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造形論のために『造形的発端について④』 橋本真之

2016-11-10 11:33:33 | 橋本真之
◆橋本真之「部屋の中の林檎」Ⅰ~Ⅳ(鉄)1967年

◆橋本真之「部屋の中の林檎」Ⅲ (鉄)  1967年

◆橋本真之「膜」(真鍮)   1968年

2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。

連載1 造形論のために
『造形的発端について④』   橋本真之

  [外在的発端の前に]
 昼間の金属の打ち抜きの仕事を了えると、仲間と囲碁を楽しんでおだやかだった祖父は、七十歳になって急に怒りを爆発させるようになった。ある日家に帰ると、祖父は意識を失って倒れていた。

 親類縁者が囲んでいる中で、いびきをかき続ける祖父の傍らで、私は粘土をいじっていた。そうせずには自らを恃することができない自分自身にあきれた。祖父は痰を詰まらせながら、ゴロゴロとしたいびきをかいていた。むりやり痰を取り除くことで呼吸を楽にしてやっていたが、一週間の後、赫らんでいた祖父の顔色が土気色になり、硬直して動かなくなった時、あきらかに物体に変わった様子に、私は驚愕した。意識を失ってはいても、生きている存在が死に至る時の、そのひと跨ぎの経過が、いつまでも私の眼底に焼き付いている。

 いずれ私にもやって来るはずの、死の瞬間の前で、お前にとって大事な芸術は何の意味を持ち得るのか?何のことはない、死を迎えるまでの手なぐさみに過ぎないのか?私は決定的な一撃を喰らったのである。連綿と続く蚊の一生のような、このあたりまえな生の事実にうろたえた。私は一人林檎を見ている他に、手のほどこしようがなかった。私の集中と持続は、祖父の死へのひと跨ぎによって追いやられた場処だったのである。

 祖父の死からしばらく経ったある夜、歩道を歩いていると、暗がりにうずくまって倒れている男がいた。声をかけたが何の応答もない。近付いて肩口に手を触れると、だらりとした身体がこちらに向いた。祖父の死相が頭の中をよぎって、これは死んでいるのかと怖気づいたが、揺り動かして見ると、男は濁った薄目をあけて、あらぬ方を見てから私を見た。その存在の動いた瞬間に、生きているものの強度を見た。

 もぎとられた林檎が机の上にあって、目の前で動くということは、私にとって、こうした生と死の間の移行に関する問題でもあったはずである。

 道を歩いている日常の中で、ひとつの物に目が止まると、それがこの日常をささえている積石のひとつのように見えるほどに、目をそらすことをためらわせる。私はそれらのひとつひとつを振り切って、目的の場処へ急ごうとするが、それが何のためであるか?と疑わしかった。私は自らの生に固執することで、死を振り切っていられるとは思えはしなかったが、死の突然の瀑布を恐れた。そして自我の錯乱を恐れた。

 生きているうちに自我を放棄することが、もしも自分自身に可能であるならば、柳宗悦の「民芸論」は平穏で美しい。青年期の私には、その美の宗教は充足しているように見えた。けれども、残念ながら、私は従属して羊の群れの中に居ることに耐え得なくなっていた。彼等もまた祖父のように、突然、世界に対する怒りを爆発させるに違いないと思えるのだった。

 大学の陶芸の工房に実習に行くと、上級生の電動轆轤の前には、それぞれラジカセが並んでいて、これは蛇使いの訓練所でもあろうかと思えた。その背中は囲碁をしている祖父の背中を思わせた。

 菩提樹の傍らの陶工の日常が、死を前にした仏陀の冥想として聖なる充足を産むのであれば、私の自我は民芸論の轆轤の回転の中に埋没することもできたであろうが、どうにも私の胃の腑がゆるさなかったのである。私には仏陀という宗教上の天才が、そこに一人坐っているように見えた。

 私は制御のきかぬ自我をかかえたまま、何者になろうとしていたのか?時代精神は私の揺れ動いている感情とは無縁に、一切の権威を揺さぶっていて、文化的営為の根拠そのものが問われていたのである。仮に誰かが異を唱えて、単に文化的営為の表層だけが揺らいでいたに過ぎなかったのだと言うのであれば、それはそれで良い。私は私自身にそのように問い正したのだと言い換えても良いのである。実際、その後の文化的営為の権威主義と商業主義の復活を見れば、単に威勢のいい馬鹿騒ぎが終わり、今では何事もなかったと言っているかのようだ。

