◆ONSIN 1997 榛葉莟子
1999年6月1日発行のART&CRAFT FORUM 14号に掲載した記事を改めて下記します。
未完成であること 榛葉莟子
パチパチパチと、近くで音がした。何だろう 耳をそばだてる。なにかが燃えている。あわてて外をのぞく。枯れた原っぱから炎が勢いよく立上っていた。人の姿が見えた。そうか、今日は野焼きの日だ。野焼きの知らせの回覧を思い出し妙にほっとして窓を閉めた。夕方、あたりをぶらぶら歩いて行くと香ばしいような、何か懐かしい匂いがあたりにたちこめている。焼かれた土手の、四方八方に拡がる黒々とした横長の斜面の重なりが美しい。そしてそこから、くすぶる白い煙が立ちのぼり、あたりの風景は薄白い膜に包まれているように見える。野焼きは言うまでもなく、土の新陳代謝をよくし植物の発芽を云々……と聞いている。薄白い膜の中、香ばしい匂いを吸い込みながら歩いていると、ふと、胞衣に包まれた胎児の映像が浮かんだ。それからは、まるで早送りのフイルムのように、黒い土手の斜面も何もかもがみるみる再生変容する柔らかな色彩風景。なかでも光りにも似たたんぽぽのまあるい黄色がいっそうまぶしく眼に飛び込んでくる。匂い、色、形、音、動き、それらが不可思議な糸に結ばれながら確実に新しい春が巡ってくる自然の周期。当たり前の背後のリズムの不思議をまた想う。
ピーヒャラピーヒャラ笛の音が聞こえてくる。村の鎮守のお祭りだ。私の住まいは静まりかえった神社の境内と地続きで、丈高く茂る木立の間に間に小鳥がさえずり交わしていたり、子どもたちのかくれんぼの声が遠く近くに聞こえてきたり、たまにお参りの人の拍手を打つ音が聞こえてくるくらいのものだが、お祭りの日の境内はいっきに花開く。さして広くはない境内に、朝早くから、いくつかの出店がどこからともなくやってきて、さまざまな原色の色彩にあふれはじめ祭り舞台は整っていく。神楽殿では衣装を纏った村の男衆の笛や太鼓が、ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッと奏ではじめ、素朴な神楽を舞う艶やかな錦織の衣装の舞い人が現れる。毎年雨ふりの天気に恵まれないお祭りだった。いつだったかそのことをふと口にした時、おばあちゃんが言った。いいだよ、ここは水の神さんだでね。その事を初めて知った時、何か合点の雫がぽとりと胸の奥とつながったような気がした。それはここ鎮守の森の傍らに暮らすようになったある夜、ざざざー、ざざざーと夢見心地の耳に潮騒の響きを聞いて眼が覚めた。その潮騒の音が鎮守の森を揺さぶる風の仕業とわかっても、その時の今、自分の奥深くのさざなみの響きと共振し呼び出されたのかもしれない。その時鎮守の森は海だった。
午後からは学校が終わって、おこずかいを握り締めた子供達の歓声が混じりはじめ、はちきれんばかりの境内になった。この日、空は今にも雨が落ちてきそうな曇天だった。
ガラス窓を境のこちら側で私は仕事の手を動かしていた。ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッ……繰り返し繰り返し波のように連なって聞こえてくる音色に自然と身体がリズムに添って行く。自然に拍子をとっている。あの野焼きのように何かエネルギーを注入されているようだ。こぬか雨になった。ガラス窓の向こうには、はちきれんばかりの祭りのざわめきが夢の出来事のように消えてなくなり、ひっそりと鎮守の森は闇夜に包まれている。私の耳の奥に残りたまっている笛の音を紡ぎ出し声にしてみる。ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッ…… するとカタカタッと小さくガラス窓が音をたて拍子をとった。ひょいといま、転写の文字が浮上した。結局は何でも転写と言えるのではないだろうか。と、考えがやってきた。版画やフロッタージュの製作方法の説明に転写の言葉を使っていたけれど、いま、そこに含まれる意味が膨らんで、大げさに言えば宇宙とヘソノウがつながっている実感といったらいいだろうか。了解と言ったらいいのだろうか。常に宇宙と交信していることになる。それが常に予感としてやってくる曖昧模糊としたイメージ、けれども確かなそれとしか見えようのないもの、どうしても、という誘惑に乗って引っ張られていく。そして形や色を産みだしながら、自分語の翻訳作業が頭の片隅ではじまっていく。丸ごと全体の自分を通してそうしたいように、そうするしかない訳で、その途端すでに先端に待機しているなにかが手招きしているのだから、終って始まる巡りでもありいつだって果無い遠方へずれていく未完成の転写の連続ということになるのではないのかしら。
