◆片面ビロードの帽子 (豊雲記念館蔵)
◆写真1.片面ビロードの帽子 豊雲記念館蔵
[模様糸の固定方法]
◆模様糸をループにして押さえる
◆針先は模様糸の下を通す
◆模様糸を入れない状態で見たところ。
この輪の中に模様糸ループ片方が通る
この輪の中に模様糸ループ片方が通る
◆基糸を引きしめたところ。
一段ごとにループを切り揃える
一段ごとにループを切り揃える
◆写真2.片面ビロードの帯(表側) 豊雲記念館蔵
◆写真2.片面ビロードの帯(裏側) 豊雲記念館蔵
◆写真3.両面ビロード 豊雲記念館蔵
◆写真4.丸紐 豊雲記念館蔵
◆写真5.片面ビロードの帽子 今井勤子 作
◆写真5.片面ビロードの帽子(裏側) 今井勤子 作
2007年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 43号に掲載した記事を改めて下記します。
「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅲ- 上野 八重子
紐・Ⅰ、Ⅱで数種類を紹介してきましたが「さて、次は何を…」と考えてみた時、他にも疑似ビロード、ブレーディング、綴れ織り、多重織り、ビーズ他、多くの技法で飾り紐が作られている事に気付かされました。
そのどれもが多色、鮮色、パターンの自由、限りない労力が詰め込まれており、思わず踏み込んでみたい意欲に駆られます。それでは今回も古代に夢を馳せながら技法を紐解いてみましょう。
◆疑似ビロード(類単一結環組織に切り輪奈)
この技法の呼び方は博物館によって違うようですが、感覚的には毛足の短い絨毯と言った方がイメージが湧きやすいかもしれません。
1988年ペルー天野博物館倉庫で、長年着用してすり切れているものの、角の部分まで形が完全な疑似ビロード帽子(天野博物館の呼び名)を見た時「何てお洒落な子供の帽子!」と思ったものでした。その後、豊雲記念館で見たものも、やはり同じ形で小型のものでした。(写真・1)の様に四隅に尖った四本の角があるこの形は、高位の人物が権威の象徴として用いたとされています。米国・メトロポリタン美術館には角の部分は四辺の耳端があり、型通りに製織され縫い合わされた一枚構成による綴れ織り(ワリ文化8世紀)があります。非常に困難な整経、製織と思われ技術力の高さが窺えます。
このビロード技法は紀元10世紀頃の一期間にのみワリ文化系海岸文化に流行した技法と言われています。ワリ文化…と聞くと思い出されませんか! この連載Ⅱ-②で触れた経糸19本、緯糸104本(1㌢)模様すべてがインターロックの綴れ織りを…この様な「綴れ織りの極致の技」を織りこなす人たちであったればこそ、この根気のいるビロード地も生まれてきたのでしょう。
では、どういう技法なのか…触れてみる事にしましょう。簡単に言うと「結び目を作り、その環の中に模様となる色糸を挟み込んでいく」…と、ごく簡単な技法なのです。が~っ!例のごとく繊細緻密をものともしないアンデス人のやっている事ですから、文明に侵されている(?)現代人にとっては結構大変な作業となります。連載Ⅱ-①で、緻密な展示品を見て「昔の人は時間があったから出来たのよ」と言う声があった事をお話しましたが、ここでもう一度考えてみませんか!
