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『手法』について/眞板雅文《音・竹水の閑》 藤井 匡

2017-04-14 11:28:37 | 藤井 匡
◆眞板雅文《音・竹水の閑-水の国》竹、縄、鉄、水/2003年

2003年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 30号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/眞板雅文《音・竹水の閑》 藤井 匡


 眞板雅文はこれまで、様々な素材を様々な技法で扱いながら作品を制作してきた。1970年代の写真と蛍光灯などの日用品を組み合わせた作品、80年代のロープや布などを巻きつけたオブジェ的な作品、鉄の棒と自然石とによる野外での大型彫刻――そして、97年以降は竹を使用したインスタレーションが制作されるようになる。
 これらを通観するとき、個々のシリーズ間の連続性は希薄に感じられる。使用される素材は共通イメージをもたず、使用される技法も素材ごとに異なるためである。作品の変化は思考に依拠するもので、技術的な蓄積にはないように思える。
 しかしながら、外観の差異にも関わらず、全ての作品には共通した感覚が存在する。シリーズごとに技術的な形式は変化するが、そこに至るまでの素材やモチーフに対する姿勢が一貫するのである。
 前のシリーズを否定することから次のシリーズへと移行する、弁証法的な過程を経て変化するタイプの作家であれば、時間軸に沿った理解は有効性をもつ。この場合、作者の内部に変化の必然性が宿されているのだから。しかし、眞板雅文の場合、外在的な要因から触発された部分が突出して、作品化されていくタイプの作家である。このとき、作品の変遷を、作者の個人史上の発展として把握するのは大した意味をもたない。
 この点に着目するならば、個々のシリーズは並行した共時的存在として見えるようになる。この視点に立つときにはじめて、作品を作者の固有性に属する(作者の名前が冠される)ものとして捉えることができる。

 最近のシリーズである《音・竹水の閑》は、鉄のフレーム一個につき百本強の竹を並べるように番線で留め、円錐形をつくりだした作品である。これは、素材の特性や展示場所が周到に計算された上で制作がなされている。
 空へ向かって放射状に伸びる竹のラインは、見る者の視線を引き上げる。加えて、竹と天・地との接触を補強するように、空に最も近い部分に先細りの側が当てられ、地面に最も近い部分は垂直に切断される。そして、《音・竹水の閑-水の国》では既設の人工池に設置されるため、実像と映像とが水面を挟んで上下の線対称に位置することになる。こうして、単なる幾何学形態以上の垂直軸がつくりだされるのである。
 また、円錐形は一方向が開かれており、ここから水平方向に竹の造形が延ばされる。円錐中央の地面には水盤が置かれており、水平の竹の中を通って落ちる水滴が波紋を広げる。この場所で、垂直方向から受ける力が水平方向へ押し広げられる。《音・竹水の閑-水の国》では水盤と人工池とが連動するため、水平方向への展開はより広範囲に渡ることになる。
 さらに、風が吹くとき、円錐形に立てられた竹は先端部分が僅かに揺れ、垂直軸の基調となる作品の輪郭線は曖昧になる。同時に、水平方向でも、その風を受けて地面の水盤に小波が生じる。作品と景観とは明瞭に分節されるのではなく、両者の境界線は流動する。自然現象の中で〈作品外→作品内→作品外〉の循環系が発生するのである。
 こうした要因が複合して、作品と景観とは一体化した状態を示す。さらに、竹という素材イメージが加算されることで、作品と景観とが各々のフィールドを超えて融合する状態が示されることになる。
 円錐形では竹の間隔が上方ほど広くなるため、作品と景観との接触は同心円状に淡くなる。ここを通して見える景観は、竹林などで日本の風景において馴染み深いものである。ここでは、作品の構造に既視感のある風景がオーバーラップされ、人為を通して自然が回復されるのである。
 作者は、自己と自然との関係の重要性、そして作品がこの関係の上に成り立つことを繰り返し語っている。《音・竹水の閑》で両者を密接に繋ぐ素材と加工の在り方は、他のシリーズ(過去の作品)にも――提示の形式は異なっているが――見いだせるものである。

