AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

打膿灸について ver.2.3

2024-04-09 | 灸療法

1.序にかえて

打膿灸をしている処は直接は見たことはないが、焼きゴテ治療は見たことがある。今から約30年前頃のこと、小田原市間中病院の間中喜雄先生の治療見学の時だった。

まず皮下へ局所麻酔注射を行ったかと思ったら、引き続き先端一円玉程度の平たく丸い金属性のコテを火で十分熱し、コテ先端を先ほど局麻注射した部分に2~3秒ほど押し当てた。ジューという音がして白い煙が上がった。間中先生は、いつもながらの治療といった感じで特別の感慨もないようだったが、患者も全く熱がっている様子は見せなかったことにはも驚いた。局麻注射の効果は大したものだと感心もした。 

今日、実際に打膿灸を治療に取り入れている治療院は皆無に近くなった、そうした中にあって、東京では葛飾区の「四つ木の灸」は打膿灸を行う治療院として希有な存在である。打膿灸をした後、吸い出しの軟膏(無二膏のようなもの。詳細後述)を塗ったガーゼ布を渡され、膿が出る頃に貼るよう指示される。下写真は、吸い出しの軟膏布を入れた配布用の袋。関西では東京より盛んで、大阪の無量寿、無量寺、京都のおぐりす灸で打膿灸が行われている。


2.打膿灸の方法


①小指から母指頭大の艾炷を直接皮膚上で数壮行い、火傷をつくる

②その上に膏薬や発疱剤を貼布することで、故意に化膿を誘発させる。
※膏薬等を貼っている間、ブドウ球菌や連鎖球菌などの細菌感染が発生すると、黄色不透明の膿を排出する。
③4~6週間頻繁に膏薬類を張り替えることで、持続的に排膿させる。
④膏薬類の使用中止により、施灸局所は透明~淡白の薄い膜のようなものががはった状態になり、間もなく乾燥して痂皮形成する。
⑤痂皮の脱落とともに瘢痕組織となり治癒する。焼け痕は残る。



3.打膿灸に用いる薬剤の意義


打膿灸で火傷をつくった後には、火傷部に薬剤を塗布した布を貼るのが普通である。もし貼らないと、短期間のうちに火傷は自然治癒する。その間、なかなか化膿に至らず、したがって膿も出ない。膿を出すのが打膿灸の治効を生む要素であるから、薬剤の作用はわざと治癒を遅らせ、化膿させて排膿を促すことにある。 


化膿とは、化膿を引き起こす細菌が起こした炎症のことをいう。創傷面にあるわずかの細菌の存在よりも、むしろ異物や壊死組織の存在の方が問題になる。たとえば、傷口内に木片や小石が残っていると、なかなか治癒しない。ゆえに膏薬や発泡薬を貼り付けることは合目的性がある。

 


4.打膿灸に用いる吸い出しの「無二膏」

使用薬剤としては無二(むに)膏が知られる。膏薬とは、薬物成分をあぶら・ろうで煮詰めて固めた外用剤のことで。「軟膏」は異なり、かなり硬いので、火であぶって軟らかくしたものを布に塗り、患部に貼り付けて使用する。


無二膏は江戸時代初期から京都の雨森敬太郎薬房で販売していたが、平成29年に販売中止となった。<その効き目は他になし>という意味から無二膏薬と名付けられた。お灸の後の膿出しのほか、疔、ねぶと、乳腫、切り傷などに使用する。膿は体内に生じた毒素を外に出すという役割があると考えられていた。ゆえに傷口にカサブタができるということきうがわとは、毒の出口にフタをしてしまう悪い現象だと考えられていた。ゆえに「膿の吸い出し」といった効能を謳った。現代では、膿の吸い出し薬を使わなくても、異物接触で同様の作用は引き出せるということになろう。

 

 

※参考:浅井(あさぎ)万金膏

江戸時代~平成に愛知県一宮市浅井町で製造・販売された膏薬。平成9年製造中止。浅井森医院の七代目森林平は、いわゆるタニマチで、大相撲力士には無料で治療した。引退した濱碇(はまいかり)という力士がその薬の行商をしたこともあって、相撲膏との別名がつけられた。

現在の湿布に近いが、硬いので温めてから皮膚に貼り付ける。打ち身、捻挫、肩こり、神経痛、腰痛、リウマチに効能がある。古い広告には、「いたむところによし」とうたわれている。

 


 

 

5.打膿灸の意義と適応症
 
打膿灸は非常に熱い刺激で、火傷も残るので、現在ではほとんど行われなくなった。しかし昭和二十年代頃までは、どこに行っても治らないという症状に対して、起死回生の方法としての需要は残っていた。江戸時代のお灸はもともと大きなもので、打膿灸をして膿を出させることは一つの治療法として確立していた。効率よく膿を吸い出せることが重要だった。

ある一定以上の皮膚にできた創傷は、腫れて熱をもち、その後に膿が外部に流れ、その後に治癒するという順序のあることが知られていた。ところが膿瘍や癰がいつまでも出ない場合、病気の治癒を妨げる要因となっていると考えるようになり、身体内部の膿を出すことが病気の治癒に役立ついという考えに発展し、さらに一歩進んで、人為的に膿を出させることも病気の治癒に役立つという考えに至ったのだろう。
打膿灸の「打」という漢字には、打開という熟語の意味するように、開ける、切り開くの意味もある。

すでに皮下まで出てきた膿は、切り傷をつけることで外に出してやろうとした。この目的で用いたのが古代九鍼の鋒鍼や鈹鍼だったのだろう。

当初は体内の毒を吸い出すという考だったが、打膿灸が効果的に効くような病態は自ずと解明されてきて、結局は腰痛や神経痛など様々な症状に用いられるようになった。

打膿灸の意義を現代医学的な観点からみると、化膿することにより白血球数を増加させて免疫力を高める灸法だといえるので、安保徹氏の免疫理論に通じるところがあるといえる。近年では熱ショック蛋白(ヒートププロテイン)の理論が知られるようになった。しなびた野菜を50℃の熱水に1~2分晒すことで、新鮮さを取り戻すことができる。

近年、湯船の温度は42℃以上にしないことが皮膚に火傷をさせず健康に良いというのが常識となったが、これは本当だろうか。かつて銭湯は非常に熱かった。そこをこらえて湯船に入るのが醍醐味だった。最初のうちは必死に耐えるのだが、次第に痛快に代わり身体の芯から温まった。寒い時期など湯船から上がっても身体がポカポカして気持ちが良く、健康に良いことをしたのだという実感があった。ストレス発散にもなった。草津の湯も48℃程度はあったので、木板で湯揉みして温度を下げてやっと湯舟に浸かれたのだ。いずれば打膿灸の治療理論にも、ヒートプロテインの理論が適用される時代がくるのかもしれない。

 


太極療法配穴の個人差(代田文誌著「鍼灸読本」より)ver.2.5

2024-02-10 | 灸療法

 数年前私は代田文誌著「十四経図解 鍼灸読本」春陽堂刊を入手した。初版は昭和15年で、昭和50年代に再版された。今日ではそれも絶版となった。

 集団的に施灸を初めたのは、昭和八年五月第二次自衛移民(500名)が満州に渡る時で、さらに昭和13年の茨城郡内原村にある満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の開所から昭和20年まで、保険灸を施していた。義勇軍は満州に渡って後も引き続き保険灸をやることになっていた。富国強兵を国是としていた時代のこと、高価な医薬品を必要としないお灸で健康増進に役立てるなら、ということで国が保険灸普及の後押しをした。

その折、団員向けの小冊子を製作しようとのことで、昭和15年春陽堂から「鍼灸読本」を出版した。基礎的な内容なので本稿で特記すべき点はあまりないが、健康灸について興味深い内容を発見した。「健康灸」そして「保険灸」は外部向けの名称であり、事実上は太極治療そのものだ(澤田流とはいえないだろうが)。

いずれにせよ、戦争に負けて以後、この構想は頓挫し、戦後まもなく訓練所の建物も解体された。


1.3パターンの保険灸

茨城県内原村、義勇軍訓練所において、保険灸として以下の三種の規則をつくって灸をした。
下記経穴に、半米粒大灸5壮づつ実施。

1)健康「上」と認める者に、身柱・風門・大椎・曲池・足三里
2)健康「中」と認める者に、身柱・風門・大椎・四華・中脘・曲池・足三里
3)健康「下」と認める者に、身柱、風門、大椎・四華・肝兪・脾兪・腎兪・関元・天枢・曲池・足三里
 
註)四華:
四花ともいう。ヒモを首にかけ、鳩尾のところで両端を切る。このヒモの中央を喉頭隆起にかけ、その両端を背部にまわし、脊柱上でその先端に仮点(ア点)をつける。次に口を閉じて左右の口角の間を測り、脊柱上のア点にその中央部をあてて、その左右にイ、ウの2点、上下にエ、オの2点、計4点に施灸する。(本間祥白著「図解実用経穴学」より)膈兪と霊台および八椎下(筋縮と至陽の間でTh7棘突起下)の計四穴になる。潮熱・盗汗(肺結核時のような)、虚弱体質時に灸療する。

