砂川正隆先生だった。その前夜、隣駅の立川駅前を夜10時45分出発、夜行高速バスに乗ること6時間半で早朝5時30分に津駅前に到着した。三重県津市は大阪から南に下った所にあるというイメージがあり、東京から遠いと思っていたが意外と近いことに驚いた。夜行高速バスは横3列シートで横にゆとりがあったのはよいが、同乗者の睡眠妨げるという理由で、窓はずっとカーテンを閉めたままにしてくというルールがあり、車窓を楽しめないのは残念である。

 バスに乗車の際、運転手が私のチケットを調べた。それを見て「ツーですか?」と質問した。私はなぜここでなぜいきなり two と言ったのか理解できなかったので「ツーとは?」と聞き返した。運転手はこれを無視し、「似田様ですか」と質問したので「そうです」返事した。これでチェック終了。後に分かったことは、津の住民は津のことをツーと伸ばして発音する方言なのだという。

 話を本題に戻す。津に出かけたのは研修会のためだが、もう一つの目的は杉山和一生誕の碑を見ることだった。

私の知るところ、三重の鍼灸の歴史的偉人としては、古くは杉山和一、新しくは石川日出鶴丸がいる。石川日出鶴丸は1944年、三重県立医学専門学校(三重大学医学部の前身)の校長に就任。学校内に鍼灸療法科を設置した。二次世界大戦後、GHQは医療改革の中で従来の鍼灸治療を問題視していた。1947年7月1日、石川はGHQ三重軍政部に呼び出され、鍼灸に関する15項目からなる質問書を手渡された。石川が提出した回答書を見て軍医の態度は一変し、鍼灸治療の存続が認められることになったとの経緯がある。石川日出る鶴丸には、<滑伯仁ノ「十四経絡発揮」ノ現ハレルマデ(日本鍼灸皮電学会編 昭51>の著書があり、このブログでも紹介したことがある。なおご子息は「内臓体壁反射」で有名な石川太刀雄である。

ブログ:滑伯仁ノ「十四経絡発揮」ノ現ハレルマデ の要点
https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/42890eba9b86c1917c0006371e8b1fbf

話を杉山和一のことに戻す。この石碑は、津駅から徒歩10分の偕楽公園内にある。もとは伊勢津藩主、藤堂高猷(とうどう たかゆき)の敷地だった。藤堂は幕末から明治初期にかけ、軍や警察方面で活躍した偉人で、藤堂の死後、津の人々にこの敷地を下賜した。偕楽公園はとくに規模の大きい公園というわけではないが、起伏に富む地形を利用して山や谷を造成し、中央には池もある。春の花見時期には大賑わいをみせるという。この公園を特徴づけるのは、郷土の偉人たちの石碑が、十基ほども建っていることだろう。子供の遊具やSL展示もあり、盛りだくさんである。

津市、偕楽公園入口 。 朝の6時頃なので青く写っている

SL(D51 通称デコイチ)展示

偕楽公園内の池

 


杉山和一の石碑もその中の一つ。高さ50㎝で2メール四方の台座の周りに柵があり、台座中央にはさらに50㎝ほどの台座、その上に2mほどの大きな石碑があった。石碑の表には、「鍼聖杉山総検校頌徳碑」と刻まれ、裏目には細かな文字で本人の生涯の内容が掘られていた。

 

杉山和一の石碑(遠景)

 

杉山和一の石碑(近景)

 

石碑クローズアップ 「鍼聖杉山総検校頌徳碑」と刻まれている

石碑裏面 杉山和一の生涯を紹介

 

2メートル四方の台座のへりには12本の円柱状の杭があって、うち端や角の6本の杭は鉛筆の芯が飛び出ているような形をしていた。この形は両国の弥勒寺にある「針灸供養塔」と同じ意匠であり、鍼管からとびだした鍼柄を示しているものだろう。鍼管発明者にふさわしいといえる。

 

両国の弥勒時にあるはり供養塔。杉山和一墓に隣接している。

 

石碑の左奥には、高さ50㎝ほどの白く小さな石碑があって、「鍼塚」とあり、右肩には「杉山弁財天」と彫られていた。両国の杉山神社は、杉山和一が江ノ島にある宗像神社の辺津宮に願をかけだのだが、辺津宮の女神が美人であったことから弁財天として人々に人気があった。このような背景があって、杉山和一と弁財天が関係した。杉山和一は尊敬の対象ではあっても信仰の対象ではなかった。しかし「杉山弁財天」とすることで鍼聖杉山総検校頌徳に対しても人々は手を合わせる対象となることもできた。

 

 

偕楽公園には十基内外の石碑を数えたが、その中でも最も立派だったのは、職務中に殉職した警察職員を慰霊のもので、警察徽章である金色に輝く五角形星が埋めこまれていた。藤堂高猷が警察関係でも活躍していたことを示すともいえる。

 

杉山和一は津で生まれたことは、一般人は知らなくて当然だと思うが、津市在住の鍼灸師でも知らない者が多い。偕楽公園に杉山和一生誕の石碑があることを知らない。知っていても特に行ってみたいとも思わないらしい。和一は津で生まれたのだが、活躍したのは江戸であった。このことが、地元民にとり杉山和一の知名度が低さに関係しているのだろう。


平成30年1月4日柳谷素霊先生墓に参拝 ver1.1

2022-02-21 | 人物像

平成30年1月4日、現代鍼灸科学研究会の同志5名とともに、柳谷素霊先生のお墓に参拝した。柳谷素霊墓は、東京都東村山市の都立小平霊園にある。西武線の小平駅北口下車、徒歩5分で霊園の入口に到着、その後園内を5分ほど歩いて到着した。
墓石は、右から「柳谷家奥津城」と「柳谷素霊/妻正子奥津城」の二基で、正面右側に墓誌があった。奥津城(おくつき)というのは神道独特の表現で仏式でいう「‥‥之墓」といった意味である。神道では戒名がないので、墓石には生前の氏名が刻まれる。早速生花をお供えしようとすると、数日前にお供えしたと思える生花が既にあった。新年早々参拝した方がいたということだ。墓前には線香置き場がなかった。これも神道の流儀ということを後に知った。
参加者一人一人、手を合わせた。

当日午後3時30分頃に墓前に到着したのだが、墓石方向を見ることは西側に顏を向けるということになるが、冬の今頃はモロに逆光になってしまった。写真撮影には非常に苦労した。冬の間は昼頃までに参拝されるのがよいだろう。

※冬の午後からの墓参りは太陽が低いのでまぶしいのは定説だということだ!