 眞板雅文は80年代から野外での大型の彫刻を多数制作している。素材は耐候性のある鉄と石が使用され、主に樹木や山などの自然物がモチーフに選ばれる。鉄も石も野外彫刻では一般的な素材であり、多くの彫刻家が使用するものである。しかし、作者の場合、生な感覚が残る素材と具象的な形態という、距離のある両者をシンプルな方法で結びつける特異な彫刻を制作する。
 例えば、ヴェネチア・ビエンナーレに出品された《樹々の精》(1986年)は、湾曲させた鉄の棒を組み合わせることで、枝を広げた樹木を連想させる作品である。
 細部に着目すると、元々それが工業製品であることが分かる。つまり、大幅な加工が行われておらず、素材である鉄の棒が最後まで鉄の棒として残存しているのである。しかしながら、作品全体にはそうした工業製品のイメージではなく、有機物としての構造(部分と部分とが連鎖的な運動感をもつ)が与えられる。工業製品を有機的なイメージに変容する方法の発見から作品が生み出されているのである。
 作者は、この鉄の棒を使用し始める契機として、解体工事の現場でコンクリートから露出した鉄筋を見た経験を語っている。(註 1)だが、この出来事が作品をもたらした直接的な契機だったとしても、同じ光景を見た人間全てが同じ作品へ至るわけではない。作者はこの出来事以前に、意識されないままに、この素材を扱う方法を獲得していたはずである。その前提の上で、鉄筋(人為)と樹木(自然)との結合が可能になる。
 ここでは、自然環境の豊かな所を制作場所とし、毎日のように自然を見つめてきた経験が先行し、その後の出来事を通して意識化されたものである。こうした日常の経験は、出来事のように特化されないため、明示することは困難である。だが、この潜在するものの厚みがなければ、作品は表層的な存在に留まるに過ぎない。作品は、出来事と経験の結合から導かれるのである。

 《音・竹水の閑》における竹は、かつて「それ自体美しく、伝える力が大きい」(註 2)以上、これを素材とした美術作品を制作する必要があるのか、との問題として浮上していた。このシリーズが最初に制作された1997年の十年以上前から、作者は竹を素材とした作品を考えていたと言う。(註 3)それは裏返せば、構想から十年以上も――条件的には可能であったにも関わらず――制作できなかったことを意味する。
 結果的に、戦前に水力発電所として建築された場所での発表機会によって作品は実現する。もちろん、この機会は偶然(作者の意志に由来しないもの)である。ただ、それ以前に、偶然=出来事を新たな作品へと結実する条件を整備していたことに、作者の主体的な意志を見ることができる。
 眞板雅文の使用する素材や技法は、その都度その都度の都合に合わせて自由に選択されたものではない。「初めからこういうものをつくりたいとか、図面の上から考えていくというのではなくて、素材から入っていく場合が多い。そういう意味で、いつも素材を探している。総ての素材に興味があるといってもいいですね。」(註 4)この作品以前の段階に、手から出発する、眞板雅文にとっての不変の方法が存在する。
 ここでは、コンセプト(主)が揺るぎなく掴まれた後に、それを実現する手段として素材(従)が選択されるのではない。作品として実現するかどうかに関わらず、素材が探され、手が加えられる。そこから、あるインスピレーションが引き出された結果として作品が出現するのである。
 特異な素材として受け取られやすい《音・竹水の閑》の竹も、そのような無償=無目的な過程を経て掴まれたものである。作者が素材に関与した時間の蓄積が、作品の存在的な強度をもたらす。この時間は、見る者に直接提示されることはない。その上でなお、作品を規定する両者の関係を、眞板雅文の方法と呼ぶことができる。


註 1 インタビュー「日常・風景・素材」『みなとみらい21彫刻展』図録 1986年
2 眞板雅文「竹をめぐって」『眞板雅文 音・竹水の閑』図録 下山芸術の森発電所美
   術館 1997年
  3 前掲 2
  4 前掲 1


『シダー バスケット』  高宮紀子

2017-04-08 10:23:09 | 高宮紀子
◆シダーの樹皮と材 そしてミニチュアのかご

◆Polly  Sutton

◆Margaret Mathewson

2003年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 30号に掲載した記事を改めて下記します。


民具としてのかご・作品としてのかご 16 
 『シダー バスケット』  高宮紀子

 先日、シアトルでアメリカ北西部のノースウエスト バスケタリーギルドが主催するバスケッタリー コンフェレンスがあり参加しました。このギルドは、地域のバスケットメーカーやかご作りの愛好家のグループで、これまでも情報交換のための集まり、例えばサマー リトリートなどといって、避暑地のような所でキャンプしながら、ワークショップを開いたり、素材を売ったりすることを時々行っていました。
2003年にネイティブのかごのワークショップとその研究者のレクチャー、そしてコンテンポラリーなアーティスト(ノンネイティブ)に焦点をあてた、大きなコンフェレンスを初めて行うことになり、ギルドのメンバーでもある友人から、ワークショップの提案を出してみたら、と連絡があったのです。

 それから、企画段階で少々の変更が出たり、またその後、イラク戦争勃発やサーズの流行が続き、ワークショップ提案の提出を長い間ためらっていました。期限をだいぶ過ぎた時、その時、読んでいたColumbia River Baskets の著者、Mary Dodds Schlickの講演が行われると知り、とりあえず行ってみようと思いました。

 このコンフェレンスを教えてくれたのは、ドナ サカモトさんという日系アメリカ人でした。彼女はたまたま数年前に私のインターネットのサイトを見て、メールをくれたのがきっかけで、それから時折、かごのことを質問しあったりする通信が続いていました。今度の訪問では彼女に初めて会えるという楽しみもありました。

