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孫娘の七五三のお祝いのために、岩手県に行ってきました。長女の結婚式と同じ盛岡八幡宮です。
娘によれば、緊急事態宣言でどうせ私たち夫婦は出席できないと思って、ウィークデーに神社の予約をしていたそうですが、解除されたので、急遽、仕事を休んで行くことに。
木曜日の夜のロシア語レッスンはお休みしました。先生にそれを伝えるとき、七五三をそのままロシア語でシェーミ(7)・ピャーチ(5)・トゥリ(3)と言ってみましたが通じませんでした。当たり前ですね。
「ああ、七五三ですか。聞いたことあります」
日本語の堪能なリズ先生でしたが、さすがに日本の伝統行事のことまでは、それほど詳しくないようです。
「ロシアにもありますか?」
「いや、ないです」
これまた当たり前ですね。
2019年2月生まれの孫娘は今、満2歳。昔は「数え年」で祝うのが普通でしたが、今は数え年でも満年齢でもどちらでもよいとのこと。また、必ずしも11月にする必要もないようです。
私が子どもの時は、5歳の時に一回だけ祝ったはずで、そのときの写真しか残っていません。女の子は3歳と7歳でするようですね。男の子も、3歳と5歳の2回する家庭もあるようです。これもどうでもよいのでしょう。
子供の成長を祝う行事はいろいろあります。
生後7日はお七夜(おしちや)。名づけの行事ということです。昔は生まれてすぐに亡くなる子どもが多かったので、お七夜までは名前をつけなかったんだとか。
生後ひと月がお宮参り。
生後百日がお食い初め(おくいぞめ)。実際にはまだ食べられないけれど、形だけご飯を食べるふりをさせたりします。韓国にも同様の祝い事があって、百日(ペギル)と言います。
満一歳が初誕生(はつたんじょう)。わが子の時は、「お誕生」と言っていたような。一升餅を背負わせたり、筆、そろばん、財布を並べて選ばせたり。韓国ではトルと言います。
そして、七五三ですね。
江戸時代は乳幼児死亡率が非常に高く、3歳、5歳と、無事に成長したことを祝い、7歳で「よくぞ生き延びた! ここまでくれば大丈夫」という意味だったということです。
昭和一桁生まれの私の母は9人兄弟でしたが、そのうち双子2組が7歳になる前に感染症などで亡くなったという話を聞きました。昭和初期でもそんな状態だったのですね。
鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』(1983年PHP研究所刊、2000年講談社学術文庫)によると、江戸時代初期の出生時の平均余命はせいぜい30年ぐらいと推計されているのだそうです。これは、その時代の人たちが30歳までしか生きられなかったということではなく、乳幼児死亡率が高かったから。平均すると低い数字になりますが、60歳、70歳まで生きる人だってけっこういたはずです。日本で出生時の平均余命が50歳を超えたのは、太平洋戦争後の1947年だったそうです。
江戸時代後半の乳児(満1歳未満)の死亡率は20%に近く、幼児(満1歳から5歳)の死亡率も14%。それが6歳から10歳になると4%に急速に低下します。出生時に10人いた子どもで満6歳を無事に迎えられるのは7人以下。
七五三が、「よくぞ生き延びた!」という祝いであったことが、数字からも裏付けられます。
明治初期の子どもの主な死因は、夏季の下痢・腸炎と脳膜炎、次いで冬季の肺炎・気管支肺炎。衛生・栄養状態が悪かったために起こる病気が多いようです。
なお、死亡の男女比では、15歳以下では男子の死亡率が高く、15歳を過ぎると逆転して40歳ぐらいまでは女性の死亡率が高い。これは、妊産婦の死亡が多いためです。今、出産時に亡くなる母親は(子どもも)稀ですが、かつて、出産は危険に満ちていたのですね。
長女の夫の実家は兼業農家。田植えや稲刈りは、家族総出で行うそうです。今は稲刈りが終わり、昔ながらの稲架(はさ)掛けの段階。天日と自然風で刈り取った稲を乾燥させるんだそうです。週末の天気がよければ稲扱き(いねこき。脱穀のこと)をする予定といっていましたが、予報は雨で、娘夫婦は気を揉んでいました。
長女も孫娘も、それなりに農作業を楽しんでいるらしく、長女は実家(雫石市)の農地を一部借り受けて自分たちが食べる野菜などを育てるほかに、盛岡の自宅の近所でも家庭菜園をやるほどはまっています。