 

 

 

墓石文章
墓誌に刻まれた文章は現代文なので理解しやすいものだった。
明治39年北海道函館市に生まる。藉名清助。幼少より父祖の道を習い17才にして鍼灸を得古典鍼灸医学の研究に専心昭和2年素霊塾を創設後進の育成と古典鍼灸医学の研ざんに一生を捧ぐ
昭和6年日本大学法文学部宗教科卒業 学士の称号を受く。
昭和7年アメリカ合衆国カンサス州立大学医学部に論文提出ドクターの称号を受く
昭和11年日本高等鍼灸学院を創立
昭和30年欧州各国の針灸界の招聘に應え日本最初の鍼灸医学の指導者として渡欧
昭和32年東洋鍼灸専門学校を創立
昭和34年2月20日再度渡欧を前にして病歿す 享年52才

 

 

なぜ神社には墓がないのか

仏教のお寺には墓地を併設していることも多いが、神道には墓地を併設することはない。神道はあくまで神様を信仰するためにあり、亡くなった神道信者を祀るためにはない。神道信者が亡くなると、遺体は穢(けが)れたものとして河原に放置され、自然に朽ちるのにまかせたものだった(=風葬)。一方、仏教では亡くなった者は自動的に釈迦の弟子となるとされているので、祖先を拝むことは、同時に釈迦を拝むことにつながる。

鍼灸業界で有名な江島杉山神社は福岡にある宗像大社を分祀したものであって、その辺津宮に祀られた通称弁財天(=田心姫神)を祀ったもの。杉山和一は、本所一つ目に開設した盲人の職業訓練学校の創始者としての格付けにすぎない。和一が信仰した弁財天を江ノ島から本所一つ目に分祀したことから、<銭が増えるご利益がある>として江戸の名所の一つとして賑わった。


少病少悩 ver.1.1

2021-09-23 | 人物像

少病少悩

1.「少病少悩」の解釈
私は、医道の日本平成24年1月号の新年のことばとして、以下の小文を記した。

数年前、代田文彦(故人)の奥様、瑛子先生から郵便物が届いた。開封してみると、色紙が入っており、次のように書かれていた。
 少病少悩  
 南無釈迦牟尼佛 
 氣息安穏
 (代田文誌三十三回忌に記して)

瑛子先生の添え書きとして、「これをどう解きますか?」との一文も入っていた。二行目と三行目は理解できたが、一行目がわからない。とりあえず額に入れて治療室に掲げておいた。

 

しばらく後、患者としてお坊さんが来院し、「この言葉を選ぶとは‥‥」としきりに感心し、私に解説してくれた。「少病少悩」というのは、人間、病や悩みから完全に解放されれば理想的であるが、実際には非常に困難なことである。せめて少ない病、少ない悩みならばそれで十分ではないか、との意味だという。
 代田文彦先生の「東洋医学は、たとえ治せないとしても、癒すことはできる」という言葉は、このことだったかと思った。

 

ふと一茶の俳句が頭に浮かんだ。
こういうことか?

めでたさも 中くらいなり おらが春  (小林一茶)

 

2.代田瑛子先生からの返信

医道の日本誌の当該記事が載った部分をコピーし、代田文彦先生の奥様である瑛子先生に郵送した。すると数日後、返信が届いた。私信なので、全文は公開できないが、少病少悩に関する内容は次のようだった。

私は毎朝仏様にごはんとお茶をお供えして般若心経を唱えて、その額を見ています。自分なりに解釈しております。「人間として病と悩みからとき放されているのは、即この世からの解放の時であろう。だから人間この世に生を受けている間は、ほんの少しの病と悩みを持って生きていけば、気が和らいで心安らかにおだやかに生きられるのだと」。年相応の体の心の変化が有ってこそ心の平安が有るのだと思いながら生活しております、との文面だった。

瑛子先生が毎朝向かっているであろうお仏壇のことを私は思い出した。中には文誌先生、文彦先生の位牌もあった。驚くほど質素なものだった。


<澤田健先生講演>内容紹介と註釈

2021-04-13 | 人物像

代田文彦先生の死去後、遺品整理の際に夫人が私に本や雑誌記事を下さった。その中には、<澤田先生講演>とする澤田健の講演記録のコピーがあった。澤田健については代田文誌氏の著書から、ある程度知ることができるものの、本人がじかに記したものは「三焦論」以外、残っていない。

澤田健は、どのような考え方をするのか知りたく、内容を検討してみたが初めて知る知識が多く、非常に難儀した。現代人の頭の構造とだいぶ違っているようだ。「上記(うえつぶみ)」「易」「除算九九」などがその例だが、その理解には、それぞれに基礎知識がないと理解不能になる。私なりにできる部分から註釈を加えた。なお全8ページ中、「五運六氣」と鍼灸臨床の関わりに関する内容が2ページ続くが、難解なので本稿では省略した。

タイトル:澤田先生講演(昭和11年8月6日 京都祇園中村楼に於いて)東邦医学社

澤田健(1877-1938)は62歳で死去したが、澤田59歳の時の講演内容で、速記者による筆起こし文を代田文誌が校正し、これをさらに澤田が点検した。

 

1.「うえつふみ」にみる鍼灸具の起源

註釈)「うえつふみ」とは何か
うえつふみは漢字で上記と書く。1837年に豊後国(現在の大分県)で発見された。豊国文字(日本語のアイウエオに対応した象形文字)で書かれている。古事記や日本書紀以前の文章とされ、神武天皇以前の歴史や、天文学、暦学、医学、農業・漁業・冶金等の産業技術、民話、民俗等についての記事を含む博物誌的な内容。しかしこんにちでは研究者間で偽書とみなされている。

