AN現代針灸治療

ANとは「にただあつし(似田敦)」のイニシャルです。現代医学的知見に基づいた私流の針灸治療の方法を解説しています。

間中喜雄著「PWドクター沖縄捕虜記」と平和碑  ver.2.2

2025-02-15 | 人物像

1.「PWドクター 沖縄捕虜記」とは

間中喜雄は医師となって間もなく招集を受け、5年余を軍隊で過ごしている。この間の最後の1年、すなわち終戦直前から沖縄本島での捕虜生活の様子が、自著「PWドクター 沖縄捕虜記」(1962年金剛社刊)に記録されている。なおPWとは、prisoner of war (戦争捕虜)のことである。私は35年ほど前に古本で800円で入手したが、すでに絶版で入手困難である。
間中が世間に広く知られる存在になるのは1950年の日本東洋医学会設立時頃からであり、以後は中国、アメリカ、フランス等世界中で講演活動することになる。
本書は、いわゆる"世に出る"前の下地形成の資料として格好な読み物となっている。

2.間中喜雄の前半生の年譜

明治44年 小田原生まれ
昭和10年(24歳)京都帝国大学医学部卒業。その後、東京で2年間の外科研修
昭和12年(26歳)父親の代から続く小田原の「間中外科病院」を継承
昭和15年7月(29歳)招集 東部12部隊野戦化学実験部に配属。その後復員。
昭和16年(30歳)宮古島、豊部隊山砲兵第28連隊に陸軍軍医中尉として再度配属。
昭和19年10月 アメリカ軍の宮古島空爆開始、以後連日のように空爆を受ける。
昭和20年9月(34歳)無条件降伏 
昭和20年11月 アメリカ占領軍が宮古島初上陸。捕虜となり、沖縄本島へ輸送。
         屋嘉戦争捕虜収容所で10日間過ごす
昭和20年末 嘉手納第7労働キャンプに移動。医師として10ヶ月間労働
昭和21年12月(35歳) 那覇港→名古屋、復員。10ヶ月間の労働賃金は90ドル。
           (以後省略)

3.PWドクター時代の間中先生の日常

間中喜雄(本書の主人公名は新納仁とした)は沖縄の一孤島である宮古島(本書でM島としている)に陸軍軍医中尉として配属された。宮古島は沖縄の遙か南200㎞下った孤島である。新納仁と名付けた理由は、神農神を思ったのだろう。間中は神農に特別の思い入れがあったようで、絵も描いている。神農は古代中国の神で、身近な草木の薬効を調べるために自ら舐めたという。中国最古の薬物書『神農本草経』の著者である。

宮古島に間中が配属されて数年後からアメリカ軍の空爆が連日のように始まり、軍事基地だけでなく市街地も廃墟同然となった。深刻な食糧難、非衛生状態の蔓延から、風土病であるマラリアが大流行していた。当時宮古島には、終戦当時2万人の日本兵がいた。

だが本書は、そうした凄惨な状況には触れていない。ユーモラスな自伝であり、終戦宣言後の混乱状態から書き起こしている。宮古島では激しい爆撃はあったが、アメリカ軍の上陸による戦闘はなかったためか、戦後に上陸したアメリカ占領軍に対しても、敵愾心がおきないらしく、元日本兵は従順にアメリカの指示通りに動いた。
(沖縄地上戦の後に捕虜となったものは、宮古島出身兵と異なり極限的な体験をした。捕虜生活というのは魂の抜け殻のようだったという。)

嘉手納労働キャンプで、初めてナマでアメリカ人の社会の一端を知ることとなり、カルチャーショックに襲われた。豊富な物資、機械化、スピーディーな事務処理、あけっぴろげな人間性について、驚きは大きかった。一方、厳しい軍紀下にあった日本軍内での将校や兵も、同じ捕虜として対等な立場になった。いままでの価値観や規律は一気に崩壊した。

本キャンプには、二千名ほどの捕虜が集められたが、英語の達者な者は2名のみ(うち1名は二世)。間中も少々英語を操れるというので、重宝された。
元々秀才だった間中にしても、ナマの英語を身近で見聞きするという生活は、初めての訳で、実践英語の良い英語訓練の場となった。手元に辞書がないので、相手の言っていることを推理する他なかった。アクセントを間違えたら、ありふれた言葉も通じないこと。自分はアメリカ日常用語を知らないことを痛感した。間中は近い将来、国際的に活躍することになるが、その下地が形成されたらしい。

一般兵(将校以外)は、強制労働で、木工、土工、給仕、コック、ペンキ吹きつけ、倉庫番、荷役、掃除など。午前8時出発、作業中止が午後4時、午後5時到着。土曜は半休で午後はスポーツ。祝祭日は休み。食い物は米軍と質・量ともに同じ。きびしく鍛え上げられた日本兵からすれば、非常に楽な生活だった。日本人は働き者が多く、しばらく作業所に通っているうちに信任を得てアメリカ軍の監督なしで作業する者も多くなった。
終いには、爆弾庫の管理、武器の管理まで捕虜に任せた。
敵と戦う必要がなく、食べ物も豊富にあるとなると、暇つぶしの方法が問題になってくる。

捕虜の一人が踊りのお師匠さんがいて、踊りの稽古が始まった。これが高じて、カテナ納涼大会が発足。盛大に踊りの輪ができた。やがて風呂設備や床屋、スポーツ施設(野球、ピンポン、バドミントン、バレーボール、バスケットボール)も完備。収容所同士のリーグ線や米軍と試合するのもできた。相撲では土俵もつくり、番付までできた。最も豪華だったのは演芸分隊で、田舎の芝居小屋ぐらいにはできた。この演芸が収容所生活最大の慰安だった。手元には脚本や参考書もないはずなのに、毎週出し物を工夫した。

