1997年10月25日発行のART&CRAFT FORUM 9号に掲載した記事を改めて下記します。
造形技術としての『鍛金』の周辺
その1 東京美術学校・明治から昭和
関井一夫・田中千絵
はじめに
この研究は、作り手である鍛金家として、自らの制作の根源である『鍛金』の歴史的系譜を調査しようと試みたものである。
『鍛金』という一般的に耳慣れない工芸ジャンルは、近年少数の作家達によりマスメディアの中に活字・映像というかたちで現れ出してきた。しかしその認識はいまだマイノリティーの域を脱するものではない。我々が知る限り、我が国の「打ち物技術」は世界に誇り得る現存する技術であるにも関わらずである。
我々は母校である東京芸術大学に於いて初めて鍛金という造形技法にふれたが、東京芸術大学の前進である東京美術学校が、我が国に於ける鍛金「打ち物」技術の伝承・保存・展開に大きく関わってきた(もしくは東京美術学校なくしては我が国の鍛金技術や現在の鍛金家の存在さえも危ぶまれた)事実を知ることになった。
今回は、我々の共同研究調査及び、美術教育研究会第二回研究大会(平成8年11月2日)に於いての田中千絵による口述発表『大学に於ける技術と造形の教育及びその周辺-鍛金という技術をめぐって-』を基に、追加研究し文章化したものである。
平成9年9月30日
なを以下の研究調査は東京芸術大学名誉教授である鍛金家・三井安蘇夫氏在学中(昭和27年~53年)の事項に関しては、去る1996年7月30日、三井安蘇夫氏宅にて行われたインタビューの内容に基づくものである。
日本の誇れる技である『打ち物』は、昔奈良時代以前は銅師(あかがねし)と呼ばれる人々の仕事であった。その術に工芸技法の分類に於ける『鍛金[*1]』という名称が与えられたのはかなり最近であるらしく、明治以降とも言われている。そこで鍛金技術の歴史的検証を目的に、明治期及び戦中戦後の鍛金技法の実態とその土壌の調査を進めるにつれ、東京芸術大学という教育機関がこの技法の発展及び造形技術としての展開に多大な影響を及ぼした事が明らかになってくる。
先ず明治維新後の金工全体の流れを見てみたい。銅器・青銅器とも海外輸出品の一つとなり、京都・大阪・東京・富山・新潟・石川などで盛んに産出されていた。特に打ち物に関しては、大阪に前代より住友の製錬所があり銅板・銅製品が産出されていたが、維新後は一層生産が盛んになる。しかし美術品の産地となると京都・東京・金沢が中心で、京都では装刀工(刀の装飾に携わる工人)を集め銅製篭式のような物が生産・海外に輸出されていた。また東京に於いては様々な金工家が腕を競っており、彫金の象嵌の技にたけた加納夏雄や海野勝民などは後にその腕を買われ東京美術学校の彫金科の指導者となる。銅器としては埼玉県松山の岡野東龍斎の弟子の鈴木長吉(パリ万博に孔雀雌雄を出品)が名を成していた。しかし、どちらにせよ東京の金工が発展したのは、起立商工会の力と東京金工会・鎚工研究会なるものの起こりに頼るところが大きい。金沢は加賀象嵌と称する装剣具や鎧などを創る職人が元来多く、維新後も名工と呼ばれた人たちに、水野源六・山川孝次などがいる。彼等を中心に金沢銅器会社が起こり仏国・米国などに輸出し隆盛をきわめたが、明治16年輸出を担当していた人物が事業を中止(理由不明)。これを機に衰退。金沢市内で日用品を創るほどになってしまう。また大聖寺と言う所には、山田長三郎という面頬師(兜の顎・頬を覆う部分を鉄を素材として打ち・絞り出す)の家柄末期の職人がおり、鉄で頬当などを創る流れの仕事をする者で、花瓶や香炉などを創る以外に動物や鳥を鉄またそれ以外の金属を用いて創ることを得意としていたが若干46歳にて他界。後継者については存在するようだが特に取り上げて技術を伝承・発展させたという事実は見当たらない。その他、高岡では輸出品の生産が盛んで長く続き、また国内向けには開義平・民野照親などが精巧な品を産出。以来高岡は銅器鋳物に於ける一大産地となっている。