 

 

2.取穴理由

1)誰でも17~18才となると風門に灸した。これは風邪を予防し、同時に心臓の機能を整える目的。風邪は万病の始めであると古人は恐れていた。また同時に膏肓も併せて灸する。その意味はおそらく結核の予防と全身の活力を強めるためであったと思える。

2)24~25才ともなれば三陰交を加える。これは花柳病(=性病)の予防と生殖器を健康にならしめ婦人にあっては月経を整える爲であろう。

3)30~40才頃になると、足三里にすえる。これは胃を健康にし老衰を防ぎ、一切の疾病と予防し、その上長命を保つ方法とした。、
なお老いて視力の減弱を防ぐために足三里、併せて曲池へ施灸することもあった。

  

3.沢田流太極療法との相違点

「鍼灸読本」を出版したのは代田文誌40才の時だった。この年には「鍼灸治療基礎学」も出版し、翌年には「鍼灸真髄」も出版している。師匠の沢田健は文誌が38才の時に死去している。

「鍼灸治療基礎学」や「鍼灸真髄」は、沢田健の治療すなわち沢田流太極療法を大いに褒め讃えている。「鍼灸読本」にみる保険灸の取穴理論は、「三原気論」理論や五臓色体表を用いていないという点で本式の沢田流太極療法とは異なるが、沢田流基本穴に似た面があり、かつ一般人にとって考え方が分かりやすいものとなっている。


沢田流太極療法の説明

 http://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/90e2d4cb08485c0c8c12a8780dd7d6e6


※沢田流基本穴:百会穴、身柱穴、肝兪穴、脾兪穴、腎兪穴、次髎穴、澤田流京門(志室穴)、中脘穴、気海穴、曲池穴、左陽池、足三里穴、澤田流太谿(照海穴)、風池穴、天枢穴など。(時代により多少変化あり)

 

4.田中恭平氏の「健康長寿の灸」 と神田勝重氏の「保険灸」

内原村義勇軍訓練所で、代田文誌の同僚として次の2名の鍼灸師が、保険灸の配穴について記している。文誌を含めて計3名が同じテーマで記載しているが、それぞれ微妙に内容が異なっているのが興味深い。


1)田中恭平の「健康長寿の灸」
2018年6月22日、匿名氏から田中恭平『灸の医学的効果』309頁「健康長寿の灸」の内容紹介コメントを頂戴した。田中氏は、内原の満蒙開拓義勇軍の内原訓練所衛生課内の鍼灸部で代田文誌と一緒に働いていた。

① 身柱、風門、足三里の五点 ‥‥健康上の者
② 身柱、四華、三里の七点‥‥‥ 健康中の者
③ ②に腹部基本灸四点と左右の曲池を加へた十三点 ‥‥健康下の者 
④ ①に膈兪、肝兪、脾兪、腎兪、腹部基本灸の十二点を加へた都合十七点‥‥健康下の者 

(「腹部の基本灸といふのは、私・田中恭平自身で決めた基本灸でありますから、書物には基本灸などと云ふ文句はありません。腹部基本灸の穴は中脘、天枢、関元。)

2)神田勝重氏の「保健灸」
上述の匿名氏は、神田勝重『灸療要訣』(日本書房)115頁「保健灸」についての内容も紹介してくれている。神田氏は序文で、『灸療要訣』の内容の大部分は、私の師 代田文誌先生が後日『鍼灸治療要訣』として刊行される草稿の中より必要と思はれるものを寫させて頂いたものである」と記している。

①健康上と認めるもの‥‥身柱、風門、霊台、曲池、足三里
②健康中と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、曲池、足三里
③健康下と認めるもの‥‥身柱、風門、四華、中脘、気海、腎兪、脾兪、次髎、左陽池、足三里、太谿


3)3者の比較

①健康度「上」

 

万病の元とされる<風邪>の予防のためだろう。上背部の灸を重視しているように見える。

②健康度「中」

 健康度「上」の風邪の予防に加え、肺結核の予防のためか、横隔膜あたりの刺激を重視しているようにみえる。

 

③健康度「下」

健康度「中」の肺結核予防に加えて、脾兪・腎兪など消化吸収力を高めることで、食物が人体に取り込むことで栄養になることを期待しているかのようだ。
興味深いのは、神田勝重氏の左陽池の灸である。左陽池は沢田流太極治療の伝統的治療穴の一つとして、沢田健先生は非常に重視していたのだが、代田文誌先生は、後に合理性に乏しいとして選穴しなくなった。陽池は三焦経の原穴であるが、沢田先生の独特の考え方として、三焦を重要視していた。その理由として三焦は生体における化学反応を連続的に起こす条件としての体温を一定に保つ内部環境があげられるという。陽池の左側を取穴するのは、人身の右を陰とし、左を陽とするという素問霊枢の説からきている。陽池は陽の池だから左をとるのが原則である。もちろん右の陽池を使っていけないというのではない。

沢田先生はほとんど書物を残さなかった方ではあるが三谷公器著「解体発蒙」を紹介する際の序文として、<三焦概論>という一文を残している。上焦を宗気、中焦を営気、下焦を衛気と関連づけて考察している内容となっている。


三谷公器著「解体発蒙」の三焦についての説明

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/159cb2af0776c4083e2998a343973b28

 


5.集団施灸の効果

昭和50年4月15日。日鍼灸誌に堀越清三氏により「集団施灸の一例」として当時の将兵約800名に対する集団施灸(1週間~3ヶ月間)のデータを報告している。当時は軍機密として公表されなかった。安価で手軽にできる施灸治療の秘密を、敵国に知られるのを国家が嫌がったと思うと面白い。

原著論文

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/24/2/24_2_22/_pdf/-char/ja

一般兵、錬成兵、将校と下士官のグループ別で、それぞれその半数に施灸を行い、残り半数を施灸を行わない対照群とした。施灸前後に種々の体力測定を行い、施灸の効果の有無

を検討している。2回分析を行っていて、その結果は少々異なるが、おおむね次のようなった。(2回分析中、ともに有効なものを<有効>とし、1回のみ有効なものを<やや有効>と、2回ともに効果なかったものを<いまだ効果を見ざるもの>と分類してみた。

<有効と思われるもの>
体重増加、100m疾走の短縮、食欲増進、脚力、夜間排尿回数の減少

<やや有効>
睡眠、1000m疾走、懸垂、負担早駆、

<いまだ効果を見ざるもの>
患者発生状況
 

6.5人で協議してきめた保険灸の部位

奥野繁生からメールを頂戴した。保険灸の取穴について、当時の鍼灸師スタッフ5名が協議して「保険灸」の治療ポイントについて検討した結果が記されている文献を発見したとのこと。以下、奥野先生のメール内容。


『東邦医学』誌第6巻第7号(昭和14年6月、復刻版第四輯所収)を眺めていたら、代田文誌「鍼灸余話」という記事があり、そこに「青少年義勇軍の灸療」として、こう記されていました。

「茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍に於て保健のためにその全員に灸をしてゐることに就ては前にも記したことがあるが、本年(昭和十四年)四月二日に、内原の青少年義勇軍訓練所に於て、同所長加藤完治先生を中心として、帝大医科の茂在教授、日大医科の齋藤教授と田中恭平氏と私との五人で協議した結果、左の様な灸を一般に行ふことに決定した。そのことを、茲に併せ記して大方の参考にしたいと思ふ。

一、健康甲と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里。
二、健康乙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘
三、健康丙と認める者に。身柱、風門、大椎、曲池、足三里、中脘、関元、四華。

以上は、内原義勇軍訓練所の衛生部に於ける医師との協定の上にて一般的に施す灸治である。以上の灸点を選んだ理由については煩雑であるから今は記さぬが、これだけの灸にて青少年達の健康を維持し、その体格を向上せしめ、併せて結核其他の病気の予防に役立つであらうことは、確信して疑はぬ処である」

五人で協議した結果、だったのですね。(引用以上まで)

 

上記取穴を図示してみると以下のようになった。

 

先に挙げた3名の健康灸パターンに似てはいるが、微妙に異なっているものとなった。まあこれが正解という筋合いのものではないが‥‥
健康度「甲」と健康度「乙」とでは、中脘穴を加えるか否かという点のみが異なる。健康度「甲」健康度「乙」ともに上背部刺激は重視しているが、中背部や腰部を取穴していないのが特徴的である。

 

 