 

灸の起源は「アツモノ」と記されている。上代にはハリのことを砭石(へんせき)  といい、陽奇石を材料とした。この石を雪の上に置くと、すぐ雪が溶けてしまうことから陽奇石との名称がつけられた。「子なき女これを抱けば子を孕む」とあり、この石は体を温める作用があるとした。陽奇石は幅3寸以上長さ8寸ばかりで、薄く裂ける性質があり、これを砥石で磨いてハリとして使った。

註釈)砭石とは石ハリのことで、押(砭)さえて刺すことからこの名がついた。現代では皮膚切開のメスに相当するとされている。これに対して鍼は金属製のハリで、石ハリとは異なり深く刺すという用途がある。
陽奇石は身体を温めるのに使われたとする記録はある。セラミックを熱すると遠赤外線を放出されるのと同様な物質らしい。ただし陽奇石を材料に鍼を作ったとする見解は独自的解釈になる。

 

2.「一より二を生じ、二より三を生じ、三万物を生ず」
註釈:上は『老子』の一節に出てくる文章。無という『道』が有という一(元の氣)を生み出し、一が天地という二つのものを生み出し、二つ陰陽の氣が加わって三を生み出し、三つのものが万物を生み出すというもの。しかしこれでは理解できないので、一次元、二次元、三次元をさすと考え、この世の中の物すべては三次元であると説明する捉え方もある。


3.上の表現を数理に直していいかえると、「二一天作の五、二進の一十、三一三十の一」これが万物の起こり元になっている。  
註釈:現代では小学校教育で積算の九九を記憶させられる。しかし明治初期の教育では、積算はもちろんのこと割算九九を記憶させられた。ソロバンのコマの移動に便利なように、独特の言い回しで記憶させられた。

 

1)「二一天作の五」とは10÷2=5のこと。転じて物を半分ずつに分けること。太極が二つに別れて陰陽となり、陰陽が別れて五行となる。日月は陰陽、五行は木火土金水。
2)「二進の一十」とは2÷2=1のこと。陰陽合して元の一に還元すること。
3)「三一三十の一」とは10÷3=3余り1のこと。天地循環の無限の生命を表わすもので、一を三で割っても割り切れず永遠に一が残る。この割り切れないところが無限の生命である。

 

4.経穴と經絡について
澤田の真骨頂が示されていると思われるが、独自性が強い。

1)一陰とは中脘のこと。中脘に灸すえると身柱・脊中(Th11棘突起下)・腰兪(仙骨裂孔の中央陥凹部)に響いて真っ赤になることから、これら三穴を三色という。

2)中脘と脊中とは、真っ直ぐに裏表になっており、普通の健康体でも中脘に灸をすると脊中が真っ赤になる。脊中に灸をするとこの逆になるので、脊中は禁灸穴となている。背中で灸をしていけないのは脊中穴のみ。

3)一元両岐三大四霊五柱および澤田流一行
督脈を一陽の一元とし、左右に別れて脊柱一行となる。即ち一元が両岐に分かれて、それが二行に分かれ三行に分かれる。これを三大(=三区分)という。

四霊(澤田造語)とは、左右の大巨・滑肉門の四穴で、五柱(澤田造語)とは上中下の三脘と粱門の五穴をいう。この五柱は脊(=脊柱)にもあって、臍中心にもある。

 

そしてこの五柱のうちにまた三大(=三区分)があって、中脘を中心とし腎経・胃経・脾経の三つをいう。この五柱は呼吸困難、喘息の発作等に非常に効くことがある。
脊(=脊柱)の三大(=三区分)でもって病の時期がわかる。一行が初期、二行が二期、三行が三期になる。 脊の一行を見ると、熱を出している臓腑がわかる。肝兪の一行であれば肝の熱、心兪の一行であれば心の熱といった具合である。
註釈)背部一行とは、背部督脈の5分外方の線をいう。背部二行とは外方1.5寸、背部三行とは外方3寸をいう。急性熱には一行を使う。ストレスがあれば肝兪一行を刺激し、舌先が赤くなり熱があれば心兪一行を刺すなど。

 

4)中焦

中焦とは中脘を意味しており、上脘中脘下脘の三脘が三焦にひびく。この三という数字は、前述したように無限の生命を意味している。上脘は胸から上の方にひびく、すなわち上焦にひびく。下脘は臍から下の方にひびくすなわち下焦にひびく。
その中脘に灸をすえると、前述したように脊中が真っ赤になる。

 

5)三原氣論 

腎臓というものは、難經六十六難にも「腎間の動氣は人の生命十二経の根なり」とあって、また「三焦は元氣の別便なり」ともある。腎臓を先天の元氣、脾臓を後天の原氣、三焦を元氣の別便といって、この三元氣がつどって人間の一元氣となる。
五臓六腑の病氣はことごとくみな膀胱経の兪穴に現れ、これを治すもまた、その兪穴によるものであって、すべての病氣は膀胱に関係をもっている。その膀胱は腎の所属である。だからすべの病氣は筋を根本として見てゆかねばならない。ゆえに澤田流では腎に重きを置いている。
註釈)「三原氣論」とは、先天の原氣系は腎、後天の原氣系は脾、原氣の別使系は三焦であると考えた理論。三焦が五臓を巡っていると考える点で澤田流太極療法独特のもの。
血が回ると、手足が温かくなるとの素朴な観察から考えたものだろうか。

 

6)寒と熱

人の身体で、一方に熱というものがあれば一方には寒がなければならない。頭に熱があれば、足には熱がない。これを逆上という。「頭寒足熱」といった言葉通り、陽は下り陰は上る。陰は上って頭の方に行って手に抜ける。熱は足へ下りていって足から抜ける。
陰陽和合を欠く時に熱が起こる。すなわち寒氣を追い散らすために熱の方が高くなる。これが発熱する理由である。
西洋の医者は、熱を恐れているが、東洋の方では「傷寒論」があるくらいなもので、寒の方を恐れる。

