先週の日曜日は京都支部の家庭法座でした。
ご法話や座談での”中身”が大事なんで、そのことを書くべきなんでしょうが、私には「関わり方」の点で引きずってるものがあったりします。
その日の晩や翌日くらいに言葉に書き始めたのですが、少し時間を経た今のところで言葉にしておきたいと思ってます。
時間がたってるので、そのときの”事実”は薄れてきており、逆に”思い”は濃くなってきていますので、出来事はきっかけ程度としてお受け取りください。
(当日ご一緒したから見れば多少の印象違いはあると思います)
それは座談最後の先生の一言でした
「なんかみんなの話は言葉だけの気がするなぁ。積み重ねで話をしている。”今、死んでいく”という話なのに」
いやもう、おっしゃるとおりです。
一方で、「いや、それをおっしゃるならこんな最後じゃなくてもっと早い時点で言っていただいてたら…」なんて気持ちがわいたのも事実です。(かくしたって仕方ない)
そこには「自分なりに関わってきた」というものがひっくり返されたことに対する、受け入れがたいものがあったんでしょう。
座談後、一緒に関わっていたAさんが近づいてきて「きつい一発をもらいましたね」と言ってこられました。
そのときに私が返した思いが、私のすべてだったかもしれません。
「”今、死んでいく”ということを押し付けられても無理がある、やっぱりそこは自らの”気づき”じゃないと…」
この辺が最近の私の”関わり方”の根底にある気がする。
頭で思い込もうとしても無理。
感情で流されてもだめ。
そんな自分を超えたところで、”事実”と”事実を知らしめる縁”にふれて、気づかされるもの。
その”気づき”ってのは、とてもとても繊細なもので、人によっては劇的に「あぁ」と力強く出会うこともあるけど、多くは心の奥底でそおっと震える「あっ」ってもの。
それは、じっくりじっくりその本人の言葉で確認していくもの。
そう考えてみると、それまでの座談の流れの中で、ちょっとした心地悪さに蝕まれていたことを思い返す。
発言する方の言葉ではなく「それはこういうことですね」と関わる人のわかりやすい言葉に置き換える行為。
多くの言葉を費やして、発言する方の時間を分断・邪魔する行為。
過去の詮索や、関わる人の体験よりの同情。
それぞれに意味があることは理解してるが、他人の運転する車に乗って、ブレーキやアクセル、ハンドルの切り方のタイミングなんかが、自分と違って心地悪い感じ…
そう、その場を信頼できないし、任せて置けなかった。
この日の座談が良い悪いじゃなくて、私が目指しているものが照らされた感じ。
心の奥底でそおっと震える「あっ」ってもの…
時間の少ない多人数の座では、それを守っていくのは難しいかもしれない。
でも、大事にしたいし、それが実現できる場もいくつか体感している。
と、言葉にして落ち着いて考えたら、”どーーん”と事実を明らかにしてくださる先生が居られるからこそ、そこはお任せして動ける私がいるんだなと。
大事なことは、その関わりの渦中にある”人”を大事にするという大前提。
ただやさしくすることが大事じゃなく、責めることが大事じゃなく。
その”人”が、その人のまま”経験”することを邪魔しない。
広島での真宗カウンセリングWSが来週に迫ってきた。
この思いを再確認できる場になりそうな気がする。
(広島WSの申し込みは締め切られました)
ご法話や座談での”中身”が大事なんで、そのことを書くべきなんでしょうが、私には「関わり方」の点で引きずってるものがあったりします。
その日の晩や翌日くらいに言葉に書き始めたのですが、少し時間を経た今のところで言葉にしておきたいと思ってます。
時間がたってるので、そのときの”事実”は薄れてきており、逆に”思い”は濃くなってきていますので、出来事はきっかけ程度としてお受け取りください。
(当日ご一緒したから見れば多少の印象違いはあると思います)
それは座談最後の先生の一言でした
「なんかみんなの話は言葉だけの気がするなぁ。積み重ねで話をしている。”今、死んでいく”という話なのに」
いやもう、おっしゃるとおりです。
一方で、「いや、それをおっしゃるならこんな最後じゃなくてもっと早い時点で言っていただいてたら…」なんて気持ちがわいたのも事実です。(かくしたって仕方ない)
そこには「自分なりに関わってきた」というものがひっくり返されたことに対する、受け入れがたいものがあったんでしょう。
座談後、一緒に関わっていたAさんが近づいてきて「きつい一発をもらいましたね」と言ってこられました。
そのときに私が返した思いが、私のすべてだったかもしれません。
「”今、死んでいく”ということを押し付けられても無理がある、やっぱりそこは自らの”気づき”じゃないと…」
この辺が最近の私の”関わり方”の根底にある気がする。
頭で思い込もうとしても無理。
感情で流されてもだめ。
そんな自分を超えたところで、”事実”と”事実を知らしめる縁”にふれて、気づかされるもの。
その”気づき”ってのは、とてもとても繊細なもので、人によっては劇的に「あぁ」と力強く出会うこともあるけど、多くは心の奥底でそおっと震える「あっ」ってもの。
それは、じっくりじっくりその本人の言葉で確認していくもの。
そう考えてみると、それまでの座談の流れの中で、ちょっとした心地悪さに蝕まれていたことを思い返す。
発言する方の言葉ではなく「それはこういうことですね」と関わる人のわかりやすい言葉に置き換える行為。
多くの言葉を費やして、発言する方の時間を分断・邪魔する行為。
過去の詮索や、関わる人の体験よりの同情。
それぞれに意味があることは理解してるが、他人の運転する車に乗って、ブレーキやアクセル、ハンドルの切り方のタイミングなんかが、自分と違って心地悪い感じ…
そう、その場を信頼できないし、任せて置けなかった。
この日の座談が良い悪いじゃなくて、私が目指しているものが照らされた感じ。
心の奥底でそおっと震える「あっ」ってもの…
時間の少ない多人数の座では、それを守っていくのは難しいかもしれない。
でも、大事にしたいし、それが実現できる場もいくつか体感している。
と、言葉にして落ち着いて考えたら、”どーーん”と事実を明らかにしてくださる先生が居られるからこそ、そこはお任せして動ける私がいるんだなと。
大事なことは、その関わりの渦中にある”人”を大事にするという大前提。
ただやさしくすることが大事じゃなく、責めることが大事じゃなく。
その”人”が、その人のまま”経験”することを邪魔しない。
広島での真宗カウンセリングWSが来週に迫ってきた。
この思いを再確認できる場になりそうな気がする。
(広島WSの申し込みは締め切られました)