お灸のトリビア ver.1,1

2023-02-16 | 灸療法

1.灸治療が庶民に広まったのが江戸時代

もぐさは西暦500年頃、朝鮮を経由して仏教とともに日本へ伝わってきた。中国にある棒灸は、日本のお灸の原型と考えられるが、お灸は日本独自に進化した伝統的な治療法。西暦700年頃僧侶が行う治療として隆盛を極め、江戸時代には庶民にも広まった。江戸時代には、「弘法大師が中国から持ち帰った灸法」というふれこみで打膿灸も普及した。


2.いくさにおけるモグサの利用法

もぐさは<戦さ>で使われていた。<戦さ>で怪我をした際にもぐさを使って傷口を焼いて、肉を盛り上がらせ、血止め・消毒をしていた。


3.庶民が行っていた灸治療

鍼は鍼医という専門家が行うもので、鍼医は今日での鍼治療以上に、膿を切開するなど簡単な外科手術も行っていた。古代九鍼のうち、鋒鍼は膿を出す穴を開ける用途で、鈹鍼は膿を皮膚切開して膿を出す用途として用いられた。これに対して灸は、庶民同士が行う素朴な医術だったので、灸医というものはなかったが、漢方薬(富山の薬売りが有名)は高価だったこともあって、治療の主流はお灸だった。多くは痛いところや、切り傷にお灸するとかの原始的方法だった。


4.乾燥したよもぎ葉を石臼で挽く理由

もぐさは、よもぎの葉を乾燥させ、繊維部分を石臼で挽いて細かくし、竹簾でふるいにかけてフワフワの状態に仕上げたもの。よもぎの総量の3%ほどしかつくれない。
石臼挽きを重ねたもぐさは線維が細かく、線維間に空気を多く含むのでフワッとしていて、燃焼温度も比較的低い。中国製のものは乾燥したヨモギ葉を電気式ミキサーで粉々にカットするが、このような製法では繊維間の空気含有が少なく、燃焼温度が高くなるので有痕灸用としては不適切である。
 

5.お灸の壮数について
   
お灸の壮数は、ほとんどが3・5・7壮と奇数になっている。これは古代中国において奇数が陽の数字としての意味をもち、灸をすえるという行為事態に「陽の気を補う」という意味が込められたことを反映している。(鍼灸甲乙經)
お灸の壮数で、病が深く浸透している者は、数を多くすえる。老人や子供では成人の半分位の量に減らす。扁鵲の灸法では、五百から千壮に至ったというが、明堂本經では鍼は6分刺し、灸は3壮と記し、また曹氏の灸法では、百壮することも五十壮することもあった(千金方) ということで、当時としても多様な考え方があった。

お灸のすえ方として、江戸時代頃までは、打膿灸と多壮灸が主流だったらしい。しかし現在の状況では、両者とも行い難い方法になってしまった。

 

6.排膿口がある場合に鋒鍼、排膿膿口がない場合には打膿灸
 
血が停滞して体内に熱をもって体内に腫瘤形成される。これを取り去るには内科的には湯液治療だが、鍼灸的には鍼による皮膚切開と、打膿灸による排膿の方法が行われていた。

1)皮下に腫瘤の存在が明瞭で、排膿できそうな場合

鋒鍼(△型に尖った鍼。三稜鍼)や火鍼(鋼鉄の太鍼を火で加熱)で皮膚を切開し、排膿口をつくって膿を外に出す。膿が溜まった部分の皮膚は知覚鈍麻しているので火鍼を行っても我慢できる程度だという。
 
2)皮下に腫瘤がない場合

打膿灸で排膿口をつくる。そして火傷部に膏薬を貼ってわざと治癒を遅らせ排膿を長くする。4~6週で膿を出し尽くす。すなわち傷口内部に砂や木片が残っているとなかなか治癒しない。同じく、傷部に異物(「無二膏」など)を接触させていると、治癒が遅くなることを利用している。
多壮灸による排膿をねらったものに、面疔に対する合谷多壮灸があり、戦前には桜井戸の灸とし賑わった。「
面口合谷収む」とは四総穴の一文である。

 

 

 

7.つぼの効能

今日でのお灸は、半米粒大の艾炷で、1カ所3~7壮程度が標準とされているが、昔は数百といった多壮灸が普通だったのかもしれない。ということは、灸治療の効果も、今日の常識を越える効き目があったのではないだろうか。

1)足三里 

①旅人のツツガムシ病の予防する

江戸時代になると、旅の道中もモグサを携帯するようになった。旅の途中、川を渡るとツツガムシ病に感染する恐れもあることから、お灸で予防していた。松尾芭蕉も奥の細道の旅立ちを控え、「三里」のツボに灸をすえて...と詠んでいる。(富士治左衛門(釜屋社長)東京 日本橋の観光・グルメ・文化・街めぐり情報サイト2015年02月【第52号)より)
  
※ツツガムシ病:オリエンティア・ツツガムシという病原体を生来もっているダニの一種。河川敷や草みらに幼虫は生息していて、そこに人が通ったりすると、皮膚にとりつき管を体内にいれて体液を吸着する。人の体内にその病原体が入ったときに発病する。発熱、刺し口、発疹は主要3徴候とよばれ、およそ90%以上の患者にみられる。また、患者の多くは倦怠感、頭痛を訴える。

 
②中高年者のノボセを下げる

<千金翼方>では「三十歳以上では頭に灸をする。四十歳で足三里にもお灸をしないと、気が頭に上って目が見えなくなる」書かれている。それが後の<外台秘要>では「人、四十にして三里に灸せざれば、目暗きなり」となっていて、文章の最初の「頭に灸する」の語句が抜けた。それ以後「年をとったら三里の灸をしなければならない」と伝わってしまった。もともと足三里の灸は、のぼせを下げるための意味付けが強かった。(一本堂学術部「 江戸の鍼灸事情と養生法」) 

頭寒足熱が理想の体調状態だが、これが逆転して頭熱足寒になると不健康になりやすいとは昔からいわれている。頭部より足部の温度が高いほうが人間快適であり、ゆえに床暖房がもてはやされる。就寝時、足冷でアンカを使うことはあっても、頭は掛け布団の外に出ていても意外に平気である。

 

2)膏肓
   
<千金方>で初めて膏肓穴が登場した。古い文献に膏肓は記載がない。膏肓の名前の由来は、「病膏肓に入る」の故事より。<晋公の病はすでに膏の上、肓の下にあるので治療できない>と医師の緩は語ったことによる。
   
しかし孫思邈(ばく)は、当時の医療では膏肓の取穴がきちんとできなかったからであり、このツボは万病に効く。600~1000壮すえることで、自分の身体補養になると言っている。  600~1000壮という壮数は、「医心方」にもあって、医心方中最も多い壮数となっている。


3)関元

南宗の時代の<扁鵲心書>では、罪人でつかまっていたが、90才過ぎても快活で1日十人の女性と交わっても衰えることがなかった。刑吏がその理由を聞くと、夏から秋への季節の変わり目に、関元に灸を千壮すえているだけだと言った。しばらくこれを続けていると、寒暑を恐れることがなくなり、何日も食事をしなくても飢を覚えることがなくなったと返答した。関元へのお灸は、百壮単位で行うのがよいらしい。

 

8.家伝の灸
 
家伝灸とは、ある一個人が自分の病気を灸で治した経験から,同じ方法で同一の病気を治そうと他に施し、それを子孫が伝えているものである。家伝灸の多くは打膿灸だった。わざわざ遠方まで打膿灸されに出向くこと、熱さに耐えること。こうした苦労を克服したからこそ御利益もあるという思いだったろう。要するに神仏にすがる思いと同種のものであった。
以下は代表的な家伝灸

1)中風予防の<熊ヶ谷の灸>膝眼穴

目的:中風予防の打膿灸取穴
刺激法:大豆倍大にして一ヶ所三壯、打膿灸(吸いだし灸)。
実施日:六月一日の二日の2日間のみ。治療代は一人2~3円。この2日間だけで6万円(現在の価値では6千万円)があった。小田急の鶴川駅はこの灸のためにできた。

2)面疔に対する<桜井戸の灸> 合谷穴 

https://blog.goo.ne.jp/ango-shinkyu/e/f383507bdb11c90225c42c9f3a6b8bf1

目的:面疔。昭和 28 年頃は副鼻腔炎に対しても行っていた。
方法:手三里と合谷に 30 壮~ 100 壮灸する。これを1日3回やる。面疔の治療は、化膿を待って切開するのか常で、したがって手の一穴(合谷)へ灸をすえれば必ず口が開いて排膿できるという。膿の出る口を開けるには、吸い出し膏薬を貼る。(代田文誌著「簡易灸法」) 痛みが出たら、再び合谷に数十~二百壮連続で、痛みがとれるまですえる。

面疔には下頤(かい)の灸というのも知られていていた。頤は「おとがい」とも読み、下顎の尖った先部分をいう。下顎中央の縦溝下端の骨上を取穴。灸の熱感が浸透して排膿するまで5~20壮(入江靖二著「灸療夜話」緑書房)。鼻は骨のでっぱりだが、顔面の中で、同じように骨のでっぱりという共通項から頤を選んだのだろうと思われた。

