さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

自分のことは自分で責任をとる社会

2010年04月27日 12時58分28秒 | Web log
最近めっきり寒くなってきました。
で、どうも腰痛が復活しつつあるようで怖い。

ぎくっと行っちゃいそうな気がします。

前も話したかと思いますが、父も腰痛もちだったし、姉もそうなので、
きっと遺伝的要素が濃いんだろうな。

さて、昨日は第一次および第二次世界大戦で戦った兵士を追悼する
ANZAC DAY で、お休み。といっても、わたしたちは式典に参加
するわけでもなく、普通の休日。

公園に行ったり、プールに行ったりでのんびりとした一日を
すごしました。

ベンジャミンとジョナサンがほぼ同レベルで一緒に遊ぶようになり、
見知らぬ友達と、モンテッソーリスクールで一緒だった男の子と
たまたま会ったので、4人でスターウォーズごっこをして遊んでました。

親である私が、あちこち追い掛け回して遊ぶことも少なくなって、
感無量なのかちょっとさびしいのか良くわかりませんが、
関わり方も変化しつつあるなぁと感じます。

わたしも自分の時間がぐっと持てるようになりました。

ホットする時間です。

さて、前回はアメリカのアイムソーリー法について述べました。

アメリカにはきっと『責任の所在を明確にする』ってのが第一義的に
求められる国なんだと思います。

それはある意味いいことなんだと思います。

責任がどこなのか?があいまいに扱われることが多い日本人の
多くは、それって大事なことなんじゃない?って思う人も多いと
思います。

オーストラリアも少なからずそういう傾向があることを感じる
ときがあります。

例えば、学校に関して言えば「子供に関する責任は全て親にある」
って感じです。

だから、親がアクションを取ることを第一に求められます。
学校も役所もあれこれ世話をしてくれません。

子供が地域の公立の学校に入るかどうかも、親が決めて申し込みます。
義務教育であっても、役所が「入学のご案内」なんて通知をよこしも
しませんし。

戸籍という概念もないので、おそらく市はわたしがこの家に住んでいる
という情報を把握していないと思います。

日本では、全ての情報を牛耳られていますからね。

怖いといえば怖い。
でも、ある意味面倒見てもらっているといえば面倒見てもらってもいる。
それを良しとするかどうかは、個人の判断によると思います。

お役所が何でもかんでも面倒みてくれるので、それは自己責任だろ
といって一線を引かれるという感覚は、なんだか日本人にはぴんと
こないと思います。

『誰も教えてくれなかった』というのは言い訳にならないのが
この国です。

で、例えば子供手当てというのがオーストラリアでも支給されている
のですが、移民で永住権をもらった人なんかはそれをもらえる権利が
あるのに、知らなかったりして、もらってない人もいたりするんです。

でも、知らなかったら申請しませんし、役所もフォローはしません
から、そのままってことになります。

でも、それは自己責任。

これを冷たいととるか? 当然ととるか?

自分のことは自分でやるのが当たり前。
誰も助けてくれませんよ。
助けが必要ならば、自分で行動を起こしなさい。

そういう意識がとてもはっきりしています。

あれこれとお役所に面倒みてもらうのが当然のように生きてきた
わたしなどは、唖然とした感じがします。

冷たいなぁ~って。

でも、プライベートに干渉しないという、ドライなスタンスが
良いのかなぁなんて思ったり。

良いところもあれば、冷たいと感じる部分もある。

ま、そういったところでしょうか。

お役所任せ的な社会構造が、日本人の依存心の強さを助長させている
部分があったりするのかなぁなんて思ったりもするのであります。

国民のメンタリティーと社会構造というのは、切り離せないもの
なんだと思いますです。















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