 ドナさんは日系といってもアメリカ人ですから、日本語は話せません。わずかに挨拶ができるぐらいです。私の変な英語も彼女にとっては災難ですが、ギャップをのりこえ、バスケットメーカー同士のコミュニケーションは豊かでした。彼女と短い旅をしたのですが、宿舎について夕食を終えると、ドナさんが自分で剥いだシダーの樹皮を取り出し、さあ、材料作りを教えてあげる、と準備をしています。時差ぼけの状態でしたが、彼女の道具を借りてしばらく教えてもらいました。写真は彼女がくれたシダーの樹皮です。これを水に浸けて柔らかくして、道具を使って細い幅に切ります。
 写真手前に見えるのが切った材です。小さなかごはシダーの外樹皮を切って、そのまま曲げて作ったかごのミニチュアで、店で売っていたもの。

 このシダーというのは、ウェスタン レッド シダー(Thuja plicata)で、いろいろな物の材料になります。ヒノキ科のクロベ属でアメリカネズコという名前がついていますが、日本には米杉と呼ばれ材木が多く輸入されていています。シダーの仲間にはやはりかごの素材になるYellow Cedar(Chamaecyparis nootkatensis) があります。

 この樹木は北西部一帯のネイティブの工芸品に共通している素材です。木部で舟やトーテムポール、建材などを作り、外側の樹皮や柔らかい内樹皮、根を使い、縄、かごや衣類などの編み組み品を作ります。まさに捨てる所がない、万能な素材です。
Cedarという題名の本を書いたHilary Stewart がこの樹木を使うネイティブのことをPeople of The Cedarと呼んでいますが、まさに彼らはシダーと共に生きてきたと言えるでしょう。とても太くなる樹で、樹木の外皮は自然に細く剥けて赤くなり、遠めにもわかります。古いシダーの樹皮を見ると、何か神々しいとさえ思えるほどです。実際、これらの樹木が水の浄化と貯蓄を果たし、その水は海につながり、全ての生き物の生態系に関わっています。

 写真のミニチュアのかごのようにシダーの外皮を使ったものもありますが、なんといっても柔らかい内樹皮製のかごが多く作られています。コイリングやトワイニングといった技法のかごで、他の素材と合わせてパターンを編み出したものが多く、生活の道具として、または土産用に作られてきました。特にこの地方では、トワイニングのバリエーションを数種見ることができます。トワイニングというのは、捩り編み、とも言いますが、2本の材を捩りながら、タテ材を挟むようにかけて編む方法です。
こうすることで、1本の編み材で編むよりは組織に厚みが出て、タテ材がより固定されたしっかりした組織ができます。シンプルなものに加えて、この地方の技法は編み材に別の材を被せて編んだもの、または捩り方が違うものなどが加わり見ていて楽しい。技術的なことを書くには紙面が足りませんが、一つの技法がこれほど、いろいろな組織構造に展開されているのをみると、トワイニングという技法も、新鮮に見えてきます。この技術による組織の密度は粗いものからいろいろと幅がありますが、細かいものは信じられないほど細かく、布といった感じです。手で作る一番細かい組織は織物のような印象がありますが、バスケタリーの方法でも、信じられないような細かい組織構造を手で編み出すことができうる、と確証が持てました。

 コンフェレンスのため講師として来ていた数人のネイティブと会うことができました。中でもハイダのDelores Churchillという人はとても人気があって、彼女のワークショップはすぐに定員に達したため、クラスを二回したいわ、と話していましたが、私の聞き取りが確かなら、80歳近いというのに、いまだに世界中を飛び回る生活だそうで、どうしたらそんなに元気になれるのか、と聞いてみたくなりました。だいたい、受講する人はネイティブの技術を同じコーカサシアン(白人のこと)が教えるよりはネイティブが教える方がいいと思っているようなので、大概このようなコンフェレンスではネイティブのワークショップから受講者がうまっていきます。

 今回の期間に合わせて、ファンテンヘッドというギャラリーでノンネイティブの講師の展覧会が行われました。広いギャラリーのスペースでは、Polly SuttonとMargaret Mathewsonの二人展、そして、コンテンポラリーな作品を作るMary Merkel-Hess やJo Stealeyらの作品に混じって、飛び入りの私の作品が展示され、コンフェレンスの会場からギャラリーまでシャトルバスが出て見にいけるようになっていました。
二枚目の写真が二人展のDMです。向かって左がPollyの作品で、シダーとワイヤーを使っています。他にもシダーにビーズなどの新しい素材を合わせた作品が多かったのですが、どれも自然に出る歪みが美しいフォームの作品でした。右の作品はMargaretのヤナギの作品です。色の違うヤナギの細い枝をヤナギの樹皮で編んでいます。オレゴン州の彼女の庭には数種類のヤナギがあるそうで、様々なヤナギの枝を割いたもの、樹皮、枝などを使った作品が大半でした。彼女は長い間、ネイティブについて素材の扱い方や編み方を習ったそうで、まるで継承を託されたのように、ネイティブの作るかごと同じ形、技術に徹しています。ウイッカワークや、トワイニングのかごが主ですが、全体のフォームを作るのにはとても高度な技術力が必要ですが、彼女はそれをみごとにクリアーしています。ネイティブのそのままの形を再現することを大切にしていて、現代的なアプローチにはあまり関心がないようでした。

