◆「PACHAMAMA .STEPPING OUT」 1987
素材:サイザル、レーヨン、木
技法:織
H 360×W 120×D 110cm
◆「THE GUADIAN」 1986
素材:サイザル、レーヨン、木
技法:織
H 240×W 90cm
◆「舞」 1981
素材:BSF、ウール
技法:織、巻き技法
H 60×W 360cm
1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。
初めての個展(1982年)を前に、一枚の絵はがきを受け取った。手足のはえた樹に歯をむきだしているこうもりや森の生き物がワサワサといる。月夜の深い森でさながら祝宴を開いているようで、動物の笑い声や鳥の鳴き声が聞こえてくるようであった。しばらく疎遠になっていた小学校時代の「絵のお稽古」の先生の作品である。ものの向こうに音や光、空気が感じられる。こんな作品が作れたらとつくづくと思った。
個展は華やかな印象を残して終わったが課題が残った。「ハレ」というテーマのもと素材をいじり技法をこなし、形にはなるようになったが何かが欠けている。これから色や形をかえて展開はできるであろう。でもこのままでは表層的になってしまうのではないか。疑問が生じた。それ以降「作品」なるものを求めて遍歴の旅が始まった。
海外で勉強をするということを考え始めた折、全米唯一の大学院のみの美術学校であるクランブルック・アカデミー・オブ・アートの教授ゲルハルト・ノデル氏(現・学長)に出会いヒョンなことから中年の留学をすることになった。別に日本が嫌いになったわけでもなし、今やっていることを手直ししてもらえればといった安易な気持ちであった。ところが行った先はまるで道場さながら“WHY?”“WHY?”と禅問答のように質問攻めにあう。ハードルをいくつか越えることができても先が続かない。そのことに愕然としショックを受け自己崩壊が始まる。
「アートとは」を問い、考え、制作をし、ただただ試行錯誤の連続であった。アートの根源は祭儀にまつわるものという説に自分なりに行き当たり修了作品は3m60cm高さの「パチャママ・ステッピング・アウト](東京では未発表)というアンデスの大地の女神にまつわるものを作った。木が布を支え、布が木を支えスカルプチュアル・フォームとしてはうまくいき気に入っている。しかしクランブルックで学んだことの一番は、制作にあたっての入ロが日本でのやり方と異なるということであった。だが気がついたからといって、分かったからといってすぐ出来るものではない。まともや新たな課題を抱えてしまった。
アメリカから帰国後、夫のブラジル転勤にともないサン・パウロで生活することになりそこで制作を続ける。外国と一口にいっても北米と南米とは異なる。新しい環境に慣れ生活習慣を覚え、材料探しも含め単独で行動できるようにとポルトガル語を学び、またゼロからのスタートである。織機と基本的な材料のみを持参し、現地の材料での作品作りを心がけたが、材料の入手が簡単のようでいてなかなか思うようにいかない。サイザルが手に入りようやく制作できるようになったが、使い終わると次が中々人ってこない。青空市場の魚屋で人手したかわはぎの皮をアルコールでふいて、一年間干しオブジェを作ったりもしていた。荒っぽい環境のもとサンバの音楽を聞きながらブラジルの印象をともかく形にしていた。そのような中で材料についてあらためて考えるようになった。考えてみれば民族的なものは皆身近な又は貴重な材料で作られている。自分の「身近な」材料はと見直してみると、長年生活を共にしている夫の母親の書道の反古紙がある。早速保管を依頼した。
5年ぶりに日本に落ち着く。和紙の使用による制作を始める。しかし自分の育った国での制作開始に一見何ら問題がないようであっても外国をうろうろしたあとでは心理的にもぎくしゃくしている。大学に職を得、その準備にもかなりのエネルギーを取られる。正直にいって制作どころではなかった。どうせできないならと水泳教室に通っていた。バタフライが泳げるようになった。体力もついた。教え子達が卒業後も頑張って制作しているのを見て安堵もした。そうなるとまた作りたくなる。つまり創造は余剰エネルギーである。早速、織機に経糸をはり和紙を織り込んでみた。
