ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

造形論のために『方法的限界と絶対運動④』 橋本真之

2017-04-17 09:48:13 | 橋本真之
◆橋本真之 「ラ・ベールの木のために」 1988年設置

◆橋本真之「連鎖運動膜(内的な水辺)」 1994年設置 (作品129)

空間変成論(1985~)
1986
■筑波国際環境造形シンポジウム(つくば市)

1987
■上尾市民ギャラリー(埼玉・上尾)

1987
■未発表

1988
■ギャラリー21(東京)

1988
■野外の表現展(埼玉県立近代美術館)

1989
■オーランド個展(埼玉・蕨)

1991
■野外の表現展(埼玉県立近代美術館)

1993
■大分現代美術展(大分)

1994
■かたちとまなざしのゆくえ(川崎 IBM 市民ギャラリー)

1994
■上尾市民ギャラリー(埼玉・上尾)

1994
■アートスペース虹(京都)

1994
■東京テキスタイルフォーラム(東京)

1995
■今日の作家展(横浜市民ギャラリー)

1995
■第16回現代日本彫刻展(山口・宇部)

1999
■宇部ときわ公園(山口・宇部)

2003年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 30号に掲載した記事を改めて下記します。


 造形論のために『方法的限界と絶対運動④』 橋本真之

 奥野憲一さんに出会ったのは、お茶の水画廊で開いた私の個展に、鍛金の関井一夫さんが連れだっていらしたのが最初だった。'86年当時、奥野さんは渋谷西武の商品部にいた。七階にあった工芸画廊の企画をしていて、関井さんの最初の企画展を開く予定でいたのだった。夜七時過ぎに個展会場を閉めた後、集まっていた皆で聖橋付近のガードの飲み屋に行った。下地が出来ていた上にワインを相当飲んだ。奥野さんと面と向かった会話は、またたく間に口論になってしまった。話の内容は今ではおぼろ気な記憶だが、工芸論だったことは確かだ。時代を動かしそうな男だと思ったが、この人との出会いもこれで終わりか……と思いつつ別れた。ただ関井一夫さんには「口論になってしまったが、面白いよ…」と話してはいた。京都のオープニングでは、私は著名な建築家の息子だという無遠慮な観客の睥睨に耐えかねて、その狐面の男の衿首つかんで突き飛ばしてしまう失態を起こしていたばかりであったが、私にとって、この発表は自らの生を同時代に激突させるべく賭けた発表だったのである。1986年、その年すでに私は満39歳になろうとしていた。

 アートスペース虹とお茶の水画廊での連続個展は、少数だが訪れた人々を動かした。美術雑誌やデザイン雑誌、工芸雑誌の展評で扱われたり記事になったりもした。それらの署名入りの批評を読んで、鍛金の仕事が明確に理解されているとも思えなかったが、それでも私の仕事が現代の美術としてようやく正面から扱われたという実感を持つことが出来た。その年の暮だったか?関井さんの個展が渋谷西武工芸画廊で開かれて、オープニングパーティに出かけたが、その時、意外にも奥野さんから私の個展企画の話しがあった。奥野さんの企画で、関井さん始め新しい工芸作家達が次々と企画に乗って登場していた。時はバブル経済の最高潮にあった。おそらく、この威勢のよい時期の西武に奥野憲一さんが居て、工芸の現在を加速器にかけ、登場させるべき作家をこの時とばかり登場させてしまわなかったとしたら、その後の冷え枯れた経済状況の中では、工芸のその後はずいぶんと異なった地図を描いていたのに違いない。それ以前の状況を考えれば、私などは別の場処に追いやられていたに違いないのである。