 六十年代から七十年代にかけて造形的出発をした者は、大阪万博の浮かれ景気と対称的な、社会変革をめざす学生運動の騒乱の中で考えることを強いられたのである。おそらく、真に出発することは、いかなる時代も困難を極めたことなのだ。脳天気な新しがりの造形主義者達のバイタリティーと、文化の根底からくつがえそうとする一群の革命主義者達の叫び声も、現在では共に無効な勢力となり終えている。今では、青年はことごとく冷え切った中で出発しなければならない。彼等もまた自らの根拠を揺さぶり問わねば、何も始まりはしないのである。この時代に安易に就くことの罪悪は見え難いが、いずれ露呈することになるに違いない。いつの時代も、時は美事にあぶり出す。

[方法の理路・素材との運動]
 私は二十代の殆どを、幾つかの技術的試みの他には、鉄を叩いて過した。しかも二十代の半ば過ぎまで林檎を造り続けていた。

 鉄床の上で、赤く熱した鉄を初めて金槌で叩いたとき、その柔らかい受容するような抵抗感に驚いた。重い金槌の一撃で鉄塊は変容する。虚弱体質だった二十代の私にとって、大きな重い金槌を振りおろす一日の労働は苦しかった。「この仕事に、私の肉体はふさわしくない。」そう思った。けれども、金槌を振りおろして鉄の変化する瞬間瞬間を見ることが、私の造形意志を刺激した。三年もの時をかけて林檎の変容を見続けて来た私にとって、金槌の一撃による瞬間の変化は、私の肉体的悦びでもあった。すさまじい金属音の中での、筋肉の緊張と弛緩の連続運動が、次第に私に健康をもたらした。鍛金の仕事はあきらかに生の充実と発露の方向に属するものだ。

 同じ鉄でも、薄い鉄板を叩くのであれば、比較的小さな金槌でも可能だ。その重さは私の筋力でも可能だった。熱い内に叩くのではない。一度赤く熱したのち急冷する、あるいは除冷する。それを焼鈍という。そして叩いては焼鈍を繰り返す。そのまま叩き続けていると、金属は疲労して亀裂が入って来る。熱い内に叩く鉄の感触とは異なって、冷えた鉄は渾身の力で振りおろした金槌を、はね上げる力を持つのである。その金属の抵抗は強い。私にはその抵抗が、自分の筋力に拮抗するような厚さの鉄板を選ぶことで、強大すぎる抵抗にくじけることもあるまいと思えた。実際、最初は工房の隅の切りくず捨場から拾って来た鉄の棒材や鉄板で、闇雲に形態としての林檎を造ったが、私の筋力でも叩き続けられなくはないと思えたのである。無機物の鉄が林檎の形態に近づく、その強引な作業のもたらす鉄の様態が私を動かした。林檎の変容を見続けた際の形態の変化とは別の経路と質を持ってはいるが、「形態の運動」の一点で結びついているだけの類同的な様子に、私はつき従がっていた。それは原初の人々が、造形的な行為に及んだ時、心躍らせた感覚を、時をへだてて共有しているのに違いなかった。形態はまだ不確かだったが、鉄の確かな手応えがそこにあった。

 金属でも別の素材の質を試そうとして、一度0.8ミリの厚さの真鍮板を試みた。真鍮は銅と錫の合金である。合金は焼鈍すると、膨張と収縮によって鉄以上にあばれて歪む。折角造って、わずかに林檎の形態になりかけているものが、動いて徒労になるという感触を味わわねばならないのであるが、私にとって、この膨張と収縮がもたらす金属の変化のエレメントが、後々まで造形の問題になって行くのである。当時は、そのことの厄介な面を押さえ込もうとして、四苦八苦しなければならないことに、いまいましさを覚えたものである。私は真鍮の仕上げに鏡面仕上げをしたが、素材の輝きにしばらく幻惑された後、造った林檎に穴をあけた。その表面の表面たることを、そして金属の膜状組織であることを明示するために、ドリルを持ち出して、折角の仕上がりを穴だらけにした。