紀元前数世紀に染色、ルーピング、平織り、羅織り、多色刺繍等による衣服を既に作っていた事が出土品から確認されています。電気水道ガス、車もなかった時代ですから衣食住すべてが自給自足だったはず。地理的にも砂漠地域、高山岳地域、亜熱帯地域とどれをとっても簡単に食料を確保出来なかったでしょう。そんな悪条件をものともせず家族総出で農作業をし、投石紐で狩りをし…と、たくましく、忙しく働いていたのでは?と思えるのです。女性といえども楽ではなかったはず。一日の仕事を終え、夕飯を食べたらもう日が暮れて…と、決して時間的ゆとりがあったとは思えないのです。この生活を今の自分に置き換えたら、とても物作りをする余裕など作れない気がするのです。
でも、一つ考えられるのは時間のサイクルが今とは全く違っていたのでは…と思うのです。現代でも芸術、伝統工芸の世界では一作品何年何十年が当たり前かもしれませんが、一般的には時に追われながら作品を生み出している事が多いのではないでしょうか。古代の人々はきっと完成予定日と言うものがなかったのでは?(私の憶測ですが)毎日の積み重ねでやっと完成、それが何年かかったかは?こうなると「昔の人は時間があったから出来たのよ」と言う言葉も当たっているのかもしれませんね。
しかし、自給自足生活も社会の発達と共に産業化され、専業の制度や安定した生活の保障がされるようになってきたようですが、文字の無い文化ゆえ記録と言うものがなく、いつの時代から専業職というものが出来上がったのかは不明なのです。
今から五百年程前、スペイン人による南北アメリカの発見を「新大陸発見」と言っていますが、それは初めてその大陸を見た人の見方であって、南北アメリカ大陸はずっと以前から存在していたのです。そして、そこには外来文化の影響を受けることなく、独創的な文様、色彩、卓越した技術、があり現代人も遠く及ばない高度な文明が栄えていたのです。しかし、侵略という形で入り込んできたたった数百人の人達が持ち込んだ武器、馬、細菌により生き残ったアンデス人は僅かと言われています。
人から人への伝承で技を受け継いできた民族はこれを境に多くの技法が途絶えてしまいました。この侵略がなかったら染織の世界が変わっていたのでは…と思う度に残念でなりません。
さて、大変な作業…と言う話から少々脇道に逸れてしまいましたが本題に戻りましょう。
一般のビロード(輪奈織)は製織中に針金を縫い込み、織り面に輪奈を作ったり、輪奈となる別糸を織り込んで作られていますが、アンデスのビロードは漁網に用いる結びの輪の中に模様となる色糸を挟み込んで切りそろえています(この製織法の違いからビロードの前に疑似がついているのでしょう)
先にメトロポリタン美術館収蔵、一枚構成の綴れ織り帽子を取り上げましたが、それは仕上げるのに非常に困難であった事から、海岸地域では日頃親しんでいる漁網の結びからヒントを得て、「綴れの様な多色模様の帽子を作るぞっ!」と強く思ったのでしょうか?この結びを利用する事でいくつかのメリットも生まれてきました。
古代アンデス人の素晴らしさは「真似をする事」ではなく「見たものから全く違う技法を編み出す」この独創性につきると思います。現代の物創りとして、この精神は常に無くしてならない事であり、古代アンデス人に「学ぶところ大」と言うところです。
1)結びから次の結びの間には若干ループ状の ゆとりがある為、出来上がった時に伸縮性の ある帽子となります。着用した時にピタッと して、きっと頭に馴染みやすかったことでし ょう。
2)又、強撚糸で強く締める事で丈夫な基布と なり、模様糸も抜けにくくなる訳です。
3)差し込んだ模様糸を数㎜に切りそろえる事で、 表面が毛皮の様な柔らかさとなり、布とは違う感 触に魅了され流行したと思われます。
実際に自分で作ってみて伸縮性がある事がわかり、故に出来上がりが小さくてよいのだ…と自分なりに納得しているのですが…他に帽子が小さい理由として考えられるのは、体型が今より小柄だったのでは?とか、高貴な人の墓からは頭蓋骨の変形(頭が縦長等)も見られる事から察し、頭が細かったのでは?とか。でも本当のところは?と言うところでしょうか。
◆3種類の疑似ビロード
大きく分けてビロードには三種類あります。
1)片面ビロード(写真1、2)
模様段と結びのみの段を交互に行います。
2)両面ビロード(写真3)
毎段模様糸を入れます。
1段目=模様糸表に、2段目=模様糸裏に。
3)丸紐(螺旋状)ビロード(写真4)
東京テキスタイル・アンデスクラス生にこの技法に興味を持った方がいて、試行の上アンデス品に引けをとらないところまで出来上がりました(写真5)。筒平型の上部分はケーキを切った時のような3角形に作って接ぎ、周り部分は4枚を接いであります。資料本には「最後に切りそろえます」とありましたが、実際にはそれでは毛足が揃わず、模様の輪郭もはっきりしないという事で、1段ごとに3~4㎜程度に切っていったそうです。最後に彼女曰く「時間がかかる~1日に何段も出来ないのっ!」
でも、その根気の中から何かが生まれている筈!無駄な時間は何もないと思うこの頃です。 つづく