註釈)代田文彦氏は次のように語った。発熱とは、免疫機能を高める目的で延髄の体温中枢が示した設定体温が高まった状態である。身体はこの設定温度にまで体温を上昇させようとするが、その目標温度に実体温が達していない場合、悪寒を感じる。頸や肩こりがあって延髄の血流低下がある場合、延髄の設定温度に狂いが生じて発熱を生じていることもあって、頸肩のコリの改善目的で風門や大椎への多壮灸(20~30壮)を行うことが発熱に対する鍼灸治療になる場合がある。もう一つの方法として解表法がある。交感神経緊張状態により皮膚の腠理(汗腺)が閉じていていては発汗による解熱はできない。このような状況では発汗法として、人体で最も汗のかきやすい部とされる肩甲上部~肩甲間部の領域に、速刺速抜を行なう。これは葛根湯液服用による発汗と同じような意味になる。

 

7)肝と病氣の進展

病氣は肝隔(=肝臓と横隔膜)の間に起こって肝隔の間に収まるので、全ての病氣は肝臓が始まりになる。肝臓と膈の間が八椎(=Th8棘突起下外方1.5寸)で、ここは病氣の始まる処で収まる処でもある。そこから内臓に這い入ってくる。
膈兪の真ん中へ鍼をうつと、期門にひびく。肝兪にうつと章門にひびく。脾兪にうつと京門にひびく。膈兪に鍼をうつと、どう響くかは非常に難しく、わずかな違いにより上にも行けば下にも行き、横にも行く。そしてへんてこな灸をすえたような熱く感じる部位もある。こういう不思議は響きかたをするのは膈兪だけである。
病は膈兪から入って期門に出て、期門から肝臓に入る。それから肝臓に病が入ると肝兪へ出る。肝兪から章門に出て、章門から脾臓に入る。脾臓から脾兪に出て、脾兪から京門に出る。ここがひどく響く処。京門へ出ると腎臓が弱くなる、この腎臓から逆に上に行くと、心臓にゆき心兪にあらわれ、しまいには肺に入る。肺は終点である。
註釈)膈兪刺針は横隔膜刺激となる。横隔膜は体性神経が入るので針響を与えやすい。

肝臓は病氣の始まりに関係する。肝臓は魂を主どるところで、これは何事も几帳面に行わなければならぬという性質をもっている。これに対して魄は雑念の多いのを主どるので、
魄は肺に属する。
註釈)魂魄:道教における霊についての概念。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指す。魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。


8)肺と病の進展

風邪は肺から風門に出て、風門の一行から膈の兪に下り、膈から内臓に、這い入ってくる。
膈の一行のところには代田文誌の説明によると交感神経の内臓にいく太い自律神経(=腹腔神経節)があるとのことで、これで謎が解けた。
寒くなると肺結核患者が多くなる。では結核菌とは何かといえば、カビで人間の血の巡りの悪いところにカビがはえる。日光に照らせばカビなんかきれいに消える。フランスの細菌学者アランジー博士も同様のことを云っている。結核菌は病氣をつくるものではなく、繁殖の適当な範囲において繁殖するものである、と。

 

9)三焦と陽池の灸

心臓病のとき、それを治そうとすれば三焦を納めなければならない。澤田流太極療法基本穴で、左の手の陽池に灸をすえるということは、この三焦を納めるためで、陽池は三焦の原である。天の氣は初めは肺に受けて中焦に起こる。天の氣を吸わなければ人間は決して長生きできない。天の氣を受けての最初の人間の動きは、まず中焦に起こる。肺で呼吸し、そこから經絡に合わせるのだが、その源との連絡は方法は、源である発電所の方が誤っていては何もならないから、まず陽池と中脘に灸をすえて三焦の調節をとる。そうすると丹田(=関元)に力が入ってくる。氣海は腎の所属で腎間の動の発するところであり、天の氣を三焦のうちの中脘に受け、それが氣海に入って動くのである。氣は三焦に属し、動は腎に属する・動氣相求むる
註釈)「動氣相求むる」とは、正しくは「同氣相求むる」という。同じ性質を持つ者はお互いに求めあうと言う意味です。『易経』の一節。

三焦については、フランスのスリエド・モラン氏が研究し、三つの熱源地として想像していたが、澤田が送った三谷先生の「解体発蒙」をみて、モラン氏は想像してたことが解剖上に実証されているのを見出し、非常に嬉しかったと聞いた。
註釈)「解体発蒙」は三谷公器著(1775-1823)による。オラン大学の解剖知識と『内経』の機能・整理額的知識の一致・折衷をめざした著作。石坂宗哲らに影響を与えた。
澤田腱が入手し1930年に復刻し、その際に「三焦論」を付した。「三焦論」は澤田唯一の著作。

 

10)精神を納める灸穴

氣海より脳にのぼる。脳は上丹田である。精神は脳にあるというが、精神を納めるのは氣海丹田である。
陰は上り陽は下るというが、頭の重い時は陰が上れないからで、そんな場合に氣海に灸をすえてごらんなさい。すぐに頭がスーッと軽くなる。
病氣というのは精神が納まらないからであって、その精神を納めるには陽池・中脘・ 氣海の三穴に灸すればよろしい。

 

11)熱府と寒府

熱府は風門で、寒府は膝の陽關(膝蓋骨上縁の高さで大腿外側の腸脛靭帯のすぐ後ろ)をいう。熱府と寒府は、外から侵入した寒氣を去ることができる。司天の寒氣は風門でとれ、在泉の寒氣は膝の陽關(=寒府ともいう)でとれる。
内臓の熱を去るには岐伯のいう「臓腑の熱をとるには五あり。五の兪の内の五の十を刺す」とある。これは脊柱の兪穴の一行のことで、これによって内臓の熱を診て、またそれを去ることができる。
  
