◆ 橋本真之 「木樹の間」筑波国際環境造形シンポジュウム‘85(1985年8月~9月開催)
◆橋本真之 作品 113 「運動膜」 埼玉・美術の祭典出品 (1978年4月)
◆橋本真之 作品115 「重層運動膜(内的な水辺)」 お茶の水画廊個展出品 (1984年4月)
◆橋本真之 作品129 「連鎖運動膜(内的な水辺)」 上尾市美術家協会展出品(1983年)
◆橋本真之 作品129 「連鎖運動膜(内的な水辺)」 お茶の水画廊個展出品(1984年4月)
2003年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 27号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法的限界と絶対運動①』 橋本真之
自我の充足の問題を別にすれば、作品は自然の有機的な成り立ちよりも劣った存在であると自覚した。自然に向かって多少なりとも近付きたいと思うとすれば、その「自然」とはいかなる自然か?あるいは何をもって自然としているのか?が明確でなければなるまい。それが「一個の林檎の隣りにある造形作品とは何ものであるか?」の問いを発展させて、「一本の林檎の木の隣りで、造形作品とは何ものであるのか?」という問いを立てた根本の理由だった。一本の林檎の木が繰り返えす季節ごとの生の営みの充足。そこに一本の林檎の木があることの厳かな生成。その前で、私の作品は一枚の朽ち葉よりも脆弱な構造世界である。私は林檎の木を作ろうとしていた訳ではない。そんな事は私の望むべきことではなくて、人間にとって造形とはいかなるものであり得るか?を問う時、私に一本の林檎の木の姿が明瞭に見えていたというまでのことだ。私は明らかな、そのことを「自然」と呼んだのである。そうした認識のもとで、諸々の自然の中の異物である作品に舞台裏が出来ることを許せなくなるのは自明であろう。かって林檎ばかりを造っていた中で、「運動膜」の構造を見出した。その時に、私は作品の成り立ちが従来の彫刻作品のように表現の問題になることを嫌って、あえて捨てて来たはずである。この常識的な彫刻表現との決別の後に、明らかな自覚として「作品」を作るとすれば、その構造体の生成の途上ですら、ささやかではあっても、自我の充足する存在世界として成立していなければならないだろう。それは掛け値なしに、いかなる部分もまた、私の途上にある思考と生理を体現しているのでなければならない。そうでなければ、単に精巧な模型世界か図式程度のものにしかなるまいと思えたのである。その様な私の仕事は、仮に彫刻とは異なる筋道によるものであることが気付けないならば、当然ながら造形的に破綻と見えるに違いない。私は、美術作品が表面上の詐術の問題か、観念上のゲームに過ぎぬことに苛立っていたのだったが、そうした問題は、次第に私自身の関心から遠去かって行き、他人事になって行った。この時、私は素材が物理的に変質変容して行くことによって成立する、ある種の工芸の「物」の成り立ちの可能性に共有感覚を覚えていたのであったが、貝の生理作用と違って、私が「造形作品」を作っているという、その事自体が、おそらく人間の限界なのであると自覚した。人間の造形行為のギクシャクとした工作性を、貝の生理作用よりも劣っているとして自嘲しつつも、存在として彼等自然の中に侵入して運動体を形成したかったのである。まぎれもなく自然界における異物である私の作品、すなわち人間固有の仕事が絶対運動となることを、私は願望していた。それは生きた私自身の惑星のごとき存在であるはずだった。その為には、素材もそれを扱う方法も、私と結び付く運動の筋道を徹底してたどる必要があったのである。それが私という存在を物質に浸入させる、または介入させる、あるいは反映させる方途と思えた。その先に何が見えて来るのか?とにかく、自我の充足よりも、むしろ矛盾を満載したままであったとしても、この徹底の先に見えて来るものを待って示すより他にあるまい。さもなければ、私は単に口舌の従に過ぎないという非難を甘んじて受けねばならないだろう。
このことから、私は仕事において、ほんのちょっとした出発や、途中であったとしても、絶対運動とまで言わずとも、一歩ゆずって作品世界として成立する構造であることを望んだ。それが範疇として何であるかなどには、強い関心はあっても、かまっていられなかったのである。私の仕事を受け入れる場処がないのであれば、それは自ら定義して「運動膜」で良いのではないか?それが私にとって、そして人間にとって有効な方法であるならば、いずれ人間の行為として何ものかに成るに違いないのである。
数ヶ月かけて、垂直に立ち上がる中心軸を持つ「運動膜」を作った。その作品を現代美術の作家達と共に一度発表した後(注1)、私は何かげんなりした気持で持ち帰って、仕事場の外に横倒しにしてあった。日がな金槌を振りおろすことに疲れ切っていた。私は朦朧とした頭で仕事場の外に出て、真夏の陽差しの下の作品をぼんやりと見ていた。傍らに植えてあった藤の風に揺れている様子と一緒に、自分の成した不充分な仕事がそこにあった。風に揺られながら、蔓を延ばした先に、取り付く何かを捜している藤の様子や、隣りの空地から垣根を越えて侵入して来るクズの蔓が地を這い、そして空中に向かって触手を揺らしている様子が私を掴まえていた。おそらく、私の思考の傍らで、蔓性植物の動きが固定した観念や固着したフォルムの替りに繁茂していたのである。