※面疔:目や鼻周囲にできた黄色ブドウ球菌感染症。常在菌である黄色ブドウ球菌が顔面の毛孔から侵入し、毛嚢炎が悪化して化膿し、セツの状態になったもの。抗生物質が有効。面疔は強烈に痛んだり、悪寒発熱など全身症状の出ることもある。軽度な面疔であれば、排膿後2 週間ほどで自然治癒する。病巣部である眼窩や鼻腔、副腔などは薄い骨を隔てて脳と接しているため、抗生物質を服用しないと髄膜炎や脳炎などを併発し 手遅れになることもある。沢田健は面疔で死亡した。
 

3)眼病に対する「四つ木の灸」臂臑  

上腕外側、臂臑穴に行う打膿灸。眼病に効果あり。

 


9.施灸時の体位

1)紐を使った取穴 

取穴を大仰(おおぎょう)にする演出で、この類には次のようなものがあった。患者は、おそれいったことだろう。
 
①騎竹馬の灸→第10胸椎の両側各5分のところ。 灸30壮。癰疔などの悪性潰瘍を主治する。 乳腺炎等。
②四花・患門→呼吸器疾患、心臓疾患  
③脊背五穴 
④五処穴など 

2)施灸体位

現在では、鍼も灸も仰臥位または伏臥位で施術されることが中心となったが、残された古文書をみると、座位で背中にお灸した図を見る機会が多い。深谷灸法にあっても、「治療は座位で行なう。座位ができない場合は寝て取穴する。当然ツボの位置はずれる。」とある。

座位で鍼する方法は、柳谷素霊「秘法一本鍼伝書」の五臓六腑の鍼で紹介されている。
鍼でも灸でもこれは背部筋を弛緩した状態で鍼灸刺激するよりも、自重を背筋緊張で自重を支持して鍼灸するのでは、後者の方が効果が高いことを知っていたのだろう。
 

中国の宋代とは、糖につづく時代で、我が国の鎌倉時代にほぼ一致する。上絵は打膿灸を行っている。

     

椅座位での足三里の灸

 

会陰への灸

 

 

座位で、台の上に両肘をつけて背中に灸する様子を描いている。肩甲骨を左右に開くことで大・小円筋や大・小菱形筋をストレッチ状態にさせ、また胸腸肋筋を目標に施灸していたことが発見できて、今日でも参考になる。この体位を開甲法(「困学灸法」より)とよぶ。

 

 


クルミ灸のための加工と試行錯誤 ver.1.3

2022-12-22 | 灸療法

眼を患っている患者が来院した。眼ということで鬼クルミを使ったクルミ灸についての話をした。すると次週、鬼クルミを1袋(50個くらい)持ってきて、私に分けていただけるとのことだった。

 

1.クルミの殻を割る 

クルミにはいくつかの品種がある。一般に市販されているのは西洋クルミ(ウオールナッツ)といい、大きく殻が薄く中身が大きい。しかし鬼クルミは日本固有のもので山野に自生するという。殻が非常に硬いのが特徴。殻を割らないことにはクルミ灸ができない。

ペンチで割ろうとしたがびくともしない。隙間にカッターを入れて割ろうとしたがダメで、のこぎりで分断しようと思っても刃痕さえ残せなかった。カナヅチで叩いてみても、勢い余ってあらぬ方向に跳んでいく。どうしたらよいのかネットで調べてみた。<一晩水に浸し、干し、煎る。すると殻に隙間がでいるので、マイナスドライバーでこじ開けるとよい>ということが書かれていた。そこで一晩水に浸し、天日干しにして丸一日乾かし、フライパンで煎ってみた。

①一晩水に浸し、陰干ししている最中。

②フライパンで煎る。しかしコンロには加熱防止の安全装置がついているので、ある程度煎ると火は消えてしまう事態.。消えてはつけるを数回繰り返した。

③フライパンから出した直後も、殻は固く閉じたまま。
しかし10分ほど経ち、自然に冷えたためか、どの殻も少々隙間ができていた。
④そこにマイナスドライバーを入れ、こじ開け、何とか殻を二つに分断できた。

⑤爪楊枝で実を掘り出し、薄皮を剥いで完成。それにしても鬼クルミの殻は分厚い。
実を味わうまでには量が少なすぎた。

 

2.くるみ灸の試行

どのような温度感なのか、まずは自分の左手三里に試行してみることにした。
クルミ殻の上にアラビアノリを塗り、直径2㎝ほどの球形にまとめた粗悪モグサを乗せ点火した。アラビアノリを塗ったのは、モグサが転がっては大変だと思ったため。
だが数十秒しても何の温感も得られず燃焼終了。2壮目は直径2.5㎝にして再度実施。わずかに温感を得られた程度に終わった。

そこで棒灸を1/8にカットしたもの(これは普段は箱灸で使ってい)を、クルミ灸の上に置いて点火してみた。すると、ぬるい風呂程度の温感は得られた。気持ち良いが、物足りなさを感じた。そもそも、クリミ灸に興味をもったのは、ドライアイの治療で、目やに状に固まったマイボーム腺を溶かすには、眼瞼を5分間以上40℃程度に温める必要があるとの記事を発見したことに始まった。もっと温度を高くするには、殻の薄い西洋クルミを使う方が良いかもしれない。

 

3.クルミ灸をあきらめ、蒸しタオル温罨法に

冒頭の方とは違う眼疾患の患者が来院した、主訴は顕著な視力低下、視野狭窄、夜盲。従来から上下の眼窩内刺針で置鍼30分実施していた。もっと効果的な治療をと考え、眼の温熱治療を併用しようと思った。ただしクルミ灸の温熱作用は弱く、本患者のような置鍼30分間も温めることはできない。

そこで、月並みな方法だが、蒸しタオルで温めることを思いついた置鍼は寸6#2の針を使っているので、瞼の上に蒸しタオルを置いても、鍼はしなやかに傾くので支障がなかった。とりあえず次のように行った。施術後、患者に印象を問うと、なかなか気持ち良かったようで、”使える方法”だと思った。

①タオルを適度に水に濡らし、滴れないように手で絞し、薄いビニール袋で包む。
②500W電子レンジで2分加熱。
③手で持てないほど熱くなったので、タオルを広げて十数秒放置、適温であることを確認後、患者の瞼の上にペーパータオルを敷き、その上を蒸しタオルで覆う。
④10分ほど様子をみたが、あまり温度は下がっていなかったので、さらに10分置鍼を継続。
⑤20分置くと蒸しタオルの温度の低下が目立ったので、500W電子レンジで1分加熱し、再度蒸しタオルを10分間実施。(合計30分間の置鍼)

 

4.蒸しタオルを加熱して温める際の妥当なパラメーターとは

しタオルをどの程度温めたらよいか、また放置した場合の冷え具合はどの程度かを勘で行ったが、それが妥当なのかを検証してみることにした。
蒸しタオルの温度は、タオル内に温度計を突っ込んで測定したので、実際に患者に加える温度は少し低くなり、タオルと瞼間にはペーパータオルを敷いているのでさらに温度は低く感じるだろう。

蒸しタオルを袋で包み、温度計を入れて温度を観察

 

タオルを水で濡らした直後の温度は15℃だった。これを500wレンジで2分間加熱すると72℃となった。これは直接手で持てないほどの温度である。高温すぎるので十数秒間広げるようにして冷まし、袋に入れてて温度変化を観察した。40℃以上の熱を保持できるのは、上表では15~20分となったが、実際に患者に加わる熱を考えれば15分程度だろう。今度はレンジで1分間加熱すると、驚くことに先ほどと同じ温度になった。
以上の結果から、今回試行した患者への蒸しタオル温熱の設定数値は、妥当だったことが判明した。

 

6.クルミ灸を実践している先生のやりかた

上記ブログを発表したところ、奮起の会常連でもある坂口綠氏が、自分はこのようにクルミをやっているという報告を頂戴したので掲載する。(本人の許可済) 
みどりはりきゅう 
https://calen358.blog.fc2.com/blog-entry-199.html

鬼クルミを使ってのクルミ灸は難しく。ペルシャクルミを使う方がよいらしい。

①鬼クルミと間違えてペルシャクルミを購入。ペルシャクルミはお菓子によく使われているもので、身は大きく殻は薄いです。
②剪定用ハサミをつかうと、簡単に分断できました。

③漢方薬局で打っている乾燥食用菊「菊花」を煎じます。この煎じ液にクルミ殻を2日以上漬け置き(または一緒に茹で)、くるみに黄色くなった煎じ液を浸透させておきます。
菊花の煎じ液は、飲用では肝虚証に作用し、眼精疲労に良いとのこと。

