◆絹のイカットの正装
サルン(腰巻)とスレンダン(肩掛け)はイカット、上衣は薄手の絹との組み合わせ
サルン(腰巻)とスレンダン(肩掛け)はイカット、上衣は薄手の絹との組み合わせ
◆写真1 スラウェシ島の家蚕
◆写真2 スラウェシ島の繭
◆写真4 広い店内で…、この写真の前後左右にも、色とりどりの絹織物が所狭しと積み上げられている
◆写真5 インドネシアでも珍しい絹のイカット(緯絣)
◆写真6 日本では「バッタン」と呼ばれる飛び杼装置を備えた高機 平織りの無地や縞、格子、絣模様などを織る 写真の白生地はバティック用で、ジャワ島のバティック工房に販売される
◆写真7 穴の空いた紋紙により、経糸が開口するようにした装置をもつジャカード織機 複雑な紋織りが自動的に織れる
◆写真8 スラウェシ島南部、ブギス人の高床式の家
◆写真9 床下である1階で、蚕が飼育されている
◆写真10 自転車のペダルとチェーンを利用し、大きな糸枠が設置された座繰り器 左下の簀の子状の板の間に、煮た繭を挟み、糸を引き出す
◆写真11 綛揚げされた1kgの生糸
2007年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 46号に掲載した記事を改めて下記します。
『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの素材(Ⅱ)絹- 富田和子
インドネシアの織物の繊維素材は主に木綿と絹であるが、イカットの素材としてはほとんどが木綿である。絹糸は光沢に富み、軽くしなやかで染色性に優れ、幅広い染織美の表現を可能とする素材であるが、インドネシアの豊富な染織品に比べ、国産の絹糸の生産量は極めて少ない。かつては絹糸で織られていたという緯絣も現在では織られることなく、絹のイカットが織られているのは、一部の地域のみである。
◆絹の歴史と各国への伝播
蚕を飼って絹糸を取り織物にすることは中国で始められた。中国の養蚕の起源は他の国と比較にならないほど古く、新石器時代の遺跡から繭殻や、素材は家蚕の絹糸とされる平織の小裂、撚糸、組帯などが出土している。併出した稲もみの放射性炭素による時代判定では紀元前2750±100年となっており、この時代に中国では養蚕が行われ、絹織物を織っていたと推定される。その後の殷代(紀元前約1600~紀元前約1050年)には黄河流域で、すでに広く養蚕が行われていたと考えられ、紀元前の春秋戦国時代には錦が織られ、続く漢代(紀元前202~紀元後220年)は古代絹織物の成熟期にあたり、紋織、羅、経錦などの染織技術を持っていたことが報告されている。
古代ローマ(紀元前753年~)では、中国はセリカ(絹の国)と呼ばれ、同じ重さの金と取引されたように、中国の絹織物は重要な交易品として古くからシルクロードの陸路を経て、また南海の海路によって遠く国外に輸出された。しかし、製品としての絹織物は輸出しても、蚕を国外に持ち出した者は死刑に処せられたというほど、養蚕技術は長い間秘密とされていた。だが、2世紀前後に中国西域のホータンに養蚕技術が伝えられ、3世紀には北西インドまたはカシミール地方に、4~5世紀にはペルシアからシリアに、6世紀中頃にはビザンティン帝国に伝わったと考えられている。養蚕が最初に国外へ持ち出されたのは、1世紀の中頃、西域のホータンへ嫁ぐ王女が、桑の種子と蚕種を帽子の中に隠して密かに持ち出したことによるという。また、ヨーロッパに初めて持ち込まれた蚕種は、552年にビザンティン帝国の2人の僧侶が、杖の中に隠して運んだといったエピソードが今日に伝えられているように、美しく光る繊維による軽やかな絹織物は西方世界にとって長く神秘的な存在であった。それ以後、養蚕・製糸業は・u档rザンティン帝国からギリシアへ伝わり、イスラム教徒の手でさらに西方に伝えられ、10世紀頃にはスペインのアンダルシア地方がヨーロッパ随一の中心となった。
日本に絹がいつ頃もたらされたかは明らかではないが、弥生時代前期中葉(紀元前100年頃)の甕棺から平織の絹布が出土したことが報告され、1世紀頃にはすでに伝わっていた可能性がある。また、3世紀半ばには、朝鮮半島を経て中国から伝えられた養蚕がすでに日本で行われ、絹織物が作られていたことが『魏志倭人伝』に記されている。