横倒しにしてあった「運動膜」を折りに触れて眺めていたが、ある時、不意に作品の一部分から形態が伸長する展開が見え始めたのである。それは、かっての「凝着」の運動の中心への切迫した方向とは逆だったけれども、近くにあった別の作品と結び付いて、空中で結接する形を求めていた。私は横たえてあった「運動膜」を再び仕事場の中に持ち込んで、そこに管状に延長する形態を展開し始めた。その動きはもうひとつの「運動膜」からも延びた管状の形態と空間を包んで結び付くために、ねじれた方向軸を取っていたが、私は途中で展覧会に出品して発表している(注2)。いずれ互いに結び付くことを想定して仕事を進めてはいたが、どこで終わったとしても、作品世界の構造として成立しているのであれば、それがいかなる部分や断片であっても、運動の途上として世界を形成していて、常に充足した状態で中断することが出来るはずであった。しかし、これは明らかではあったが、ささやかな造形的出発に過ぎなかったのである。
長いことかかって、ふたつの「運動膜」を展開した後、最後に結び付くための仕事にかかった時、一方の作品の凹曲面から凸曲面に移向する部分に無理がかかって、わずかに歪むのを見た時、私の持久力は難波して、この結接を断念しなければならなかった。やむを得ず一方の歪みかけた「運動膜」(注3)をもとに戻して独立させねばならず、もう一方は大きく方向転換をして、安定した球体状の形態を足がかりにして、地を這う展開を取ることにした。作品115「重層運動膜(内的な水辺)」と作品129「連鎖運動膜(内的な水辺)」の成立の事情は、こんな風だったのである。
1985年に開催された筑波万博にからんで、彫刻家の友人達から会場の一遇で開かれる自主企画展への参加を誘われた(注4)。企画はすでに動き出していて、私は最後の最後で誘われたために、会期までに二ヶ月半くらいの時間きりなかった。展示空間を実際に見るまで、私はこれまでに作った作品を樹木の間に置くことで出品参加するつもりでいたのである。会場の下見に行った時、遠くにドーム状のパビリオンが見える池の端に、十数本の野生えの松が刈り残されていた。万博会場を造成するために野生が飼い慣らされて囲い込まれたような、この空間の質に強度を持たせるほどの変質をせまるには、私には何が可能か、と考えるようになっていた。午後の陽差しの中、それぞれ不動の根もとの上方で、よじれるように風に揺れる十数本の松の木の下に立ったこの時、私にとって初めて野外空間の質にぶつかるための準備が整い出していたと言って良い。それまで、私は作品を屋外に持ち出してはいたが、それは単に彫刻のようなものが屋外にあるだけに過ぎなかったことに気付かされた。松の根もとの間をぬうようにして「連鎖運動膜(内的な水辺)」そして、後に「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の大展開と成る作品部分を置くことと共に、四本の松の樹幹にからめて新たに作品を作ることにした時、初めて環境空間と作品の内部空間とが、呼応し浸透し合う意味を明確にしたのである。この新たに加わる形態は、樹幹を計測して半周分だけ銅板で覆い、その半円筒状態の側面から延び出るように造形展開している。設置は始まりの半円筒部分を樹幹に番線と荒縄で巻きつけて固定する方法を取った。姑息な方法ではあったが、樹木と作品との結接について、残念ながらこの時私には、これより他に考えが及ばなかったのである。けれども「歩道」以来の展開が、樹木を頼りに凝着するかたちを取って、ようやく自然の充満する拡がりの中に向かい始めたのである。この二ヶ月半の制作の密度は思い出すのも苦しい。
それにしても、この企図が公的な場にゆるされたのは、設置が展覧会期間中のみの仮設であったが故であって、恒久設置はゆるされなかったに違いない。美術雑誌には酷評を受けたが、この作品空間「木樹の間」の既存の空間を変質させる力は人目を引いたらしい。この展示を見た人々の、私に関心を持ち始める重要なきっかけになったのである。夏の会期中、毎日作品を見に通って、作品内部をのぞき込んでいた小学生がいた。そして後に学芸員になる大学生もいた。賛否はともかく、様々なジャーナリズムがとり上げた展覧会だった。
搬出は秋雨の中だった。松の樹幹から作品を取りはずしている私に向かって、散歩の途中らしい中年の男が、不服そうに「これも持って帰ってしまうのか?」とつめ寄って来た。科学万博の宴の後の、出店の撤収作業はすでに終わっていて、残っているのは恒久建築のドーム状のパビリオンと、私達の展覧会の出品作品のいくつかだけだったのである。作品を取り去ってトラックに積んだ後、展覧会場だった公園は、増々強くなって来た雨の中で寒々とした風景に戻っていた。 (つづく)
(注1)1978年4月「埼玉・美術の祭典」(埼玉会館)
(注2)1983年「上尾市美術家協会展」(上尾市コミュニティーセンター)
(注3)図版3 作品115「重層運動膜(内的な水辺)」
(注4)1985年「筑波国際環境造形シンポジウム‘85」
(注2)1983年「上尾市美術家協会展」(上尾市コミュニティーセンター)
(注3)図版3 作品115「重層運動膜(内的な水辺)」
(注4)1985年「筑波国際環境造形シンポジウム‘85」