 数日、滞在している内に、この地域では、コンテンポラリーで個性的なアプローチへの興味というよりは、伝統的なかごを軸としている人が多いような気がしてきました。多くのネイティブ達のすばらしいかごがあるので、そこに関心が向くのも自然なことと思います。おそらく私がワークショップの案を提出したとしても、却下されたことでしょう。今回のコンフェレンスではあまりコンテンポラリーな方面での刺激はなかったものの、ネイティブのかごのすばらしい技術で頭はいっぱいになっていきました。

 4日間のコンフェレンスが終わり、自由時間となり、シアトルアートミュージアムを訪ねてみました。期待通り、古い素晴らしいネイティブのかごがあり、その前に釘付けになり、しばらく眺めていました。上の階に現代的な彫刻作品が展示してあるというので、ちらっとだけ見てこようかと行ってみました。彫刻作品といっても金属のキューブとか、木片といったものなのですが、しばらく見ていくうちに、1999年に横浜美術館で開催された世界を編む展を思い出しました。 何故か現代彫刻が編むという行為に近づいてきている、そんな感想をもちながら、ゆっくり見ていったのですが、ばったりMartin Puryearの作品と出会ったのです。この人の作品は世界を編む展でも見たのですがそれ以来縁がありませんでした。樹木の角材で作られた1990年制作のThicketという作品でしたが、これには驚きました。太い角材のいろいろな形や薄さのものを組み合わせて、まるで編んだように作られています。短く角材をつなげる行為は、実際編んではいなくても、材料の柔軟性を利用する編むという行為を見るようですし、コンテンポラリーな組織構造を作り出そうとする私達の行為と同じように思えました。ネイティブの素晴らしいかごのイメージで一杯になった頭の中が、パイヤーの作品を見ることですっきりした、そういう気持がしていました。

 最後の日にシダーの大木をもう一度みたい、と思い、ワシントンパーク樹木園にでかけました。暑い太陽を避けながら、広大な園内をずいぶんと歩き廻った後、帰りにもう一度シダーを見よう、と振り返った瞬間、水蒸気のようなもやがシダーの古木の幹を包むように風にゆれ、赤い木肌が一瞬かすれるように見えました。あれは幻だったのか、幻影だったのか、今でも忘れられない光景です。

「虹色のミミズ」 榛葉莟子

2017-04-04 11:41:51 | 榛葉莟子
2003年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 30号に掲載した記事を改めて下記します。

「虹色のミミズ」 榛葉莟子

 珍しく雨がやみ、月も星も厚い雲にはばまれてただ丈高い木立ちがあたりをいっそう漆黒の闇に染めているそんな夜、神社で集落の子供会の肝だめしの夜がありました。何事か声に出さずにはいられない畏れの気持ちなのでしょうか、混じり合うひそひそ声のざわめきが聞こえてきました。そこここからおばけがぬっと出てくる気配満点の舞台。鳥居をくぐって、妖しげにぼおっとあかりが灯る本殿までの、デコボコした敷石の参道を往復する道のりらしく、お墓まで行ってぐるり神社の森を一周していたはずの肝だめしのルートもずいぶん短くなっているようでした。けれども参道を往復するだけでも怖いのは同じで、子供たちの馴染みの境内も今夜はどこか見知らぬ場所。二つの懐中電気の赤い灯がゆらゆら並んで歩いているのが見えました。そのうちきゃーと声がして猛スピードで灯は走り、ああ怖かったと興奮した声に次の番の子の緊張した顔が見えるようでした。おばけや妖怪はいる?と聞いたとしたら、いるいるいるよ!とどきっとした眼を向けてくれるかもしれません。いくつになっても背中が冷や冷やぞくぞくするような一寸先も見えない闇は深くて怖いものです。その怖さは奥底にしんとある畏怖心が見させるとても不思議なよく分からない天然の世界を垣間見た怖さであって、この頃のような黒々とした太文字の恐怖とはあまりにも怖さはちがうのです。この真っ暗闇の森のなかにうごめくひそひそとした息のざわめきや、ぽーっとあたりを灯すあかりの妖しさを誘う闇の空間にぞくっとするのは、奥底に横たわるそっくりな太古の記憶と結ばれるからでしょうか。

