コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

めいめいのおん計らいでどうぞ

2013-01-06 02:10:33 | 日常雑感

新年を迎えてはや1週間。
年明けは例年通り連れ合いの実家寺にて、子どもらと除夜の鐘を突きながら迎える。
大晦日の「除夜会」・明けて「元旦会」であげさせていただいた「正信偈」から飛び込んでくるお味わいや、池永先生のご法話にて聞かせていただいたこと、またよきせぬ形で、池永先生と二人っきりで話させていただく機会に恵まれ「真宗とカウンセリング」について語り合ったことなど、早々に深い日々をすごさせていただいた。

一方で、皆様からのご挨拶をいろいろいただき感謝。

そんな賀状の中に、思いのほか多くいただいた「どうした高橋?!」の文字。
私ごときの動向がこれほど多くのかたにご心配をかけているとは、うれしさ半分戸惑い半分で(苦笑)

お一人お一人にお応えする機会もいずれはあるかもしれませんが、不精の私としてはここでまとめて(笑)
(なんのことかよくわからない方は軽く流しといてくださいな)


とはいえ、語れないことも多々ありますので、うわべだけになりそうですが。


今回、ある組織を退会することで気づいてきたことがいろいろあります。
私自身の信仰として、浄土真宗を通じて「阿弥陀仏の願い」に触れさせていただいた事は間違いなく、帰依すべきは「南無阿弥陀仏」だけなのははっきりとしてますね。
ただ、それは「どう聞かせていただいた」ではなく、「何を聞かせていただいた」かということ。
大本の「ご本願」が私にかかるものでありますので、そのことを「今、ここ、私」に伝わるための「お釈迦様・仏教」であり、「親鸞聖人・浄土真宗」であり、「K会」の位置づけがあります。
その流れがなければ今の私はない。
しかし、あくまで私にかかるのは「弥陀の本願」であり、どこかへの所属や名乗りで区分けされるべきものではありません。
そのことを一番私にあった形で伝えてくださっていたのが「K会」の先生方であるのは間違いないですしね。
なので、わざわざ他に求めたり、比較する必要はなかった。

が、所詮人間ですので、その関係性には様々な諸毒が混じってまいります。
仏教が分かれていったり、浄土真宗が組織化されたり分かれたり、挙句の果てには争ったり…こういうことで「本願」が変わろうはずもないのですが、人間ってのは厄介で「うちが本家だ、正統だ」などと、ね。
そのことで、ご本願がどこかの専売特許になったり、商標登録されるべきものなら困ったものではありますが。
逆にいえば、真宗門徒と名乗ろうが名乗るまいが、仏教徒と名乗ろうが名乗るまいが、そんなものは人間レベルのもので「ご本願の対象」としてはなんの意味も成さなかったりします。
そういうレベルで、私は「K会」に固執する必然はなくなってます。
それは逆にむりやり「K会」と袂を分かつ必然もないってこと。
行きたいときに行けばいいし、行きたくないときには行かなくてもいい。
その判断基準は「今私がお念仏を称えやすいのは…」ってところだけでね。
(そういう意味では、こうして「K会」のことを語るだけでお念仏に帰らせてもらえますからねぇ)

ただ、同人組織として考えるときにはちょっと違う考えも混じってくる。
と、この部分は「立場上知りえた」事柄にも起因しますので、カウンセラーとして秘匿義務の大事さを教えてもらった身としては書けなくなってくる(笑)
もうすでにこの2行を書くだけでも”差し障り”が出てきますしね。

 

で、別の側面として私自身のことを”少しだけ”開いておきますと…
上記とおり”ご法”を聴かせて頂く身としては何ら変わりはないという上で、人間的な部分でやはり”所属”には価値をつけたくなるし、大事にしたくなる。
そうすると「私にとってのK会は」ということを考え出す。
おそらくこれは10人集まれば10通り、100人集まれば100通りのものがあるはず。
じゃあどうどうと「こうあってほしい」というものを打ち出せばいいし、そういう声の集まりが(人間として)民主的に組織作りを行っていく。
ところが、今の状況で私の「こうあってほしい」ということを打ち出そうとすれば、「じゃあ、今はそれとどう違うの?」ということも触れる必要が出てくる。
そこが私にはネックで、例の「立場上…」ということが絡んでくるし言えない。
「言いたいことがあるのに言えない」という事ははなはだ苦しいものでして。
じゃあ、組織を離れてしまえばどう転がっていこうが私が思い悩むものではなくなってくる。
(離れてなお責め続ける、現代的な復讐に陥る危険もありますがね)

ほら、書こうと思うともう差し障りが出てくる(苦笑)

ご法の場として「そのままのお目当ての姿」であったり、カウンセリングの場として「ありのままでいて良い」という状況が阻害される可能性があるとき、無理してその場に身を置くことは不自由この上ないし、そんなものは求められていないし。

そうして距離を置くことで、ご法との向き合い方や、カウンセリングの学びに支障が出るのならば(後者は少なからず影響は出てくるかもだけど)困ったものだけど、今のところそうとも思えない。
むしろ、今までと違った側面で「私がお聞かせいただいているところは」と言う刺激を思わぬところからいただいている。

 

ということを、書いては消し書いては消しの年末年始(笑)
ご心配してくださった方々に「心配ないですよ」と言うだけでよかった気もしながら、多少の差し障りはご容赦いただいて、私なりの道を歩んでおりますので、交差する際は「アホなやつやなぁ」のお叱りとともに声かけてやってくださいな。