AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

令和6年、玉川東洋医学交友会集会 ver.1.1

2024-04-25 | 講習会・勉強会・懇親会

今回の玉川東洋医学交友会開催時から、山田勝弘先生に代わり、私がOB会会長となったことをご報告申し上げます。交友会開催の準備として玉川病院東洋医学科OB住所録を整備し、すでに当該の方々にはネットまたは郵送にて住所録をお送りしました。しかしながら移転先不明方も何件がでてきました。お名前、ご住所、電話番号、メールアドレスを当方にお知らせ頂ければ、改訂版住所録をお送りします。令和6年4月25日 似田敦 


令和6年4月20日、9年ぶりで新宿にて玉川病院東洋医学交友会を実施しました。玉川病院研修生はのべ百名ほどいたのですが、研修生制度がなくなってすでに22年が経過し、住む場所も置かれた立場も異なり、集まる機会も減りました。7年前、代田文誌・文彦両先生の墓参りを兼ね、中央線の高尾駅に集まったのは30名を越えたのに、今回は12名と半減以下となり、淋しさを感じます。とはいえ、ある意味で立派なものだといえるかもしれません。集合写真を撮ったので、記録として当ブログに残すことにしました。

2015.5.12  代田文彦先生十三回忌法要

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/89915d838cfae4e1a7b547a7cb86db57

 

 

玉川交友会開催の翌日、パソコン内のデータを検索していたら、1982年頃の玉川東洋医学科の集合写真が出てきました。まだデジカメが普及していなかった頃。
代田文彦先生も現役、本田徹先生も写っています。代田先生と本田先生の間で赤いポロシャツを着ているのが29才の私。それにしても皆、若い。人生これから。



心霊写真?

左下段にいるのは山田先生。その上にいる黒い服が菊池先生、その右隣で首を出しているのが佐藤先生です。ところで菊池先生の両肩に置かれた手は、いったい誰のものでしょうか? 写真を鮮明化して推理しました。佐藤先生の右にいる盛山先生(白ワイシャツ姿)の右腕が佐藤先生の右肩にかかり、佐藤先生の右腕が菊池先生の右肩にかかっているのではないかと。盛山先生も佐藤先生も右手首に腕時計をしているようです。 


代田文彦先生と日産玉川病院研修2年目の私 

2024-04-23 | 人物像

昔を懐かしがる年令になったのかもしれない。代田先生は63才にて生涯を終えられたが、それから14年経ち、奇しくも私もその年令になってしまった。私はここで日産玉川病院勤務時代のことを記録に残そうと思う。私が玉川病院東洋医学に入りたいと思ったきっかけは、以下のような「医道の日本」の記事を読んだことが強い動機となった。その頃私は早稲田針灸専門学校を間もなく卒業するという頃だった。当時私は午後からできたばかりの医道の日本社新宿支店でアルバイトをしていて、卒後は医道の日本社の社員とになる予定だったのだ。医道の日本社そのものは居心地がよく、待遇面を含めても待遇に満足してたのだが、結局代田文彦先生への憧れが強く、大きな人生の決断をした。医道の日本社専務からは「どうしても日産玉川東洋医学の採用試験を受けるというのならば、医道の日本社を辞めてからにしてくれといわれた。

 

 

 

 

1.日産玉川病院の針灸研修制度があった頃

日産玉川病院とは、東京都世田谷区で東急田園都市線の二子玉川駅から徒歩20分ほどにある中規模病院である。元々は日産グループ関連社員の結核療養所として誕生した。今日でも日産という名称はあるが、普通の総合病院になっている。30年も昔のこと、日産玉川病院には針灸研修制度が存在した。当時、玉川病院には東洋医学に情熱を燃やしている代田文彦・光藤英彦という二人の医師が在籍していた。というのも当時は今以上に相当な医師不足だったので、医師を招聘するには多少の医師のわがままを受け入れざるを得なかったという事情があったという。二人の医師の要望は、「病院で針灸治療をやりたい」という明快なもので、その真意は現代医療の現場に、医療システムの一つとして針灸が参入できれば、新しい方向性が生まれるだろう」とするものだった。

