水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

一首鑑賞(96):桜木由香「溶けなんとして白きオスチア」

2023年05月06日 10時48分18秒 | 一首鑑賞
会堂へ漂着したるうつし身へ溶けなんとして白きオスチア
桜木由香『連禱』


 年齢を重ねなければ分からないことがある。例えば、足元や首周りといった身体の冷えなどがそうだ。「寒い、寒い」を連発する母などを見ていて、私は随分長いこと冷やかかに見ていたものだな、と今は少し恥ずかしくなる。
 私は10年前に車を持つまでは、片道25分ほど歩いて教会へ通っていた。もちろん当時としてもやや億劫な気持ちが無いわけでもなかったが、今考えればそれなりに健康だったのだなと判る。桜木由香の『連禱』は、これまで幾度となく開いてきた歌集だが、改めて掲出歌を見て「会堂へ漂着したるうつし身」という表現に釘付けになった。ミサ(礼拝)に行きたいと願いつつも、身体がなかなか思うように動いてくれない、ミサへ行くことさえも祈りに祈って……ようやくの思いで教会に辿り着けた実感が如実に現れていると思う。
 「オスチア」とはミサで信徒に与える聖体であり「ホスチア」とも言う。イースト菌が入っていない円形の薄い煎餅様のパンで、コロナウイルスの感染予防の観点から聖餐式が行えなくなったプロテスタント教会の中には、聖餐式の再開に当たっての試行錯誤でホスチアを採り入れたところもあったと聞く。噛まずとも溶けてしまうパンのようで、御ミサに与りに行った身には呆気ないほど淡い食感であったのかとも推察する。
 ルカによる福音書24章13節からは、主イエスが復活なされた噂を訝しみながらエマオ途上にあった二人の弟子に、いつの間にやらイエスご自身が共に歩き、二人の会話に加わるという場面が描かれている。道々イエスが説き明かした聖書の言葉が生き生きとしていたのだろう、日も暮れ方になったのに先へ行こうとするイエスに、弟子二人が一緒にお泊まりくださいと願う。30〜32節には〈一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った〉と書いてある。桜木の一首には、主に触れたその瞬間にイエスが消えてしまって呆然とする二人の弟子の姿が見えてくるかのようである。
 ヨハネによる福音書13章からは、最後の晩餐におけるイエスや弟子の言動が実に5章に亘って詳述されている。ヨハネによる福音書16章では、イエスが去っていく代わりに聖霊が送られることが語られている。どうも主は私達のもとを去るらしい……と悟り悲しみに満たされている弟子達に、イエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(7節)と語り、「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(13節)とも仰られた。
 オスチア、あるいは聖餐のパンは、儚く溶けてしまうようなものかもしれない。私自身も、聖餐式に与りながら(これが主の御身体なんだ……!)と自らを振起させつつも、何だか以前と変わらぬ罪深い私のままで、パンやぶどう液があっという間に喉を通過していってしまうことを何度も経験してきた。けれども、イエスは図らずも「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」(ヨハネによる福音書16章12節)と仰せになった。
 毎週の礼拝で聴く解き明かしで、また日々の聖書の黙想で、わかったような解らないような……という気分になるのは日常であり、それが私達である。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネによる福音書14章26節)と主は述べられた。 その御言葉を信じ、イエスに連なる者であり続けたい。

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