GWも終わりましたね。
私は、本業は休みなれど、副業のほうは連休中もあり、その合間を縫って永代経にお参りさせていただきました。
3日間の法座ですが、大方の方は3日間この法座のために時間をやりくりして、法座漬けの日々を送られます。
しかし私は、普段の生活の中に組み込まれる形で参加。
これが良いのか悪いのか…
まぁ、家から歩いても10分かからない場所が会場ですから、家での用事や仕事と”折り合い”をつけて参加できます。
しかもそれで「フル参加」出来るのですから(体力的な問題はありますが)
「そんな心がけで法座に臨むなんて」ってなお叱りもあるかもしれませんね。
でも考えようによっては、そういう”折り合い”がつけられず、「生活か法か」なんて選択を迫られたら「生活」を取りかねない輩だってことは百も承知です。
そんな輩が、環境のおかげで「どっちつかず」のまま、法に浸らせていただける。
しかも、「役割」が与えられることで、「油断」しか出来ないやつが「油断できない状況」に置かれる。
そんな周辺状況でありながら、私自身はちっとも困っていません。
そこにブレないものが末通ってるんですね。
今回は人数限定の小グループ座談を担当しました。
合間の夜中に副業に出かけたりすることもあったので、代理が聞かない「一人先生・司会状態」は荷が重いかなという懸念もあったんですが、「限られた時間で法を伝えるアプローチ」の中でこういう少人数でゆっくり話を聞く場の重要性は、最近の私の関心ごとでもありましたし、「私しか出来ない」っていう自負もありましたので引き受けました。
「私しか出来ない」って言うのは、なにも能力的なことではなく、ちゃんとした「先生」の場所には多くの方が殺到されますから「3人限定」なんていう場は持ちにくいでしょうね。
本当は先生方も一人一人の話をじっくり聞きたいという気持ちを持っておられるでしょう。
また逆に大人数が集まる場には多くの「法を伝えたい」という方も参加されます。
時には一人の求める方に複数の方が「お勧め」される場面もあるでしょう。
そのことに功罪があったりします。
なんといいますか、「畳み掛ける」ということの必要性も捨てがたいのですが、それが「押し付け」になり、「領解」とは少しずれた伝わり方になることもあります。
今回、3日間少人数のグループでは、「ゆっくり」ならではの深まりです。
私がなにか伝える事をしなくても、お一人お一人が「今の自分」を語ることで、その語りの中から現れる「言葉」に自ら気付かれていかれます。
そこに「仏願のはたらき」があることをその都度都度確認していくお手伝いをするだけ。
一見、大きな心境の変化は現れていないようにも思われますが、今まで「そう思わないといけない」と受け止めていたものが、押し付けや詮索ではなく、「こう聞かしてもらっていた」と腑に落ちるという楽な感覚で動いていたように思います。
「人数の多いところで責められて”傷つく”から、やさしい高橋の部屋」だと思ってる方もいるようですが、別にカウンセリング的な場所にしているつもりはありません。
多少口調はやさしいかもしれませんが、「真綿で首を締める高橋」と若者に言われるように、大事なことは外していないつもりです。
小人数だから、一人一人の話をゆっくり聞ける(邪魔されない)という要素は大きいでしょうけど。
そのことを大事に出来る背景には、カウンセリングで学んだ関わり方、非暴力の考え方に根ざしてはいます。
しかし、人間同士の関わりを超えた「出世間の教え」は外せません。
いい気分で終われるもんじゃない、「わが身の真実」をごまかすことは出来ませんから。
ただ、それが「責め」と受け取るのではなく「気付き」であるということだけ。
法座で感じたことをいろいろ書こうと思ったんですが、大まかな印象のところで長くなっちゃいました。
今日はこの辺にしておきます。
私は、本業は休みなれど、副業のほうは連休中もあり、その合間を縫って永代経にお参りさせていただきました。
3日間の法座ですが、大方の方は3日間この法座のために時間をやりくりして、法座漬けの日々を送られます。
しかし私は、普段の生活の中に組み込まれる形で参加。
これが良いのか悪いのか…
まぁ、家から歩いても10分かからない場所が会場ですから、家での用事や仕事と”折り合い”をつけて参加できます。
しかもそれで「フル参加」出来るのですから(体力的な問題はありますが)
「そんな心がけで法座に臨むなんて」ってなお叱りもあるかもしれませんね。
でも考えようによっては、そういう”折り合い”がつけられず、「生活か法か」なんて選択を迫られたら「生活」を取りかねない輩だってことは百も承知です。
そんな輩が、環境のおかげで「どっちつかず」のまま、法に浸らせていただける。
しかも、「役割」が与えられることで、「油断」しか出来ないやつが「油断できない状況」に置かれる。
そんな周辺状況でありながら、私自身はちっとも困っていません。
そこにブレないものが末通ってるんですね。
今回は人数限定の小グループ座談を担当しました。
合間の夜中に副業に出かけたりすることもあったので、代理が聞かない「一人先生・司会状態」は荷が重いかなという懸念もあったんですが、「限られた時間で法を伝えるアプローチ」の中でこういう少人数でゆっくり話を聞く場の重要性は、最近の私の関心ごとでもありましたし、「私しか出来ない」っていう自負もありましたので引き受けました。
「私しか出来ない」って言うのは、なにも能力的なことではなく、ちゃんとした「先生」の場所には多くの方が殺到されますから「3人限定」なんていう場は持ちにくいでしょうね。
本当は先生方も一人一人の話をじっくり聞きたいという気持ちを持っておられるでしょう。
また逆に大人数が集まる場には多くの「法を伝えたい」という方も参加されます。
時には一人の求める方に複数の方が「お勧め」される場面もあるでしょう。
そのことに功罪があったりします。
なんといいますか、「畳み掛ける」ということの必要性も捨てがたいのですが、それが「押し付け」になり、「領解」とは少しずれた伝わり方になることもあります。
今回、3日間少人数のグループでは、「ゆっくり」ならではの深まりです。
私がなにか伝える事をしなくても、お一人お一人が「今の自分」を語ることで、その語りの中から現れる「言葉」に自ら気付かれていかれます。
そこに「仏願のはたらき」があることをその都度都度確認していくお手伝いをするだけ。
一見、大きな心境の変化は現れていないようにも思われますが、今まで「そう思わないといけない」と受け止めていたものが、押し付けや詮索ではなく、「こう聞かしてもらっていた」と腑に落ちるという楽な感覚で動いていたように思います。
「人数の多いところで責められて”傷つく”から、やさしい高橋の部屋」だと思ってる方もいるようですが、別にカウンセリング的な場所にしているつもりはありません。
多少口調はやさしいかもしれませんが、「真綿で首を締める高橋」と若者に言われるように、大事なことは外していないつもりです。
小人数だから、一人一人の話をゆっくり聞ける(邪魔されない)という要素は大きいでしょうけど。
そのことを大事に出来る背景には、カウンセリングで学んだ関わり方、非暴力の考え方に根ざしてはいます。
しかし、人間同士の関わりを超えた「出世間の教え」は外せません。
いい気分で終われるもんじゃない、「わが身の真実」をごまかすことは出来ませんから。
ただ、それが「責め」と受け取るのではなく「気付き」であるということだけ。
法座で感じたことをいろいろ書こうと思ったんですが、大まかな印象のところで長くなっちゃいました。
今日はこの辺にしておきます。