当初、現代医療の場を提供すれば、訓練生各人がすでにもっている東洋医学的な知識と融合するだろうと期待したが、実際にはそうならなかった。入局した新人鍼灸師のもつ東洋医学的知識でさえ低いことに驚いたと代田先生は漏らしていた。そこで研修1年目は先輩鍼灸師の助手として働き、研修2年目から代田先生担当の入院患者を診させてもらう。3年目は自分で針灸外来患者を治療する傍ら、2年目同様に代田先生担当の入院患者を診るという研修3年計画が誕生したのだった。なお私が入ったのとすれ違いで、光藤英彦先生は、玉川病院を辞めて愛媛県立病院東洋医学研究所所長として赴任していった。光藤先生は代田先生より一年年令が上だったが丸顔であり、代田先生はおでこに頭髪がなかったので、一人一緒に講習会などに参加すると、光藤先生が鞄持ちに間違えられたという。 

日産玉川病院は永久就職先とはいえなかった。東洋医学科として、毎年新人を募集するためには、スタッフが増えすぎないよう、自主的に辞めることも求められたからだ。
このように書くと、暗く厳しいイメージをもつかもしれない。しかし、みな若く体力があり、部活のように明るかった。誰もが明るい将来像を描いていた。

 

2.代田文彦先生の超多忙な日常

代田先生は入院患者を常時二十名近くかかえていた。それだけでなく他に週に2回半日の外来を担当し、また週に2回数時間の道路公団の保険医として出張でクリニックに出かけ、また週1日は東京女子医大耳鼻科で外来担当と研究をしていた。入院院患者に対しては日中に個別の診察の他に、朝と夕の回診を毎日していた。入院患者は1日3回顔を見せるというのを信条にしていた。このような超人的な活動を行うために朝8時から回診を始めるというスタイルをとっていた。さらに常勤医師の義務として月に3回の夜間当直があった。
研修制度2年目というのは、代田先生の入院患者を診させてもらうこと(診察と患者との心情的なコミュニケーション)とカルテ書きが主な業務だった。必要に応じて針灸治療も行った。実際に針灸を併用したのは代田先生の入院患者の3割程度だった。
日常的に代田先生も、東洋医学科の鍼灸師も自分のペースで動いたが、週に2回の病棟館カンファレンスや終業後にある勉強会ではじっくりと相談できる時間帯が用意されたいた。

文彦先生が残した資料(スライドや写真)整理していた際に、出てきた二十代の文彦先生のお写真。おそらく自撮り。
奥様も初めて見たとのこと。モノクロなのは致し方ないとしても、ピントとコントラストが甘いことが惜しまれる。

 

モノクロ写真をPCで簡易カラー化してもピントはシャープにならなかった。
しかしさらにAIで高精度化すると、見事によみがえった。
これならば奥様の瑛子先生も喜んでくださるだろう。

 

3.代田文彦先生の乱暴な言葉遣いの裏にある心遣い

私が2年目になって初めて経験する代田先生の当直で、夜間病棟回診ということで午後8時頃、あるナースステーションにいた時、あるの肺性心患者が腰が痛いと言っているとの報告を受けた。私も知っている人で、灸治療も普段から受けていた。代田先生は鎮痛剤であるインダシン座薬をオーダーし、看護士が肛門に座薬を入れた。すると数分後、患者は苦しいと叫び出した。あわてて患者のベッドサイドに駆けつけるも、呼吸できない状況に対して打つ手がない。この患者の病気は安定していると思われていたので、8人大部屋にいたのだが、同室患者他の7名は、夜の8時頃だというのにカーテンを閉め、息を殺してどうなることかと耳をそばたてていたのだろう。物音一つたてていなかった。

