◆ 橋本真之 作品112 「運動膜(石について)」 1977年制作
◆橋本真之 作品116 「運動膜・草地」 1978年~79年制作、1980年補作
◆橋本真之 作品123「運動膜・真昼の星々」 1981年~82年制作
◆橋本真之 作品124 「運動膜段片(壁に)」 1982年制作
2002年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 26号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法の理路・素材との運動⑦』 橋本真之
制作中の銅は加熱すると、その温度差によって、虹色に錆の変化を見せる。これらのうつろい易い銅の変化を固定する工夫に向かうことは、工芸的素材への関心として、ひとつの正当な道だったかも知れない。私がそうした虹色の錆を、一過性の花として、固定の工夫を放棄し、発表の舞台でのみ見える花としたのは、事もなげに現われては消え去る美しさを、そのままに肯定したかったからである。こうした在り方は、永続するものと一過性のものとを、同じ作品空間の中に許容することであったが、このふたつの方位が、次第に別の形をとって、私の内でせめぎ合うことになるのである。後に、融けたガラスの中に銅の切片を封入して徐冷すると、その温度が銅に一定の色をもたらして、恒久的に保存するのを見たけれども、そのように、ガラスや、あるいはプラスティックによって外気と遮断する工夫により、銅の色彩を扱うことも可能に違いない。私の当時の関心は、不安定な錆の中でも最も安定した銅の錆色に向かっていた。それは、硫化による黒紫色と、酸化の極まりの緑青色に向かっていて、色彩というものも、色彩そのものよりも素材自体の変化変質への関心だった。支持体の上の、壊れ易い表面世界である絵画に対しての、かっての私の断念が、銅という素材の示す、一見表面的に見える錆の現象への、私の関心を左右して、両端に揺れ動いていたのである。
作品を仕事場の外に出して、外気にさらすということは、雨が降り、雪が積もり、埃が積もり、風が吹き抜けることである。おだやかな自然環境の変化ばかりではない。災害をもたらす台風や雹のように、激しい気象的要素もある。そして、近所の犬や猫がやって来て小便をかけて行き、鳥が糞をして行く。鉄はかさぶた状に腐蝕して、ひたすら錆を深めて自壊して行くけれども、銅はしぶとく、その日々の変化の表情は、妙になまめかしいところがある。雨水が溜って緑青が発生することは周知のことだ。雨水の溜り水は対流して、その不純物を漂流させ続ける。蚊が卵を産みつけるけれども、この20年以上の間、ついぞボウフラになったのを見たことがないのは、その銅イオンの抗菌性によるものだろう。作品の外表面は、大気中の硫黄分と反応して硫化する。即ち黄褐色から暗褐色に変化して、次第に黒紫色といった、暗い錆色を呈するに至る。犬や猫がやって来て、片足あげて小便をかけると、そこだけアンモニヤと反応して、緑色の緑青となる。はね上げたしぶきや、チョロチョロと流れている、その緑色のかたちが彼等の様子を伝える。作品の内部が暗褐色よりも黒に近くなるには、だいぶ時間がかかるはずだ。雨水に含まれる硫黄分が内表面にかかることが、より少ないためであろうか?あるいは、夜露にぬれることが少ないためだろうか?内部の方が明らかに硫化は遅れる。そして、穴の開いていない底面が地面を覆っている部分は、赤紫色に発色する。地面から蒸発した水分が逃げ場を失い、夜になって気温が下がり、銅の底面にびっしりと凝結するためである。この錆色は、展覧会では人目に触れないところであり、人知れず永い時間をかけて、赤紫色の錆から緑青に変化して行く。
銅の表面の錆色が、熱や外気によって変化するのを見ていると、あるいは、それらを廻って造形思考が動き始めるのを、野放しにしても良かったのかも知れない。けれども、外的な環境との関わりによって、作品空間が強い触発を受けることに、私の関心が動いて行ったのである。例えば雨による水面の存在であったし、風に吹かれて堆積する土埃でもあった。そして、あえて作品内部に土を持ち込むことを試みることになり、私はその土に草を植えた。そして、あちらこちらから庭に集めていた、慣じみのゴロタ石を作品にかませる形で、銅と異物の間の感触を、ためつすがめつして来た。自分は寄り道をして来たのだろうか?むしろ、私は深入りして、二進も三進も行かないところを、もっと知るべきだったのかも知れない。後に、決定的な形で樹木と関わる方向に発展する前に、こうした試みに時を費していたのである。
『運動膜』の発表の黙殺に、いつまでも滅入ったままで、個展をする気になれないでいた私を、友人が「いまだに何をしているのか?」となじった上で、お茶の水画廊の主人、長谷川氏を紹介したのであった。おそらく、その学生時代から、同級生として一定の距離をもって交友して来た女性作家の、事前の紹介によって、私の作品を見る前から、充分に長谷川氏の関心を引いていたようだ。東京・本郷の、順天堂病院の裏手にあった、木造の仕舞屋風のお茶の水画廊を、初めて私がたずねた時、すでに長谷川氏の心づもりでは、企画展を開くことに決まっていたらしい。私より二歳年長の、紺色のスーツを着た細身の長谷川氏と、しばらく話しをしたあとで、私は奇妙な思いで企画展の申し出を聞いた。使い込んだ木目の浮き出た床の、鍵の手になった空間が私を魅きつけていて、発表欲を強く刺激された。私には発表するべき作品はいくらでもあって、明日にでも個展が出来る状態だったが、それでも新たに作品を造って、今ある自分自身を超えて発表したかった。すでに、銅の細い円管状の形態が内包する空間を、有機的に引きのばすような形で展開し始めていたのである。