4.面白かった文章の一部

1)宮古島の対空射撃について:我が軍の対空砲砲火は、まったく敵飛行機に当たらなかった。後期になると、砲弾を節約するため豊式爆弾を使用。豊式爆弾というのは要するに打ち上げ花火のことである。これで飛行機が落ちますか?と問うと「落ちはしまいが、敵は驚くだろう」(大きな音がするので)と答えた。
2)終戦後、宮古島にも飛行機がDDT(新型殺虫剤)を散布。人畜無害なのに、目立って蚊や蠅が減り、その効果に驚いた。
3)宮古島から沖縄本島への輸送船内では、あちらこちらで車座になってサイコロ、トランプなどの賭博横行。湯飲み大の缶詰を2缶配給された。1つはビスケット・レモンジュース・ジャム、もう1缶には、肉や豆が入っている。久しぶりの美味に、こんなうまいもんが世の中にあったのかと思う。
4)かつての大隊長も同じ捕虜キャンプに集められた。間中先生の姿をみて大隊長曰く「やあ貴公もここへ来たかや」と言ったといって、ご機嫌だった。同じ不幸は仲間が多いほど慰められるし、同じ幸福なら仲間が少ないほど得意なものである。
5)カデナ労働キャンプ内には、他に医師もいた。大柄なその医師に身長を問うと、「目の下170です」と奇妙な挨拶をした。
6)毎日、ジャムの5ガロン缶が十人に1つの割合で配給がある(1ガロン≒3.8リットル)。始めは珍しくてペロペロなめていたが、だんだんと飽きて見向きもしなくなる。そのジャムとイーストを混ぜて五ガロン缶に入れておいた。次の日衛生兵が大声を挙げて「できました。こりゃいけます‥‥」とジャム酒をもってきた。甘口のどぶろくと化した。酒の醸造法も、たちまちカデナ全体の流行になった。
7)ラジオで日本の君が代を放送した。日本を敵として戦ってきたはずの米兵たちが起立して敬意を表している。日本の捕虜たちは戦争が負ければ、国家もくそもあるものかいといった様子で知らん顔している。

 

5.間中喜雄の「平和碑」について

私は「PWドクター沖縄捕虜記」を読み、間中喜雄が太平洋戦争が苦しみの体験だったという印象は受けなかった。ところが最近、間中の地元である小田原市郊外の東泉院という禅寺に、間中作の「平和碑」のあることを知った。間中が死去したのは1989年なので、少なくとも30年以上前に作られたのだった。平和碑が完成した直後、同じ年の11月20日、肝臓癌のため間中病院にて死去した。結局、平和碑が間中喜雄最後の仕事となった。この碑が完成するまでは死ねないと思ったのだろうか。享年78才。間中は書画の才能もあったので、石版に文字を刻み石像も自作した。石碑の文章をみると、間中の戦争体験が悲痛であったことが改めて知れる。


碑文は、わが国に落とされた原爆の悲劇の記憶として平成元年11月(1989年)に造立したと書いてあった文章を見たのだが、造立の引き金になったのは、ベトナム戦争でのソンミ村虐殺事件に心痛めたことだという。

※ソンミ村虐殺事件:1968年3月16日、ベトナム戦争中、米兵部隊がソンミ村で民間人504人にも及ぶ大量虐殺をした事件。早朝5時30分、9機のヘリコプターから降り立った米兵は、民家と避難壕を捜索。逃げようとしたものは出るそばから射殺され、避難壕には手榴弾を投げ込み、無抵抗の村民を次々と殺害していった。映画、地獄の黙示録(1979年アメリカ映画。フランシス・コッポラ監督)が思い起こされる。

Youtube 映画、地獄の黙示録(ワーグナー、ワルキューレの騎行) https://www.youtube.com/watch?v=jp21T6Yx1qQ

東泉院入口

 

 

以前は自然のままだったが、石碑の文字の周りが白くなっている。誰かが文字を鮮明にさせるためにブラシで擦ったとみえる。

「何のために死んだのか判らない人たちに捧ぐる碑」
平成元年十一月、間中喜雄によって小田原市久野の東泉院に造立された慰霊碑)

間中喜雄 平和碑

戦争の狂気が国々を侵すとき無数の
無辜の人々がいたましくもその犠牲になって殺されてゆく

無辜(むこ):罪のない者

この碑文は、民間人が戦争で殺された不条理に対する無念を表しているものだ。脇にある詩碑の写しには次のように示されている。

九泉の地底より 千仞の天まで
一と数え 拾百千と読み 万億兆と叫び 
血を吐きて、なお反響も無き寂滅 
頭を打ちつけ 地団駄を踏み 転輾反側すれど こたえも無き無明 
迷蒙より諦観へ 暗黒より光明へ身をもんで求むれと無
真理は虚妄 善は仮象 愛染も空し
右顧左眄して 眼睛何を見んとするや 
須是を永遠とし 屈折し 展しまさぐり 喝仰し 何をか得たる
神神は死し 大地は枯渇し 七つの海に魚も住まず 
魂魄も息づかざるに いづかたに理想あるや
うめけ泣け苦しめ是れ 形骸を烈火に点し 無に帰れ 
すべてのもの失せて消滅せん

原爆の日にうたえる

間中喜雄(印)
平成元年十一月

 

 


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