 雨が止んだので湿っぽい庭の草取りをしていると、草の中からあわてて這い出して来るミミズに出くわしました。見るともなく見ているとミミズは器用にというか、のたうち回るようにニョロニョロあっというまに草むらに移動するのでした。ミミズには毛がないし、目があるのかないのか、濁った桃色の紐状が動いていれば気味が悪く誰もが嫌悪感を持つとは思いますが、ミミズは益虫でミミズがいるのは良い土の証だといいます。雨の日ばかりのじめじめしたこの夏は、じめじめを好む生物をみかける事が多いようで、その気味のわるい形や色、動きなど目にすれば割箸か何かで放ってしまいたい衝動にかられ、大体がそうするのではないでしょうか。なにしろ下等動物と勝手に分別されて見た目では嫌悪されているのですから。もしも、虹色のミミズでしたらどうなんでしょうか。見た目の嫌悪感とはどこから来るのでしょうか。不快と感じる擬音、ヌルヌルとかベタベタとかブヨブヨとか、確かに今ことばを探しているだけでも不快になってきてしまいます。安部公房の「砂の女」という小説を読んでいるうちに、自分の口の中が砂でザラザラになつてきた感覚を今思い出し、思い出した今もザラザラとした感覚が蘇ってきてしまいました。

 印刷物の写真や図解などで人間の身体の中、つまりは脳や臓器を見ることがありますが、へえ!こんなふうに!と驚いたりしながらひとごとのように眺めていられるのは不思議といえば不思議です。ヌルヌルとかベタベタとかブヨブヨなんて不快なことばも浮かびません。けれどもふと気がつけば私たちの身体の中には不快な擬音表現の言葉にぴったしの色や形のものが身体という容器に納まって動いている訳で、ミミズやナメクジどころではないと想像できるのです。案外、この理屈を超えた嫌悪感とか不快感とかは、もっと遥かな所へまでも連れ出されそうに深い気がして来て気が遠くなりそうになります。

 そういえば、じめじめを好む生物の中でもカタツムリは愛されているのではないでしょうか。日常から遠いイメージがあるせいなのか絵本に登場したり、キャラクターグッズになったり、歌に歌われたり、もっと言えば食されたりもします。あの螺旋状の殻を着た姿は巻貝の親戚筋とみえますし、殻をとればナメクジにも似ています。この長雨で頭の中もじめじめしているのでしょうか、またナメクジが口に出てしまいました。でもカタツムリにじめじめを感じないのはどこか幻想に誘う雰囲気を醸し出しているからかもしれません。プレベールというナンセンス詩人といわれる人の詩に葬式に行くカタツムリの唄というのがありまして「死んだ葉っぱのお葬式に二匹のカタツムリが出かける。黒い殻をかぶり角には喪章を巻いて、暗がりの中へ出かける。とてもきれいな秋の夕方。けれども残念、着いた時はもう春だ。死んでいた葉っぱはみんなよみがえる」もう何十年も前に気に入って覚えたのですがいまだに言えました。何が気に入ったのだろうか分析したこともありません。今、遅れてきた蝉が鳴きはじめたと思ったらもうぴたっと止んでしまいました。

「うるしに魅せられて」  栗本夏樹

2017-04-01 15:02:21 | 栗本夏樹
◆栗本夏樹「月の船」1997 漆芸素材を主としたミクストメディア
 H 245×W 290×D 41cm ホテルグランヴィア京都(JR京都駅ビル)


