コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

報恩講 1日目

2009-01-12 00:39:25 | 真宗
年末年始、なにかと仕事が立て込んだり、疲れや寒さのために夜遅くパソコンに向かうのを避けてたりすると、ブログ更新がままならないなぁと感じております。

ということを言い訳しながら、今日をきっかけにまたできるだけ更新していきたいなと。

で、今日は華光会の報恩講でした。
浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の御恩徳をしのびながら、でもただ感心したりありがたがったりするのではなく、そのご苦労によってのこされた「法」の相続をわが身を通じて確認する大事な法座です。

法要のあと、2座ご法話があり、それぞれに座談会があります。
奇しくも2座とも「いかに自分というものが駄目なやつか」ということを、損得や驕慢の心を通じて見せ付けられるお話です。
座談でも、そういう自分を懺悔する流れが多くなるのですが、ひとつ間違えるとそういう「懺悔する自分」というところに価値をつけてしまい、正しい方向に進んでいると勘違いしてしまいます。

ひとつ大事なことが抜けるんですね。
そういう「懺悔しなくてはいけないよな自分」というのは、どこへ行くのか。
法話で照らし出されて、懺悔している(フリ)など私のしてきたことのほんの一部であり、このみに宿った業というのはとても自分で振り返れるものではない。
「出て行く後生」はちょっとやそっとの懺悔でホッとできるようなものじゃないんですね。

そんな「宿業」のかたまりの私がここに「在る」からこそ、仏願を起こさずにおれなかったということ。
ただ単に「救ってくれる」からありがたがっている場合ではないんですよね。

そのことを明確に伝え残してくださったから、今ここにある浄土真宗に出会える…

恩に報いるのは、ただ感謝したり崇める事ではなく、誰でもないこの私が「南無」に応え「南無」と返すことだけですね。

南無阿弥陀仏