生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

『看護師ならば働きながら1年くらいでほぼ医師みたいな特定看護師になれる本』

2020年12月01日 06時07分24秒 | 読書

昨日、ポストにちょっと大きな郵便物が入っていました。

それが表題の本。著者の松本先生に頂きました。本好きの私が一番うれしいこと・・・それは本を頂くこと。松本先生には10冊ぐらい頂いているかな。ありがたいことです。松本先生以外にも、時々、著者から本を頂くことがありますが、すべて手元に残っています。そりゃ、常識的にも頂いた本を処分できないわな。

それにしても、長~いタイトル・・・

長すぎる(笑)。看護師向けの本ですが、ちょっと、まだ未読なので、コメントすることはできません。

それにしても、看護師に絡む本が手元に多数あります。松本先生の書いた本や、通教の先輩、宮子先生の書かれた本やら。私自身、知人にナースが多いし。産能のゼミもナース多数、産能の院もナースがいたし、明星の院でもナースが多いし。そういう意味では、普通のサラリーマンと比べて、ナースの知人は10倍以上いるのでは・・・と思います。名刺ホルダーには何枚も「××病院看護師長」とか複数ありますから(笑)というか、そもそも、普通のサラリーマンでナースと飲み会に行った人間は何人いるやら。私が産能時代の飲み会の多くは誰かしらナースがいたし、ゼミの総会も周囲は看護師だらけだし。

通教やっていると、かなりの確率でナースと遭遇します。なんせ、看護師の方々は努力家で研究熱心で向上心が高いですから。加えて、通教で単位を積み上げて、機構で学士(看護学)を目指す方もいますので、お話を伺うことが多いわけで。

本当、本業が忙しい上に、本業以外にも研究成果発表とか課題も抱えているのに、更に、上を目指して大学や大学院に進学されるナースを私は尊敬してしまいます。飲み会で話をしても、ちゃらちゃらした話題ではなく、それなりにまっとうな内容で攻めてくるし。生半可な感覚でかわしていると、足元をすくわれます。

ですので、このタイトルの長~い本も、前向きに学習に取り組む看護師に福音になるものと思っています。

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『川越の書生さん』

2020年06月28日 14時02分49秒 | 読書

川越に行った際、「埼玉県民、うっかりハマり中。」と書かれた本のポスターを見つけました。

「笑える川越恋物語」が書籍名かと思ったら「川越の書生さん」が正解のようで。どうせ漫画だし、買おうか迷ったのですが、家内の「タイトルからして、川越じゃないと売ってないかもよ」との一言で購入決定。しかも1巻と2巻両方とも。

思ったより普通。埼玉県民のあるある満載かと思ったところ、それほどでもなく、川越恋物語って一面の方がウエイト大きい。

せっかく行田市が出てくるのなら、さきたま古墳群も出て欲しかったなぁ・・・

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お~い、丼

2020年01月31日 06時00分10秒 | 読書

鶴舞中央図書館で借りてきた本。

ちくま文庫<br> おーい、丼―満腹どんぶりアンソロジー

最近、本を読んでいなかったので、リハビリにちょうどいいかな~と思い借りてきた本。

P.181にサザエ丼が取り上げられており、志賀島の「中西食堂」が紹介されていた。そう、サザエ丼といえば、2005年7月10日に「思い出にのこるおいしい食べ物」で10番目にリストアップした食べ物。これを取り上げてくれた安西水丸氏に敬意を表したい。

あるいはP.293で、篠田正浩氏は「宮鍵」の鰻を上げている。

そして、問題はP.306-308において、團伊玖磨氏が取り上げたうな丼の「新甫」。実は、このお店、先の土曜日、1月25日に訪問していた・・・

会社の同僚が紹介してくれたのだが、11時頃に「どてスパ」=麺300gを食べたばかりで、さすがに、14時15分の段階では、暖簾をくぐるのを躊躇し、見送ったお店・・・店の前までいったのに。残念!

でも、そんなに空腹じゃなかったし、営業時間終了の15分前だったし、店頭に鰻の値段がでておらず、あと一歩を踏み出すことができなかった。ちなみに、ネットの情報では鰻丼2900円、まぶしが4350円!

2ヶ月ぶりに、ようやく1冊読めたことに感謝したい。といっても、どんぶりの雑学本だけど(笑)。

 

 

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なぜ学歴・学校歴が重視されるのか?