また、新潟燕町(市)では文政12、3年頃から玉川覚治郎(玉川堂と呼ぶ)が京都で修業した後、厨房用の割烹具打ち物の製造販売を始め、二代目に至っては銅器・銀器で茶具やその他の装飾具・文房具類を生産。同業者もこれに習い地場産業として流行り、維新の波に一時期衰退はしたものの盛運をきわめる。しかし明治18・9年に衰賓に傾き21年頃には少々回復したが、玉川堂(玉川覚治郎)は昭和の初め横浜に移住したと金子清次の著書『日本金工史沿革[*2]』に記している。現在も燕市にはその流れの玉川堂があり日本各地に銅・銀等の打ち物(やかん・茶托など)を送りだしている。
さて、そのような時代に(明治20年)東京美術学校・美術工芸科(金工・漆)が創設されるのだが、フェノロサや岡倉天心は当時「日本では古来、美術と工芸とは一体のものとして発展してきたのであるから、西洋のように美術と工芸に優劣を付けて区別することはせず、自国の良き伝統を生かして将来も両者を総合的に発展させるべきである。[*3]」と考えていた。
明治28年に鍛金科を開設するにあたって、天心は鉄の仕事も銅の仕事も取り入れ日本の誇る刀剣技術と打ち物(あかがね)師の技術の伝承を目的とし指導する方向であった。どちらかというと(かなりの比重で)刀剣類を美術学校内で打たせることを目的としていた。これは先の日清戦争後の刀剣類に対する再評価の機運に乗じたものとする見方があった事が当時の新聞(明治28年6月3日報知新聞)から考察される。しかし、明治4年に既に廃刀令が出ていることもあり、時代錯誤であるという周囲の意見などにより実現せず。鍛金科の指導者としては準備段階から刀鍛冶の桜井征次(天皇銀婚式献上太刀の制作などに関わった人物)を嘱託としていたが、指導者として28年に平田宗幸、30年には藤本万作が呼ばれ(両者とも平田派の打ち物師)、以来美術学校またそれに続く東京芸術大学の鍛金科は、平田派[*4]の流れを汲むこととなる。
「美術学校の工芸部からはじめて卒業生を出したのは明治27年3月からで(当時はまだ鍛金科は無かったが)それらが頭角を現して工芸界から認められかけたのは明治末期から大正にはいってからで、美術の隆盛につれて知られかけたのであるが、何れも15年20年の研究を積んだ後のことで、絵画や彫刻と違った技巧のこそを築かなくてはならぬ用意を要したのである。」と香取秀香は著書である『金工史談[*5]』のなかで述べている。また工芸各科の概略として鍛金について「槌起工は専ら彫金科の下地の花瓶を鎚鍛して足りとしていた様で、その替わりに朧銀[*6]の如き困難なものも鎚起しうる有様であった、鈴木翁斎・同長二斎などがいた。其の間また切嵌を以て有名な黒川勝榮(大正6年卒)があり、専ら鐵を用いて動物の全形を鎚出して空前の奇工の加賀の山田長二郎宗美(大正5年卒)があり、平田重光・平田宗行(大正9年卒)は銀銅の鎚起で名を成し、門人が今に多い。鎚起は大いに発展すべくして遂にせづに終わった状態である。」と考察している。つまり技術の伝承と保存においては素晴らしいものもあったが、発展・進歩という意味においては彼の期待ほどではなかったらしい。
この様に技術の伝承・保存中心の指導で、しかも世の中の工芸界に頭角を出すまでに、短期間では成せる技ではないものを専門とする(鍛金を含む)この工芸部に関して、美術として認めたがらぬ人間も現在と同様存在した。明治32年黒田清輝は『美術教育に関する意見書[*7]』で『美術と工芸とに厳正なる分離をなすべし』という一項を掲げている。美術学校創設の際のフェノロサや天心の述べた意見に真っ向から反し、彼らの考え方を誤診であると断定し、本校は『純正美術』の開発のみに全力を注ぎ、工芸部門は排除すべきであると主張した。(この黒田の行動は彼が明治17年よりパリヘ留学していたという経緯から見て、西洋的概念に感化されてのことと言えよう)そして文部省専門学務局長の上田万作と工芸分離の準備を始めていたが、中途で断念している。(関係事項については大村西崖が時事日報明治32年8月7日に執筆している)もし工芸科自身が技術の伝承のみに執着し続けていたとしたら、彼らの様な工芸分離主義者的思想を持つ人々により、美術学校から工芸科は排除されていたと考えられる。
