◆FINGER SHEET -関井一夫作-
◆「板人間」 1999 再生 -関井一夫作-
◆「NIGHT MARE」 -関井一夫作-
1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。
関井一夫の手-再び素材論に向けて- 橋本真之(鍛金作家)
1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。
関井一夫の手-再び素材論に向けて- 橋本真之(鍛金作家)
関井一夫という鍛金作家について論評する人がもっと現われても良いと思えるのに、仲々語られ難いのは、技術的問題の言表が困難なところがあるからに違いない。他の工芸技術の世界にも言えることだが、鍛金が客観的な俎上に乗せにくい状態であることは好ましいことではない。現状では、私のような者が筆を取らねばならないのも、止むを得ないのかも知れない。関井一夫は私に近い場処にいて、学生時代の仕事から見ていた。その一貫して人体をモチーフとした仕事ぶりに、私は心動かされるところがあった。関井が困難な展開の道筋をたどっている姿は、同業の者として他人事ではなくて、私の仕事と別に何が鍛金に可能かを考えると、関井の仕事の展開がいつも頭に浮んで来る。そして、彼の仕事ぶりなしには、鍛金の世界は装飾性のくびきを離れにくかったに違いないと思えるのである。この事が人々にどれ程認識されているのだろうか?
金属を金槌でたたいて形作る鍛金の方法で、人体を作り続ける困難を想像して見れば、その薄い金属板の内部に空洞をかかえこむ仕事が、塑造における道筋や、石や木を彫り刻む道筋とは、別の経路を取らざるを得ないことを納得できるに違いない。関井の方法は鍛金技術における「変形しぼり」と呼ばれる方法である。明治期に加飾技術である彫金の、その下職に甘んじていた打ち物師達が、そのコンプレックスから抜け出るために技術上の誇示が必要だった時代には、この変形しぼりによる鍛金が精緻を極めて、金属を接合せずに一枚の金属板をたたいて置き物を作っていた。そうした小世界を誇示した明治期の技巧主義を抜け出たところに、金属の接合そのものを積極的に装飾的構造とした三井安蘇夫が居る。この積極的接合が私を含めた後進を陰に陽に刺激して、様々な可能性を開いたのである。この三井安蘇夫の功績は記憶されねばならない。(注1)関井一夫はそうした鍛金が現代性を得ようとしていたさなかに自己発見していったために、鍛金の原理に目を向けて自らを構築する姿勢を取らざるを得なかったのに違いない。一方で関井が鍛金史に関心を深めて行ったのも、自身の姿勢の客観的な裏付けを必要としたものだろう。関井の朔行の姿勢は「変形しぼり」のもつと先に目を向けたが、「湯床ぶき」(注2)という方法で銅塊を吹き、それを鍛造して銅板を得るという、あえて迂遠な道を行こうとするのである。
関井一夫が伝統的に彫刻家達がモチーフにして来た人体に固執するのも、彫刻の様々な方法でなくて、あえて工芸の鍛金に根拠を置く上での、その造形の差異を明確にする立脚点のひとつでもあるのに違いない。造形作家にとって、方法はその自由度によって優劣が生じる訳のものではないことを示す上で、関井一夫の姿勢は示唆に富んでいる。おそらく生半可な力で関井の後を追えば、その馬脚をあらわすこと必定の道である。要は作家の力の問題なのである。近年の欧米の工芸評論の退脚姿勢の基にあるのも、自由度にはかりの基準を置くことを優劣の問題と取り違えているために他ならない。問題はそれぞれの方法の「困難」を、自らの造形思考の根拠とし得るかどうかにかかっているのであって、結果のために最短距離を走る簡便な合理性にある訳ではないのである。
関井には人体を何故作るのかを表明した公のものがあるのだろうか?関井は青年期の早い時期、アルバイトに形成外科の医学用シェーマ(術式図)を描いていた強い印象が彼をとらえたと語るのだが、人間を解剖学的に図示する仕事の中で、その手術を見続けた関井の視線に、私は興味を覚える。