 再び鉄板で林檎を造るとき、1.6ミリの厚さの鉄板を使った。私の腕力いっぱいだが、作り続けられそうだという感触に、私は浮き立った。直径17センチの円形に切った鉄板を焼鈍して、切り株に突き立てた当て金の上に当てて金槌で叩くのである。中心から周縁に向かって同心円状に打ち絞ることによって、皿状の曲面を造る。絞っては焼鈍を繰り返しながら、半球状の形態まで打ち絞る。同心円の替わりに、等高線状に突出部の形態を打ち絞ったり、裏から金槌で突き出すことによって、形の変化を打ち出すことができるのである。林檎を造る場合は、上下二枚の鉄の円板から半分ずつ打ち出し、酸素溶接をする。但し溶接した後の熱膨張による形態の歪みを修正するために、小さな当て金を内側に差し入れるだけの穴が必要である。そのために、一度成形した下部半球の内、もっとも熱によって歪みの生じにくい、曲率の高い部分に、糸ノコで切って当て金の入る穴をあける。その穴から当て金を差し入れ、溶接部を打ち直して成形した後、切り取った部分を溶接して穴を閉じ、ヤスリで削って成形しなおす。最後に当て金なしで金槌で叩いて表面を整える。

 鍛金の打物仕事は簡略に言えば、金属板を金槌で叩いて張り出したり、絞ることによって造形する、ようするに金属によるハリボテのようなものである。当時の私には、それは金属の膜状組織の表面の繕いに思えた。そのことに気付くと、鍛金に限らず美術そのものが表面の問題か、さもなければ観念の問題なのだと、私は気付いた。

 彫刻における塑造は、粘土の可塑性を利用した方法によるものである。心棒に粘土をからませ、粘土を足し引きしながら内部の充実感を求め、最終的な表面に達しようとする。塑造の方法は、作品を少し大きくするとなると、粘土の自立性が弱いために心棒が必要である。そのことが形態の構造的質を決定している。粘土による完成のまま保存することは難しいので、塑造の作者は粘土を別の材料に変換する工夫をしなければならない。伝統的方法としては、例えば石膏に取り、金属で鋳造する。いずれにしても、それは表面の保持の問題である。

 石を彫ること、木を削って形態を得るということは、あらかじめ目の前にある素材の物量から彫り刻んで、望む形態の表面に達そうとすることである。その時、あらかじめあった素材の物量、形態、質が最終的な形態に影響すると考えるか、あるいは、素材に束縛されずに形態を求めようとするかで、彫刻家の思考の在り処が見えるだろう。

 彫刻家は様々な方法で形態を求めるとしても、表現としての表面に拘泥していることに変わりはない。それは絵画にも敷衍することができる。最後の絵具のひとはけが絵画を決定する。美術というものが様々な方法によってはいても、素材とかかわって成立している限り、この事実によって立っている。概念芸術は、この素材によって成立している事実を捨てる在り方を一方で用意したと言っても良い。すなわち、美術を素材や色彩や形に寄らずにも成立させうるとしたら、いかに可能か?という問題を提出したのである。

 私の反時代的な林檎の制作は、民芸論と学生運動と、概念芸術の圧迫の間で、殆ど窒息状態を続けねばならなかったことは想像に難くなかろう。私にとって、日常的経験を踏み抜いた林檎を視ることの場処から、金属という素材に対する以外に、何の手がかりもなかったのである。方法は鍛金という偶然出会った古風な技術だけだった。それは私にとって、日本の因習的な夾雑物を持ち過ぎた技術であったが、苔やフジツボのようにこびりついたものを殺ぎ落とすことができれば、これほど原初的で、明確に物質に対する方法はないと思えるのだった。私はこの当時、彫刻に向おうとしているのか?あるいは工芸に向おうとしているのか?あるいは第三の方向に行こうとしているのか?明瞭に自覚していなかったのに違いない。鍛金の方法によって、何処に向かって出発することができることになるのかも定かではなかったが、宗教に寄らずに、何か「聖なる充足」を手にしたいと願っていたことは確かである。それは暫定的な言葉にからめた、私の感情の願望していた方位だったが、そういうものが芸術であるだろうと思っていた私には、時代の風景は目をそむけたくなるようなもので充満していた。私自身の内実もまたヘドロ状の生の欝屈で充満していた。

 次第に薄れて行った祖父の死の記憶と入れ替わるようにして、私は作品成立の根拠を求めていた。     (つづく)


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