註釈)司天・在泉:五運六氣の用語。天の気が司天で、地の気が在泉。一年間を六つに分けて一番暑い60日間(≒夏季)を司天、一番寒い60日間を在泉(≒冬季)としている。

 沢田健による寒熱の針灸治療参照のこと2013/08/24 


本郷の新星学寮で出張治療していた代田文誌との出会いと治療体験の思い出(井上駿氏)ver.1.2

2021-02-02 | 人物像

最近、当あんご針灸院に代田泰彦先生(代田文彦先生の弟者)の紹介患者として井上駿氏(87才男性)が来院した。井上氏は代田文誌が新星学寮で出張治療していた頃、東大農学部の学生で新星学寮の寮生であたことを耳にしたので、当時の様子を文章にして残して欲しいとお願いしてみた。井上氏は快諾し、その2ヶ月後、次のような文章を書いて下さった。以下は井上氏の文章(部分的に似田加筆)になる。


昭和8年、代田文誌先生(以下敬称略)44歳の時、盟友の倉島宗二・塩沢幸吉と共同で、長野市内に鍼灸治療院を開設した。この3名は、ひと月に9回ずつ日替わりで治療当番にあたった。ちなみに文誌は、7・8・9のつく日を担当した。(それ以降、東京三鷹の井の頭公園近くに移転し、彼の地で開業した。)

文誌は長野市内での共同開業と並行して、月初めに一泊二日の日程で、本郷の新星学寮で出張治療を行った(本郷以外にも数カ所出張治療した)。新星学寮とは、穂積五一氏が主として優秀学生のために私財を投げ打って設立した学生寮のことで、今日でもアジアからの留学生の居住場所として立派に役割を果たしている。

なお穂積五一氏とは、昭和時代の社会思想家で、アジア、アフリカ、ラテンアメリカからの2万名の留学生との交流に尽力をつくした。アジア学生文化協会、アジア文化会館の創設者。



(エアコンは後付け)


1.代田文誌先生との出会い

代田文誌先生に初めてお目にかかったのは昭和31年だった。その頃、私は東大農学部の学生で新星学寮の寮生だった。新星学寮は穂積五一先生が主宰しておられ、都内のいろいろな大学の学生が共同生活をしていた。主宰といっても穂積先生は寮生が納める寮費を先生の収入にしておられた訳ではない。寮費は寮生の食費と寮の建物の維持管理などだけに充てられていたので、非常に安かった。

 穂積先生は東大法学部の出身で、憲法学者の上杉慎吉氏の弟子だった。上杉氏は天皇制を主張していた方であった。(中略)穂積先生は若い時に結核を患われ、生死の境をさまようほどであった。その頃、鍼灸師である代田先生と出会われた。先生は穂積先生を診て、「非常に重篤ではあるが食事を丁寧に食べているので望みはある」と言われ、それからは穂積先生が頼みとする主治医となられた。(文誌先生も20才~27、8才まで結核で長い療養生活を過ごしていた。鍼灸で救われたことから鍼灸の道に進まれた経緯があった。)
 私(井上)が寮生だった頃、代田先生は毎月1回一泊二日の日程で長野から出張して新星学寮奥の穂積家の大広間で大勢の患者さんたちの診療に当たられた。私がその場に立ち入ることは滅多になかったが、時に何かの用で入った時に多数の患者さんが診療を待っておられ、お灸に使う線香の匂いが立ちこめていたことを思い出す。


2.代田文誌先生に診ていただいた経緯

当時、私自身が代田先生に診ていただくことはなかったが、このような経緯から鍼灸や漢方などの東洋医学に対する信頼は培われていたと思う。
今の農林水産省の前身である農林省に入って三度目の職場が埼玉県鴻巣市の農事試験場だった時のこと、稲にとって水がどの程度の量が必要となるかを研究していて、20リットルほどの土の入ったプラスチック容器100個ほどの重さを計測していて腰を痛めていた時、研修で長野県に行くことがあった。ちょうどよい機会なので長野市在住の代田先生に診てもらおうと電話してみると、「来れば診てあげるよ」とのお返事をいただき、先生のご自宅に押し掛けて診ていただいた。全身に鍼と灸を施され、帰路では体重が半分になったかと思うほど足が軽くなったことを今でも思い出す。

 

3.ご子息の代田文彦先生にも診ていただき、自分でも鍼灸療法を自習した

文誌先生のご長男、代田文彦先生は西洋医学を修められた上で鍼灸療法も習得され、後には東京女子医大の教授になられた。私がスキーで捻挫した時は、日産玉川病院におられた。捻挫の翌日、病院に伺って治療を受けた。恢復は極めて早く、その週のうちにはテニスができるようになった。
 
この後、わたくしの鍼灸・漢方に対する信頼は一層深いものとなり、代田先生の名著「鍼灸治療の実際(上・下)」創元社刊を手許において、折に触れては自分自身をはじめ、家族・友人の手当に役立たせている。
例をあげれば、家内や娘たちのしもやけは、しもやけの頂点に艾を五壮もすえれば一回で治る。幼稚園児だった娘の脱腸は、先生の御本からツボ灸点を選んでお灸で治した。
職場のテニス仲間で昼休みのテニスの後、腕が上がらなくなったからお灸をしてくれと言ってきたときは、ツボはここだからといって手三里を押さえたら、それだけで治りお灸をするまでもなかったこともある。別のテニス仲間の若い女性が二の腕が痛いというので、痛い場所を自分で確認して置き鍼を貼るように勧めた。次回、テニスコートで会った時、彼女は駆け寄ってきて快癒したと話してくれた。

 