純正美術と工芸の関係がそのようであった時代に、職人(工人)と美術学校の金工科との関係はどうであったか。技術的に隔たりは当初存在せず、また指導者も工人(世の中で言う美術家ではなく、打ちもの師や刀鍛冶)であった為、当たり前のように両者間には交流が存在していた。因みに金工協会が明治33年に発足。大正初めに三分し、その中の一つであった鍛金懇話会が鍛金における交流であり、大正13年に鍛金協会となったのである。後に職人達と工芸家達との考え方の隔たりが生まれ広がり衰退へと向かうまで続く事となる。
昭和前期(此の調査研究に於いて多くの証言を下さった三井安蘇夫氏が美術学校に入学した頃)鍛金科はここまでに述べた明治期の延長であり、下地師のイメージから抜け出ぬ、また平田松堂・石田英一・津田信夫などの技術の伝承に優れた指導者達が教授・助教授であった時代である。
ここまでが明治末期から戦前の流れとなる。
*1 現在『鍛金』技法は大きく二つに大別される。一つは塊材を叩き成型する「鍛造」 (鍛治物)、一つは、圧延した板材を叩き成型する「絞り」(打ち物)である。
*2 金子清治『日本工芸史沿革』昭和11年3月共立社
*3 東京芸術大学百年史第一巻
*4 平田家は初代禅之丞のもと江戸中期に興り(甲冑師であったようである)、徳川後期に金銀神器を作り幕府御用打ち物師となる。明珍派・長寿斎派と共に古来の鍛金技術伝承の重要な役割を果たす。宗幸は五代金之助の養嗣子である。
*5 香取秀真『日本金工史談』昭和16年桜書房
*6 ロウギン別名『四分一』 Cu3:Ag1の硬い銅合金
*7 明治23年4月9日付
参考資料
金子清治『日本工芸史沿革』共立社
香取秀真『日本金工史談』桜書房
香取秀真『日本金工史』雄山閣
藤本長邦『鎚起の沿革』日本鍛金工芸会
村田哲朗編『東京芸術大学関連年表』
『東京芸術大学百年史 第一巻』ぎょうせい
造形技術としての『鍛金』の周辺
その1 東京美術学校・明治から昭和
関井一夫・田中千絵
はじめに
この研究は、作り手である鍛金家として、自らの制作の根源である『鍛金』の歴史的系譜を調査しようと試みたものである。
『鍛金』という一般的に耳慣れない工芸ジャンルは、近年少数の作家達によりマスメディアの中に活字・映像というかたちで現れ出してきた。しかしその認識はいまだマイノリティーの域を脱するものではない。我々が知る限り、我が国の「打ち物技術」は世界に誇り得る現存する技術であるにも関わらずである。
我々は母校である東京芸術大学に於いて初めて鍛金という造形技法にふれたが、東京芸術大学の前進である東京美術学校が、我が国に於ける鍛金「打ち物」技術の伝承・保存・展開に大きく関わってきた(もしくは東京美術学校なくしては我が国の鍛金技術や現在の鍛金家の存在さえも危ぶまれた)事実を知ることになった。
今回は、我々の共同研究調査及び、美術教育研究会第二回研究大会(平成8年11月2日)に於いての田中千絵による口述発表『大学に於ける技術と造形の教育及びその周辺-鍛金という技術をめぐって-』を基に、追加研究し文章化したものである。
平成9年9月30日
なを以下の研究調査は東京芸術大学名誉教授である鍛金家・三井安蘇夫氏在学中(昭和27年~53年)の事項に関しては、去る1996年7月30日、三井安蘇夫氏宅にて行われたインタビューの内容に基づくものである。
日本の誇れる技である『打ち物』は、昔奈良時代以前は銅師(あかがねし)と呼ばれる人々の仕事であった。その術に工芸技法の分類に於ける『鍛金[*1]』という名称が与えられたのはかなり最近であるらしく、明治以降とも言われている。そこで鍛金技術の歴史的検証を目的に、明治期及び戦中戦後の鍛金技法の実態とその土壌の調査を進めるにつれ、東京芸術大学という教育機関がこの技法の発展及び造形技術としての展開に多大な影響を及ぼした事が明らかになってくる。