1970年代の末頃から80年代の初めにかけて、私には、いくつもの作品の発生状態が続々と出て来ていて、作品の持続的な展開が、いかにして可能かを探っていた。私のいくつかの類似した作品構造の出発が、様々な経緯の中で、異なる展開に向かっている様は、その当時は、一見豊穣な収穫のように見えたかも知れないが、むしろ、後の「果樹園」のための種播く季節だったと思える。私は苗木をどこからか持って来て、移植する考えなぞ毛頭なかった。播くための「種」は、金属を叩くことから、自らの手の内に発生して来たが、じきに手がかりを失って、消え易い危うい存在だったのである。それは、円環構造を発生形態とした重層構造を、さらに多層化する『重層運動膜』として認識し、それぞれの空間が結び付く工夫として、『連鎖運動膜』を展開するようになって行くのである。そして、環境における異物である作品が、さらに、あえて異物をかかえ続けることで発生する、造形的違和感によるエネルギーを見出すもとになっていたことを、特記しておく必要がある。これらの造形的展開は、展開であると共に同時発生的であり、全ての準備は出発時にすでに在ったとも言えそうだが、そうした見え方は、結果が原因を見出させている論理の因習であって、切り捨てられて、今では見ることの出来ない岐路も無数にある。それらは今も、私の仕事の周縁に口を開けて待っていて、私が内的平衡を崩して、それらの脇に押しやって忘れていた岐路に、再び取り付くのを待っているのではなかろうか?そうして見れば、方法の理路とは、私にとって、鍛金という方法のもたらす造形的展開の筋道であるが、一方では、私の日々の平衡感覚が選択する、造形的岐路の問題なのでもあろうか?
鍛金という、古くから伝わる彫金師の下職としての職人技術が、思考の糧となって、物質と私とを結び付けるためには、単に技術的習熟や練成では難しい。明治期であれば、妙技を誇って脳天気になりわい仕事で日銭をかせぎ、糊口をすすぐことも、天晴れ日本人ですんだかも知れないと思うと、背すじが寒くなる。鍛金技術においては、金属板を当て金の上で叩くことで、その金槌の一撃一撃がもたらす延び縮みや、出たりへこんだりの銅膜の動きによって、形態が出来るのだが、私がその膜状組織の動きそのものに関心が傾いて行くのは、何故だったのだろうか?見知らぬ形態空間の曲がり道に出会う度、私の感情がときめいたためだろうか?私の内で、何か空間感情の高揚とでも言いたいような、あるいは遠い記憶の手触りのようなものが、私をうながすのだったが、その先に、私をとらえる充足感が待っているように思えるのだった。私には、いずれ消え行く私の全存在と等価に成立するような、作品世界が必要だった。そうであればこそ、私以前に積み重ねられて来た、全ての造形上の成果や約束事を放棄してさえ、獲得すべき価値だったのである。誰の目にも他愛のない小さな発見が、次第に成長して行くのを、自らの経験として思い出せば、独創と呼ばれるようなものも、あるいは、持久力の問題かも知れぬと思う程である。それなら職人仕事がそうではないかと、言われるかも知れない。私は、事実そうだと一方で答えることが出来るのだが、現実には、それで独創が生まれれば、事は簡単に過ぎる。鍛金を経験した者なら、誰でも経験するはずの、金槌で叩いて銅板を絞れば、その反作用として銅板の縁がひるがえるという些細な出来事に、意味を見出した私の経験に意味があったのであって、そこに鍛金という技術の稀有な意味を見出したのは、私の固有の思考経験なのである。この固有の経験が他者の経験を照射して、その意味を伝え得る時、この経験は思想の手がかりと成り始める。明解な思考、晦渋な思考というようなものはあっても、造形思考に美しい思考というようなものがあるのだろうか?それは飾られた思考であってはなるまい。思考運動は絶え間なく消え去る。ひとつの思想に達した思考の姿のみが形となって残るのであって、思考運動そのものは、虹色の錆のように、いずれ煌きを失って行く運命にある。しかし、消え去る運動なしには、思想は成立し得ないのである。思想は決して図式ではないし、サインやシンボルではない。人と人の間にすえられたいくつかの踏み石を、思い考え続けることで、ようやく成立している運動なのである。だからこそ、人の思想は危うい。その人の危うさが現実のささえを頼ろうとして、欺瞞にきわまるのだ。その哀しさを知るのは徹底した者のみであろう。人はそのあえかな手ごたえに集中することに耐え得ないのだ。
一匹の蝉の幼虫が、セルロイドじみた殻を脱いで羽化する時、その薄緑色に小さく生え出た羽が、外界の空気に触れて延び拡がって行く、その運動のように、初々しい思考の運動が生そのものである歓びが、あるいは不安が、思考の生命なのである。造形もまた、同様に初々しい生成の運動なしには、形の死を残すのみなのであろうと、自己矛盾を孕んだままの制作が、あてどもなく続いていた。