◆栗本夏樹「風雨の果てにいまだ立てる者」(写真2)
1984  乾漆・玉虫箔・乾漆粉・など 
H 210× w 110× D 40cm

◆栗本夏樹「風の削りし物」(写真1) 1984 乾漆
H 30× w 150× D 35cm ギャラリーすずき

◆栗本夏樹「祭祀」(写真3)  1984  乾漆に蒔絵・木・綿布・ほか
H 230× w 180× D 600cm  京都芸大ギャラリー

◆栗本夏樹「心域」 (写真5)  乾漆に蒔絵・木・ほか
H 180× w 200× D 300cm  東京芸大展示室

◆栗本夏樹「儀式-天にむけての-」 (写真4)  1985 乾漆に蒔絵・木・綿布・ほか
  H 300× w 100× D 900cm  京都市美術館

◆栗本夏樹「求めよ、さらば開かれん」 (写真6) 1986  乾漆に蒔絵・木・ほか 
H 240× w 210× D 40cm  シティギャラリー

◆栗本夏樹「自らなる歴史」 (写真7)  1987 乾芸素材を主としたミクストメディア 
H 260× w 240× D 240cm  東芝本社ビルロビー

◆栗本夏樹「開花前夜」(写真8) 1987 漆芸素材を主としたミクストメディア
H 150× w 200× D 300cm  東芝本社ビルロビー

◆栗本夏樹「アジアの中の私」 (写真9)  1995 漆芸を主としたミクストメディア
H 700× w 360× D 70cm アジア太平洋トレードセンター


2003年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 30号に掲載した記事を改めて下記します。

 「うるしに魅せられて」  栗本夏樹

 私は、20年以上京都に暮し、現在、京都にある芸術大学で教鞭をとっているので根っからの京都人だと思われることが多いのですが、実は大阪で生まれ育ちました。私が京都の芸術大学に入り下宿生活を始めるまで暮していたのは、大阪の泉州にある堺です。堺と言えば、世界で最も面積の大きい墳墓として有名な大山古墳(仁徳陵古墳)があり、中世から近世にかけて町衆(会合衆)の自治する自由都市として貿易や鉄砲の生産で栄えました。また、侘び茶を確立した千利休を生んだ文化都市としても有名です。
 私が育った堺の町は、海を埋め立て作られた臨海工業地帯の高い煙突からけむりの立ち上る工業都市でしたが、ザビエル公園や鉄砲町と言った地名に堺の歴史を感じさせるものが残っていました。私の同級生の何人かは、家業が刃物屋で古くは鉄砲鍛冶だったと言う者もいました。私の父は、臨海工業地帯にある新日本製鉄で作る鋼材を船で出荷する運輸会社に勤務していました。年に一度、家族が工場を見学できる日があり、溶鉱炉で鋼材を作る様子を見学したり、できた鋼材を船で積み出す様子を眺めたりしました。
 子供時代の堺の思い出として強く印象に残っているものに、南蛮行列があります。これは、堺まつりのメインイベントとして行われる催しで、カピタン(提督)役を中心に南蛮人(桃山時代のポルトガル人やスペイン人に対する呼び名)の衣装を身にまとった人々がザビエル公園の前の大通りを練り歩く一種の時代行列でした。南蛮屏風から飛び出したようなカラフルで奇抜な南蛮人の行列に海の向こうにある世界を強く印象づけられ、行ってみたいと憧れるようになりました。
 もう一つの子供時代の思い出は、友達とよく出掛けた古墳への探検遊びです。古墳と言っても大山古墳など大きなものには掘りが巡らしてあり中心部に近づくことは出来ませんでしたので、その回りにある倍家(ばいちょう)と呼ばれる小さな古墳に忍び込むのでした。忍び込むと言っても、たいてい虫とりをしたり、かくれんぼしたりして過ごすだけのことでした。とは言え立ち入り禁止のお墓に忍び込むのですからスリルがあり、私達の冒険心をかき立てたことは言うまでもありません。おまけに、墓の中に埋められている宝物のことを想像することは、子供の空想心を大きく膨らませました。
 このように私は、海の向こうにある外国に思いを馳せたり、古墳に隠されている宝物を空想したりするのが大好きな少年でしたが、人並みに高校受験や大学受験に挑む時期を過ごすうちに、私の憧れや空想の世界は、心の奥底にしまい込まれていったのでした。

 1年間の浪人生活を過ごした後、京都市立芸術大学の工芸科に合格した私は、憧れの京都での生活を始めました。私の京都好きは、父の影響によるものでした。私が13才の時、父は55才で会社を定年退職しましたが、その後は自分の好きな事をして過ごしていました。その父の好きな事の一つに京都の街をぶらぶらとぶらつく事がありました。私の姉や兄は、親と一緒に出掛けることを嫌がる年齢に達していたので、京都にお供するのは、私の役目でした。清水寺から三年坂、二年坂を通り、円山公園にぬけ、知恩院や南禅寺あたりをぶらぶらしたものでした。時には、哲学の道を歩いて法然院に立ち寄り、銀閣寺まで足をのばすこともありました。外食はほとんどせず母の作ったお弁当をお寺の境内や公園で食べて帰ってくるのですから、文字どおりぶらぶらするだけのことでした。それでも嫌がらず父について行ったのは、私も京都の魅力に引き付けられていたのだと思います。
 私が学んだ京都芸大の美術学部では、1回生の前期に総合基礎実技という授業があり、美術科・デザイン科・工芸科の学生が半年間共に勉強します。それぞれの専門分野に分かれる前に、根本的なもののとらえ方や考え方、表現方法などを学ぶ内容で、いろいろな専門分野の教員によって運営されています。いきなり科別の授業が始まらず、広いもののとらえ方や考え方を学べた事は、とてもプラスになりましたし、その時できた友達とは今でも親しくしています。
 1回生の後期から科別の授業が始まり、私は工芸基礎実技という授業で陶磁器・染織・漆工の素材や技法に初めて触れたのでした。元々、八木一夫の流れをくむ京都芸大の陶磁器専攻で陶芸を学びたいという志望を私は持っていたのですが、まったく眼中になかった漆芸との出会いによって方向転換することになりました。この出会いは、恋愛における一目惚れのようなもので理由を聞かれても困ってしまいます。ただ、漆黒の輝きに魅せられてしまったのでした。
 2回生から本格的に漆芸の勉強を始めましたが、私も御多分にもれずカブレに大いに悩まされました。起きているときは、意識して掻かないように心掛けるのですが、寝ている時に無意識に掻きむしってしまい症状をひどくさせるのでした。

