水の門

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聖書黙想 2024年7月3日

2024年07月03日 11時02分22秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
私は自分には知識があるとは全然思わない。むしろ、(コレって何だろう?)と思ったことについて、時間をかけつつコンパクトな表現にすることに長けている(そのような賜物を主がくださった)だけだと思う。アウトプットがコンパクトなためか、周囲は安直に(そのワザ、簡単にできるんでしょ?)と、膨大な読書課題を押し付けてきたり、非公式カウンセリング的なことを私にしてほしいのか話しかけてきたりすることが多いが、いつも閉口してしまう。私がコンパクトにするのは、単に私のキャパがちっちゃいからで、鈍臭い私でも“身動き”(←文字通りの意味)取れるようにするために意識を明確にする必要に迫られてしているからでしかない。
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<新改訳第三版 コリント人への手紙 第二12章5〜10節>
……私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることの ないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
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6月27日の所属教会の「聖書と祈る会」で読んだ聖句は、コリントの信徒への手紙 二 12章15〜18節だった。教会で読まれたのは新共同訳だが、ここには新改訳第三版の12章15〜17節をコピペる。
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ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか。あなたがたに重荷は負わせなかったにしても、私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったのだと言われます。あなたがたのところに遣わした人たちのうちのだれによって、私があなたがたを欺くようなことがあったでしょうか。
(引用ここまで)
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昨年9月17日の長丁場の伝道委員会で(実質最後まで残ってたのは、前 伝道委員長と牧師夫人と私だけだったが)、昨年6月より始められた月一の礼拝後の祈り会に対して、(人前で祈ることに慣れていない)教会員から不平が続出しており、長老会でこの祈り会についてもう一度検討するように、と差し戻しがあった旨が伝えられた。そして、「祈ってほしくない」と言う教会員がいると前 伝道委員長はお話しになり、それは教会としておかしいと三人で喧々囂々になった。どうも祈り会が始まった当初、お互いの祈りのニーズを聞かれることがお嫌だったみたいで、私は「プライバシーを晒したくないだけでしょう。『イエス様がその人と一緒にいてくださいますように』と祈られるのも嫌な人がいますか?(そんな人が教会に来ますか?)」と申し上げたら、前 伝道委員長はシーンとされた。私はさらに「あー嫌になっちゃう!私がトラクトで、振り絞るようにして書いてきたことも、教会員には全部迷惑でしかなかったんですかね」と申し上げた。
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[ここからは最近の話]
所属教会では、本当に身も心も使い尽くして働いてるのに、皆さん「あれも考えて〜」「これも考えて〜」ばかりで正直ウンザリする。そうは言っても(まぁニーズがあるのは事実だし……)と真面目に考え始めると、「◯◯さん、私とも遊んで!(教会とは関係ない、純然たる遊びで)」みたいなことを言ってくる人達もいらして、(マジで殺す気か?)と思っちゃう。人が24時間働けるか、あるいは分身の術でも使えるかのような見当違いも甚だしいと思う。こういうことを言うと、ブチ切れる教会員もいらっしゃるだろうが、

<新改訳第三版 ルカの福音書7章31〜35節>
では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」

の聖句を、教会員にはよく噛み締めてほしいと私は思うよ。

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