2019年04月13日 05時45分31秒 | 読書

鶴舞中央図書館で借りた『キャリアのみかた 図で見る109のポイント』という有斐閣の本。

自分の専門は「キャリア」だったことを思い出し、図書館で借りてきたキャリア開発関連の6冊の本のうちの一冊。大学生の就活コーナーにあった本です。

タイトルの「なぜ学歴・学校歴が重視されるのか?」ということに違和感を覚えながらも、著者は「大学での学習が100%社会で役にたつわけではないし、たとえ大学での学習が社会でまったく役に立たないとしても、大学へ進学することが人々の潜在能力の目安(シグナル)として機能する場合、やはり学歴間で賃金格差が生じることとになる。これを大学(学歴)の「シグナリング効果」と呼ぶ」としています。

特に文系において、大学卒業の学歴、あるいは有名大学卒業という学校歴は、今後の企業内教育によって、伸びる資質があるという「潜在能力」のシグナルとされ、結果「学歴・学校歴が重視される」というストーリーなのです。

ですので、学歴がなくても、あるいは有名大学を卒業していなくても、伸びる資質があることさえ証明できれば、もしくは、既に資質を具現化できるほどのキャリアを確立できていれば、それがシグナルとして代用できるわけです。

ただ、これだけネット社会が進展し、自己の保有スキルを簡単に世に知らしめることができる現代においても、「一芸」を納得させるレベルに達する人は一握りにすら至りません。

結果、シグナル≒「学歴」「学校歴」「資格」「受賞歴」と言った、第三者が見て、客観的にその保有スキルが把握できるものが必要なわけです。でも、そんな紙切れにしか頼れない、弱っちい「実力」では、その他大勢との差は有って無きが如く。「自分はできる人間」と思っていても、どんぐりの背比べぐらいの違いしかなく、己の虚勢はメッキのように1年もしないうちにはがれていく・・・。

「出世して偉くなる」というのが目標なら、本当の実力がないと、目標実現は困難極まりないことでしょう。しかし、すべての人が、それを目標にしているわけではありません。カルロス・ゴーンのように、経営トップとなったにもかかわらず、獄中に収監されてしまう者もいれば、隣国の大統領のように、国のトップの次は「牢屋の中」か「暗殺」か「自殺」という事例もあります。

分不相応に偉くなってしまうとメンタルを病んでしまうこともしばしば。「有能な部下」に「無能な上司」と聞こえるように囁かれ、「給料ドロボー」と言われたり、残務を全部引き取らされ、上からも仕事が振られて、ミスがあれば、すべて自分の責任とされ・・・責任感の塊のような人なら、メンタル不全となり、正常な判断ができなくなってしまい、「最悪の選択」をしてしまうかもしれません。

シグナルとなるものを保有することは、キャリアを見越していく中で有益と思いますが、何を目標にするか、あるいは、自分の進むべき道は何か、何に幸せを求めるのかといった価値観の軸を固めておかないと、後々、思っていた未来と大きくかけ離れた現実が突きつけられることとなります。無論、それも人生、すべてを受け入れるというのも選択肢ですが、あまりに違い過ぎると、それがストレスとなり、それから解放されるがために、築いてきた社会的ステータスをゼロクリアせざるを得ない結果にもなりかねません。

51歳にもなって、「大学生時代(今も学生ですが)にもっと真剣にキャリアを考えておけばよかったかな・・・」と、ちょっと後悔してしまう自分自身に、なんとなく虚しさや悲しさ、あるいは悔しさにも似た、モヤモヤした気持ちを感じてしまうのでした。

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人気ブログとは・・・

2019年04月12日 21時48分35秒 | 読書

鶴舞中央図書館で借りた「ダブルキャリア 新しい生き方の提案」という本。

10年以上前に発刊された本で、残念ながら、中身は、以前読んだことのある本でした。ついつい、興味のあるテーマの本は、何度も読んだり、場合によっては、何度も買ってしまうことすらあります。

ただ、この本で「?」と思ったのが、p.31にあった文章。大手メーカー社員としての本業と、ダブルキャリアとしてのウインドサーフィンに関わる副業を検討している場面が書かれている点。海外のサーフィン情報を紹介するブログを立ち上げたところで、「夏場では一日400アクセスを超える人気ブログに成長し・・・」と文章は続きます。

アクセス400って、拙ブログの昨日の訪問者数は521IPですので、ひょっとして、この「生涯学習の部屋」ってブログは「人気ブログ」なのか(笑)。まさか、そんなことはないのでしょうが、昔と比べれば、それ相応に、多くの方々が閲覧してくださっているのは事実。ありがたいことです。