 私は「果樹園-」と平行していくつかの作品を制作していた。筑波での野外展で松の木に設置した展示の後、仕事場に持ち帰ってからの制作展示はニュートラルな室内空間と野外の空間との間を行き来した。この一連の展開は、展覧会ごとの様々な展示環境の変化に向って、積極的に制作の道筋を見い出した顕著な例である。この一連の展開を私は「空間変成論」と呼んだ。またアートスペース虹で「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の総題の下に、壁とかかわって展示した「壁に」や「果実の中の木もれ陽」は分離して樹木と関わるかたちで展開して行った。「壁に」はその年の野外の表現展に「樹木に」として発表した。そして「果実の中の木もれ陽」は翌'87年の「野外の表現」展で埼玉県立近代美術館のレストラン前の青桐にぶら下げるかたちで展示している。これらの「果樹園-」から分離した展開については、後に別項を立てて語る機会もあるだろう。こうして次第に鍛金による造形の展開とその環境との密接な関わりが、明確に私の中で形成する運動のエネルギーとなって行った。今では造形的展開が私の生の展開であると、はっきりと言い得るのも、それなしに私の生の目的意識と手応えを見い出し得ないからである。

 しかし、この事は冷静に考えれば危険な事態でもある。私の造形的展開をささえている倫理の根底が、私の生をささえている世の中の人倫と部分的に重なっているとはいえ、必ずしも私の倫理観が即世の中の人倫の道ではないからである。それでは、この世の中の人倫とは、そもそも何の謂か?すなわち政治社会のルールとしての人倫である。それは、すなわち文化圏が異なれば通用しないルールであるということだ。この絶対的ではあり得ない人倫の中で、あえてルールを守ろうとする意志は、古代ギリシャのソクラテスにとっての「悪法もまた法なり」という強い論理的な意志によってささえられているのと同根である。しかし、死をも覚悟するソクラテスの強度との差は明らかだ。ソクラテスと違って現代の愚劣な生活圏を生きる私の内の分裂した倫理観の相克を見せねばならないだろうか?それはあまりに不快だ。

 造形的展開はその奔流にまかせれば、因習的な世の中のルールを突破する。丁寧に問題を熟視徹底すれば、ルールの根底が揺らぐ事態に至る。そして自らの生をささえる根底もまた揺らぐ事態に至る。私達は何をもって良しとするのか?生きて在ることの、そして、在ったことのヘドロの中で、息を殺して見い出す上澄み。これはプラトンにおけるイデアの対極にあるものだろう。これは天上の真理ではない。今ここに生きている存在の上澄みなのである。この倫理的方位なしに造形的展開の手綱を取ることは出来ないに違いない。この奔流する感覚の統御の道筋を見失なってしまえば、放従な造形は遊戯の破綻に了わる。あるいは因習の生業に了わる。私にとって倫理的方位が世界の根底的動揺の中にあって、自らを律する指針となる他はない。世界の全てが疑わしく成立していて、それが自らの生を守っている。それが生の既制事実だとしても、造形の理路を自らの倫理的願望に結接する道を見い出し得るならば、そこに私の充ち足りた生があるに違いない。さらにこの個人的な充足感を他者と共有することが出来るとすれば、そして生きた時を異にする他者とさえ共有することが出来るとしたら、それが幸福でなくて、他に何を幸福の成就と呼ぶのだろうか?けれども造形の理路と倫理的願望とが結びつく道を見い出せずに、互いに反展するような事態になるとしても、その互いの磁場が干渉する造形運動に私自身の存在のかたちが産み出されることになるに違いない。これを私自身の惑星的存在と呼ぶのである。ここに輝ける一片の光が人々には歓べないとしたら、私は人々の前を通りすぎるだけである。

 「樹木と共に」
 お茶の水画廊での発表の、最も早い時期から見続けてくれていた青山睦子さんが、千葉県の新柏駅近くに画廊「ラ・ベール」を作ることになった時、私に建物に付属して、作品を作る注文をしてくれた。植物と関わるかたちで恒久設置を望んでいた私は、その事を彼女に話すと、快く応じてくれた。子供の頃遊び回った武蔵野の雑木林によく見られた「えご」という木がある。その若木を株立のように5・6本寄せ植えしてもらい、根付くのに一年間待ってもらうことにした。その間、私は作品制作にかかった。翌'88年、その株立ち状のえごの間に作品をねじ込み、株の間に立った状態の設置を了えた。次第に成長して太って来る堅いえごの木に、いつの日にか押しつぶされることを想定した作品である。若木の間にはさまれた作品は、強い風に揺すられて滑らかな樹肌とこすれ合う。こすれて傷ついた樹肌は再生して発達し、作品を押さえ込むような形態になる。また小枝が作品内部に入り込んで、設置の翌年には内部で小さな白い合弁花を択山咲かせた。残念ながら、後に「ラ・ベール」は閉じたが、作品は今もそこに在ってえごの木と共に時を刻んでいる。

