前回の「正解があるなら聞きたいが…」に対して思わぬ反響があった。
一つの思いを投げ出して、そこに反応がある…それを受けて新たな思い(共感・批判・戸惑いなど)がでてくるのだから、ネットと言うモニター越しでありながら、モノに話するのではない、人と響き合う妙味がある。
で、今書きながら思うこと…時間経過で言いたいことが変わってることもあるかもしれないが、前回の書き込みではいいたいことが上手くあらわせていないんだろうなということ。
「耳障り」と言われたことの比較に、件の方は「故西光先生は、十数人の話を静かに聞いていて、全員の話が終わったら、『あなたはこうですね、あなたはこう思われたんですね』としっかり理解しておられた」という体験を出された。私もそういう先生の姿は何度も見ているし、時には寝てるんじゃないだろうかと思うときでもしっかり聞いておられる姿に感服している。
目的として「グループの方の話をしっかり聞きたい」私は、先生のように静かにしっかり聞けるのならそうするのだろうが、出来ない。そう、うなづきやレスが目的なのではなく、”聞く”が目的だ。まず最初はそこに気持ちがある。そのために昔から出来事を理解しようとレスのようなことをしていた。メモを取る代わりにクチずさむことで少しでも頭に残そうとしていた。それを、カウンセリングを勉強しだしてから感情の動くところをレスする事の大事さを知り、出来事ではなく感情を押さえることを重視しだした。そのときにレスしている。今は、感情を逃さないために、感情と思われるところにレスをする心がけをしているので、研修会以外の場でも勝手にそのように動いている。(これをして身についてきたという表現になったと思う)
今回の春の研修会では、ただ感情を追うのではなく、”主題”を意識するステップに来ていると感じている。
もう一方で、聞いてもらうという体験を考えたときに、私はうなづきやレスをもらうと「沿ってもらっている」とうれしくなり、結果話そうと思っていなかった腹底の思いが出てくる驚きがある。まだカウンセリングとしての経験の浅い私は、自分がうれしかったことなら相手にも同じじゃないかという錯覚があった。
それを錯覚だと思ったことと、まだまだ未熟だと受け止めたことが今のところかな。
とりあえず、こんなところを書いてみたかった。
まだまだ、上手く言えてない気もするが。
一つの思いを投げ出して、そこに反応がある…それを受けて新たな思い(共感・批判・戸惑いなど)がでてくるのだから、ネットと言うモニター越しでありながら、モノに話するのではない、人と響き合う妙味がある。
で、今書きながら思うこと…時間経過で言いたいことが変わってることもあるかもしれないが、前回の書き込みではいいたいことが上手くあらわせていないんだろうなということ。
「耳障り」と言われたことの比較に、件の方は「故西光先生は、十数人の話を静かに聞いていて、全員の話が終わったら、『あなたはこうですね、あなたはこう思われたんですね』としっかり理解しておられた」という体験を出された。私もそういう先生の姿は何度も見ているし、時には寝てるんじゃないだろうかと思うときでもしっかり聞いておられる姿に感服している。
目的として「グループの方の話をしっかり聞きたい」私は、先生のように静かにしっかり聞けるのならそうするのだろうが、出来ない。そう、うなづきやレスが目的なのではなく、”聞く”が目的だ。まず最初はそこに気持ちがある。そのために昔から出来事を理解しようとレスのようなことをしていた。メモを取る代わりにクチずさむことで少しでも頭に残そうとしていた。それを、カウンセリングを勉強しだしてから感情の動くところをレスする事の大事さを知り、出来事ではなく感情を押さえることを重視しだした。そのときにレスしている。今は、感情を逃さないために、感情と思われるところにレスをする心がけをしているので、研修会以外の場でも勝手にそのように動いている。(これをして身についてきたという表現になったと思う)
今回の春の研修会では、ただ感情を追うのではなく、”主題”を意識するステップに来ていると感じている。
もう一方で、聞いてもらうという体験を考えたときに、私はうなづきやレスをもらうと「沿ってもらっている」とうれしくなり、結果話そうと思っていなかった腹底の思いが出てくる驚きがある。まだカウンセリングとしての経験の浅い私は、自分がうれしかったことなら相手にも同じじゃないかという錯覚があった。
それを錯覚だと思ったことと、まだまだ未熟だと受け止めたことが今のところかな。
とりあえず、こんなところを書いてみたかった。
まだまだ、上手く言えてない気もするが。