週明けの(飛び石)連休に法座があるんで、今週はちょっと頑張って早めの更新。
ってことで、火曜日のエンカウンターグループも8回目になりました。
今回はちょっと真宗よりの2時間。
話題の流れが仏法に関わるものになりました。
お念仏の話題から、声明の実践があったり、儀礼の話題まで。
それらも、各自が自由に思い思いのところで話題に参加するもよししないもよし。
まさに、真宗カウンセリングのエンカウンターグループでしたね。
ちぇんとしたお作法にもしっかり意義があって、いくら「信心が大事で行はいらない」とはいえ、正しい姿勢・意識をおろそかにしていいものじゃない・・・。
というか、真実に至る道としては、心に響く感覚的なものから入っていく道もあるんですよね。
今回、お声明を学んでいる方が、流れの中で一節披露してくださったんですが、その声が耳ではなく頭骨に響いてきました。
それだけでもとても心地いいものです。
次に、その一節の言葉と意味を話してくださいました。
弥陀の心と、善導大師の心が、胸に響いてきました。
「あぁ、この声、きれいだな~」ってところから心を揺さぶられ、興味を持ち、その言葉を知ることになり、本願に触れていく…
法を求める人に合わせて、いろんな道があるはずです。
どんな形でも会わせていただける。
阿弥陀仏のほうの力は、あらゆる時間・場所・手段にあまねく働いていますもんね。
それをこちらが勝手に、これは合う合わないってごねてるだなぁって。
もうひとつ、話題の流れで、「宗教の言葉が誰でもわかるようにコンパクトになっていればいいのに」というものがありました。
うん、言葉を理解しようと思うと、結構難しいですね。
でも、それらのエッセンスが「南無阿弥陀仏」の六字になっているってことほどコンパクトなものはないなと。
ひとによっては「ナマンダ」だったり「ナーモー」だったり「マンマンチャンアン」だったりしますが、誰でも称えられるようになってる。
その意味が解ってない、伝わってない、と思うのは、私のほうの解りたいって欲の問題で、その一言がこの口から飛び出すってことは「お働き」が届いてることなんですよね。
じゃぁ、こどもや赤ん坊でも信心がいただけるのか?・・・なんてお尋ねを耳にすることもありますが、そんなことを確認することに意味があるとは思えないんですね。
この「わたし」にはどうなんだ?ってことが大事で、しのごの言ってないで一言称えさせてもらえばいいだけのことですね。
人の口からでてくる南無阿弥陀仏の音が届いて、心が震えるときに、そっとでもいいから私の口から称えさせてもらう。
そんな不思議なことはありませんから。
不思議ってのは思議を越えてるって事です。
この頭であれこれかんぐっても仕方ないってね。
次の日(水曜日)に月例会があったんだけど、私用でお休み。
今年度の論文輪読はいままで皆勤賞だったので、ちょっと残念。
いや、皆勤賞のことより、月に一度の素敵な時間を逃したのがね。