七五三を祝った孫娘も、まだ0歳の孫も、自然に恵まれた環境で健やかに育ってほしいものです。
娘によれば、緊急事態宣言でどうせ私たち夫婦は出席できないと思って、ウィークデーに神社の予約をしていたそうですが、解除されたので、急遽、仕事を休んで行くことに。
木曜日の夜のロシア語レッスンはお休みしました。先生にそれを伝えるとき、七五三をそのままロシア語でシェーミ(7)・ピャーチ(5)・トゥリ(3)と言ってみましたが通じませんでした。当たり前ですね。
「ああ、七五三ですか。聞いたことあります」
日本語の堪能なリズ先生でしたが、さすがに日本の伝統行事のことまでは、それほど詳しくないようです。
「ロシアにもありますか?」
「いや、ないです」
これまた当たり前ですね。
2019年2月生まれの孫娘は今、満2歳。昔は「数え年」で祝うのが普通でしたが、今は数え年でも満年齢でもどちらでもよいとのこと。また、必ずしも11月にする必要もないようです。
私が子どもの時は、5歳の時に一回だけ祝ったはずで、そのときの写真しか残っていません。女の子は3歳と7歳でするようですね。男の子も、3歳と5歳の2回する家庭もあるようです。これもどうでもよいのでしょう。
子供の成長を祝う行事はいろいろあります。
生後7日はお七夜(おしちや)。名づけの行事ということです。昔は生まれてすぐに亡くなる子どもが多かったので、お七夜までは名前をつけなかったんだとか。
生後ひと月がお宮参り。
生後百日がお食い初め(おくいぞめ)。実際にはまだ食べられないけれど、形だけご飯を食べるふりをさせたりします。韓国にも同様の祝い事があって、百日(ペギル)と言います。
満一歳が初誕生(はつたんじょう)。わが子の時は、「お誕生」と言っていたような。一升餅を背負わせたり、筆、そろばん、財布を並べて選ばせたり。韓国ではトルと言います。
そして、七五三ですね。
江戸時代は乳幼児死亡率が非常に高く、3歳、5歳と、無事に成長したことを祝い、7歳で「よくぞ生き延びた! ここまでくれば大丈夫」という意味だったということです。
昭和一桁生まれの私の母は9人兄弟でしたが、そのうち双子2組が7歳になる前に感染症などで亡くなったという話を聞きました。昭和初期でもそんな状態だったのですね。
鬼頭宏著『人口から読む日本の歴史』(1983年PHP研究所刊、2000年講談社学術文庫)によると、江戸時代初期の出生時の平均余命はせいぜい30年ぐらいと推計されているのだそうです。これは、その時代の人たちが30歳までしか生きられなかったということではなく、乳幼児死亡率が高かったから。平均すると低い数字になりますが、60歳、70歳まで生きる人だってけっこういたはずです。日本で出生時の平均余命が50歳を超えたのは、太平洋戦争後の1947年だったそうです。
江戸時代後半の乳児(満1歳未満)の死亡率は20%に近く、幼児(満1歳から5歳)の死亡率も14%。それが6歳から10歳になると4%に急速に低下します。出生時に10人いた子どもで満6歳を無事に迎えられるのは7人以下。
七五三が、「よくぞ生き延びた!」という祝いであったことが、数字からも裏付けられます。
明治初期の子どもの主な死因は、夏季の下痢・腸炎と脳膜炎、次いで冬季の肺炎・気管支肺炎。衛生・栄養状態が悪かったために起こる病気が多いようです。
なお、死亡の男女比では、15歳以下では男子の死亡率が高く、15歳を過ぎると逆転して40歳ぐらいまでは女性の死亡率が高い。これは、妊産婦の死亡が多いためです。今、出産時に亡くなる母親は(子どもも)稀ですが、かつて、出産は危険に満ちていたのですね。
長女の夫の実家は兼業農家。田植えや稲刈りは、家族総出で行うそうです。今は稲刈りが終わり、昔ながらの稲架(はさ)掛けの段階。天日と自然風で刈り取った稲を乾燥させるんだそうです。週末の天気がよければ稲扱き(いねこき。脱穀のこと)をする予定といっていましたが、予報は雨で、娘夫婦は気を揉んでいました。
長女も孫娘も、それなりに農作業を楽しんでいるらしく、長女は実家(雫石市)の農地を一部借り受けて自分たちが食べる野菜などを育てるほかに、盛岡の自宅の近所でも家庭菜園をやるほどはまっています。
七五三を祝った孫娘も、まだ0歳の孫も、自然に恵まれた環境で健やかに育ってほしいものです。
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