インドネシアでの絹の使用ついてもやはり明らかではないが、1世紀頃、インドの文化と共に伝わった木綿よりは新しいと考えられている。中国の『宋史』には、10世紀後半にジャワ島のマタラム王国で養蚕と絹の機織りが行われていることが記されている。またポルトガル人によって著された『東方諸国記』には、16世紀初頭にスマトラ島産の絹が木綿と共に重要な交易品となっていたという記述がある。しかし、繭や生糸の生産量は少なく、絹糸の大半は常に輸入に依存してきた。このため、絹が使用されてきた地域は古くから外界との交流が盛んであったスラウェシ島のなどの沿岸地域に限定されていた。
◆絹織物の町
絹によるイカットは、スマトラ島南部やスラウェシ島南部、バリ島において、括りと擦り込み技法による緯絣が製作されていたが、現在では、スマトラ島ではソンケット(浮織)が盛んに織られ、また、バリ島の緯絣は木綿糸が使用され、唯一絹のイカットが製作されているのはスラウェシ島南部のみである。稀少な存在となった絹のイカットはブギス人の伝統的な織物として、今でもわずかながら織られている。
スラウェシ島の玄関口であるマカッサルへはバリ島から飛行機で約1時間余り。マカッサルからトラジャへ向かう中間地点にシルクで有名なセンカンという町がある。町には販売店を兼ねた織物工房が何件かあり、様々な絹織物が製作されている。また、町の周辺では高床式の家の下で、女性達が織っている姿を見かけることもある。 店にある絹の布の種類は豊富で、無地や 紋織りの白生地や染色された生地、縞や格子模様、金糸、銀糸を織り込んだ布、オーガンディ、さらに刺繍やプリントされた布もある。全体の布量に比較すると、イカットは少なく、化学染料による色鮮やかな緯絣であった。ほとんどの布は地元センカン製だが、輸入品のタイシルクやインドのムンバイ(ボンベイ)からの絹織物も売られている。また、布以外では伝統的な衣装であるサルン(腰巻)やスレンダン(肩掛け)、上着、ブラウス、ワイシャツ、ネクタイなどに仕立てられた製品もあった。
◆家内工業の養蚕
養蚕はセンカンの町を取り巻く周辺のソッペン、ワジョ、エンレカンといった地域で行われている。ソッペンの畑で、桑の葉を摘んでいる親子に出会い、その養蚕農家を訪ねてみた。
高床式の家の床下である1階部分を塀で囲み、蚕が飼育されていた。蚕種は中国からの輸入品を用いるとのことである。蚕は約20日間で成長し、3~5日間で繭を作る。その繭を鍋に入れ、2分ほど煮て繭を取り出す。ナスの葉を使い、最初の糸を引き出し、糸を繰り、綛に上げる。できた糸はセンカンの織工房に売るのだという説明を受けた。 養蚕を行っている農家は多くはなく、この村では2軒だけということであった。
センカンは、南スラウェシ州最大の湖であるテンペ湖のほとりにある町である。訪れた時期は雨期ではなかったが、たまたま長雨で10日間以上も雨が降り続き、所々で湖や川が氾濫していた。湖周辺の低地は洪水で、道路が切断されている地域もあった。浸水した桑畑で腰まで水に浸かりながら桑の葉を摘んでいたのが、案内してくれた親子だった。本来はその畑の先にある別の村の養蚕所を訪ねるつもりであったが、洪水で進めず、蚕も水に浸かってだめになってしまっただろうという話であった。
◆輸入に依存する絹産業
現在インドネシアでは、ジャワ島西部とスラウェシ島南部が絹の生産地となっている。ジャワ島西部で生産される絹織物は工場で染色されて製品化される場合もあるが、主にバティック用の素材として、白生地のままジャワ島内で使用されるという。だが、いずれにしろ、原料の蚕種も繭も生糸も、国内の絹産業を支えることはできず、7~8割を中国からの繭や生糸の輸入に依存しているという状態である。また、量だけではなく、質においても、中国の糸の方がスラウェシの糸よりも質が良いので、質の良い中国産の糸と合わせて織られている。中国から輸入した絹糸はセンカンの糸よりも、 値段も2倍ほど高いが、センカンの店でも工房でも、中国の絹糸を使用していると聞いた。 さらに最近では、レーヨンの糸も使用されている。
絹を生産しない地域の緯絣はすでに織られることはなくなってしまったが、インドネシアにおいて絹の生産量が最も多いスラウェシ島南部には、かろうじて絹のイカットが存続しているようである。今後、いつまで残っていけるのか…、先行きが少々不安でもある。