先ず明治維新後の金工全体の流れを見てみたい。銅器・青銅器とも海外輸出品の一つとなり、京都・大阪・東京・富山・新潟・石川などで盛んに産出されていた。特に打ち物に関しては、大阪に前代より住友の製錬所があり銅板・銅製品が産出されていたが、維新後は一層生産が盛んになる。しかし美術品の産地となると京都・東京・金沢が中心で、京都では装刀工(刀の装飾に携わる工人)を集め銅製篭式のような物が生産・海外に輸出されていた。また東京に於いては様々な金工家が腕を競っており、彫金の象嵌の技にたけた加納夏雄や海野勝民などは後にその腕を買われ東京美術学校の彫金科の指導者となる。銅器としては埼玉県松山の岡野東龍斎の弟子の鈴木長吉(パリ万博に孔雀雌雄を出品)が名を成していた。しかし、どちらにせよ東京の金工が発展したのは、起立商工会の力と東京金工会・鎚工研究会なるものの起こりに頼るところが大きい。金沢は加賀象嵌と称する装剣具や鎧などを創る職人が元来多く、維新後も名工と呼ばれた人たちに、水野源六・山川孝次などがいる。彼等を中心に金沢銅器会社が起こり仏国・米国などに輸出し隆盛をきわめたが、明治16年輸出を担当していた人物が事業を中止(理由不明)。これを機に衰退。金沢市内で日用品を創るほどになってしまう。また大聖寺と言う所には、山田長三郎という面頬師(兜の顎・頬を覆う部分を鉄を素材として打ち・絞り出す)の家柄末期の職人がおり、鉄で頬当などを創る流れの仕事をする者で、花瓶や香炉などを創る以外に動物や鳥を鉄またそれ以外の金属を用いて創ることを得意としていたが若干46歳にて他界。後継者については存在するようだが特に取り上げて技術を伝承・発展させたという事実は見当たらない。その他、高岡では輸出品の生産が盛んで長く続き、また国内向けには開義平・民野照親などが精巧な品を産出。以来高岡は銅器鋳物に於ける一大産地となっている。また、新潟燕町(市)では文政12、3年頃から玉川覚治郎(玉川堂と呼ぶ)が京都で修業した後、厨房用の割烹具打ち物の製造販売を始め、二代目に至っては銅器・銀器で茶具やその他の装飾具・文房具類を生産。同業者もこれに習い地場産業として流行り、維新の波に一時期衰退はしたものの盛運をきわめる。しかし明治18・9年に衰賓に傾き21年頃には少々回復したが、玉川堂(玉川覚治郎)は昭和の初め横浜に移住したと金子清次の著書『日本金工史沿革[*2]』に記している。現在も燕市にはその流れの玉川堂があり日本各地に銅・銀等の打ち物(やかん・茶托など)を送りだしている。
さて、そのような時代に(明治20年)東京美術学校・美術工芸科(金工・漆)が創設されるのだが、フェノロサや岡倉天心は当時「日本では古来、美術と工芸とは一体のものとして発展してきたのであるから、西洋のように美術と工芸に優劣を付けて区別することはせず、自国の良き伝統を生かして将来も両者を総合的に発展させるべきである。[*3]」と考えていた。
明治28年に鍛金科を開設するにあたって、天心は鉄の仕事も銅の仕事も取り入れ日本の誇る刀剣技術と打ち物(あかがね)師の技術の伝承を目的とし指導する方向であった。どちらかというと(かなりの比重で)刀剣類を美術学校内で打たせることを目的としていた。これは先の日清戦争後の刀剣類に対する再評価の機運に乗じたものとする見方があった事が当時の新聞(明治28年6月3日報知新聞)から考察される。しかし、明治4年に既に廃刀令が出ていることもあり、時代錯誤であるという周囲の意見などにより実現せず。鍛金科の指導者としては準備段階から刀鍛冶の桜井征次(天皇銀婚式献上太刀の制作などに関わった人物)を嘱託としていたが、指導者として28年に平田宗幸、30年には藤本万作が呼ばれ(両者とも平田派の打ち物師)、以来美術学校またそれに続く東京芸術大学の鍛金科は、平田派[*4]の流れを汲むこととなる。