④菊花煎じ液(=菊花茶)から取り出し、濡れた状態のクルミの殻をまぶたの上に乗せ、その上に低級もぐさを乗せて火をつる。これでまぶたとくるみの間の空間に、蒸気が充満します。私は、自分でこのお灸をする時にうっすらと目を開けたりしますが、目の表面にスーッと清涼感を感じます。ただし菊花茶に数時間しか浸しておらず、くるみに液が十分浸透していない場合、灸で温めている最中にくるみにひびが入り、煙が目に染みることがあります。
※ただし緑内障の方は、眼圧が上がる場合があるので要注意。つけまつげは変質の恐れあり、コンタクトは温度に注意。

⑤このくるみ灸をとても気に入られている患者さんもいますが、治療法というより見た目が面白いので、インスタに上げたり、イベント向けでよくやりました。


                  

 

 

 

 

 


代表的な薬物灸について ver.2.4

2022-07-15 | 灸療法

はじめに
東洋療法学校協会編の「鍼灸実技」教科書には、薬物灸の説明が載っている。現在のわが国において、薬物灸を実際に行っている処は非常に少ないのだが、灸基礎実技の担当講師は、不案内なのにも関わらず、立場上薬物灸について一通り説明する必要にせまられる。

薬物灸について簡明に、かつ興味深く、教えるにはどういう内容にいたらよいのだろうか。私が過去に教えた内容を記すことで諸先生方の参考に供したい。2016年1月5日、このような出だしで、「代表的な薬物灸について ~灸基礎実技講師のために Ver.1.3」を記したが、薬物灸それぞれについての成分に対する詰めが緩すぎたようだ。この点を考慮して、書き改めることにした。

 

1.天灸
<カラシナの種により皮膚を発泡させる>
 
主成分は、カラシナの乾燥種子である、白芥子(はくがいし)。白芥子は発泡薬であるが、香辛料ホワイトマスタードの原料としても使われる。粉末にした白芥子を水で調合して練って団子状にし、皮膚に貼って1~3時間放置して発疱させる。主に鼻炎・扁桃炎・喘息など呼吸器疾患患者に対して、座位にして大椎・肺兪・膏肓などを選穴する。現在では香港で広く普及している。白芥子には、発泡とともに発疹・発赤・掻痒などをもたらす。
 
発泡薬とは、血管壁に作用して血管拡張作用があり、皮膚透過性があるので、疼痛・発赤、ついで漿液性滲出をきたし、局所に水疱が生ずる。要するに人為的にⅡ度の火傷を起こさせる。  

 

 

 

 

 

2.漆灸
<生漆により人為的に接触皮膚炎を起こす>
 
漆灸の主原料は生漆で、生漆十滴、これに樟脳油(皮膚にスースーした冷感と清涼感の香り)十滴を調合し、ヒマシ油適宜をよくまぜ、モグサにしみこませて肉池のようにして置き、これを小さい箸先で穴部につけるだけ。
別法として乾漆一匁(もんめ≒3.5g)、ミョウバンン十匁、樟脳5匁、モグサ適宜を粉末にして。黄柏の煎汁につけて、モグサに混和浸潤させ、穴部につけるというのもある。後述する駒井博士の穴村の灸=墨灸というのは、漆灸のことだという。墨灸も漆灸も小児病に多用された。

※生漆による皮膚カブレ反応は遅延性で1~2日後に生ずるが、ごく少量皮膚につけるだけなので、有益な刺激だけになるのだろう。
 

①漆

毎年、初夏から秋口にかけて、漆の木の樹皮に傷をつける。すると乳白色の樹液が染み出てくる。これを掻き出したものを生漆という。生漆を濾過して煮詰めたものが漆である。漆の最大需要は、漆器などの天然樹脂塗料としての用途で、美しい艶がでるようになるとともに耐久性も増す。
    
漆は乾いてしまえば健康被害は与えないが、乾いていない樹液はカブレを起こす。このカブレはアレルギー性接触性皮膚炎を生じたもので、漆が肌の毛穴についた時に皮膚のタンパク質と、漆の主成分ウルシオールが反応して起こる遅延性アレルギーで、漆に触れてから1~2日経ってからカブレ(激しいかゆみ、赤い発疹、水疱)が生じ、1ヶ月近く続く。

②樟脳(カンフル)
クスノキの幹を砕いて蒸すと樟脳ができる。樟脳には爽やかな芳香があり、皮膚の神経の冷感を刺激する(ただし実際の皮膚温は下がらない)。かつては強心剤として樟脳からつくる精油カンフルを用いた(実際には無効だった)ことがある。クスノキの周りには虫がよってこないことから、樟脳は防虫剤としての用途もあった。しかし現在では安価なナフタリンにとって代わった。

③ミョウバン(硫酸カリウムアルミニウム)
温泉にある「湯の花」とは、ミョウバンが固まったもの。雑菌の繁殖を防ぐ作用。防腐作用として食品添加物の用途、制汗剤や静臭剤スプレー成分としての用途。湯船にミョウバンを入れて入浴すると、体脂がとれてすっきりするという。

3.水灸
<皮膚に対する冷感と清涼香>
 
いくつかの薬物に組み合わせがあるが、代表的なのは薄荷、竜脳、アルコ-ルを混和したもの。筆、箸、棒などを用いて皮膚に塗布する。薄荷と竜脳は皮膚に冷感と爽快な香りを与える。ただしこの冷感は、実際に皮膚温を下げた結果ではなく、皮膚神経に「冷たい」という錯覚を起こさせたもの。しかしアルコールを加えることで塗布した部分の気化熱を奪うので皮膚温を下げる作用も多少あるだろう。現在市販されているサロンパスやタイガーバームの作用に似ている。
 
①薄荷(ハッカ)
ハーブの一種の草の葉のこと。Lメントールは薄荷の精油成分。冷感と清涼な香を付加する。ただし皮膚温度を下げる作用はない。
  
※余談:テレビ番組の<ナイトスクープ>で、「アイヌの涙」という入浴剤を入れると、熱い湯でも冷たく感じるという現象を放映したことがあった。「アイヌの涙」の正体はハッカ油で、湯船に数滴垂らすのが正し方法なのに、多量に使った結果だと分かった。皮膚に対する熱湯刺激と、皮膚の冷感刺激で、脳が見事にだまされた現象であった。 
 
②龍脳
龍脳は、竜脳樹という樹木の幹を砕いて蒸して採取する。龍脳の別名はボルネオールで、ボルネオ島がその由来。皮膚に対する冷感と清涼香を与える。龍脳は、書道で使う墨(すみ)の香料としても知られる。墨の香りは、心が落ち着き、幽玄な雰囲気に浸れるとされる。

 

4.墨灸
<墨の香り龍脳>
 
墨灸とは、生薬エキスに墨を垂らしたものを、ツボに筆などで塗る治療法で、火は使わず、熱さも熱傷跡も皮膚に残らない。幼児・子供の夜泣きや疳の虫、おねしょの治療として普及した。何種類かの生薬の組み合わせがあるが、一例を示せば、<黄伯(おうばく)を煎じてその液で墨をすり、樟脳、ヨモギなどの生薬を混ぜてできたものを、筆でツボに塗る>というもので、スーッとするようなヒリヒリっとした感覚である。
 
琵琶湖湖畔の草津市穴村(温泉で有名な群馬県草津とは無関係)の墨灸は有名で、紋状に跡が一時的に付くことから“もんもん”と呼ばれ親しまれ、1日300人多い時に1000人の患者が来院した。 ※もんもんとは、入れ墨の別称。
 
①墨
墨の成分である龍脳(ボルネオール)の心落ち着く香り。遠赤外線効果が治効に関係しているという見解もある。
 
②黄伯
樹皮の内側の内皮が黄色のことから命名。主成分はベルベリンで非常に苦く、内服としては下痢止めに使う。大幸薬品の「正露丸」には黄柏を配合している。外用としては、打ち身・捻挫などに用いる。水で練って湿布のようにして貼ると、冷感が得られる。


※岡山県に天台宗寺院の「鏡之坊教会」がある。墨灸は、この寺に代々伝わったものであるという。この寺の灸は隔物灸で、厚さ約2~3㎜、直径約2㎝の灰色の軟らかい粘土状のもの(墨+保存用の塩+数種類の材料)を皮膚に置き、その上に小指大のモグサをのせて2~3壮施灸する(病気や症状によっては多壮灸することもある)。この隔物は湿っているので、皮膚に加わる灸熱もじんわりしたかなり熱いものになる。施灸後は水疱ができたりときに化膿することもあったが、現在は患者が嫌がることもあり、以前に比べると緩やかなものになった。治療点は、基本的な経穴を決め、あとは症状に応じた治療点を選ぶ。基本的な治療点として重視しているのが、足と腰(湧泉、命門、腎兪または志室)。以上、原田滋泉氏報告を少々改変 「家伝の灸-墨灸」について 全鍼誌51巻3号、2001.5.10.


