バンコクからの帰りの飛行機で毎日新聞を読みました。すると,こんな記事が。
日韓併合100周年に因んだ連載のようです。
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/4 農家に学び、記録残す
◇試験場の日本人支場長
1933年10月、広島で開かれた第6回日本遺伝学会。農林省の禹長春(ウジャンチュン)と、朝鮮総督府農事試験場西鮮支場(今の北朝鮮・沙里院)の高橋昇支場長が、記念写真に並んで写っている。親交が厚かったと言われる2人の仲を物語るようだ。
高橋は1918年、東京帝大農科大学を卒業。翌年6月、朝鮮総督府勧業模範場(京畿道水原)に赴任した。朝鮮総督府は20年に「産米増殖計画」に着手する。それは、農業振興と米騒動を招いた日本国内の食糧事情を改善する狙いがあった。
朝鮮半島で行われていた稲のじかまきを禁止し、日本と同じ正条植えに転換。さらに、かんがい施設整備や新品種導入も積極的に行い、増収を目指した。
ただ、総督府側ながら高橋は独自の見方をする。「全般的な農業経営のあり方が問題ではないか。農場で精密な試験をやるよりも実態調査が必要だ」
30年代半ばから終戦までの約10年間、高橋は朝鮮半島を歩き、写真とともに膨大な記録を残す。変色した原稿用紙には農民の話や農具などのスケッチがびっしり書かれている。「謙虚に朝鮮の農家から学ぶ」とのモットーを実践したそれは、約1万3000枚にのぼる。浮かび上がったのは厳しい風土に適した優れた農法の存在。遅れていたわけではなかった。
06年、高橋の長男甲四郎さん(83)=福岡県久留米市=は、高橋が勤務した勧業模範場をルーツに持つ水原の韓国農村振興庁に資料を寄贈。同庁で翻訳が進められている。
事業に携わった全南大の具滋玉(クチャオク)名誉教授は「わが国史上初の調査で、文化遺産にも指定される価値のあるものだ。今からでも読むべき資料で、記された栽培法なども検証する必要がある」と指摘する。年間10万人が訪れる同庁農業科学館では、高橋の写真が多数引き伸ばされ、展示に使われている。
終戦後も約9カ月間、韓国人の後進を指導した高橋。提言をまとめた「今後の朝鮮農業について」では、優良な種子を自給する必要性も訴えた。
高橋は福岡に引き揚げて2カ月後の46年7月、55歳で急死。長春が韓国で種子自給に取り組むのは、その4年後である。「2人は肝胆相照らす仲だったかもしれない。禹博士の韓国行きを知ればとても喜んだはずだ」と、甲四郎さんは語る。【ソウル西脇真一】=つづく
この記事では,「高橋さん」にスポットが当てられていますが,連載の対象は禹長春のようです。日本に帰ってからネットで調べ,全文を読みました。
以下にリンクを掲げます。
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/1 農業の偉人、父は国賊
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/2 罪滅ぼしと使命感
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/3 土に生き、根を張る
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/4 農家に学び、記録残す
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/5 農村医療、充実に尽力
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/6止 農場主と診療所医師
禹長春は,洪思翊,朴正煕と並んで,私の最も尊敬する韓国人の一人です。
閔妃暗殺に加担した軍人を父に持ち,日本人の母との間に,日本で生まれ,戦前,育種学者として世界的な業績をあげながら,朝鮮戦争後の荒れ果てた祖国韓国に戻って,韓国農業の復興に身を捧げ,死の直前に韓国から勲章を授与される…。
その生涯は,角田房子『わが祖国』(新潮文庫,絶版)に感動的に描かれています。
90年代初めに私が読んだ韓国国定教科書の中にも,偉人として描かれていました。そこには,「種なしスイカ」を発明した人とされていましたが,これは日本の遺伝学者木原均博士の手によるもので,韓国で育種学に注目してもらうために,禹長春が各地で紹介したに過ぎないものでした。その事実を知っている禹長春の遺族と弟子たちの訂正要求によって,教科書の記述が改められたと聞いています(『わが祖国』のあとがきに書いてあったかもしれません)。
お墓は釜山にあるということなので,釜山に行ったときにお墓参りに行こうと思いましたが,時間がなくて果たせませんでした。
絶版に入手が難しいかもしれませんが,ぜひ一読をお勧めします。
〈参考〉
日本からの帰化男性、キノコ栽培で農協大賞
