◆橋本真之 「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(’78-’88制作) 渋谷西武工芸画廊(撮影:高橋孝一)
◆橋本真之 「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(内部)
(撮影:高橋孝一)
◆「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」搬入スナップ
◆橋本真之「発生期の頃」(88年) お茶の水画廊
2004年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 31号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法的限界と絶対運動⑤』 橋本真之
2004年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 31号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法的限界と絶対運動⑤』 橋本真之
渋谷西武工芸画廊は7階にあって、美術画廊や骨董家具売り場と隣り合わせにあった。私の個展が企画にのぼって、あらためて会場を見ると、矩形の床ではなくて五角形だった。私は「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」のその後の制作展開を展示するつもりでいたのだが、すでに出来ている新しい部分は、仕事場の中で限界いっぱいに大きなものになっていて、長さが4m60cmだった。ギャラリーのある7階にまで上げるには、大き過ぎて搬入用のエレベーターを利用することが出来ないので、正面入口から紳士もの売り場を通り抜け、階段を人力で運び上げねばならない。五角形をした床の形と壁の角度が「果樹園-」のその後の展開に強く影響して、螺旋状に延長する方向を取るようになったのである。私は二十代の虚弱体質から脱してはいたが、40歳を過ぎてすでに体力の限界は見えていた。‘85年の筑波での展示以後の三年間を振り返って、十年分もの仕事をし、発表をしたかのように錯覚する程だった。その当時、まだ三年きり過ぎていないのか?と私はそのはるかな感覚をいぶかしく思ったものである。計量的に発明された「時間」という概念の均質な性質が、人間の心理的な「時」の感覚とはあまりにかけ離れていることを、私は知った。計量的な「時間」には生の密度の問題が抜け落ちているからなのだ。それならば、生の密度の徹底した充填によって、限られた人間の生を計量可能な物質の中で恒常的なエネルギーと化することが出来る方法はないだろうか?と飛躍して考えもした。
仕事場の外の空地を計測し、ギャラリー空間に見立てて闇雲に制作した。作品は‘86年にアートスペース虹とお茶の水画廊で発表した作品量の、およそ2倍の量になった。
‘88年師走の搬入の日、閉店を待って渋谷西武の玄関前に4tトラック2台を横付けにして搬入を始めようとした時の、夜の道行く人々のトラックの荷台を見上げる驚きの顔が今でも忘れられない。15人の人手で階段を運び上げた。制作中、不安になって幾度も搬入経路を確認に行ったのだが、あと5cmも作品が長かったなら、階段を廻りきれず、作品を会場まで運び入れることが出来なかっただろう。人手で運ぶには、あまりに長い搬入経路だったが、祭りの御輿を担ぐような、人々の一致した協力が有難かった。限度いっぱいの制作の後の搬入で、私の体力は限界に来ていて、小便が血だった。激しい痛みだった。
幸いに展覧会は評判になって、様々な美術関係者の目に止まった。その後、学芸員の金子賢治氏はじめ私を強く推し続けてくれた人々は、殆どこの前後の展覧会によって知己を得た人々ではなかろうか?「果樹園-」がその後の大展開に向かい得たのも、この展示空間での踏み出しによって勢いを得たのである。
