2003年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 30号に掲載した記事を改めて下記します。
「虹色のミミズ」 榛葉莟子
珍しく雨がやみ、月も星も厚い雲にはばまれてただ丈高い木立ちがあたりをいっそう漆黒の闇に染めているそんな夜、神社で集落の子供会の肝だめしの夜がありました。何事か声に出さずにはいられない畏れの気持ちなのでしょうか、混じり合うひそひそ声のざわめきが聞こえてきました。そこここからおばけがぬっと出てくる気配満点の舞台。鳥居をくぐって、妖しげにぼおっとあかりが灯る本殿までの、デコボコした敷石の参道を往復する道のりらしく、お墓まで行ってぐるり神社の森を一周していたはずの肝だめしのルートもずいぶん短くなっているようでした。けれども参道を往復するだけでも怖いのは同じで、子供たちの馴染みの境内も今夜はどこか見知らぬ場所。二つの懐中電気の赤い灯がゆらゆら並んで歩いているのが見えました。そのうちきゃーと声がして猛スピードで灯は走り、ああ怖かったと興奮した声に次の番の子の緊張した顔が見えるようでした。おばけや妖怪はいる?と聞いたとしたら、いるいるいるよ!とどきっとした眼を向けてくれるかもしれません。いくつになっても背中が冷や冷やぞくぞくするような一寸先も見えない闇は深くて怖いものです。その怖さは奥底にしんとある畏怖心が見させるとても不思議なよく分からない天然の世界を垣間見た怖さであって、この頃のような黒々とした太文字の恐怖とはあまりにも怖さはちがうのです。この真っ暗闇の森のなかにうごめくひそひそとした息のざわめきや、ぽーっとあたりを灯すあかりの妖しさを誘う闇の空間にぞくっとするのは、奥底に横たわるそっくりな太古の記憶と結ばれるからでしょうか。
雨が止んだので湿っぽい庭の草取りをしていると、草の中からあわてて這い出して来るミミズに出くわしました。見るともなく見ているとミミズは器用にというか、のたうち回るようにニョロニョロあっというまに草むらに移動するのでした。ミミズには毛がないし、目があるのかないのか、濁った桃色の紐状が動いていれば気味が悪く誰もが嫌悪感を持つとは思いますが、ミミズは益虫でミミズがいるのは良い土の証だといいます。雨の日ばかりのじめじめしたこの夏は、じめじめを好む生物をみかける事が多いようで、その気味のわるい形や色、動きなど目にすれば割箸か何かで放ってしまいたい衝動にかられ、大体がそうするのではないでしょうか。なにしろ下等動物と勝手に分別されて見た目では嫌悪されているのですから。もしも、虹色のミミズでしたらどうなんでしょうか。見た目の嫌悪感とはどこから来るのでしょうか。不快と感じる擬音、ヌルヌルとかベタベタとかブヨブヨとか、確かに今ことばを探しているだけでも不快になってきてしまいます。安部公房の「砂の女」という小説を読んでいるうちに、自分の口の中が砂でザラザラになつてきた感覚を今思い出し、思い出した今もザラザラとした感覚が蘇ってきてしまいました。
印刷物の写真や図解などで人間の身体の中、つまりは脳や臓器を見ることがありますが、へえ!こんなふうに!と驚いたりしながらひとごとのように眺めていられるのは不思議といえば不思議です。ヌルヌルとかベタベタとかブヨブヨなんて不快なことばも浮かびません。けれどもふと気がつけば私たちの身体の中には不快な擬音表現の言葉にぴったしの色や形のものが身体という容器に納まって動いている訳で、ミミズやナメクジどころではないと想像できるのです。案外、この理屈を超えた嫌悪感とか不快感とかは、もっと遥かな所へまでも連れ出されそうに深い気がして来て気が遠くなりそうになります。
そういえば、じめじめを好む生物の中でもカタツムリは愛されているのではないでしょうか。日常から遠いイメージがあるせいなのか絵本に登場したり、キャラクターグッズになったり、歌に歌われたり、もっと言えば食されたりもします。あの螺旋状の殻を着た姿は巻貝の親戚筋とみえますし、殻をとればナメクジにも似ています。この長雨で頭の中もじめじめしているのでしょうか、またナメクジが口に出てしまいました。でもカタツムリにじめじめを感じないのはどこか幻想に誘う雰囲気を醸し出しているからかもしれません。プレベールというナンセンス詩人といわれる人の詩に葬式に行くカタツムリの唄というのがありまして「死んだ葉っぱのお葬式に二匹のカタツムリが出かける。黒い殻をかぶり角には喪章を巻いて、暗がりの中へ出かける。とてもきれいな秋の夕方。けれども残念、着いた時はもう春だ。死んでいた葉っぱはみんなよみがえる」もう何十年も前に気に入って覚えたのですがいまだに言えました。何が気に入ったのだろうか分析したこともありません。今、遅れてきた蝉が鳴きはじめたと思ったらもうぴたっと止んでしまいました。