間もなく大便が漏れると叫び出した。その直後から意識消失しチアノーゼとなった。私にとって死ぬ間際の人を見たのは初体験でもあり衝撃だった。結局インダシン座薬による副作用のせいだった。インダシン座薬のような当たり前の薬であっても、このような結果になり得ることを知った。
 私が「まさか死ぬとは思わなかった」と言うと、代田先生は「俺は死ぬと思ったよ」と言った。その後は死後の処置が行われるが、それをするのは看護士の役割。プロとして粛々と自分の仕事をこなすのだった。ナースステーションの雰囲気は、慌ただしさはあっても悲壮感とは無縁だった。

最近、私は救急外科である渡辺祐一著「救急センターからの手紙」という本を読んだ。救急センターにおける医師の苦悩を書いたものだが、よくあるテレビのドキュメンタリー番組の内容とまるで違った。この医師も非常に言葉使いが悪いので、思わず代田先生のことを想い出してしまった。病棟内や東洋医学科内で内輪中では、代田先生の言葉使いは結構乱暴だったのだ。救急病院では日常的に人が死んでいる。すると普通であればやりきれない想いがして、厳粛な気持ちになるものだろうと考えたいところだが、ナースステーションでは医師とナースが結構冗談を言い合っている。「今晩飲みに行くか?」「行く行く!」などというやりとりのある雰囲気。それを見ていた新人ナースが、「人が死んだというのに、死に慣れるというのも恐ろしいことだ」と思って憤慨したりする。
実はそうではないのだ。医師もナースも死に衝撃を受けた。しかし自分らはプロだから死には慣れている。そう無理矢理自分をだまそうとしていて、その結果、あえて明るく振る舞っているというのが本当のところだと著者は記していた。


4.病棟カンファレンスにて

おもに2年目と3年目の鍼灸師が、分担して代田先生の患者を診させてもらってたが、週に一回、代田先生担当患者の病棟カンファれンスのまねごとをしてもらった。 2年目は4名、3年目は2人程度の入院患者を担当した。その時、この一週間の病状を報告するのだが、そのときカルテを見ることは禁止された。自分の担当患者くらい、重要点は記憶しているのは当然だろうとする立場からであった。研修生は自分の担当分だけ理解していればいいのに対し、元々は代田先生の入院患者であって、その数は二十名程度にもなったが、現在の処置、検査値を本当に記憶していることに仰天した。こんな頭の良い人はいるのかと思った。このようなカンファレンスは三井記念病院のレジデントで行われているというが、それはエリート医師の方法であって、つくづく自分の頭の悪さを思い知った。


5.代田先生の当直の夜の楽しみ

夜の病棟回診は午後8時頃から始まる。玉川病院には7つの病棟があって、当直医と婦長はこれを順番に回り、看護士から急変しそうな患者に対する状況の報告を受ける。その時、東洋医学科2年目の鍼灸師数名も金魚のフンのようについていく。こうした機会は月に3回程度あった。夜、救急患者が来た時は、守衛さんに東洋医学科にも知らせてほしい旨を伝えておく。
代田先生に時間的余裕がある時、夜の回診終了後、医局に行って酒をごちそうになりながら色々な雑談ができたのは楽しい思い出であった。代田先生は信州大学医学部在籍時、2年生から空手部の主将をしていた。対外試合では相手の打撃がモロに自分の命中しても、痛い顔を見せなかったとのこと。フルートも学習したが、上前歯に隙間があって息がもれて具合悪いので、前歯の隙間を埋めるよう金歯をつくったといって、実際に金歯をみせてもらいもした。学友の前で、本邦初公開などといって得意になったいたという。
そばにいるだけで、こちらが楽しくなるような雰囲気だった。

 


代田文誌のご家族集合写真(1962年)

2024-04-23 | 人物像

長野市のご自宅居間にて(1962年) 元のモノクロ写真

 

疑似カラーに変換、さらにAIで高精度化


代田泰彦氏(文誌先生の次男)から、暑中見舞いのハガキが届いた。コロナのため巣籠もり状態で、昔の写真を整理していたら、今まで忘れていた代田文誌一家の家族写真が出てきたとのこと。それをわざわざ送って下さった。