5.紅灸

<プラセーボ効果としての赤色染料>

紅花(べにばな)は、黄色と紅色の2種の染料がとれる。黄色の染料は、紅花を湯で煮るだけで採取できるので安価で、庶民の衣類を染めるのに用いた。一方紅色の染料を採るには、黄色染料を洗い流した後、水にさらして乾燥させる。これを何度も繰り返すと紅色にするという手間のかかるものだった。この紅色染料は、大変高価なもので、富裕層の衣類や口紅などに用いた。
 
紅灸は、紅花から絞った汁(紅花水)をツボに塗布する。赤色は血の色であることから、古来から生命増強の力があるとされた色で、赤ちゃんのお宮詣りや祭りの時、額に紅をつけた。紅灸で、紅花水を使わず、単なる食紅を水で溶いて、使ったという例もあるようで、プラセーボ効果のようでもあった。 
 
※現在、紅灸を製造しているのは、鹿児島の本常盤というところ(販売は丸一製薬)のみ。
実際の紅花水の成分は、紅花の絞り汁の他に、樟脳(冷感と爽快な香り)・チモール(爽快な香り)・トウガラシチンキ(温感)・サリチル酸(血管拡張)・Lメントール(ハッカの有効成分で冷感と爽快な香り)などを含有している。温感成分と冷感成分が両方入っていることで、サロメチール・キンカンを薄めたような刺激感が得られる。


6.総括
 
水灸・墨灸は、血管拡張作用のあるサリチル酸メチルは含まれないが、ハッカ・樟脳・龍脳が含まれ、これにより冷感と爽快な香りを与えることがわかった。要するに、現代でいう冷感湿布であるサロンパスのようなものだろう。ただし実際に皮膚温を下げる効果はあまりない。
 
ポカポカした温感を感じさせるには、ハッカ・樟脳・龍脳に加えてトウガラシ(有効成分はカプサイシン)を配合している。要するに温感湿布にも、冷感成分は入っていて、またカプサイシンによる実際の皮膚温上昇はあまりない。現代の市販薬では、キンカンやサロメチールがこの範疇である。薬物灸でこの範疇に入るものは皮膚に炎症(発赤・掻痒・水疱)を起こすことを狙いとする天灸だろう。ちなみに皮膚温を上げるには、現代ではホカロンなどの使い捨てカイロが手軽である。
 
ユニークなのは、天灸と漆灸だった。天灸は白芥子塗布によりⅡ度の火傷を起こし、水疱をつくる。漆灸は生漆を皮膚にごく少量接触させることで、接触性皮膚炎(発赤・掻痒・水疱)にもっていく意図があるのだろう。 

 

 

 


『名家灸選』の腰痛の灸デモ(萩原芳夫先生)ver.1.1

2018-09-02 | 灸療法

毎年春秋に開催されている現代鍼灸科学研究会は平成30年春、ゲストとして萩原芳夫先生をおよびした。萩原先生は、かつて日産玉川病院第2期鍼灸研修生で、研修後に地元埼玉県で灸専門治療院として長らくご活躍されていたが、ついに昨年閉院されるに至った。

何しろ、この治療院は、『名家灸選』に基いた灸専門院であって他に類がなかった。是非ともこの方法を学習したいという意見が当研究会内部で持ち上がり、招待する運びとなった。
まずは、鍼灸院でおそらく最も多いと思える<「腰痛」に対する名家灸選の治療>というテーマで一時間強の講義と実技を行っていただいた。

1.名家灸選と名家灸選釈義

『名家灸選』は文化2年(1805年)要するに江戸時代後期に越後守和気惟享が第1巻を著し、続いて2年後に同志の平井庸信が続2巻を編著した。日本の民間に流布されている秘法、あるいは名灸と称賛されているものの中で、実際に効果のあるものを収集・編集したものである。

なお昭和の時代に灸治療家として名を馳せた深谷伊三郎には多くの著作があるが、同氏最後の著書で最高の書とされる『名家灸選釈義』は、『名家灸選』を現代文に訳し、現代医療と照合し実際の効果を検証したものであったが、今回の萩原先生の講義は『名家灸選釈義』とは、直接的には関連がない。 

萩原先生が提示されたのは次の内容だった。


2.名家灸選にみる腰痛の治療「帯下、腰痛および脱肛を治する奇愈(試効)

現代文訳:稗(ひえ)のクキを使って、右の中指頭から手関節掌握横紋中央の掌後横紋までの長さをはかり、この寸法を尾骨頭下端から、背骨に上に移し取り、その寸法の終りの処に印をつける。またその点から同身寸1寸(手の中指を軽く折り曲げた時にできる、DIP関節とPIP関節の横紋の橈側側面の寸法)上がる処にさらに印をつける。合わせて2穴で、この2穴の左右に開くこと1寸ずつ。合わせて6穴に灸すること各7壮。

 

 

 

 

 

 

 

3.萩原先生の治療デモ

1)ヒモを使っての取穴
原著ではヒエのクキを使うが、現在では入手困難なので、ホームセンターで直径2㎜の紙ヒモを購入し、それを洗濯ノリをつけて乾燥させたものを使用した。始めて目にするものだったが、黄土色をしていることもあり、一見すると細めの線香のような外見だった。線香にしてはきわめて真直ぐで、さらに軽いこと、皮膚に触れても冷たく感じないこと、安価なので、必要に応じてハサミで簡単に切ることができるのが特徴。

ヒモ状にひねったモグサ入れ

 

椅坐位で、肘をベッドにつけ状態を前傾姿勢にする。名家灸選の記載に従って、4点灸点を取穴。取穴には細めのフェルトペンを使用。前傾姿勢にするのは、脊柱の棘突起や棘突起間を触知しやすくするためとのこと。

  

 2)艾炷をたて次々点火

紫雲膏薬をツボに薄く塗り、艾炷を6個立て、線香の火で次々に点火(同時に何ヶ所も熱くなる)。艾炷は中納豆粒(米粒大と小豆大の中間)くらい。初めて灸する者は1カ所15壮くらい、経験者は30~50壮行う。何ヶ所か灸していると、場所によっては熱さを感じにくい場所があり、このような時には、そのツボだけ余分に壮数を重ねる。
事前にモグサ(普通の透熱灸用)をコヨリ状に細く長くひねっておく。太さは、直径3㎜、4㎜、5㎜ほどの3種類で、臨機応変に太さを選ぶ。長さは20㎝ほど。1本のモグサのヒモで30個前後の艾炷をつくれる。

 

 

3)腰下肢痛を訴える患者に対しては、上記の腰仙部への灸治療にプラスして下肢症状部にも施灸したのだが、次第に下肢症状部には灸することはなくなった。


4)普通の鍼灸院にかかるつもりで、萩原鍼灸治療院にかかる患者はあまりいない。ほとんどは患者からの紹介なので、覚悟して灸治療されに来院したとのこと。まれに熱いので灸治療中止することはあるが、基本的には当方に考え通りの壮数を行うことができる。



4.現代鍼灸からみた名家灸選

いろいろな症状に対する灸治療について書かれているのは、「名家灸選」にしろ他の古典書にしろ大きな違いは見られない。ただし項目によっては、記載通りの灸治療を自分が行ってみたところ、効果あった(試効)という記載がところどころにみられる。江戸時代の灸治療を知ることができ、興味深いものであった。
とはいえ、当然ながら現代的な病態分析、治療効果に対する分析はみられない訳で、記載されている行間を読み取ることで、どうして古人はそのように考えたのか、その真理なり誤謬なりを追究する姿勢が必要となるだろう。

 

  勉強会後の恒例の懇親会

 

☆中国の柴暁明先生が、本ブログを中国語に翻訳して下さいました。我很感謝

 https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzU0Nzg5MjkzNQ==&mid=2247483867&idx=1&sn=47b6902b159fea328ac501ef062020c6&chksm=fb463a73cc31b365d0c76b2d2d8eeeaaa6d58bea74228f34d603f6d928fc7b5ce3a5c75d98a4&token=394854727&lang=zh_CN#rd

 

 

 

 

 

 

 


 


灸に関係する漢字のトリビア ver 1.4

2017-09-13 | 灸療法

1.炷 

これまでのを私は、針灸免許をとって十年経た頃まで、恥ずかしながら、モグサをひねって小さくして立てたものを艾柱(がいちゅう)と誤って記憶していた。針灸学校教員になり、灸基礎実技を教える段になって、艾炷だと知って仰天した。それでも、<炷>という文字に特別に注目することはなかった。 