 3回生になり、課題制作ではなく自由制作が許されるようになると私は、乾漆による立体作品に取り組み始めました。京都芸大の漆工専攻には、加飾、?漆、乾漆、木工のクラスがあり、4人の専任教員がそれぞれの専門分野を担当しています。私は、乾漆のクラスで、新海玉豊先生にご指導いただきました。授業の初日、新海先生が、「1年間で個展が開けるぐらい作品を作りなさい!」と比喩的におっしゃったのを真に受けて、私は、個展を開かねばならないと思い込んでしまったのでした。
 私は、1984年2月中旬、毎年開催される京都市立芸術大学作品展(京都市美術館)の会期に合わせて、美術館の近くのギャラリーSUZUKIで初個展を開きました。会場には、大小取り混ぜて5点の乾漆作品を展示しましたが、“水の削りし物”や“風の削りし物”(写真1)などの作品タイトルが示すように、自然の力で造形されたかたちをイメージした作品でした。美術館で進級作品として同時に発表した“風雨の果てにいまだ立てる者” (写真2)もやはり同じコンセプトで制作した作品でした。幸い初個展は好評で次の企画展の話しが舞い込みましたし、進級作品は、平館賞を受賞しました。初個展を私の作家活動のスタートポイントだとすれば、大変良いスタートであったと思います。

 私の学生時代は、奨学金を借りアルバイトしながらの生活でしたので、どちらかといえば貧乏学生の部類に入っていたと思いますが、学部の4年間で3度の海外旅行に恵まれました。最初は、2回生の終わりに子供の頃からためていた貯金をはたいてタイへ旅行しました。3回生には韓国、4回生にはインド・ネパールを旅しました。2回目と3回目の旅は、どちらも芸大作品展で受賞した平館賞や市長賞(買い上げ)の賞金を旅費としました。
 これらの旅の中で、多くのスケッチを描きました。美しい風景や建物などを描くこともありましたが、ほとんどは、旅で出会った人々の姿を描きました。その事は、私の興味の多くが、異文化の中で繰り広げられる人間の営みに向けられていたからだと思います。この20代前半に旅したタイや韓国、インド、ネパールでは、深い信仰に根ざした人々の生活の中に、信じる事の美しさ、強さを感じました。彼らが神に捧げる為に作った造形は、その美しさもさる事ながら、信じる事の強さから来るパワーに満ち溢れていました。

 これらの旅の体験を通じて一つの問いが私の中に生まれました。それは、「私には信じるものがあるのか?」という自分自身に対する問いかけでした。“信じるもの”という言葉を“神”という言葉に置き換えてみると、私には、信仰と呼べるほど強いものはないと思えました。しかし、“神”と呼べるほどはっきりはしていないが、この世界を生み出し支えている大きな力のような存在は感じていると思いました。そこで私も旅で出会った人々のように、その“大きな存在”に向けて私の作品を作り捧げたいと思い始めたのでした。
 私はまず、8本の漆黒の剣を乾漆で作りました。そしてそれらの剣を捧げ持つ手の形を木で作り、正面に“大きな存在”を象徴する円盤状のオブジェを据え付けました。最後に、手前に神域を示すトーテムを2本並べました。この作品は、1984年に“祭祀” というタイトルで、京都芸大ギャラリーに展示し発表しました。
 次に制作した、“儀式-天にむけての-” は、学部の卒業作品として制作したもので高さ3メートル、長さ9メートルの大作になりました。この作品は、カラフルな装飾を施した乾漆と白木や自分で染めた布などを組み合わせたものでした。この作品は市長賞と買い上げ賞を受賞し、現在、京都市立芸術大学
芸術資料館に収蔵されています。
 学部を卒業後、大学院に進学した私は、それまでの祭壇状に造形された作品を一歩進めて、見る人を巻き込む装置のような作品を作りたいと考えるようになりました。たしかに自分の“信じるもの”にむけて造形する事で、作品にある種の力や威力が宿る事は実感しましたが、それを個人的な事として終わらせるのではなく、見る人に広く開放したいと思い始めたのでした。
 私が大学院で最初に作った“心域”という作品では、人間を取り巻く制度や儀礼といったものの象徴として巨大な烏帽子を登場させています。烏帽子には、家紋のようなデザインが施されています。見る者と巨大な烏帽子(オブジェ)の間には、乾漆で作った漆黒の鏡が置かれています。鏡の外縁には、見る者とオブジェが映り込み、内縁には、鏡が置かれている空間全体が360度映り込むように設計されています。作品の鑑賞者は、不可思議なオブジェと向き合う事で自分自身の心の中に記憶された経験や知識と向き合う事になり、そのことを黒い鏡で暗示しています。
 次に手掛けた“求めよ、さらば開かれん”は、私がインドを旅行した時、体験した出来事に由来しています。日本から飛行機でインドのカルカッタに到着した私は、バクシーシ(喜捨)を求める子供達に取り囲まれ、客引きのタクシードライバーに荷物を奪われそうになり、日本とのギャップで途方に暮れました。「おまえなんかの来る所じゃない!」と大きな手で遮られた印象でした。
しかし、2ヶ月間、インド各地を貧乏旅行で回って帰る頃には、同じ手が、私を温かく受け止めてくれる手に変わっていたのでした。この出来事と重なる聖書の言葉「叩けよ さらば 開かれん、求めよ さらば 与えられん」の箇所からタイトルは引用したものです。
 大学院の2年間で作った作品は、主に東京芸大と京都芸大の大学院生有志の自主企画展「フジヤマゲイシャ展」で発表しました。
 今、こうして学生時代の作品を振り返ってみると、稚拙な思い込みのみで作品を作っていたという気がしますが、同時にこの時期のひたむきな純粋さから生まれた作品は、もう二度と作る事の出来ないかけがえのないものとして大切に思えてきます。