この代田家の御家族集合写真は1962年、文誌が長野市に住んでいた頃で、文彦先生が二十二歳の誕生日記念ということで座敷で撮影された。文彦先生も松本にある信州大学が夏休みということもあって帰郷し、全員が集まれたのだろう。みなくつろいだ表情をしているのが印象的。
この5年後、文誌は東京の井の頭公園傍に転居し、67才にして新たに治療院「延寿堂」を開くことになる。そのバイタリティに驚かされる。

向かって写真左側から、代田文誌(62才)、泰彦(次男20才)、文彦(長男22才)、千恵子(次女)、やゑ(夫人)、宏子(長女)。文誌先生はこの当時、長野県鍼灸師会会長をしていた。泰彦氏は早稲田大学政経学生、文彦氏は信大医学部学生。

モノクロ写真を手軽に疑似カラー化できることを知った。これまで20代の代田文彦先生のモノクロ写真を載せていたが、これも疑似カラー+AIにて高精度化したのでご覧下さい。

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/dd61c3e0d3149c068ee7a941120cfc8f

 


打膿灸について ver.2.3

2024-04-09 | 灸療法

1.序にかえて

打膿灸をしている処は直接は見たことはないが、焼きゴテ治療は見たことがある。今から約30年前頃のこと、小田原市間中病院の間中喜雄先生の治療見学の時だった。

まず皮下へ局所麻酔注射を行ったかと思ったら、引き続き先端一円玉程度の平たく丸い金属性のコテを火で十分熱し、コテ先端を先ほど局麻注射した部分に2~3秒ほど押し当てた。ジューという音がして白い煙が上がった。間中先生は、いつもながらの治療といった感じで特別の感慨もないようだったが、患者も全く熱がっている様子は見せなかったことにはも驚いた。局麻注射の効果は大したものだと感心もした。 

今日、実際に打膿灸を治療に取り入れている治療院は皆無に近くなった、そうした中にあって、東京では葛飾区の「四つ木の灸」は打膿灸を行う治療院として希有な存在である。打膿灸をした後、吸い出しの軟膏(無二膏のようなもの。詳細後述)を塗ったガーゼ布を渡され、膿が出る頃に貼るよう指示される。下写真は、吸い出しの軟膏布を入れた配布用の袋。関西では東京より盛んで、大阪の無量寿、無量寺、京都のおぐりす灸で打膿灸が行われている。


2.打膿灸の方法


①小指から母指頭大の艾炷を直接皮膚上で数壮行い、火傷をつくる

②その上に膏薬や発疱剤を貼布することで、故意に化膿を誘発させる。
※膏薬等を貼っている間、ブドウ球菌や連鎖球菌などの細菌感染が発生すると、黄色不透明の膿を排出する。
③4~6週間頻繁に膏薬類を張り替えることで、持続的に排膿させる。
④膏薬類の使用中止により、施灸局所は透明~淡白の薄い膜のようなものががはった状態になり、間もなく乾燥して痂皮形成する。
⑤痂皮の脱落とともに瘢痕組織となり治癒する。焼け痕は残る。



3.打膿灸に用いる薬剤の意義


打膿灸で火傷をつくった後には、火傷部に薬剤を塗布した布を貼るのが普通である。もし貼らないと、短期間のうちに火傷は自然治癒する。その間、なかなか化膿に至らず、したがって膿も出ない。膿を出すのが打膿灸の治効を生む要素であるから、薬剤の作用はわざと治癒を遅らせ、化膿させて排膿を促すことにある。 


化膿とは、化膿を引き起こす細菌が起こした炎症のことをいう。創傷面にあるわずかの細菌の存在よりも、むしろ異物や壊死組織の存在の方が問題になる。たとえば、傷口内に木片や小石が残っていると、なかなか治癒しない。ゆえに膏薬や発泡薬を貼り付けることは合目的性がある。

