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造形論のために『方法の理路・素材との運動⑤』橋本真之

2017-01-01 10:43:52 | 橋本真之
◆橋本真之 作品105~110「運動膜」、鉄、1973-1976年制作

◆橋本真之  
左「扇状運動」 鉄  1972~1973年制作
右「上昇運動」 鉄  1973年制作

◆橋本真之  作品101「外展運動(Ⅱ)」 銅   1973年制作

◆橋本真之  作品102「内展運動」  銅   1973年制作

2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。


造形論のために『方法の理路・素材との運動⑤』 橋本真之
 鉄をなめると血の味がした。少年にとって、鉄はずっしりとした手ごたえが愛着を誘う存在である。少年時代の感覚は、知識よりも先に奇妙なものを嗅ぎ取る。子供の頃遊んだ、床の抜けた祖父の仕事場は、鉄と機械油の臭いに充ちていたが、かっての私の仕事場は湿気を帯びた鉄の酸化する臭いがした。雨の日の仕事場は鬱々として、仕事をするより他にない場処である。まるで少年の憂鬱のような場処だ。

 鉄を叩く鍛金の仕事にとって、季節がかなり体調に影響する。そして、明らかに体調は持続力に影響する。日々の温度や湿度、陽の差し具合といった――天候に左右される自らの感情の変化を知るのも、毎日同じ鉄を相手に集中し続けるからである。常識の人は、そういう揺れ動く感情の持ち主を、「お天気屋」と言うけれども、鍛金家がそれを自覚するのは、シンプルで拒傲な鉄を相手にし続ければこそである。一人の仕事場で仕事をするということは、自らの存在を経験するということだ。

 鉄を全力で叩き続けて、三十分か四十分もすると、硬直した筋肉をささえている骨が軋むようで、不安を覚えるようになる。実際、伸び過ぎた爪は振動で割れる。休憩は軋む骨を休ませるために取るようなものである。激しいスポーツをする人は、このあたりの事情を良く良く心得ていることだろうが、子供の頃病気をして虚弱体質だった私にとって、重労働がもたらす肉体的変調や変化には全く経験が浅かったので、私はいつも驚きと不安を感じていた。――そう言えば、昔から「骨休め」とは良く言ったものだ。夏の熱気の中での重労働や、底冷えのする冬に鉄を叩き続ける力を養うには、二十代の若々しい回復力のある肉体の内に、充分に慣れ親しんでおかねば難しい。凡そいかなる仕事にも言えることには違いないが、ことに鍛金の仕事には、――あるいは、繰り返えす日々が造形に転化する「工芸的造形」の仕事には、三年の季節の経めぐりに耐えることが、まず必要なのだろう。三度の夏、三度の冬を経験することで、季節の肉体におよぼす苦痛が、おおよそ見えて来ると同時に、その仕事に耐えるための肉体が訓育されるのである。日本で古くから言われる「石の上にも三年」というのは、人にとって異物である素材や技術に接して、肉体が慣じむための時間なのである。その肉体感覚の変化を自覚していれば、無闇と焦って身体をこわすこともなく、自らの肉体を育てることができるだろう。おそらく、繰り返される単調な労働の積み重なりや、試行錯誤の三年の時間に耐えられぬ資質もあるに違いない。鍛金の技術自体は、それ程難しい技術ではない。むしろ、鍾乳石をつくる滴くが無限のごとく落ち続けるような、それぞれの根気の問題であるようだ。その根気で何を求めるかに問題がある訳だ。熱気の中での二ヶ月の後で、極上の秋の空気が不意にやって来る。その感触の悦楽は二ヶ月の耐え難い汗みずくを経験してこそである。そんな悦楽の一日には、次から次へと新しい考えが湧き出て、応対に忙しい。真夏ののびきった脳への、不意の冷気が与える刺激効果なのである。けれども噎せ返るように生い茂った夏草が、やがて力を失なって枯れる晩秋の夕暮に、自分はこんな仕事を一生続けられるのだろうか?と、誰しも背中に冷えびえとしたものが襲って来る。繰り返される冬の季節に、一人で仕事を続ける歓びを知るためには、仕事場に成るべく長い時間日溜りができるように工夫することだ。それは必ず落ちついた冬の日溜りの歓びを与えてくれる。そして、必ず春の芽吹きの季節がやって来て、雑念さえ避けられれば、身体はのびのびとして、誰しも仕事がはかどるはずだ。初夏の若葉の煌きの前では、あえて他に何を望むのか?と自問したくなる程だ。自らの皮膚の毛穴を全て開放するような、空間感覚の充足の時である。その極々あたりまえな事々を身につけることなしに、この仕事を長く続けられることはあるまい。