4.現在の私(井上)の治療

10年ほど前から脊柱管狭窄症を患い、当時かかっていた整形外科の医師は年令もあるから手術は無理といい、私もそう思い諦めて過ごしてきたが、大宮に越してきてからのテニス仲間が自治医大の税田和夫先生のおかげで脊柱管狭窄症が治ったと言ったので、川越の埼玉医大に移っておられた税田先生をお訪ねして何回か診察を受けた後、一作年6月に手術を受けることに踏み切った。
3時間の椎弓切除の手術後は順調で、7日目には退院し、その後は手術前に比べ随分歩けるようになったのだが、税田先生が術前に言われた通り、100%は治らず下肢にしびれが残った。何とかしびれを取りたいと思い、近所の整形外科に通い、マッサージ等を受けてきたが目立った回復はなかった。その後、鍼灸師をしておられる文誌先生のご次男、代田泰彦先生に相談したところ、国立市で開業している似田敦先生を紹介された次第である。
今は月に一回、あんご鍼灸院に通い似田先生に脊柱管狭窄症手術後の下肢の痺れの手当てとテニスによる肩肘の故障の鍼灸治療を受けており、加えておおみや整形外科の整体師丹野先生のマッサージを毎週受けている。これも肩の凝りをほぐすのによく効いている。

 

5.触診起脈あるいは脈功
 
私の脊柱管狭窄症の症状には、自分で行う治療も時には有効だったので、簡単に紹介する。この方法は、静功とマッサージあるいは指圧を組み合わせた自己治療法である。
静功とは、体を動かさずに呼吸だけで行う気功のことである(これに対し、体を動かす通常の気功を動功とよぶ)。放鬆功(ほうしょうこう ?中国語では放松功)は静功の中のひとつで、1957年に上海気功療養院が整理したもの。「放鬆」には中国語で筋肉を弛緩させ、リラックスするとの意味がある。放鬆の「鬆」は骨粗鬆症の「鬆」と同じく、スカスカにし、ゆるめることをいう。放鬆功は呼気の時に「ソーン」と発音することを勧めている。声を出すことは体を振動させ活性化させると思う。「放鬆」という言葉には「ソーン」と発音する、すなわち声を放すという意味も含まれているようだ。
 
なお放鬆功の吸気の時に「百会から吸うつもりで‥‥」とされるが、私自身は耳の上から百会に向かって吸い上げる感じで息を吸うようにすると、脳の側面が洗われてスッキリする感じを得ている。放鬆功は三線放鬆功が代表的で、三線とは体の側方、前方、後方の3つのラインのことで、この流れを意識しつつリラックスさせるやり方で、この時の姿勢は椅坐位、仰臥位、伏臥位などどれでもかまわない。
 
私は放鬆功のリラックスした呼吸法を行いつつ、触診起脈を試みている。触診起脈とは、体の中で不具合なところ、たとえば咽が痛い、肩が凝る、足が痺れるといった症状がある時、その不具合なところに指先を当て、放鬆功の呼気三線のほかに、その不具合の場所に集中して呼気をはきつける意識で息をはくようにする(もちろん実際には口から呼気をはくのだけれども)。それを数分続けることによって、その場所に脈動を感じるようになり、そうなるとその場所の痛み、コリ、しびれが軽くなる。私自身は、これを手の冷え、足のしびれ、肩の凝り、咽の痛みなどでしばしば実際に自分の体で試み、不具合の解決に役立てている。これを読まれた方は試みて頂き、結果を教えて頂きたいと願っている。放鬆功については、ある程度ネットで調べることができるので、参考にされたい。

6.助手の助手

上記文章を寄稿して下さった井上駿氏のかつての学友、鈴木典之氏(87才男性)が当院に来院した。当時は井上氏と同じく新星寮生だったということで、お話を当時の様子をお伺いした。代田文誌は一ヶ月に1回一泊二日で新星学寮で鍼灸治療をしたが、寮の主宰者である穂積五一氏は代田先生を信奉しており、その影響が寮内にも広がっていた。文誌先生は鍼治療を行い、灸は灸点を下ろすまでを行った。助手は指示された灸点に、それぞれ十壮ほど半米粒大灸をするのだが、鈴木氏は助手の手伝いをした。その仕事内容とは<モグサをひねって艾炷を白い紙の上に並べること>だったということで、大いに驚いた。そうでもしなければ大勢の患者をさばききれなかったのだろう。

各灸点に十壮ずつ行うというのも意外だった。壮数は五壮が標準とし、三壮~七壮程度の刺激量が標準だと思っていた。患者の希望から近年では半米粒大艾炷ではなく、せんねん灸にすることの方が多かった。やはり治療効果を発揮するには十壮程度が必要なのだろうか。


鍼灸科学派としての代田文誌(代田文誌の鍼灸姿勢その3)

2021-01-08 | 人物像

1.若き日の頃 
二十代後半~三十代後半の代田文誌は、沢田健の目覚ましい鍼灸治療効果を目前にし、鍼灸古典をしっかり学習する必要性を改めて自覚した。ただし盲目的に沢田健をカリスマとしてひれ伏すのではなく、同時期に、東大の解剖学教室へ通ったり、長野県の日赤病院の研究生となったりし、科学的な鍼灸とは何かを模索していたという事実がある。

2.沢田健死後の展開
沢田健が死去したのが1938年で文誌38才の時だった。文誌が長野市で開業したのが44才。終戦が45才、GHQの鍼灸禁止令が47才のこと。文誌にとって激動と変革の時期だったのだろう。
文誌は昭和18年10月、「鍼灸医学の新方向」と題し、次のような一文を発表した。新しく科学的針灸を志向しようとする堂々たる宣言といえよう。 

<あたらしき時代とは?>

 「あたらしき時代」とは何をいうか、科学的学文的な基礎の上に立つ科学的針灸の時代をいうのである。これに対して「ふるき時代」とは、前科学的な時代-ただ経験医学にのみ止まり、科学的理論の上に立たなかった時代を言うのである。(中略)ただ経験医学であるだけならよいが、支那古代の自然哲学をもとにし、易理を根底として組織されてある上に、極めて迷信的な分子も混入し、統一せる治療体系をもっていない。故に鍼灸を行う人々の間に理論の統一がなく、治療に対する考え方もまちまちで、雑然混然たる状態である。従って、その発展の可能性に乏しい。
 鍼灸基礎理論として十四經絡があった。これは古人が自然哲学的理論に経験を交ぜて組織したものであるらしいので、それはあくまで独断的な組織であって、実験医学を根底とした理論の上に立つものではないから、科学的検討の素材とはなり得ても、医学とは言い得ぬ。それ故、これの運用がいかによい成績をあらわしても、直ちに以ていかの新しき時代の鍼灸医学の根拠とすることはできない。今後新しく起こるべき鍼灸医学は、実験医学を根拠とした科学的なものでなければならない。(以上は、塩澤全司(山梨大学医学部名誉教授)「父 塩澤 芳一」でインターネットで見ることができる。)