 


4.打膿灸に用いる吸い出しの「無二膏」

使用薬剤としては無二(むに)膏が知られる。膏薬とは、薬物成分をあぶら・ろうで煮詰めて固めた外用剤のことで。「軟膏」は異なり、かなり硬いので、火であぶって軟らかくしたものを布に塗り、患部に貼り付けて使用する。


無二膏は江戸時代初期から京都の雨森敬太郎薬房で販売していたが、平成29年に販売中止となった。<その効き目は他になし>という意味から無二膏薬と名付けられた。お灸の後の膿出しのほか、疔、ねぶと、乳腫、切り傷などに使用する。膿は体内に生じた毒素を外に出すという役割があると考えられていた。ゆえに傷口にカサブタができるということきうがわとは、毒の出口にフタをしてしまう悪い現象だと考えられていた。ゆえに「膿の吸い出し」といった効能を謳った。現代では、膿の吸い出し薬を使わなくても、異物接触で同様の作用は引き出せるということになろう。

 

 

※参考:浅井(あさぎ)万金膏

江戸時代~平成に愛知県一宮市浅井町で製造・販売された膏薬。平成9年製造中止。浅井森医院の七代目森林平は、いわゆるタニマチで、大相撲力士には無料で治療した。引退した濱碇(はまいかり)という力士がその薬の行商をしたこともあって、相撲膏との別名がつけられた。

現在の湿布に近いが、硬いので温めてから皮膚に貼り付ける。打ち身、捻挫、肩こり、神経痛、腰痛、リウマチに効能がある。古い広告には、「いたむところによし」とうたわれている。

 


 

 

5.打膿灸の意義と適応症
 
打膿灸は非常に熱い刺激で、火傷も残るので、現在ではほとんど行われなくなった。しかし昭和二十年代頃までは、どこに行っても治らないという症状に対して、起死回生の方法としての需要は残っていた。江戸時代のお灸はもともと大きなもので、打膿灸をして膿を出させることは一つの治療法として確立していた。効率よく膿を吸い出せることが重要だった。

ある一定以上の皮膚にできた創傷は、腫れて熱をもち、その後に膿が外部に流れ、その後に治癒するという順序のあることが知られていた。ところが膿瘍や癰がいつまでも出ない場合、病気の治癒を妨げる要因となっていると考えるようになり、身体内部の膿を出すことが病気の治癒に役立ついという考えに発展し、さらに一歩進んで、人為的に膿を出させることも病気の治癒に役立つという考えに至ったのだろう。
打膿灸の「打」という漢字には、打開という熟語の意味するように、開ける、切り開くの意味もある。

すでに皮下まで出てきた膿は、切り傷をつけることで外に出してやろうとした。この目的で用いたのが古代九鍼の鋒鍼や鈹鍼だったのだろう。

当初は体内の毒を吸い出すという考だったが、打膿灸が効果的に効くような病態は自ずと解明されてきて、結局は腰痛や神経痛など様々な症状に用いられるようになった。

打膿灸の意義を現代医学的な観点からみると、化膿することにより白血球数を増加させて免疫力を高める灸法だといえるので、安保徹氏の免疫理論に通じるところがあるといえる。近年では熱ショック蛋白(ヒートププロテイン)の理論が知られるようになった。しなびた野菜を50℃の熱水に1~2分晒すことで、新鮮さを取り戻すことができる。

近年、湯船の温度は42℃以上にしないことが皮膚に火傷をさせず健康に良いというのが常識となったが、これは本当だろうか。かつて銭湯は非常に熱かった。そこをこらえて湯船に入るのが醍醐味だった。最初のうちは必死に耐えるのだが、次第に痛快に代わり身体の芯から温まった。寒い時期など湯船から上がっても身体がポカポカして気持ちが良く、健康に良いことをしたのだという実感があった。ストレス発散にもなった。草津の湯も48℃程度はあったので、木板で湯揉みして温度を下げてやっと湯舟に浸かれたのだ。いずれば打膿灸の治療理論にも、ヒートプロテインの理論が適用される時代がくるのかもしれない。