「虹色のミミズ」 榛葉莟子
珍しく雨がやみ、月も星も厚い雲にはばまれてただ丈高い木立ちがあたりをいっそう漆黒の闇に染めているそんな夜、神社で集落の子供会の肝だめしの夜がありました。何事か声に出さずにはいられない畏れの気持ちなのでしょうか、混じり合うひそひそ声のざわめきが聞こえてきました。そこここからおばけがぬっと出てくる気配満点の舞台。鳥居をくぐって、妖しげにぼおっとあかりが灯る本殿までの、デコボコした敷石の参道を往復する道のりらしく、お墓まで行ってぐるり神社の森を一周していたはずの肝だめしのルートもずいぶん短くなっているようでした。けれども参道を往復するだけでも怖いのは同じで、子供たちの馴染みの境内も今夜はどこか見知らぬ場所。二つの懐中電気の赤い灯がゆらゆら並んで歩いているのが見えました。そのうちきゃーと声がして猛スピードで灯は走り、ああ怖かったと興奮した声に次の番の子の緊張した顔が見えるようでした。おばけや妖怪はいる?と聞いたとしたら、いるいるいるよ!とどきっとした眼を向けてくれるかもしれません。いくつになっても背中が冷や冷やぞくぞくするような一寸先も見えない闇は深くて怖いものです。その怖さは奥底にしんとある畏怖心が見させるとても不思議なよく分からない天然の世界を垣間見た怖さであって、この頃のような黒々とした太文字の恐怖とはあまりにも怖さはちがうのです。この真っ暗闇の森のなかにうごめくひそひそとした息のざわめきや、ぽーっとあたりを灯すあかりの妖しさを誘う闇の空間にぞくっとするのは、奥底に横たわるそっくりな太古の記憶と結ばれるからでしょうか。
雨が止んだので湿っぽい庭の草取りをしていると、草の中からあわてて這い出して来るミミズに出くわしました。見るともなく見ているとミミズは器用にというか、のたうち回るようにニョロニョロあっというまに草むらに移動するのでした。ミミズには毛がないし、目があるのかないのか、濁った桃色の紐状が動いていれば気味が悪く誰もが嫌悪感を持つとは思いますが、ミミズは益虫でミミズがいるのは良い土の証だといいます。雨の日ばかりのじめじめしたこの夏は、じめじめを好む生物をみかける事が多いようで、その気味のわるい形や色、動きなど目にすれば割箸か何かで放ってしまいたい衝動にかられ、大体がそうするのではないでしょうか。なにしろ下等動物と勝手に分別されて見た目では嫌悪されているのですから。もしも、虹色のミミズでしたらどうなんでしょうか。見た目の嫌悪感とはどこから来るのでしょうか。不快と感じる擬音、ヌルヌルとかベタベタとかブヨブヨとか、確かに今ことばを探しているだけでも不快になってきてしまいます。安部公房の「砂の女」という小説を読んでいるうちに、自分の口の中が砂でザラザラになつてきた感覚を今思い出し、思い出した今もザラザラとした感覚が蘇ってきてしまいました。
印刷物の写真や図解などで人間の身体の中、つまりは脳や臓器を見ることがありますが、へえ!こんなふうに!と驚いたりしながらひとごとのように眺めていられるのは不思議といえば不思議です。ヌルヌルとかベタベタとかブヨブヨなんて不快なことばも浮かびません。けれどもふと気がつけば私たちの身体の中には不快な擬音表現の言葉にぴったしの色や形のものが身体という容器に納まって動いている訳で、ミミズやナメクジどころではないと想像できるのです。案外、この理屈を超えた嫌悪感とか不快感とかは、もっと遥かな所へまでも連れ出されそうに深い気がして来て気が遠くなりそうになります。
そういえば、じめじめを好む生物の中でもカタツムリは愛されているのではないでしょうか。日常から遠いイメージがあるせいなのか絵本に登場したり、キャラクターグッズになったり、歌に歌われたり、もっと言えば食されたりもします。あの螺旋状の殻を着た姿は巻貝の親戚筋とみえますし、殻をとればナメクジにも似ています。この長雨で頭の中もじめじめしているのでしょうか、またナメクジが口に出てしまいました。でもカタツムリにじめじめを感じないのはどこか幻想に誘う雰囲気を醸し出しているからかもしれません。プレベールというナンセンス詩人といわれる人の詩に葬式に行くカタツムリの唄というのがありまして「死んだ葉っぱのお葬式に二匹のカタツムリが出かける。黒い殻をかぶり角には喪章を巻いて、暗がりの中へ出かける。とてもきれいな秋の夕方。けれども残念、着いた時はもう春だ。死んでいた葉っぱはみんなよみがえる」もう何十年も前に気に入って覚えたのですがいまだに言えました。何が気に入ったのだろうか分析したこともありません。今、遅れてきた蝉が鳴きはじめたと思ったらもうぴたっと止んでしまいました。