 大学院を修了してから現在に至るまで16年間、生活の糧は、作家活動と教職の二足の草鞋でやって来ました。実際には、大学院2回生の時から、中学校の美術の非常勤講師を始めたので、非常勤講師を7年間、大学の専任教員を10年間勤めたことになります。現在は、自分の専門分野である漆芸を大学で教えるという恵まれた環境にいますが、非常勤時代は、生活の為により好みせず、いろんな場所でいろんな事を教えて来ました。ただ、そんな中でも7年間、一貫してお世話になったのは、兵庫県西宮市にある関西学院中学でした。関西学院は、高校、大学もあるキリスト教のミッションスクールです。私自身は小学校から大学まですべて公立の学校で学んで来たので、私立の学校は初めてでした。ただ、幼稚園だけは、私も教会の付属幼稚園に2年間通いましたから、キリスト教の教えには少しだけ触れた体験を持っていました。
 関西学院では、非常勤講師も毎日の礼拝に参加することになっていました。私は、大人になって再びキリスト教の教えに触れ、幼児の時に学んだ祈りや聞いたお話の意味をはじめて理解することが出来ました。それから日曜日に教会にも通うようになり、1988年のクリスマスに洗礼を受け、クリスチャンになりました。キリスト教的な言葉で説明すれば、“種は蒔かれていた”のだし、“神に招かれた”のだと感じています。だから、自分で宗教を選んだという気持ちはあまりしません。キリスト教が他の宗教より優れているから選んだのではありませんし、いろいろな宗教それぞれに良い所も悪い所も合わせ持っているように思います。そして、どの宗教も究極的には、同じ方向に向かっているのだと感じています。

 「社会に出て一年目が肝心だ。そこで制作を休むと後が続かなくなるぞ!」と先輩にアドバイスされ、大学を出て最初の1年間は、日中は週6日間、非常勤講師として働き、帰宅後、御飯を食べる時間も惜しんで制作に励みました。学生時代に取り組んできた儀式シリーズでは、乾漆と白木や布を組み合わせて作品を作っていましたが、大学を出てからは、全体に漆塗りと加飾を施した大きな作品に取り組み始めました。作品を巨大化するには、重量をできるだけ軽くする必要があり、発泡スチロールで原形を作り、薄い合板をその上に貼って表面を木質にし、その上に漆の下地や塗り、加飾を施す方法を考えました。その年(1987年)には、240W×240D×260H㎝の大作“自らなる歴史” を完成させました。多少大袈裟なタイトルですが、これまでの漆工芸の枠を超えた独自の漆造形のスタイルへの手ごたえと、漆芸技法を使って一人で取り組む作品としては限界に近い大作を完成させた自負を込めたタイトルでした。
 同じ年に、もう1点“開花前夜” という大作を仕上げています。この作品は、“自らなる歴史”の足の部分で用いた大仏のラオツのようなかたちが花の蕾のように進化した作品でした。
 この2点の作品は、それぞれ関西で発表した後、PARTY2芝浦アートフェスティバルという展覧会に出品し、東京の東芝本社ビルロビーに3ヶ月間展示されました。このビルには、東芝の社員だけで一万人近く勤めていて、朝夕にそれだけの人々が私の作品の前を通り過ぎるのでした。

 東芝本社ビルロビーでの展示を通じて、パブリックな空間に漆造形作品を設置したいという考えを持ち始めました。しかし、私のような若い無名のアーティストにそのような注文が舞い込むはずもありません。個人住宅やオフィスやレストランなどへのコミッションワークを重ねながらチャンスを待たねばなりませんでした。7年後の1994年に最初のチャンスが訪れました。その年、大阪南港にオープンしたアジア太平洋トレードセンターのロビーに設置するモニュメントの指名コンペティションでした。複数のアーティストが指名されプレゼンテーションを行い、最終的に私の提案した“アジアの中の私” が選ばれました。三人のアシスタントを使い約一年間かけて制作し、1995年春に完成しました。この“アジアの中の私”は1996年のおおさかパブリックアート賞を受賞し、その後の私のパブリックアート作品“月の船” 1997年(ホテルグランビア京都、京都駅ビル)や“古墳時代”1999年(堺私立斎場)につながっています。

 私の漆造形作品への取り組みを、私自身のバックグラウンドと合わせて紹介してきましたが、文章をまとめるのが上手くなく、私の最近の仕事をあまり紹介できなかった事を残念に思っています。しかし、作家活動20周年を来年に控えて、20代、30代の仕事を振り返る良い機会となりました。このようなチャンスを与えて下さったArt & Craft forum誌に感謝いたします。