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『手法』について/寺田武弘《鑿空》 藤井 匡

2017-01-12 10:28:39 | 藤井 匡
◆寺田武弘《鑿空》 250×162×835cm/花崗岩/1986年

2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/寺田武弘《鑿空》 藤井 匡


 寺田武弘《鑿空(さっくう)》には重量約14トンの花崗岩が使用される。作者にとっての地元である岡山市・万成山の採石場から切り出された、直方体に近い塊。この表面に削岩機で穴を空け、ハンマーでピックを打ち込んで順次割っていく。こうして生まれた七個の石塊が、展示場所に即して配置されている。
 個々の石の配置は、物理法則にしたがい、倒れて散らばった様子を思わせる。例えば、写真正面から見て、左手の大きな塊同士は分断された面を合わせたまま平行にずらした状態に置かれる。また、右手の小さな塊同士では分割した際に転がっていったような距離と向きに置かれている。このため、原石が上空から落下し、個々の石が各々の重量に応じて散乱したように見える。つまり、作品の配置は新たな意味を与えるものではなく、物理法則に規定される物質の存在を顕わにするのである。
 実際、後の作品になると――《鑿空》のような――作品背後の意味を想像させるタイトルは使用されなくなる。「パカッ」「ポコッ」「ストン」などの擬態語が用いられ、石の分割を即物的に提示することが明確に意識化されてくる。現在の姿は、石に内在する力によって自然発生したように思わせるものとなる。
 こうした志向には、時間的な連続性に対する意識が深く関与する。最も左手の地面に倒れた板状の石と次の内部を四角く刳り抜いた石は原石の大きさと形状を示す。一方、右手の小さな石には多くの面に削岩機の穴の跡が残っており、幾つかの加工を経た後に出現したのを知ることができる。ここでは、左から右へと制作順序が目で追えるよう意図されており、制作後の姿の中に制作中と制作前の姿も見えることになる。
 また、時間的な連続性を提示するのには、割り跡自体も重要な役割を担う。各々の痕跡は視覚的に呼応する配置が仕組まれており、分割面は見る者の頭の中で容易に一致する。作品の表面もまた、現在の姿の中に制作中と制作前の状態を内包する。《鑿空》の石は切り出された時から現在まで同じ本質を有したままに、現象的な変化を見せるのである。

 こうした作品のあり方は、作者の個人史上での作品展開の結果として生じている。遡ると、物質が変化する様態そのものを作品化するのは、石より前の木を扱った作品の中に見ることができる。これらは、展覧会の期間中に木が次々と変化していく様子を見せる、パフォーマンス要素の強い作品である。
 最初に発表されたのは、1969年の《変位Ⅰ》(秋山画廊での個展)で、木の板に次々と手回しドリルで穴を空け、そこから生じた木屑と穴だらけの板とを一緒に展示した作品である。1970年の「現代美術の動向」(京都国立近代美術館)には、丸太をまさかりではつり続け、木屑が段々と増えるのに反比例して丸太が段々減少していく様子を見せる《変位6》を出品。そして、長さ10mの丸太を端から5cm間隔で下側に僅かを残して順次輪切りにしていく、1971年の《樹・人》(第10回現代日本美術展)に至る。(註 1)この時期には、こうした作品が集中的に制作されている。
 これらは、開始時点と終了時点では形態が極端に異なってはいるが、どの時点で見ても一つの作品の全体像を示している。彫る技法(carving)では、彫られる対象は大きな塊から小さな塊へと不可逆的に移行する。その移行の過程で生じた木屑や断片も全て一緒に展示するならば、見る者は過去の姿(現在よりも大きい)も未来の姿(現在よりも小さい)も現在の姿から想像することができる。そのために、形態の変化に関わらずに同一性をもった作品として意識されることになる。
 ここから派生して、作品の移動が念頭に置かれないようになる。例えば、《樹・人》では周囲に拡がった大鋸屑までが作品の構成要素と見なされているが、両者の関係は移動の際には失われてしまい、作品としての同一性を保持できなくなる。また、下側の皮一枚で繋がった大木をそのままの状態で運搬することも、構造的な強度を考えれば不可能である。この系列の作品は、徐々に展示場所に対する言及を強くしていくことになる。