問題は、そのアクセス件数に見合った情報を提供できていないこと。「生涯学習」について検索したつもりが、「味噌カツ」とか「どて煮」とか「へぼ飯」の奇妙奇天烈な画像を見せられたらたまったもんやあらへん。「騙された!」ってことになるでしょう。

正直、「生涯学習」に特化したブログでもなければ、「大学院受験」や「大学卒業」について、テーマを絞ったブログでもありません。雑多で、一貫性のない、単身赴任中の、中年オヤジの、戯言の域を出ない、名古屋飯とか、ローカル線とか、B級情報が、時々洪水のごとく更新される変なブログ。洪水のように更新したかと思ったら、1週間なにも更新しないとか・・・そんなふざけたブログがどれだけの方々の共感を得られるものか。一部の同志以外は、一見の「騙されたじゃん・・・」って人ばかりなのでは・・・と危惧し、恐怖に怯えております。

 

ということで、拙ブログに辿り着き、期待した結果が得られなかったと思われた方には対しましては、この場をお借りし、謹んでお詫びいたします。でも、こんな更新の仕方で、もう15年近くやってきておりますので、ご容赦いただきますよう、重ねてお願い申し上げます。

 

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『あざむかれる知性』

2018年03月03日 08時57分21秒 | 読書

これから返却に行く鶴舞中央図書館で借りていた本。

最近は、専門書を読むだけの「パワー」が枯渇しており、新書レベルでリハビリをしているところ。なんせ、12月15日から2月15日まで、2か月間も「無読の日々」がつづいていたのですから。

この本のp.78に「高タンパク質ダイエット」という見出しがあります。それによると「2013年、シュウィングシャクルらは、高タンパク質ダイエットの長期的効果について、データベースから15のランダム化比較研究を選び、メタ分析を行った。高タンパク質ダイエットは体重、腹囲、脂肪量、血液中の脂質、炎症性タンパク質、血圧、空腹時血糖値など、低タンパク質ダイエットと違いがなかった」としています。

また、p.77では「炭水化物制限ダイエット」という見出しがあります。それによると「2014年、ナウデらは、炭水化物制限ダイエット(高タンパク質と高脂質)と通常のダイエットを総摂取カロリーを統制した上で体重減少にどの程度影響があるか、179の研究から19研究を選抜してメタ分析を行った。健常者の体重減少に関しては、3~6か月後では、炭水化物制限ダイエットがわずかに効果がある場合があった。しかし、1~2年後では効果がなかった・・・血圧、コレステロール、中性脂肪、空腹時血中ブドウ糖も同様であった。したがって、炭水化物制限ダイエットと通常のバランス・ダイエットとは実質的な違いがなかった」としています。

結局、総摂取カロリーを減らして運動していればやせるというのが結論。インパクトのあるCMが流れるので、炭水化物を削れば痩せそうな気もしますが、やはり、まずは摂取カロリーを減らさないと。というか、タンパク質ばっかり食べてたら死亡率が5.9%アップするというデータもこの本にはあったので。死んでまで痩せたいですか?

私は名古屋にきてから社会人最軽量を何度も更新していますが、基本、「炭水化物大好きダイエット」となっています。単身なので基本1人前しか食べないし、平日は毎朝「腕立て」「スクワット」「背筋」「腹筋」を鍛えています。加えて、毎日1万歩以上歩き、何等かの理由で歩けなかったとしても、週7万歩はキープしています。

本当、誤った情報で、我々の知性は欺かれ続けています。昨日の常識が、今日のフェイクニュースとなる時代。自分を信じてアクションしないと、嘘の宣伝の片棒を手伝ってしまい、信頼を失ってしまうことでしょう。

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『子供は理系にせよ!』

2018年03月02日 22時57分33秒 | 読書

鶴舞にある中央図書館で本を借りているので明日返却しに行かなければなりません。

その中の1冊。『子供は理系にせよ!』というインパクトのある名前の本。特に、昨年理系の大学に進学した子供を持つ親としては興味深い本です。

筆者は「大槻義彦」先生。この筆者を見た瞬間、「ああ、この本は、この手の本なのだな・・・」と間引いて読まなければならない本です。その思いの通り、p.8に「本書は文系をこき下ろし、徹底的に理系礼賛、科学至上主義手貫かれている」と、はじめにお断りされております(笑)。まあ、その程度の本ということです。まったく公平感に欠ける本ですが、それを前提に読めば、そんなに激怒しないものとなっております。