渋谷西武工芸画廊と同時期に開催したお茶の水画廊での個展を、副題に「発生期の頃1988-」と題して発表したのは、「果樹園-」の画廊空間を圧する様相とは対称的に、「運動膜」の初期段階における展開の再検討の様々な仕事であったからである。今になって見れば、これらの試行が後に「凝集力」という縮小の方向を取る作品群を産む前段階でもあったのである。またこの展示の中には「無限大と無限小を往還する構造」として「果樹園-」の展開を大きく動かしたものが出て来たのだった。このお茶の水画廊での展示は、渋谷西武工芸画廊での展示の評価の蔭で、殆ど人々に記憶されていないのかも知れない。けれども、実はこの小さな展示物こそ、一見拡大化に向けるばかりの様相の私の作品世界の中で、制作の始まりにおける分岐の可能性を捜し、そして深さに向けて垂鉛を降ろしていた自己証明となるのではないだろうか?一方の垂鉛を降ろす行為によって見い出されたものが、作品世界の拡大そのものによって、同時に深度をもたらすことを証明しもするのである。こうした造形的な自己批評力を持てなかったならば、私の仕事は当時のバブル世代の作家達の仕事と同様に一時的なものとして扱われたに違いない。私は危険な時代の真唯中に居たのでもある。
一片の銅が、貝殻のカルシウムと等価な存在であることは、天然の物質として理解できる。けれども、自らカルシウムを分泌して形成する貝の生命運動の結果であることと、自らの外に素材を捜して制作する「作品」という工作物とのへだたりは、ひどく遠いように思える。その事が、いつまでも私を憂鬱に引き込むのだったが、私はこの工作上の限界から解放されるためには、貝の成長における理と等価な展開の筋道が必要であるとは自覚し続けて来た。それは明らかに私自身の生に密着したものでなければならない。しかし、「自然と人工」などという硬直した二項対立の図式から私自身の跳躍がなければ、自我と世界との宥和、そして倫理的次元の穫得を望む私の自我の充足はないのだろう。貝のように物質を泌み出して作品を制作することは出来なくとも、私はその唯一無二の理路を自らと銅とのひとからげの内から泌み出すことが出来るとすれば、それを「絶対運動」と呼び、そのような私自身の作品世界の構造を「絶対運動膜」と呼ぼうとしたのである。奇妙な論理だろうか?あるいは、この論理の飛躍が人々に奇怪に響くとすれば、それは私と銅とのひとくくりの在り方の理路への違和感ではなかろうか?私の全存在とは、私の肉体をともなった自我をめぐる全環境との様々な関係を含まずには在り得まい。にもかかわらず、あえてその上に銅とひとからげにした存在概念を引き出そうとする私の意志こそ、二項対立のこの人間世界の図式を蹴散らしてまで踏み行くべき認識行為なのである。これを認識行為などとは呼ばないとすれば、私の造形行為であると一歩引き下がるだけである。相変らずの硬直した観念の問題に振り回されるのは真平だ。空事の感情に振り回されるのも真平だ。この運動の中で、この手触りの中で、私の肉体をともなった自我が、この異物をとりまく世界と宥和することに充足感を覚えるのでなければ、この一回限りの生の確実な感触はつかめまい。造形認識とはそういうことだ。
乱雑な仕事場で作品の中をのぞき込んだ。自分はこのようなものを造ったのか、と一人納得した。これは私なのか?銅なのか?そう問い返して見れば、逆にひとくくりの概念が立ち上がろうとするように思える。「作品とは何か?」そうした問いを改めて発すると、工作物が別様の相貌をして立ち現われたような気がした。
自分自身が排除され黙殺されて来た年月の長さなぞ高が知れたものだ。百年の沈黙の中でだって耐え続けなければならぬと覚悟して来たのに、時代は動き始めたらしい。
水戸芸術館の開館記念展の企画「作法の遊戯」-’90年春・美術の現在-という展覧会に出品依頼が来た。若い世代の学芸員二人の推薦によって企画に載ったものだと後に聞かされた。一人は先の渋谷西武工芸画廊における個展を見た渡部誠一氏であり、もう一人は筑波での野外展を筑波大学の学生時代に見たという寺門寿明氏である。この二人の若い学芸員の目が私をとらえたということが、現代美術の新世代の中に私を押し出すことになったのである。出品者の内、戸谷成雄氏・西村陽平氏と共に42歳の私が最高齢だった。
お知らせ:2004年1月25日まで埼玉県立近代美術館(常設展示室)にて「アーティスト・プロジェクト①」として「果実の中の木もれ陽」-橋本真之の成長する造形が開催されています。