1)線香の燃えつきる時間 
永平寺に一年間、座禅修行に行った人の本を読んでいる時こと。「時間にして四十分、一炷とよばれるこの時間は、線香が一本燃えつきる時間を意味し、永平寺の座禅はすべてこの一炷単位で構成される‥‥との記載を発見した。こうしたところにも<炷> という漢字が使われていることを知った。
そこで<一炷>について漢和辞典で調べてみると、<禅寺では線香が1本燃え尽きるまでの時間(40分)を一炷と呼び、坐禅を行う時間の単位とした‥‥>とあった。永平寺で使われている線香は、長寸タイプらしい。というのも、時計がなかった時代には、線香の燃えつきる時間を一つの単位とした。ゆえに線香の長さには決まった単位があって、票準とされた中寸サイズは、13~14㎝の長さで、燃焼時間約25分だということなので。

江戸時代、遊郭では線香の火がたち消えるまでが芸子と遊ぶ時間と決まっていて、延長する場合2本3本と線香の火を足していった。線香が1本燃えつきる間、客人を飽きさせないよう接待できるようになることを一人前といい、一人前になったことを一本立ちといった。一本立ちの語源はここから来ているという。ちなみに線香1本分の遊び代は、現在の価格で2万円程度だという。

線香の燃え方が一定であることから、江戸時代以前には時計として利用された事実もある。これを線香時計あるいは香時計とよぶ。

線香時計とは線香を横に寝かせた長方形の器の両サイドに、溝が切ってあり、そこに糸を横たわらせ、その先には「青銅の玉」がある。時が経って線香が次第に燃え、やがて線香の火が糸の処に行くと、熱が糸を焼き、すると玉が落下して、下の鈴を鳴らす。現代でいう時報に似ている。

香時計とは、灰床の上に、抹香(まっこう:粉末状の香)を播き、直線を折り曲げた規則正しい幾何模様を描いておく。その一端に火をつけ、燃え進んだ長さで時刻を計るというもの。灰床の大きさに合わせた木製の板に、一筆書きのような迷路模様のスリットが開けてあるのを用意しておき、この木枠を灰床の上に置き、スリットにお香を敷きつめておく。

 しき



  

2)炷(しゅ)とは?  
では<炷>の意味を辞書で調べてみると、<①ともす。芯をたてて明かりをつける。または線香をたててともす。②線香などを数える単位。>とあった。
そうであるなら、艾炷とはモグサを燃やすこと、あるいは燃やすべきモグサというような意味になるだろう。その燃え方は、ボッと一度に全部が燃えるのではなく、まるで線香のように、下へ下へとゆっくり火が燃え移る様を思い浮かべる。<灸>という漢字は火+久に分解できるが、この<久>には<長く続く>の意味があり、<灸>の文字全体としての意味には、<長く続いてもえる火>という意味がある。  

通常の半米粒大や米粒大艾炷の丈夫に点火すると、ゆっくりと下方に燃え、全部燃えて終了する。このような小さなかたまりでは気づきにくいことだが、燃焼丸めた点灸用上質もぐさの隅から火をつけても、まるで野焼きのように、途中で絶ち消えることなく、一定の速度でゆっくりと燃え広がり、最後には灰のかたまりになる。 これも特筆すべき、もぐさの特徴的な燃え方である。

 

 

 

 

3)炷(た)くとは

ある日、70歳くらいの女性患者の治療をしていたら、家でお灸を炷(た)いた‥‥」という言い方をした。ご飯を炊く、風呂を焚く、とはいうが、灸を炷くというのは違和感があった。そこでネットで「炷く」およびその類義語を調べてみた。

炊く:食物を煮る。

薫く:くすべて煙をたてる。火をつけて香をもやす。
焚く:①炎や煙をふき出してもえる、もやす。②ある程度の広さがある空間で、香に直接火をつけて匂いを漂わせる。
炷く:①間接的に熱を加えることにより、香木に含まれる香り成分をゆるやかに解き放つ。②線香に火をつけてもやす。

 つまり「炷く」とは、香りを放ちながら、ゆっくりと燃やす、といったニュアンスになると思った。 

 


2.艾と蓬


もぐさは漢字では艾になるが、よもぎは漢字では艾と蓬の2種類ある。そこで艾と蓬の違いを漢和辞典で調べると、艾は<刈り取った草> で、蓬は<ぼうぼうと生えている草>
だという。
確かに、もぐさを製造するには、まずよもぎを切ることから始める。
ヨモギはかつては河原などでごく普通にみられる野草だった。

 

3.壮

お灸をすえる単位には、<壮>を用いる。代田文誌著「十四經図解 鍼灸読本」(絶版)を見ていたら、<壮>という単位を使う理由が書いてあった。以下引用する。
「灸一灼を一壮と云うは、壮年の人にあてて幾灼と定めたれば、壮と云えり。年寄りたる者、いとけなき者は、ほどほどにつけて、その数を減ずるなり。」(榊原玄輔著「榊巷談苑」より)

壮には、盛んにする、元気づけるという意味がある。
以下余談。現代では壮年は、青年期の次に迎える時期をさすようで、気力体力ともに充実した働き盛りの年頃をいう。
ちなみに熟年という言葉は新しく考案された言葉で、1980年代からマスコミを中心に広がった。もとは老人ということだが、現代では中高年の意味に使われている。


「灸基礎実技」教科書に補足したい内容 Ver.1.2

2016-07-10 | 灸療法

今から25年ほど前、鍼灸の資格が都道府県資格から国家資格になるというので、新カリキュラムに沿った教科書づくりが急務となった。科目ごとに、執筆担当教科の教科書が各専門学校に割り振られ、当時私の所属していた東京衛生学園専門学校では、鍼灸実技の教科書を1年以内に制作することになった。私も教科書づくりに加わった。とにもかくにも時間不足であって、内容には不備が目立つ。ここでは灸基礎実技の章に補足説明をする。


1.半米粒大の艾炷の大きさ

艾炷の大きさは伝統的に小豆大・米粒大・半米粒大・ゴマ大それに糸状大といった区分が行われてきた。なおこの中で最も使われる頻度の高い大きさは、半米粒大だとされている。米粒大や半米粒大の具体的寸法は成書により異なっているが、最も基準とすべき東洋療法学校協会編の教科書「鍼灸実技」によれば、米粒大艾炷の大きさは、「円錐形で、底面直径2.5ミリ、高さ5ミリ」とある。また半米粒大艾炷の大きさは、米粒大艾炷の半分としている。

半米粒大の艾炷の大きさが、底面積も高さも米粒大の半分という意味であれば、体積としては米粒大の1/7の艾柱になってしまうので、これは体積が1/2という意味だろう。では、その大きさとは、底面積が何ミリ、高さが何ミリとなるのだろうか。
計算してみるとr≒1、h≒4となり、底面直径は2ミリ、高さ4ミリほどとなる。

 

 


※「図説鍼灸臨床手技の実際」によれば、米粒大艾炷は直径2ミリ、高さ4ミリ、半米粒大艾柱は直径1ミリ、高さ2ミリとしている。

2.江戸時代頃の艾柱

本ブログを発表して数年が経過した今、一人の読者から、艾炷が「米粒大、半米粒大」となった歴史的経緯を調べれば発見があるのではないか」という意見を頂戴した。艾柱の大きさ区分というのは、針灸師にとっては余りにも基本的なことなので、こういった問題意識は返って思い至らないものだろう。

ただし歴史的経緯といっても、鍼灸学校非常勤講師を辞職して勝手に図書室に出入りできな現在の立場で、調べられるのはネット情報のみ。多くを期待せずネットで調べてみると、<『艾灸通説』について宮川浩也先生に聞く>(インタビュー猪飼祥夫)鍼灸OSAKA Vol.29 No.3(2013 aut.)を発見できた。

『艾灸通説』は灸法の概論書で、江戸中期に後藤椿庵が、父親の後藤艮山の医説を展開したものである。艮山は治療に灸を愛用していた。以下はこの書の内容から。

宮川:「米粒大」という言葉は、長野仁先生に教えてもらったが、『艾灸通説』の付録の「植木挙因に答うる書」に書いてある。ただしこれが初出かどうかは未詳。
後藤流では小さな艾柱をたくさんすえる、小艾柱・多壮が基準となる。その艾柱の大きさとは、鼠の糞・米粒・麦粒などの大きさとしたという。

私(似田)が思うに、一口に「鼠の糞」といっても、ドブネズミ10~20㎜、クマネズミ6~10㎜、ハツカネズミ4~7㎜といろいろあるので、これだけでは明瞭な寸法は分からない。また米粒よりも麦粒の方が大きい。なお江戸時代の一般人が家庭療法として行う艾柱の大きさは、指頭大だったらしい。

宮川:今日の艾炷の形は、円錐形だが、後藤流は紡錘形だった。皮膚に付く面が広いとすごく熱いが、狭くすればさほどでもなくなる。患者さんに負担をかけないようにという艮山先生の思いやりのたまものだろう。


