本当のことを知るために,考えることを始めようと決めた君,君はまず,「思う」と「考える」が,どう違うのかを考えられるようになろう。
「自分がそう思う」というだけなら,それが正しいか間違っているかは,まだからない。自分ではそれを正しいと思っていたのだけれど,他の人はそれを正しいとは思っていなかったとか,以前は正しいと思っていたのだけれど,今は正しいとは思わないとか,よく気をつけてみると,そんなことばかりじゃないだろうか。だから人は,自分が思っていることが正しいことなのかどうか,常に「考える」ということをするわけだ。
韓国にいて知りませんでしたが,一時期日本でかなり売れたらしい哲学書,「14歳からの哲学」の一節です。
著者池田晶子さんは,1960年生まれだから,私と同学年。哲学用語を使わずに哲学するというスタイルが受けたようですが,今年,腎臓癌で早逝。
さて,上の一節を韓国語にする場合,困ってしまいます。
普通,日本語の「思う」はセンガッカダ 생각하다,「考える」もセンガッカダで,区別しない。どっちもセンガッカダと訳してしまっては,わけがわからなくなる。
調べてみると,韓国でも「翻訳版」が出ているようです。
いくつかの書評から類推するに,「考える」のほうを「サユハダ 사유하다 (思惟する)」と訳しているようですね。
日本語の「考える」よりずいぶん堅い語感で,「哲学用語を使わない」という著者のポリシーに反するような気がしますが,仕方ないか。
「自分がそう思う」というだけなら,それが正しいか間違っているかは,まだからない。自分ではそれを正しいと思っていたのだけれど,他の人はそれを正しいとは思っていなかったとか,以前は正しいと思っていたのだけれど,今は正しいとは思わないとか,よく気をつけてみると,そんなことばかりじゃないだろうか。だから人は,自分が思っていることが正しいことなのかどうか,常に「考える」ということをするわけだ。
韓国にいて知りませんでしたが,一時期日本でかなり売れたらしい哲学書,「14歳からの哲学」の一節です。
著者池田晶子さんは,1960年生まれだから,私と同学年。哲学用語を使わずに哲学するというスタイルが受けたようですが,今年,腎臓癌で早逝。
さて,上の一節を韓国語にする場合,困ってしまいます。
普通,日本語の「思う」はセンガッカダ 생각하다,「考える」もセンガッカダで,区別しない。どっちもセンガッカダと訳してしまっては,わけがわからなくなる。
調べてみると,韓国でも「翻訳版」が出ているようです。
いくつかの書評から類推するに,「考える」のほうを「サユハダ 사유하다 (思惟する)」と訳しているようですね。
日本語の「考える」よりずいぶん堅い語感で,「哲学用語を使わない」という著者のポリシーに反するような気がしますが,仕方ないか。
よって、韓国語で同じ言葉で翻訳するよりも、
より忠実な表現と推測される言葉を使用するのが、
結果的に彼女の意思をしっかりと考慮していると思われる。
コメントありがとうございます。
考えるにあたる韓国語はセッガッカダ以外にも,サユ(思惟)ハダ,サリョ(思料)ハダなどがあります。
「考える」とピッタリのニュアンスの言葉が見当たらないので,堅い言葉を使うのも仕方がないのでしょう。