3.「沢田流太極療法」を振り返っての見解

1)經絡論争

昭和22年、GHQは鍼灸禁止令を指示した。これ対抗したのが石川太刀雄で「鍼灸術ニ就イテ」をいう一文をGHQ提示し、昭和23年には鍼灸禁止令は解除された。この頃から、医道の日本誌面で2年間にわたり「經絡論争」が起こった。經絡否定派は代田文誌や米山博久らで、經絡肯定派は柳谷素霊、竹山晋一郎らであった。

2)竜野一雄(經絡肯定派)
への返答
その論争の中で、經絡肯定派の竜野一雄は太極療法の発展型として經絡治療が誕生したという旨を発表した(1951~1952年)。以下は竜野の文章である。
沢田健による太極療法は、統一原理が提唱され、兪募穴と五穴(井栄兪經合のことか?)の特性まで発達したが、經絡相互間の関係は陰陽の原理まで理解されるだけで、五行説までには発展しなかった。
太極療法に代わって、柳谷素霊氏らにより、經絡治療が名乗りをあげた。經絡という統一体の上に立ち、五行という法則概念によって相互間の関連をつかみ、三部九候の脈診を用い、五穴を以て主治として、これを本治法とし、これに対して局所的な対症療法を標治法とした。
竜野の文に対し、代田文誌は次のように回答し、沢田流太極療法を回想した(1952年)。
竜野氏の指摘される如く、太極療法は沢田健先生創設以来あまり発展していないのは、門下生の一人として恥るところである。太極療法は、全体関連性全機性にもとづき、病気を機能病理学的にみていく立場へと進んでいる。

3)沢田流太極療法は、科学的でない 
昭和32年、「鍼灸真髄」の「改訂版に際して」の文章中では、次のように沢田流を評価している。
この書に記されている沢田先生の説は、おおかた古典の説に基づくものであるが、同時に先生の独創的見解も極めて多い。その思考や表現は極めて素朴で簡単で、科学とはいえないが、経験を通して至心に追究し、(中略)科学の素材となる貴い資料を多く保有している。(中略)鍼灸の科学化はわれわれの常に念願するところである(中略)‥‥


4.真理を追究する人

代田文誌が熱心な仏教の信者だったことはよく知られているが、宗教と同じように、鍼灸にも真理を求めた。その「真理」に近いのは、沢田流などの古典的鍼灸よりも科学的針灸だと判断したのだろう。この考えを表明したのは戦後のことであるが、内に心に秘めていたのは鍼灸師になって、間もなく生まれたものであったらしい。それは沢田健の治療を見学しつつ古典の勉強をする一方で、同時期に解剖学教室や病院研究生となったりしていることで推定できる。戦後になり、代田文誌が科学派に<転向した>として批判するのは間違いである。

 


代田文誌の知られざる話 ver.1.5

2020-09-02 | 人物像

代田文誌先生(以下敬称略)の年譜を調べていると、これまでほとんど知られていない事実が分かったので、ここに紹介する。(平成25年3月24日)。
追伸:代田泰彦先生から、東城邱著「耕雲紀行の背景」(耕雲紀行 和合恒男遺稿刊行会編)という資料コピーを頂戴した。代田文誌先生と和合恒男の関係が記録されているので、部分的改訂版として加筆することにした。(平成25年5月19日)


1.代田文誌が針灸に目覚めるきっかけ

1)著書「療病神髄」

代田文彦先生(故)の奥様、瑛子先生から文彦先生のお父様である代田文誌先生(以下敬称略)著による「療病神髄」(絶版)という本を頂戴した。この著作は、昭和9年20才の時、文誌が喀血して以来、27、8才頃までの療病中の随筆集である。序文には人生の問題で悩みつつ、病みつつも人生を生かす道を発見した。(中略)神のこころを知り得たのである‥‥と書かれている。代田文誌は、法華経の信者となった。医師は、治せない患者を放置する。しかし病は治らなくても幸せになる方法があることを発見した、との記載がある。


2)代田安吉(父)の精神異常と按摩

本書の中で「体と体が触れあうことが精神と精神の触れ合う始めとなる」との記載後、「(大正14年頃)私の父の発狂の看病をした時、何としても父の病を治そうと苦心し、朝夕ねてもさめてこれをのみ思い念じる‥‥1日4時間位按むことは珍しくなかった」とくだりを見つけ、非常に驚いた。お父様が発狂したとは、どういう意味だろうか。さっそく代田文彦先生の弟の代田泰彦先生にメールで質問してみた。以下は、泰彦先生の返事である。

「父の追憶」(昭和6年2月下旬)と題した文誌の手書きの文書が残っている。これによると代田安吉(父)は大変元気であったが、「大正14年の春、製糸工場統一問題で考えすぎた結果、発狂してからはずっと体が弱くなりました。発狂してから7ヶ月ばかり床についていましたが、ある朝忽然として夢の覚めたように良くなり、再び元の父上にかえり‥‥」と元気になったらしい。この期間は、おそらく鬱病を発していたと推測される(ある時突然良くなるというのは鬱病の特徴で、むかし話「三年寝太郎」状態)、と書かれていた。発狂したと書いているが、大正14年頃の文誌の医学知識は未熟なものであっただろうから、その後の昭和6年に回顧して鬱病だったと訂正したのだろう。泰彦先生自身は、強迫神経症だったのではないかと思っているらしい。