「美術学校の工芸部からはじめて卒業生を出したのは明治27年3月からで(当時はまだ鍛金科は無かったが)それらが頭角を現して工芸界から認められかけたのは明治末期から大正にはいってからで、美術の隆盛につれて知られかけたのであるが、何れも15年20年の研究を積んだ後のことで、絵画や彫刻と違った技巧のこそを築かなくてはならぬ用意を要したのである。」と香取秀香は著書である『金工史談[*5]』のなかで述べている。また工芸各科の概略として鍛金について「槌起工は専ら彫金科の下地の花瓶を鎚鍛して足りとしていた様で、その替わりに朧銀[*6]の如き困難なものも鎚起しうる有様であった、鈴木翁斎・同長二斎などがいた。其の間また切嵌を以て有名な黒川勝榮(大正6年卒)があり、専ら鐵を用いて動物の全形を鎚出して空前の奇工の加賀の山田長二郎宗美(大正5年卒)があり、平田重光・平田宗行(大正9年卒)は銀銅の鎚起で名を成し、門人が今に多い。鎚起は大いに発展すべくして遂にせづに終わった状態である。」と考察している。つまり技術の伝承と保存においては素晴らしいものもあったが、発展・進歩という意味においては彼の期待ほどではなかったらしい。
この様に技術の伝承・保存中心の指導で、しかも世の中の工芸界に頭角を出すまでに、短期間では成せる技ではないものを専門とする(鍛金を含む)この工芸部に関して、美術として認めたがらぬ人間も現在と同様存在した。明治32年黒田清輝は『美術教育に関する意見書[*7]』で『美術と工芸とに厳正なる分離をなすべし』という一項を掲げている。美術学校創設の際のフェノロサや天心の述べた意見に真っ向から反し、彼らの考え方を誤診であると断定し、本校は『純正美術』の開発のみに全力を注ぎ、工芸部門は排除すべきであると主張した。(この黒田の行動は彼が明治17年よりパリヘ留学していたという経緯から見て、西洋的概念に感化されてのことと言えよう)そして文部省専門学務局長の上田万作と工芸分離の準備を始めていたが、中途で断念している。(関係事項については大村西崖が時事日報明治32年8月7日に執筆している)もし工芸科自身が技術の伝承のみに執着し続けていたとしたら、彼らの様な工芸分離主義者的思想を持つ人々により、美術学校から工芸科は排除されていたと考えられる。
純正美術と工芸の関係がそのようであった時代に、職人(工人)と美術学校の金工科との関係はどうであったか。技術的に隔たりは当初存在せず、また指導者も工人(世の中で言う美術家ではなく、打ちもの師や刀鍛冶)であった為、当たり前のように両者間には交流が存在していた。因みに金工協会が明治33年に発足。大正初めに三分し、その中の一つであった鍛金懇話会が鍛金における交流であり、大正13年に鍛金協会となったのである。後に職人達と工芸家達との考え方の隔たりが生まれ広がり衰退へと向かうまで続く事となる。
昭和前期(此の調査研究に於いて多くの証言を下さった三井安蘇夫氏が美術学校に入学した頃)鍛金科はここまでに述べた明治期の延長であり、下地師のイメージから抜け出ぬ、また平田松堂・石田英一・津田信夫などの技術の伝承に優れた指導者達が教授・助教授であった時代である。
ここまでが明治末期から戦前の流れとなる。
*1 現在『鍛金』技法は大きく二つに大別される。一つは塊材を叩き成型する「鍛造」 (鍛治物)、一つは、圧延した板材を叩き成型する「絞り」(打ち物)である。
*2 金子清治『日本工芸史沿革』昭和11年3月共立社
*3 東京芸術大学百年史第一巻
*4 平田家は初代禅之丞のもと江戸中期に興り(甲冑師であったようである)、徳川後期に金銀神器を作り幕府御用打ち物師となる。明珍派・長寿斎派と共に古来の鍛金技術伝承の重要な役割を果たす。宗幸は五代金之助の養嗣子である。
*5 香取秀真『日本金工史談』昭和16年桜書房
*6 ロウギン別名『四分一』 Cu3:Ag1の硬い銅合金
*7 明治23年4月9日付
参考資料
金子清治『日本工芸史沿革』共立社
香取秀真『日本金工史談』桜書房
香取秀真『日本金工史』雄山閣
藤本長邦『鎚起の沿革』日本鍛金工芸会
村田哲朗編『東京芸術大学関連年表』
『東京芸術大学百年史 第一巻』ぎょうせい