日韓併合100周年に因んだ連載のようです。
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/4 農家に学び、記録残す
◇試験場の日本人支場長
1933年10月、広島で開かれた第6回日本遺伝学会。農林省の禹長春(ウジャンチュン)と、朝鮮総督府農事試験場西鮮支場(今の北朝鮮・沙里院)の高橋昇支場長が、記念写真に並んで写っている。親交が厚かったと言われる2人の仲を物語るようだ。
高橋は1918年、東京帝大農科大学を卒業。翌年6月、朝鮮総督府勧業模範場(京畿道水原)に赴任した。朝鮮総督府は20年に「産米増殖計画」に着手する。それは、農業振興と米騒動を招いた日本国内の食糧事情を改善する狙いがあった。
朝鮮半島で行われていた稲のじかまきを禁止し、日本と同じ正条植えに転換。さらに、かんがい施設整備や新品種導入も積極的に行い、増収を目指した。
ただ、総督府側ながら高橋は独自の見方をする。「全般的な農業経営のあり方が問題ではないか。農場で精密な試験をやるよりも実態調査が必要だ」
30年代半ばから終戦までの約10年間、高橋は朝鮮半島を歩き、写真とともに膨大な記録を残す。変色した原稿用紙には農民の話や農具などのスケッチがびっしり書かれている。「謙虚に朝鮮の農家から学ぶ」とのモットーを実践したそれは、約1万3000枚にのぼる。浮かび上がったのは厳しい風土に適した優れた農法の存在。遅れていたわけではなかった。
06年、高橋の長男甲四郎さん(83)=福岡県久留米市=は、高橋が勤務した勧業模範場をルーツに持つ水原の韓国農村振興庁に資料を寄贈。同庁で翻訳が進められている。
事業に携わった全南大の具滋玉(クチャオク)名誉教授は「わが国史上初の調査で、文化遺産にも指定される価値のあるものだ。今からでも読むべき資料で、記された栽培法なども検証する必要がある」と指摘する。年間10万人が訪れる同庁農業科学館では、高橋の写真が多数引き伸ばされ、展示に使われている。
終戦後も約9カ月間、韓国人の後進を指導した高橋。提言をまとめた「今後の朝鮮農業について」では、優良な種子を自給する必要性も訴えた。
高橋は福岡に引き揚げて2カ月後の46年7月、55歳で急死。長春が韓国で種子自給に取り組むのは、その4年後である。「2人は肝胆相照らす仲だったかもしれない。禹博士の韓国行きを知ればとても喜んだはずだ」と、甲四郎さんは語る。【ソウル西脇真一】=つづく
この記事では,「高橋さん」にスポットが当てられていますが,連載の対象は禹長春のようです。日本に帰ってからネットで調べ,全文を読みました。
以下にリンクを掲げます。
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/1 農業の偉人、父は国賊
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/2 罪滅ぼしと使命感
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/3 土に生き、根を張る
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/4 農家に学び、記録残す
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/5 農村医療、充実に尽力
忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/6止 農場主と診療所医師
禹長春は,洪思翊,朴正煕と並んで,私の最も尊敬する韓国人の一人です。
閔妃暗殺に加担した軍人を父に持ち,日本人の母との間に,日本で生まれ,戦前,育種学者として世界的な業績をあげながら,朝鮮戦争後の荒れ果てた祖国韓国に戻って,韓国農業の復興に身を捧げ,死の直前に韓国から勲章を授与される…。
その生涯は,角田房子『わが祖国』(新潮文庫,絶版)に感動的に描かれています。
90年代初めに私が読んだ韓国国定教科書の中にも,偉人として描かれていました。そこには,「種なしスイカ」を発明した人とされていましたが,これは日本の遺伝学者木原均博士の手によるもので,韓国で育種学に注目してもらうために,禹長春が各地で紹介したに過ぎないものでした。その事実を知っている禹長春の遺族と弟子たちの訂正要求によって,教科書の記述が改められたと聞いています(『わが祖国』のあとがきに書いてあったかもしれません)。
お墓は釜山にあるということなので,釜山に行ったときにお墓参りに行こうと思いましたが,時間がなくて果たせませんでした。
絶版に入手が難しいかもしれませんが,ぜひ一読をお勧めします。
〈参考〉
日本からの帰化男性、キノコ栽培で農協大賞
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