「和紙と織り」といえば紙布で有名な宮城県白石市を20年程前に訪れたことがある。紙布の保存に努められていた片倉信光氏に紙糸で作られたものを見せて頂き、説明を受けた時には和紙の丈夫さ、可能性に驚かされたものであつた。また鶴岡市致道博物館・民具の館で見た着物(大福帳の和紙が緯糸として織り込まれ墨の字がちらちらして絣模様のようになっていた)が印象に残っている。和紙と織りはすでに自分の中でも結びついていた。あとはテーマである。かつて訪れたカナディアン・ロッキー、アンデス、そしてブラジルではその広大さ、豊かさに感銘を受けた。言い古された表現だが「母なる大地」そのものであった。大地は命を育み、また受け入れる。地に還るともいう。「大地に捧ぐ」というタイトルで制作したこともある、知人から敦煌の砂を少量もらって以来、旅先の世界各地の砂を集めている。色も粒子も異なりそれぞれに生成の情報を宿している。紙布の墨字が情報の断片となっていることとイメージが重なる。そうだ紙で土、石を作ろう。軽いもので重そうなものを作る、そのパラドックスが面白い。アンデスで見た遺跡、風化した石の姿の美しさ石や壁に描かれた記号やシンボルが途端に目に浮かぶ。和紙に墨でそれらを描く。和紙ににじむ墨の色は美しく気持ちを白由にしてくれる。紙の質により墨に対する反応が様々で実に微妙である。紙質の違いは製織後湯につけるという作業過程でも十分発揮され皺の出方が微妙に違ってくる。使用した和紙は書道や墨画の反古紙、自分でシルクスクリーンを施した新しい和紙等様々であるが紙は記録という要素を有し時間そのものも保持する。さらに反古紙を織り込むことは始めにその紙と向き合っていた者の時間を重層することになる。結果として「時間」をとりこむことができる。
技法としては織技法を用いているが、経糸と緯糸の中でそれらをどのように展開するかが私にとり課題であった。「織る」という行為を単に面を構成するものとしてとらえる。「ファイバーアート」というメディアつまり技法の展開、素材の追及に重点が置かれがちだが、アートという以上「内容」の表現に対し如何に取り組むかが重要であろう。世界各地の布を見ていくと皆それぞれに自然観、宇宙観、宗教観、神話、物語等が織り込まれている。「概念(コンセプト)」が技法、素材、色彩等の要素と渾然一体化した中に必然を伴って具体化されている。そのことを見落としているようである。過去の染織品をその観点からみると可能性が広がる。ものの向こうにある広がりということであろうか。内容を盛り込むことはもとより、さらに何らかの自然の力を取り込むことを求める。和服の「お召し」の講演を聞く機会があったが、その中で言及された強燃糸の話しから和紙を組み合わせることを思いつく。試してみると案の上、糸の撚りが戻る動きにつられ全体が縮む。物理的変化で意外な面白さが生まれる。
テキスタイル・デザイン、ファイバーアートといった今日的なものの洗礼をうけた者が、長い曲折を経て「和紙」「紙布」「縮み」といった日本の伝統をとりいれることでようやく視界が広がる地点にたどり着いた。初めての個展の案内状に頂いた今は亡き久保貞次郎氏(評論家)の文章があらためて思い出される。以下に引用する。
『中野恵美子さんの作品はモダンで、人間解放の精神が燃えている。織という伝統的技法を自由に、今日の生命の燃焼のなかで、駆使し、束縛されていないところを、ぼくは称讃したい。「人間は自己の解放者である。」という教えは、ヘンリー・ミラーが師とあおいだクリシュナムルテイの言葉だ。ぼくが中野さんの織に魅せられるのは、かの女が、織のなかで、この自己解放を実現しようと努めている点である。自己解放とは、おのれが陥ちこんだ環境から、おのれを救い出す努力であり、そのためには、あなた自身の力、あなたの内部にひそんでいる力を発見するために、あらゆる種類の経験と必死に格闘する決心と意志とを持たねばならない。中野さんは、織を通してその格闘をつづけている。』
作品制作は「今」の自分を確認する行為ともいえる。ここまで来たと「道標」がまた立てられるよう、これからも歩み続けていくつもりである。