3.艾の燃焼温度と皮膚に与える熱量

教科書どころか、鍼灸界においては、熱容量の概念が欠如しているらしい。是非とも教科書に載せたい内容を記す。

1)表皮温度
艾を燃焼させると、直下に熱が伝わるが、同一の艾炷を燃焼させても、作用させる物体により皮下に伝わる熱量は異なってくる。これはその物体のもつ熱容量に違いがあるからである。

熱容量大:熱が伝わりにくいもの。熱しにくく冷めにくい。土鍋、海など。
熱容量小:熱の伝わりやすいもの。熱しやすく冷めやすい。鉄鍋、陸地など。
  
生体の皮膚は海と同じく、熱容量が大きいので、熱しにくく冷めにくい。このため透熱灸のような数秒間の加熱では、皮膚温は殆ど上昇しない。すぐに透熱灸の熱は消えてしまうので、皮膚に加わる熱は比較的低いものになる。モグサ自体の燃焼温度は、半米粒大で百数十度(ちなみにタバコの火は700℃)とされるが、臨床上よく使われる灸の皮膚に加わる温度は、60~80℃と記憶しておけばよい。
 
2)深部皮下組織温度
      ΔT=Q/C     (上昇した温度)=(与えた熱)÷(熱容量)

少壮灸をすると、皮膚表面温度はわずかに上昇するが、深部皮膚温度は、ほとんど上昇しない。これは灸熱が生体に与えた熱量は、相対的には小さい(短時間、極小面積)ものであり、また皮下組織の基本成分が、水という熱容量の大きい物質である理由による。
あらかじめ赤外線灯などで皮膚を温めておいてから施灸すると灸は熱く感じる一方、冷えている部への施灸は比較的熱く感じない。

深部温度を上げるには、透熱灸の壮数を重ねれば(=多壮灸)よく、この原理を利用するものとして、ウオノメに対する多壮灸が知られている。しかしながら通常の皮膚に多壮灸をして深部温を上げることは、患者が熱さに耐えきれず、施術者の手間もかかるので行わないのが普通である。深部温を上げるには間接灸や赤外線灯などの方が適している。
  
※多壮灸:数多く壮数を重ねる(通常10壮以上)こと。何壮すえるかは、患者の熱感覚の変化により判断する。これまで表面的な熱さだったのが、急に奥に浸み通るようになったなど。
 

3)灸熱緩和器
なぜ施灸部周囲を押圧すると痛みや熱さが減ずるのか?
・注射が痛くなくなる裏わざ(TV「伊東家の食卓」より)
方法:注射される直前に、一分間指で注射される場所を強く押す。
・理由:長時間強くおされたことにより、一時的に痛点(痛みの感覚)が麻痺する。
・注意:感覚が麻痺して痛くないのは、直後2秒間です。2秒を超えると痛い。
理論背景:神経線維はその太さに応じて役割が決まっている。神経線維の分類と機能は次の通り。
        太↑ Aα:骨格筋収縮
             β:触覚・圧覚
             γ:筋緊張の程度を調整
             δ:痛覚(速い痛み)
             B  自律神経
        細↓   C  自律神経、傷み(遅い傷み)
        
施灸部の周囲を指で圧迫することはAβを刺激するという意味がある。すると傷み刺激(AδやCの興奮)を脊髄レベルで遮断することになり、灸熱が緩和される結果となる。針管を皮膚に強く押しつけるような押手をして刺針すると、刺痛が減ずるのも同じ意味である。

 

 

 

 


桜井戸の灸について Ver. 1.3

2013-07-25 | 灸療法

1.序

桜井戸の灸とは、家伝の灸の一つで、よう・ちょうの灸として、明治から昭和初期にかけて賑わっていた。ネット検索をすると、断片的な知識は入手できる。筆者も現代医学的針灸のブログ内で、<「麦粒腫に対する二間の灸」雑感>2011.4.22.で少々触れたことがある。ただ今となっては、その詳細な内容を知ることは、困難なことのように思えた。
 
しかしながら故・代田文彦先生宅に残された資料を調べていると、<桜井戸の灸療に就いて>と題して、当時の桜井戸灸療所所長3代目、漆畑淳司氏の文章が臨床針灸第2巻第1号(昭和28年1月)に載っていることを発見できた。そこで、私の知り得た桜井戸の灸の概要をまとめることにした。なお漆畑淳司氏は初代の静岡県鍼灸師会会長(昭和57年、80才で死去)。 

最近、医道の日本昭和57年12月号に、飯島左一氏が「百年つづいた癰疔の名灸」と題して桜井戸の灸に関する記事を書かれていたことを知った。そこでの内容も、本文各所に付け加え、内容の充実をはかった。

 


2.桜井戸と桜井戸の灸の由来  

桜の老樹があり、飲料水の源泉もあった処。現在の静岡市の近くである。このあたりは桜の名所だった。西暦1800年頃のこと霜凍る朝、この井戸の傍らに倒れて苦しむ老僧夫婦がいた。そこを佐治(右)衛門 夫妻に救われ、数十日の看病されたことに感謝感激し、自分の修得した「よう、ちょう、その他一切のはれ物に適応する灸の秘法」を伝えた。以上の話が津々浦々まで世に広がった。

桜井戸の傍らの庄屋でお灸をするということが、次第に「桜井戸の灸」とよばれるようになった。

この地は現在では、この一帯は史跡桜井戸として保存されている。毎年春には、見事な桜が咲く。その地下には防火用水貯水槽が設置されている。
現在では、創始者佐治右衛門の子孫に当たる漆畑勲先生が、その近くで井戸医院(内科・小児科)を開業されていたが現在は閉院している。


3.桜井戸の灸療者のための駅が誕生


漆畑淳司<桜井戸の灸療に就いて>には、「草薙駅は、静岡鉄道(東海道線の傍らを走った軽便鉄道)にある駅であり、当所の灸療患者のために設置された駅」との記載ある。当時「草薙駅」を新設するにあたっては、いっそのこと「桜井戸駅」という名称にしたらどうかとする意見もあったが、売名行為になるとして桜井戸の創始者佐治右衛門は固辞した。その一方で、駅新設の費用は彼が負担したという。静岡鉄道の草薙駅を利用した者は、1日の患者数は500人とも1500人ともいう。施設内には下足番もいた。治療の順番を待つため、さくら荘という宿泊施設もできた。 

なお草薙駅という駅名は、静岡鉄道と東海道本線に2つあるが、まったくの別物で、当時は東海道本線の草薙駅は存在しなかった。この駅が開業したのは大正15年になってからであった。





4.昭和28年頃の桜井戸の灸の現状 


抗生物質出現の影響のためか、これに加えて化膿菌に対する一般衛生知識の普及のためか、ちょう・よう、その他の腫れものの患者は、従前よりはずっと減少した。けれども、連日新患30名を下ることはない。

最近では蓄膿症患者が非常に増した。この種の患者には次のような方法で施灸しているが、80%の好成績を得ている。
 1)合谷(左右):1穴へ50壮(小灸で感ずる程度のもの)。1日2~3回。
 2)風門(左右):1穴へ20壮。1日2回。

 3)膏肓(左右):1穴へ20壮。1日2回。
以上を5週間、毎日連続で施灸する。成績は施灸後1ヶ月くらい後に判明する。

抗生物質がない時代のこと、面疔に対する合谷の灸はとくに有名であった。私が知っていた内容は、合谷に数十~二百壮連続で、痛みがとれるまですえる。自宅への帰路、東海道線に乗ったが、途中で再び痛くなると、列車内で灸する者もいたという内容だった。昭和28年頃には、以前よりも少ない刺激になったのだろうか。

「桜井戸の灸」で施灸する合谷の位置は、一般的な合谷とは異なることに注意。母指と示指を開張させ、その筋縁の中央で、白赤肌肉の境を取穴する。すなわち奇穴の<虎口>に相当する部になる。ここに徹底した多壮灸を行うというもの。

 

 

面疔の治療は、化膿を待って切開するのか常で、したがって手の一穴(合谷)へ灸をすえれば必ず口が開いて排膿治療するとして、桜井戸の灸は救いの神とされた。

※面疔:黄色ブドウ球菌感染症。常在菌である黄色ブドウ球菌が顔面の毛孔から侵入し、毛嚢炎が起きた状態。抗生物質が有効。ほとんどは自然治癒する。
病巣部である眼窩や鼻腔、副鼻腔などは薄い骨を隔てて脳と接しているため、場合によっては髄膜炎や脳炎などを併発し死に致る可能性も少なくない。沢田健は面疔で死亡した。

※深谷伊三郎は「合谷へ100 壮、200 壮と多壮灸をすえるのである。50壮ぐらいで面疔のズキンズキンする痛みが止まってくる。灸を止めると痛みだすのですぐ続ける。そのうちに痛みが止まって、ひとりでに口が開いて膿が排出されてしまう。」と記している。(「家伝灸物語」、三景)