関井一夫の受験時代の油土による自らの左手の模刻を見たことがある。ほぼ実物大に作られた油土による手は、ひとつひとつのしわまで刻明につくられたものだったが、彫刻における造形的省略と誇張の素養よりも、見ることと造ることの密着に固執した、その粘着質の造形を見た私に、関井のモダニズムの中に居ようとしない異質な神経を思わせたのである。私はその手を見た瞬間、幼年期によく通院した女医の診察室を思い出した。気品のある豪奢な顔立ちをした女医だった。その診察室のガラス戸棚にあったホルマリンづけの少年の手首を思いださせられたのである。黄色くなった小さな手首はすでに崩壊が始まっていた。うわの空で診察されながら、注射器を見ても、その断たれた手首の存在が私をおびやかして、痛みも小さなものに感じるのだった。関井の手首は私の記憶を瞬間に思い出させたが、その異様に真正直な再現が私を刺激した時、その形の質が関井本人の照れたような若い素朴な顔と似つかわしくなくて、私は言葉を失なった。
関井一夫は芸大生時代から助手を経て、身辺が忙しくなるまでの間、シェーマを描くアルバイトを続けた。関井の仕事の形質が若い時代のアルバイトに刺激されていたということが、現在の私の感覚的観照を左右しているのだろうか?けれども受験時代の油土の模刻作品に現われていた形質が私を刺激する様は、後にたずさわることになるアルバイトの影響とは無関係であろう。むしろ関井自身がそのアルバイトを引き寄せたというのが正しいのである。関井がそのアルバイトを得る時、他に二人の候補者がいて、手術の様子を見せられた後、昼食に鮪寿司が出されたが、他の二人は寿司に手をつけることが出来なかった。形成外科の医師が関井をシェーマ(術式図)を描く画家として選択する時、すでにその仕事に耐える客観的視線を持つ神経に恵まれていたということだろう。
関井一夫の資質が、後の鍛金技術や素材との関わりの中で形成されていったものが、相乗効果となって、初期の一種異様な関井作品の形質を現成させたに違いない。けれども、その後の展開を見ていると、細部への神経によつて形成して来たものが、次第に様式化して行くのが見えるだろう。繰り返される形を、自らの手中に入れたと思える時期が来た時、方法と視線は熟練と共に上すべりを始める。関井一夫が危険な曲がり角で、板状の金属と人体形との連続する在り方、「板に帰る」と前後して、塊から板にたたき出し人体形を作ろうとする、両極の困難な方角に向かったことは、彼の大転換だったに違いない。関井が困難な隘路に向かって何を見い出すことになるかは、まだ未知の問題だが、それが一見して原初に向かっているように見えながら、その実、鍛金の未来にあるものを照射しているように思える。すなわち、そこに見えるのは金属板と金属塊の間に人体形があえかに存在するという「鍛金質」の形の成り立ちの顕在化であり、おそらく関井がその往還を繰り返す中で見い出すべき形質が、空ろな様式化に落ち入らずに、何処に向かうことが出来得るかが、彼の最重要な課題なのである。
そしてもうひとつは、様々な後進を触発することになるに違いない「湯床吹き」から引き出されて来るべき、素材の創出の問題である。実のところ、素材論の根本はそこになければならないと私は考える。おそらく、今日の造形家に欠けている最大の問題がそこに横たわっていて、素材そのものを自らのために創出するという考えが、とうの昔に忘れ去られていて、素材は他の研究者か、あるいは企業が創ってくれるのを待っている始末なのである。これが今日の造形を安易に向けて突き落としたことを理解している者は少ない、というより皆無に近いのではなかろうか?しかし、この道には特許染みた落とし穴も用意されていて、下手をすると再び旧弊の工芸世界に舞い戻る息苦しいことになるのである。関井一夫はそうした落とし穴をさけて通るに違いないが、あとを行く者の資質がいかなるものかは、図り知れないことである。
(注1)「三井安蘇夫」(1910~1999)東京芸大の鍛金科において繰り広げた鍛金の指導における革新はACF誌上における関井一夫と田中千絵の研究にくわしい。
三井安蘇夫は今年3月25日永眠した。(享年88歳)
(注2)「湯床吹き」お湯の中に帆布(はんぷ)もしくは足袋裏(たびうら)を張った床を沈め、その中に溶解した銅合金を流し込む事でガス抜きを行い、気泡を含まない打ち延べに適した純度の高い銅合金塊を得る為に、古来から伝承されてきた精錬技法。(関井一夫による定義)
三井安蘇夫は今年3月25日永眠した。(享年88歳)
(注2)「湯床吹き」お湯の中に帆布(はんぷ)もしくは足袋裏(たびうら)を張った床を沈め、その中に溶解した銅合金を流し込む事でガス抜きを行い、気泡を含まない打ち延べに適した純度の高い銅合金塊を得る為に、古来から伝承されてきた精錬技法。(関井一夫による定義)