1999年6月1日発行のART&CRAFT FORUM 14号に掲載した記事を改めて下記します。
未完成であること 榛葉莟子
パチパチパチと、近くで音がした。何だろう 耳をそばだてる。なにかが燃えている。あわてて外をのぞく。枯れた原っぱから炎が勢いよく立上っていた。人の姿が見えた。そうか、今日は野焼きの日だ。野焼きの知らせの回覧を思い出し妙にほっとして窓を閉めた。夕方、あたりをぶらぶら歩いて行くと香ばしいような、何か懐かしい匂いがあたりにたちこめている。焼かれた土手の、四方八方に拡がる黒々とした横長の斜面の重なりが美しい。そしてそこから、くすぶる白い煙が立ちのぼり、あたりの風景は薄白い膜に包まれているように見える。野焼きは言うまでもなく、土の新陳代謝をよくし植物の発芽を云々……と聞いている。薄白い膜の中、香ばしい匂いを吸い込みながら歩いていると、ふと、胞衣に包まれた胎児の映像が浮かんだ。それからは、まるで早送りのフイルムのように、黒い土手の斜面も何もかもがみるみる再生変容する柔らかな色彩風景。なかでも光りにも似たたんぽぽのまあるい黄色がいっそうまぶしく眼に飛び込んでくる。匂い、色、形、音、動き、それらが不可思議な糸に結ばれながら確実に新しい春が巡ってくる自然の周期。当たり前の背後のリズムの不思議をまた想う。
ピーヒャラピーヒャラ笛の音が聞こえてくる。村の鎮守のお祭りだ。私の住まいは静まりかえった神社の境内と地続きで、丈高く茂る木立の間に間に小鳥がさえずり交わしていたり、子どもたちのかくれんぼの声が遠く近くに聞こえてきたり、たまにお参りの人の拍手を打つ音が聞こえてくるくらいのものだが、お祭りの日の境内はいっきに花開く。さして広くはない境内に、朝早くから、いくつかの出店がどこからともなくやってきて、さまざまな原色の色彩にあふれはじめ祭り舞台は整っていく。神楽殿では衣装を纏った村の男衆の笛や太鼓が、ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッと奏ではじめ、素朴な神楽を舞う艶やかな錦織の衣装の舞い人が現れる。毎年雨ふりの天気に恵まれないお祭りだった。いつだったかそのことをふと口にした時、おばあちゃんが言った。いいだよ、ここは水の神さんだでね。その事を初めて知った時、何か合点の雫がぽとりと胸の奥とつながったような気がした。それはここ鎮守の森の傍らに暮らすようになったある夜、ざざざー、ざざざーと夢見心地の耳に潮騒の響きを聞いて眼が覚めた。その潮騒の音が鎮守の森を揺さぶる風の仕業とわかっても、その時の今、自分の奥深くのさざなみの響きと共振し呼び出されたのかもしれない。その時鎮守の森は海だった。
午後からは学校が終わって、おこずかいを握り締めた子供達の歓声が混じりはじめ、はちきれんばかりの境内になった。この日、空は今にも雨が落ちてきそうな曇天だった。
ガラス窓を境のこちら側で私は仕事の手を動かしていた。ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッ……繰り返し繰り返し波のように連なって聞こえてくる音色に自然と身体がリズムに添って行く。自然に拍子をとっている。あの野焼きのように何かエネルギーを注入されているようだ。こぬか雨になった。ガラス窓の向こうには、はちきれんばかりの祭りのざわめきが夢の出来事のように消えてなくなり、ひっそりと鎮守の森は闇夜に包まれている。私の耳の奥に残りたまっている笛の音を紡ぎ出し声にしてみる。ピッピッピーヒャララ、テンテケテンテケピーピッ…… するとカタカタッと小さくガラス窓が音をたて拍子をとった。ひょいといま、転写の文字が浮上した。結局は何でも転写と言えるのではないだろうか。と、考えがやってきた。版画やフロッタージュの製作方法の説明に転写の言葉を使っていたけれど、いま、そこに含まれる意味が膨らんで、大げさに言えば宇宙とヘソノウがつながっている実感といったらいいだろうか。了解と言ったらいいのだろうか。常に宇宙と交信していることになる。それが常に予感としてやってくる曖昧模糊としたイメージ、けれども確かなそれとしか見えようのないもの、どうしても、という誘惑に乗って引っ張られていく。そして形や色を産みだしながら、自分語の翻訳作業が頭の片隅ではじまっていく。丸ごと全体の自分を通してそうしたいように、そうするしかない訳で、その途端すでに先端に待機しているなにかが手招きしているのだから、終って始まる巡りでもありいつだって果無い遠方へずれていく未完成の転写の連続ということになるのではないのかしら。