 


奇経理論の再考察

2024-04-05 | 古典概念の現代的解釈

1.はじめに

筆者が針灸免許を取得する前から奇経には非常に興味があった。というのも当時の医道の日本誌では、奇経治療がブームとなっていて誌面を賑わせていた。何よりも最初に針灸治療の指導を受けた先生が奇経治療の臨床をやっていたからでもあった。しかし奇経治療のルールに従って治療して効いたという報告が多く、いくら調べても本質的な疑問に対する解答は得られなかった。ルールに従うのではなく、なぜそうしたルールになったのかを知りたかった。
奇経でペアとなる経絡は次のように定まっているが、どうしてペアとするのかにも謎が多い。下記ペアの左側にある陽蹻脈の宗穴を申脈、陰蹻脈の宗穴を照海とするのは納得できるが、それ以外の奇経と宗穴は自経上にないことも納得がいかない。
     

ペアで用いると定められた奇経 の組合せ                                         
陽蹻脈(申脈)---督脈(後渓)                            
陰蹻脈(照海)---任脈(列缺)                             
陽維脈(外関)---帯脈(足臨泣)                           
陰維脈(内関)---衝脈(公孫)             
                             
各経の走行を検討すると、以下の組み合わせの方が自然だと思う。ただし帯脈の宗穴、衝脈の宗穴は定まらない。そもそも帯脈、衝脈に宗穴は不要なのかもしれない。

合理的に考えてみた奇経の組合せ
陽蹻脈(申脈) --- 上肢尺側(後渓)                          
陰蹻脈(照海) --- 上肢橈側(列缺)                           
陽維脈(足臨泣)--- 上肢背側(外関)                         
陰維脈(公孫)  --- 上肢前側(内関)                         
帯脈(?)------ 衝脈(?)   

                        
奇経に似ていて、手根と足根に所定の治療穴を定めておき、その組み合わせで治療するという内容は、奇経治療以外では「腕顆針法」がある。腕顆針は、奇経の宗穴に相当する部を治療点とするが、手首部に6カ所、足首部に6カ所設定していて、十二正経に応じている。下写真がその書籍で、表紙に描かれた6本の帯の図がこれを象徴している。なぜそんなことまで知っているのか。それは表紙デザインは私にやらせてもらったからだ。
奇経は手首部に4カ所、足首部に4カ所の宗穴なので、奇経治療の方が単純化されているという基本的違いがある。腕顆針法は中国の張心曙により考案された。1980年代にわが国には手根足根針と改題され、杉光胤の訳により医道の日本社から出版された。

 

奇経治療については、筆者ブログ2019年12月8日「奇経八脈の宗穴の意味と身体流注区分の考察 ver.2.0」としてすでに説明したが、説明不足の点が多々あった。今回は、わかりやすさに留意して書き改めた。


2.奇経全体の走行  

上図は、私の考えた奇経走行の全体図で、すでに紹介した。ただしこの図の見方について説明をしてこなかった。今回はペアの経ごとに走行を説明する。


3.陽蹻脈と督脈

陽蹻脈は、自経内に宗穴として申脈をもつ。なお「蹻」とは足くるぶしのことをいう。陽蹻脈とは、足の外果を起点とする流注であることを示している。

陽蹻脈のペアとなる督脈は、自経内に宗穴はなく、上肢の後渓を宗穴と定めている。ただ奇経治療はペアとなる二つの奇経の手根と足根にある穴を治療点とするのが奇経治療の原則なので、体幹背面の脊柱を上行する流れから分岐して後渓へと走行するルートを模索すると以下の図のようになるだろう。
Th3棘突起くらいのの高さから肩甲棘を内端から外端までを通過し、上腕尺側を流れて後渓に達する。Th3棘突起と肩甲棘は離れているので、流注が途切れているかのようだが、左右の肩甲骨を内転(肩甲骨内縁を接触させる運動)させるならば肩甲棘内縁はTh3に接触できるだろう。
このように考えることで、後渓-申脈は、手首・足首ペア治療が適用できるものになる。 

