先日の研修会で、逐語緑クライエント役のときに話したことだが、今月はじめの永代経という法座の時にあった座談会(グループによる討議)で二つの気になる話題があった。二つとも同じ方の発言なのだが、そのことからいろんなことを考えた。
一つは座談会のあり方についての批判といおうか否定の表明というほうがいいのか。まそちらのほうはそのことに至までの経緯が色々あるので、ここに書くのはふさわしくないかもしれないし、経緯をうまく説明する自信も無いので割愛。ただ、私が「意味があると思い、大事にしようとしている」ことの意味がうまく伝わってないと思ったし、その方はそれよりも大事にしたいやり方があり、「そのやり方は嫌」ということを主張したかっただけだろうから、あえてその場で私が大事にしたい気持ちを理解してもらおうという気が起こらなかった。またそういう気持ちの自分を大事にしてみたかった。
幸い、私と同じように思ってくれているかた何人かが話してくれていたので、一歩後ろからそのグループを眺めていられたように思う。ちょっとしたことだが、私にとっては今までと大きく変わっている自分だと思う。
問題はその後で、一旦先の話題が落ち着き、方法論じゃない関わりのところで場が進みかけたときに、話を聞いている私の態度に対して「うん、うん、という相槌や、言葉を繰り返すレスが耳障りだ」という表明をされた。まあその方が気になるものは気になるんだろうし、別に批判されて困ったわけでもない。というか、意識してやっていることなら止めようもあるが、意識とは違うところで動いている私もいる。
そう、一年間のカウンセリングの学びの中で、最初は見様見真似だった”うなづき”や”レス”が、聞きたいという気持ちの起こるときに勝手にそういう態度になっている私なのだ。
それはカウンセリングの場だけでなく、普段でも自然とそうなっていることが多い。
私の気持ちの中では、そういう態度は相手にとって「聞いてもらえている」と感じる重要なファクターで、私自信そうやって聞いてもらうと気持ちがよく、どんどん自分の中のそこにある気持ちが沸きでて、新たな気づきになる。
ところが、横でそれを聞いていると「耳障り」な人もいるということは意識していなかった。
また、先日のミニカン実践のときに私のそういう聞き方を「警戒する」という方が居られた。その方の場合は、今この時でなく、冬の研修会のときの私の態度を元にそのような気持ちになられた。そのときと今と変わっているかどうかは自分ではよく分からないが、「傾聴」のはずが「耳障り」「警戒」ということに繋がるのなら、それはどういうことなんだろうか。
単なる私の経験不足?不器用?下手?…それとももっと別の私自身のイメージが起こす何かがあるのだろうか…(見かけが良くないってのは勘弁して欲しいが…)
先生方の態度や、故西光先生の姿には及ぶはずは無いが、それが単なる途上であれば良いが勘違いや違う方向に向いているならはやく方向転換する必要がある。
ちょっと心にとめて、思い出したときにじっくり考えてみたい。
一つは座談会のあり方についての批判といおうか否定の表明というほうがいいのか。まそちらのほうはそのことに至までの経緯が色々あるので、ここに書くのはふさわしくないかもしれないし、経緯をうまく説明する自信も無いので割愛。ただ、私が「意味があると思い、大事にしようとしている」ことの意味がうまく伝わってないと思ったし、その方はそれよりも大事にしたいやり方があり、「そのやり方は嫌」ということを主張したかっただけだろうから、あえてその場で私が大事にしたい気持ちを理解してもらおうという気が起こらなかった。またそういう気持ちの自分を大事にしてみたかった。
幸い、私と同じように思ってくれているかた何人かが話してくれていたので、一歩後ろからそのグループを眺めていられたように思う。ちょっとしたことだが、私にとっては今までと大きく変わっている自分だと思う。
問題はその後で、一旦先の話題が落ち着き、方法論じゃない関わりのところで場が進みかけたときに、話を聞いている私の態度に対して「うん、うん、という相槌や、言葉を繰り返すレスが耳障りだ」という表明をされた。まあその方が気になるものは気になるんだろうし、別に批判されて困ったわけでもない。というか、意識してやっていることなら止めようもあるが、意識とは違うところで動いている私もいる。
そう、一年間のカウンセリングの学びの中で、最初は見様見真似だった”うなづき”や”レス”が、聞きたいという気持ちの起こるときに勝手にそういう態度になっている私なのだ。
それはカウンセリングの場だけでなく、普段でも自然とそうなっていることが多い。
私の気持ちの中では、そういう態度は相手にとって「聞いてもらえている」と感じる重要なファクターで、私自信そうやって聞いてもらうと気持ちがよく、どんどん自分の中のそこにある気持ちが沸きでて、新たな気づきになる。
ところが、横でそれを聞いていると「耳障り」な人もいるということは意識していなかった。
また、先日のミニカン実践のときに私のそういう聞き方を「警戒する」という方が居られた。その方の場合は、今この時でなく、冬の研修会のときの私の態度を元にそのような気持ちになられた。そのときと今と変わっているかどうかは自分ではよく分からないが、「傾聴」のはずが「耳障り」「警戒」ということに繋がるのなら、それはどういうことなんだろうか。
単なる私の経験不足?不器用?下手?…それとももっと別の私自身のイメージが起こす何かがあるのだろうか…(見かけが良くないってのは勘弁して欲しいが…)
先生方の態度や、故西光先生の姿には及ぶはずは無いが、それが単なる途上であれば良いが勘違いや違う方向に向いているならはやく方向転換する必要がある。
ちょっと心にとめて、思い出したときにじっくり考えてみたい。