 この「ラ・ベールの木のために」という作品が初めて恒久設置できたお蔭で、この私的な企画による前例は、公的な企画で共同住宅が計画された際に、実例として人々を納得させ、私の計画案が受け入れられる大きな助けになったのである。この幸運な成り行きの先鞭をつけてくれた青山睦子さんに、私は深く感謝している。'88年、上尾市の企画で共同住宅「コープ愛宕」が建設され、そのエントランスに一本のケヤキを植樹し、その根元から2・3m上で三っに分れた樹幹の間に作品をはさみ込んだ。ここでも樹木の成長に押しつぶされる作品の将来が想定されている。ケヤキはえごよりも成長が速く、堅く大木に育つ樹種である。この作品は筑波で展示した作品の内のひとつが三叉に組み込まれるように展開したものである。この二点の作品の前例は私にとって重要である。その後の屋外設置の私の作品の殆どが、樹木と関わるかたちなしには、展開の寄り処がなく思われたのは、私にとって一方の事実だが、私の手を離れた作品が樹木の成長によってなおも空間を変質変容させて行くことに、私の作品空間の展開に永続性を見い出したのである。ここに至って、数百年先の未来の人々の目で現在を想像する視線が、はっきりと造形的問題として立ち上がって来た。私には作品空間の変質変容を廻って、この作品と関わった人々の時をへだてた存在が反映し合うかたちで、ここにあえかなコミュニケーションの始まりが起こり得るように思えるのである。1990年代なかば以後、これらの樹木と関わる「空間変成論」の試みは、さらに規模の大きないくつかの成果を見ることになる。宇部市野外彫刻美術館に収蔵設置になった「時の木もれ陽」は筑波以来の展開が長い紆余曲折の末に結実したものである。そして狭山市博物館収蔵設置の「連鎖運動膜(内的な水辺)」もまた筑波での展示の後に展開した作品である。いずれも現在は少し離れた場所に立っている樹木が、いつの日か作品と接触する時が来る。その時点から作品を破壊する程に植物の成長のエネルギーを顕在化すると同時に、私の作品世界の変容の意味が明らかになって形態運動を起こし始めるのである。こうして自然の懐に入って破壊される形態の変容もまた、私の作品世界にとって受容された「運動膜」の将来として見えて来たのである。こうした意味で、樹木と関わる最初の二点の作品は、樹木との接触を基点に出発した変容空間が示されたのであったが、それ以後の作品は接触までの猶余としての時と、接触の後の造形的出来事が、将来の人々に托された問題も含めて、人々を真に揺り動かすことが出来るかどうかにかかっているのである。この植物との共同の変容空間は私の作品世界にひとつの解をもたらした。そこに働いている私の意志の継続が、様々な人々の心の中にひとつひとつ結像して行くのであれば、そこから作品空間の変容を手がかりに、具体的なマテリアルを持った存在世界は互いに感応し得ると、私は確信したのである。この無言の空間のきしみが人々の心の内で時を刻むのを私は見続ける。この運動の遠方で、それはいかなる形を将来することになるのか?私と同時代の観照者はこの同じ場処で、私と肩を並べて見はるかすことになる。こんなかたちのコミュニケーションがポツリポツリと立ち上がる。そして、遠い将来からこちらを見はるかしている人々が居るとすれば、何万光年過去の光を、様々な時空の光を、今私達が同一時空で目にしているのと同様に、存在の交信は、はるかに生き続けることになるはずである。ここに立ち上がるべき倫理的決意なしに、私の愚行はゆるされまい。


《お知らせ》
2003年10月29日~2004年1月25日 埼玉県立近代美術館(常設展示室)にて「アーティスト、プロジェクト①」として「果実の中の木もれ陽」-橋本真之の生成する造形-が開催されます。アーティストトークが11月1日15:00~16:00会場で予定されています。11月1日、常設展示場は入場無料。
 (問合せTEL)048-824-0111 埼玉県立近代美術館


最新の画像もっと見る