 自らの場処で物事を考えるということは、漠然たる政治論や経済論や抽象的思考よりも、自らの場処の時の変化に肉体が感応して、思考が感覚化しているところで、あえて物事を考え始めるということだろう。自らを取り巻く環境のおおもとの変化を知悉せずに、世界の歴史もないものだ。部分も全体も等価値に世界を認識するのでなければ、世界も自己も認識したことにはなるまい。すでに自分自身が何者であるのか?と問うことではなかった。どうせやわな存在である私の内の不思儀に対する関心よりも、人間である私は何者たり得るのか?の自己変革の問題が私を強く急きたてた。

 出口のない、あてどもない制作の日々が続いていた。様々な訓練を試みた。様々な素材も試みた。例えば「坑道」の二点間の距離を結ぶための、扇状の動きをつくろうとしていたと言えば良いだろうか?あるいは「歩道」の一点一点を結ぶための形態を求めたと言うべきだろうか?円筒状の鉄を絞ったり拡げたりすることによって、波状の形態が引き出されて来た。一見「林檎」から離れたようにも見えるが、それでも、林檎の五出の構造の成長の手がかりから離れることができなかった。

 八月の暑いさなか、長いこと鉄を叩く仕事に疲れ果てて、今一度後戻りをして小さな「林檎」を銅で作るつもりだった。試みに、林檎に具体的な芯を作るつもりだった。円筒を叩き絞って、その円周を縮めようとしていて、逆に円筒の縁がひるがえるのを見た時、その反転する展開が私を掴えた。空間の二重化、――ひとつながりの銅板の膜状組織による二重の空間の形成の端初を、そこに見出すことになったのである。私は銅板の張力構造である膜状組織の重層化によって、無形の中心軸を形成していることに自覚的になった。同時に内側と外側が反転して、等価な構造となる作品世界がそこに顕われた。すなわち『外展運動』であり、『内展運動』である。この時、私の作品が成立し、運動展開するための根本の構造を発見した訳である。

 重層構造を鉄を用いて試みた。あるいは、球体状の一部分から垂直方向に立ち上がって行く展開を試みた。その仕事によって、鉄で次第に大きなものを作るはずみとなった。

 当て盤で制作することにも慣れて来た。皮手袋二枚が一枚になり、その内に皮手袋も必要なくなって、左手に軍手一枚で充分になって来た。熔接と当て盤絞りは次第に自在を得て来た。

 1973年-「運動する膜状組織」すなわち「運動膜」と自らの作品世界を呼んだ。それは、私にとって「彫刻」や「絵画」と同格の概念として考え出された概念だった。最初の「運動膜」が出来た時、その軸性を持った形態は、五出の展開によって、他に中心に向かう四つの形態を次々と呼ぶことになった。最初の「運動膜」を含めて五つの形態が出来た時、おのずと中心の形態が定まった。その最後の要の形態が出来た時、最初の「運動膜」の始まりから、すでに二年半経っていた。二十代の青年にとって、二年半という自己集中の時間が何を意味するか?ひとつの物質と徹底して接触する二年半は、私に半年以上の単位でひとつながりの膜状組織を展開する、制作の時間を恒常化させた。それをひと呼吸の形態として扱い得るという、言わば「思考の呼吸法」の訓練を自分自身に強いたのである。当時、私はそのことを「一本の線を半年かけて引く鍛錬」と呼んでいた。

 日々の仕事の刻む時間が、思考の一歩と同じ歩幅を持ち得るとは限らない。仕事の刻む時間は、身体と物質が軋み合いながら、そして、精神が統御し、あるいは引きずりまわされながら刻み発する時間でもある。そうした造形思考は一歩一歩展開するが、時として跳躍する。その跳躍こそが何度もなぞられた前例を超えることである。それがなければ、造形思考は言葉の論理構造に搦め捕とられたままであろう。


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