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「どこかでなにかが‥‥」 榛葉莟子

2017-01-24 10:19:32 | 榛葉莟子
2002年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 26号に掲載した記事を改めて下記します。

「どこかでなにかが‥‥」 榛葉莟子


 気力が抜けてぼんやりした日が続く。憂うつのトゲが刺さっているようなしょうがない日々である。しょうがない、しょうがないばかりでは埒が明かない。ふと、自転車で走ろうという気が起きて腰をあげる。自転車にまたがってから前輪のパンクに気がついた。こんな時になんと自転車も気力抜けであった。何かが邪魔してる。むっとしながらも、自転車は私の足であるからすぐにでも修理するしかない。炎天下の長い道を上ったり下りたり、忘れるはずもない帽子を忘れハンカチを忘れ、重い自転車をずるずると引いて自転車屋にたどり着く。忙しくてすぐ見られないから夕方来てくれと言う。いつもはのんびり煙草をふかしているおじさんが今日は忙しい。自転車をおいて長い道をてくてく引き返す。夕方、同じ道をやれやれとため息をつきながら自転車屋に向かう。「パンクじゃないね。バラのトゲが刺さってたよ、ほらこれね」と言ったおじさんの手のひらに眼を近ずける。3ミリいや4ミリほどの細長い三角の確かにトゲである。こんなに小さなとんがりがタイヤのゴムを突き刺し空気を抜いていたとは驚いた。いったいどこでと言ってもはじまらない。どこかの道の傍らの、バラの木からポロンと脱皮して転げ出たトゲなのだろうか。転げ出たトゲはとんがりを天に向け立っていたことになる。よりにもよって、そこへ鼻歌混じりの私の自転車が‥‥。自分の手のひらにもらったトゲをつくずく眺めあっ!と思った。だからふっと吹いて飛ばした。ぱんと張ったタイヤに回復した自転車は軽やかにぐいぐい走る。心地よい風を思い切り吸いながら、回復した自転車と一体になっている感覚がしていた。なるほど、こういう筋道が準備されていたのかと思うと、不愉快な汗まみれの一日が愉快に転じている心の不思議。

 夜、爆音に震える。足もとに振動。たて続けに打ち上げられる爆音にびくっとする。向こうの町、あっちの町、こっちの村と花火が競い合っている。ディズニーランドじゃあるまいしと、ぶつっと言いたくなる派手な大げさ。いつもと違うこの夏の花火の夜、生まれて初めて恐いと思った爆音の連続。二時間近く続いたかもしれない花火合戦。犬が震えている。猫が眼を見開いてどこかに隠れてしまった。タマヤカギヤどころではない。どこかできっと赤ん坊が泣いている。私と、それは見事な夜空を見上げた。けれどもその音のすごさにあわててドアを閉めた。早く終わればいいと落ち着かないまま、たて続けの爆音の終わりの時刻を待っていた。そうしているうち、終りの時刻など決まってなどない、四六時中この爆音に震え眠れぬ夜の人々の心中が想像されてきて、いっそう胸の中にざわざわしたものが湧き出て占領されてくる。花火に爆音はつきものではあるけれど、毎日、テレビに写し出されていたあの爆音と炎の夜の画像と重なってしまったのは私だけではないと思いたい。

 茹でた枝豆がいっぱいのざる、大皿にスイカ、ビール、ジュースなどだったかしら。二階の物干し台にそんなものが運ばれた夜は、両国の花火を見る夜だった。高台に建っている家だったせいもあるし、高い建物も多くはなかったから上野の杜や家々が黒々と沈むと大きな夜空に上がる花火が見えた。しゅるしゅると不思議な音がしたかと思うまにぱっと幾重ものきれいないろの光の輪が開いた。それからドンと遠くでこもった音がした。はらはらと光のはなびらが散り一瞬しんとした夜空に沈黙の間があった。六つか七つの頃生まれて初めて見た花火の音は出しゃばっていなかった。夢のような満開の光の花を夜空に運んでくれる音は、物干し台のおとな達の笑いの混じったざわめきに、紛れ込むほどのドンと鳴った花火の音だったように思える。

 高原の夏はにぎやかな音(おと)の季節でもある。鮮やかな音の色彩にあふれる。直接的な何もかもあふれるような陽気な匂いに満ちている。そんなある日、なんだか熱いお茶が飲みたいと身体の内から声が聞こえてきたら、音(ね)の季節が近づいているなと気づく。隠れていた小さな声が聞こえてくる。どこからともなく鈴虫の鳴く声に耳をすます。あら、もう秋?と言った途端に、ミーンミーンとなんだかあわてて鳴くセミの声。鈴虫が鳴いたからといって今日から秋とはいえないし、セミが鳴いているからまだ夏だともいえない。夏の尻尾と秋の先端が交差しあい、混じり合う境のあいまいな狭間の季節は、なにか大きな力のはからいがそっと執りおこなわれているなと身に感じやすいように思う。

 昨日は気づかなかった桜の樹の濃い緑の先端が、今朝は黄色く色ずいている。