 《樹・人》の直後からは石が用いられるようになり、展示場所の固有性を開示することを意図した、野外でのコミッション・ワークが制作の中心となっていく。1973~77年に岡山・蒜山高原で、20,000㎡のスペースに1,000トン近い花崗岩を持ち込んで一つの景観をつくりだした《石の森》を初出として、単体としての作品の枠を外した大規模な仕事が展開されていく。
 作者の言葉では〈ランドスケープ〉と呼ばれるように、それらは展示場所と展示作品との区分を持たない。作品とその延長としての空間という、近代彫刻の二元論が無効化されるのである。石という最も風化に強い(変化の少ない)物質を扱いながら、作品以前の石の原初の状態と遙かな時を隔てた未来の姿という、途切れることのない壮大な時間性を喚起することになる。
 パフォーマンス要素の強い木屑作品から石を用いたランドスケープへと展開していく問題意識――このラインの上に《鑿空》は位置する。ここでは、作品の形態ではなく、それが同一の石であることが作品の同一性を保証する。作品は、時間に沿った変化を包括する存在となるのである。
 本作は第10回神戸須磨離宮公園現代彫刻展(1986年)――野外という場ではありながら展覧会形式を採る――に出品されたものである。ここでは、会期が限定されている以上、作品は終了後の移動を想定して構想されることになる。このため、場所の固有性を開示することは困難になる。一方で、作品は展覧会の開始時点で完成した姿を見せなければならない。結果的に、物質への身体関与は痕跡としてのみ提示されることになる。
 こうした制約の中で――あるいは逆説的に制約の中だからこそ――《鑿空》は作者の身体と石との関係を明示する。展覧会という形式は現実上の様々な要素を反映させるよりも、それ自体で完結する方向へと作品を規定する。ここでは、物質に関与する作者の身振りが直接的に浮かび上がることになる。

 寺田武弘の用いる石は、制作前-制作中-制作後のどの時点であっても、その意味を変化させない。つまり、形態や表面の質感などによる表現を表現に加味することで作品が成立するのではなく、石そのものとして扱われるだけである。
 この場合の加工とは、〈手の跡を残す〉(註 2)という作者の言葉に集約される行為である。形態や表面処理は〈手の跡を残す〉ことを前景化するために従事する副次的なものと見なされる。
 石は何万年という時間の中で形成されるもので、人間の手でつくることの不可能な存在である。ここから、石とは〈手でふれることのできるもっとも深い自然〉(註 3)という認識が生じる。〈手の跡を残す〉という言葉は自然と人間の関係として読むことができる。
 しかし、そこには人間を超越した存在としての自然があるのではない。寺田武弘にとっての自然とはロマンティックなものではなく、実践的に関与する相手である。ここには、人間と自然とのむき出しになった関係のみが存在する。(註 4)重く・硬く・意のままにならない――石を扱う時には、そのことを嫌というほど経験させられる。物質は作者がどのような理念をもっていようとも、その全てを弾き返すような現実性を有している。
 そうした意識は、日々採石場に通い、職人的に石と関わる経験から得られるものである。現場では常に身体的な危険がつきまとう以上、石は受動的に観照する対象ではなく、自ら能動的に関与するより他はない相手である。私的な思いを吐露したものではない、物質との関係を直接的に提示する作品の根底には、こうした経験がある。
 そして、同じ眼差しは作品と見る者の関係にも向けられる。〈それ(作品)は一つの風景のようなもの、人はそこに何を見るか見ないか、それはその人の自由〉(註 5)という発言は、見る者を無視して制作ことを意味しない。作者がどう考えようとも、相手はその中に収まる保証がないという現実に対する自覚を意味するのである。
 ここには、主体的な行為からのみ出発できる思考がある。〈手の跡を残す〉という単純な言葉の中には、『手法』と呼び得る洞察が存在すると思われる。


註 1 《樹・人》は「アートラビリンスⅡ」(1997年・岡山県立美術館)で、《変位6》は
   「ガーデン」(2000年・岡山後楽園)で再制作が行われた際に実見する機会を得た。
  2 寺田武弘「石には季節がない」『高瀬川』38号 1981年11月10日
  3 コメント『寺田武弘展』図録 愛宕山画廊 1992年
  4 柄谷行人「『日本文化私観』論」『文藝』1975年5・7月号
  5 前掲 2