4.陽維脈と帯脈

陽維脈は、自経内に宗穴はなく、手根にある外関を宗穴と定めている。
ペアとなる帯脈も、自経内に宗穴はなく、足の臨泣を宗穴と定める。陽維脈の宗穴は外関のほかに、本来は帯脈の宗穴なのだが、陽維脈経内の要穴として足臨泣を定めることにすと、手根には外関、足根には足臨泣となり、外関-足臨泣がペア治療として治療点となり、すっきりした解釈ができるだろう。帯脈については別枠で考察する。

身体の背面で、陽蹻脈と督脈の領域以外の部分が、陽維脈-帯脈の担当領域になる。「維」にはつなぐという意味がある。何をつなぐのかといえば、陽蹻脈と督脈の領域と、後述する陰蹻脈-任脈を領域をつなぐ範囲というのが私の理解である。上図では、肩甲骨が点線で描いている。これは陽維脈は肩甲骨と肋骨間を走行することを表現している。

 

5.陰蹻脈と任脈

陰蹻脈は、自経内に宗穴として照海をもつ。

陰蹻脈のペアとなる任脈は、自経内に宗穴を持たず、手根部にある列訣を宗穴と定めている。奇経治療はペアとなる二つの経絡の手首・足首にある穴を治療するという規則があるから、体幹前正中を任脈・陰?脈が上行して、手首へと流れるルートを考察すると、鎖骨内端から外端へと直角に流れを変え、そこから上肢橈側を手首に向けて列欠へと流れるというルートが想定できる。

6.陰維脈と衝脈

陰維脈は、自経内に宗穴はなく、手根部にある内関を宗穴と定めている。

ペアとなる衝脈も、自経内に宗穴はなく、公孫を宗穴と定めている。内関と公孫に施術することで陰維脈・衝脈の証の治療にあたる。
下肢前面→胸腹部の中央以外の前面と上行し、鎖骨にぶつかると直角に折れて上肢の前尺側を内関に向けて上行する。なお衝脈については別枠で考察する。

7.帯脈と衝脈

帯脈と衝脈は、他の奇経と同列に論じられない。この二経は子宮から始まり、初潮から閉経の期間に機能し、婦人病に関与するという共通性がある。他の奇経が自分自身の生命維持を目的としているのに対し、衝脈と帯脈は、新しい生命を誕生させるための機能に関係している。
帯脈は子宮内の血液を留めていく機能で、衝脈は子宮内の血を月経血として下す機能だろうと思われた。互いに相反する作用になる。帯脈の作用は弱まって衝脈の作用が強くなると月経が始まる。

1)帯脈とは
腰の帯をしっかりと留めておかないと、ズボンが下に落ちてしまう。同様に帯脈の機能が低下すると、子宮から血が漏れ出てしまう。これを帯下とよぶ。帯下とは現代でも使われる言葉で、月経以外の膣からの分泌物、オリモノのことをいう。この意味を広義に解釈し、不正出血や月経異常も帯脈の病証に含める。
 
2)衝脈とは
衝脈の「衝」とはぶつかるような、つきあげるような勢いのことをいう。「衝」のつく経穴には、衝門穴、太衝穴など脈拍を触知する部位であることも多いが、気衝穴のように胃経の走行が直角に折れ、上行した気が勢いよくぶつかる処という意味でも用いられる。衝脈の衝は、後者の意味である。
 
妊娠可能な女性は、生理的に月に一回月経を迎える。その時は帯脈の力が弱くなり月経血を留める力が減る一方、衝脈の勢いが増して月経血を強く下に押し出すことで月経が始まる。妊娠時は月経が停止して、妊娠初期にはツワリが生じるから、悪心嘔吐も衝脈の病証と解釈されたのだろう。