3)代田文誌の針灸への契機

「父の追憶」の文書は続く。「お父様の精神異常を治すため、飯田病院の神経科に連れて行ったり、岡崎にある寺に<狂>を治す名灸があると聞いて兄弟3人で岡崎に行ったりしているが、一番多くの努力を費やしたのは、文誌が自らが按摩をしたことで。この按摩というのは「飯田の古本屋で“handbook of massage” というオックスフォード大学から出版された英語の本を買ってきて、辞書と首っ引きでこれを読み按摩の原理を知った」と書いてある。また「和漢三才図會の経絡の部の発狂に効くというツボに灸をすえたりし、これが後に鍼灸治療に携わる契機になっている」と書いている。(安吉は昭和2年に奥様の<やすえ>に先立たれた後、次第に元気がなくなり、認知症も進行。昭和5年に老衰で死去した)


2.沢田健先生の治療見学していた頃と沢田健先生の死後

「鍼灸真髄」によれば、代田文誌が沢田健先生の治療を見学したのは、昭和2年6月10日から昭和4年12月16日までの5回(実質50日間程度。だたし正確な日数は記載がない)で、その後も、昭和5年、9年、10年、11年、12年に各1日ずつ見学した。

では見学日以外には、何をしていたのだろうか。年譜をみると昭和6年から3年間、長野県日赤病院の研究生となっていたことを知るが、それ以外にも和合恒男(詳細後述)とともに、現在の安曇野市に瑞穂精舎(みずほしょうじゃ)を設立し、その指導員となった。
なお昭和12年(37才)に、この時の生徒の一人で、「やゑ」という女性と結婚した。
昭和13年、沢田健は病死。文誌の生活は下に述べるように瑞穂精舎設立と運営の協力者という立場であったが、茨城県の内原訓練所における施灸指導の要望の声もあがった。ただしこの当時、代田文誌は非常に多忙で、実際に内原訓練所に出向いたのは数回程度であった。 


1)瑞穂精舎時代

昭和の初期、長野市に和合恒男という人がいた。郷土の士として「人を相手にせず、天を相手とする」百姓生活を通して、心と体を磨きあげようとする求道者であり、東大卒業後、その実践の場として昭和3年に現在の松本市に財団法人、瑞穂精舎を設立した。その協力者となったのが代田文誌だった。瑞穂精舎との命名は、法華経の精神を生かし、瑞穂の国の理想を実現するための精神の道場という意味。
朝五時に起床、午前中は授業、昼から夕までは農業実習、午後9時就寝という厳しいものだったが、家庭的な温かさがあったという。
この瑞穂精舎は修業の一環として行脚(あんぎゃ 仏法を広めるため徒歩で各地を巡る)が実施された。とくに満朝(満州と朝鮮)行脚は修業の総仕上げとしての重大な意味があった。

この時期、政府は満州や蒙古に3万人の開拓農民を送る計画をたてた。その移民準備のため、3~6ヶ月程度の訓練施設(後に2ヶ月間に短縮)として、満蒙開拓少年義勇軍訓練所として15才~19才の青少年が集う施設を全国各地につくった。瑞穂精舎の人員も、指導者として満蒙開拓少年義勇軍訓練所に送られた。
※和合恒男は昭和10年、農本政治をかかげ積極的に政治活動を行い、長野県会議員に当選。しかし当選直後から肺結核を発病。昭和16年、40才にて死去。


2)満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所時代

代田文誌は、昭和13年(38才)より瑞穂精舎の流れで茨城県にある満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所にて灸療所と開拓医学指導の手伝いをした。ただし代田文誌は多忙のため顧問という立場(他に顧問は田中恭平氏)となり、齋藤誠一という青年鍼灸師が訓練生に灸することになった。施灸部位は、左右足三里・大椎・左右風門の計6カ所。義勇軍に参加する者全員に2ヶ月間、毎日の日課施灸し続けたというから、さぞかし多忙なことだっただろう。灸治専用の建物として、兵舎内に一棟「一気寮」が建てられたことは、灸治が健康増進に役立つことを当時の政府が認識した現れであり、この集団施灸が、国家プロジェクトの一貫だったことが理解される。

この「一気寮」については、山下仁氏の調査報告が発表され、詳細な内容が明らかになった。内原訓練所内には茨城県内で2番目に大きな病院(常勤医師12名,職員合計86名)もあった。灸を希望する者は当初は少なかったが次第に増加し、患者の自由選択にしたところ、その2/3は一気寮に集まったとのことだった。このような情況となったことで病院からは怨まれるくらいだったと代田文誌が記している。
山下仁:満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所の灸療所「一気寮」に関する報告、日本東洋医学雑誌、Vol.71 No.3 251-261,2020


日本内地で訓練された農民は、満州や蒙古に渡り、農業開拓に従事した。代田文誌も、内原訓練所から満州に向かう1200名の青少年義勇軍の出発を見送った機会があることを記している(「満蒙開拓青少年義勇軍と其灸」漢方と漢薬、第5巻第8号、昭和13年7月1日)。全員皆国防服に身を固め、戦闘帽をかぶり、リュックサックを背負い、手に手に鍬の柄を握りしめて整列し‥‥という記載がみられる。

大いなる希望および苦難を覚悟した彼らであったが、昭和20年の日本敗戦で、ソ連軍が満州に急に侵攻したため、逃避行せざるを得なかった。逃げ切れず捕虜になったり殺された者も多数いた(このあたりの話は、山崎豊子著「大地の子」が有名)。

代田文誌には兄弟がいたが、次男夫婦も満州に渡った。終戦をきっかけとして、他の者同様に非常な苦労をしたらしい。文誌にとっては生涯この問題は痛恨の出来事だったに違いない。代田文誌の幾冊もの著書の後に載せられた略歴には、満蒙開拓少年義勇軍内原訓練所のことは省略されている。

※平成25年4月、ついに「満蒙開拓平和記念館」が建設された。所在地は長野県阿智村711-10