pp.99-100に書かれている文章を取り上げてみましょう。

理系は、

第一に、遊ばない、馬鹿な遊びをしない

第二に、馬鹿なお金を使わない、馬鹿なお金を儲けない

第三に、馬鹿な友人たちを作らない

第四に、生活に乱れがなく合理的で当たり前の生活をする

第五に、よい子供に恵まれる

さて、文系はどのように書かれているでしょう?打鍵が大変ですが、書き綴ります。

(一)遊び呆け、

(二)馬鹿なお金儲けをやり、馬鹿なお金を使い、

(三)馬鹿な友人たちを持ち、

(四)生活が乱れ、

(五)子どもの教育どころではないはずだ。

と締めくくっておられます(笑)。

加えて、p.197でも、「ここで言う理系とは、一流大学の理工系、医薬学系の学生、大学院生のことである」としておられ、平均にも届かないレベルの理系学生は、「本書で例として取り上げたケースは理系エリート、またはそれに近いものだけ」(p.9)の対象から大きく外れてしまっているわけです。

ここまで、はっきり書かれてしまうと、逆に反論しようとも思えてきません。もともと、文系だったときの私の友人たちは、大槻先生に言わせると、「さぞかしバカぞろい」だったのでしょう。私の友人に申し訳ない気持ちで一杯です。

とはいえ、私もありがたいことに、機構から学士(工学)を頂いたり、科学技術研究でも学位を頂いたり、あるいは、経営情報学の分野でも学士を得ているので、理系っぽくなってきました!しかし、一流大学の理工系ではないため、やはり、私の友人たちはバカぞろいってことになってしまうのでしょうか?

自分がバカと言われるのは、まあ、それ相応にバカなので許容できたとしても、友人までコケにされるのは暴論だな~と思ったりするのです。例えば、私の友人の「お医者さま」や「東工大修士さま」なんかは、友人でバカだけど、理系エリートという相反したものとなってしまいます。あるいは、よくコメントをくださる「teraさん」や「風竜胆さん」は、私は友人と思っていましたが、理系エリートなので、相手方は友人とは全く思っていないこととなってしまいます・・・その通りといわれてしまうかもしれないけど。

そもそも、昔と違い、今の学問は「理系」「文系」が明確に分けることができません。例えば「金融工学」「農業経済学」「経営情報学」「臨床心理」「経済地理学」等々。「環境学」や「統計学」なんかも、文理どちらかわかりづらいし。そんな状況下では、文理切り分けなんて無意味でしょう?

私として言えることは、「文系ボトムでもしっかり学習をした方は凄いし、理系エリートでも全然学ばないやつはバカである」ってこと。所詮、やらないやつは使えないし、一生懸命の者は何かしら輝くものですから。

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2ヶ月ぶりに・・・

2018年02月18日 21時54分13秒 | 読書

名古屋に来てから220冊目の本を読んだのが2017年12月15日。

そして、221冊目の本を読んだのが2018年2月15日。2ヶ月かかってしまいました。年末年始を含め帰省していた日が多かったことと、モチベーションが低下していることに加え、放送大学の単位認定試験があったことが一因かと反省しております。

通勤時間が短くなったことも要因ですが、意識して読んでいかないと、本当に堕落した生活に飲み込まれてしまいます。電車に乗らなければなりませんが、図書館にも意欲的に通いたいと思っています。

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『なぜ日本人は学ばなくなったのか』

2017年10月31日 21時24分27秒 | 読書
今日で名古屋に来てから633日目。

日本福祉大学に入学し、鶴舞中央図書館で本を借り始めたのが2016年6月13日。ようやく、200冊の本を読み終え、201冊目の本が表題の本。タイトルはインパクトがあるのですが、やはりこの著者の書いた本は軽いですね。残念ながら、15分ほどで読み終えました。私の特殊能力?として、労が少なく書いた本はすぐ読めて、人生を掛けるような渾身の1冊は何日たっても読めないというものがあります。ひどい本になると、10分もかからず読めてしまうのだから、本が嫌いになる人が多くなるのも首肯せざるをえません。まさに、玉石混交の時代。

さて、この著者の書いた内容ですが、賛同できるのは5割程度。というか、タイトルの「日本人は学ばなくなった」は「正」ですか?「誤」ですか?どう思われます?

一体、著者は何と何を比較して「日本人は学ばなくなった」と断定しているのでしょう?著者は大学の先生。「学生は本を読まなくなった」とか「飲み会にも参加しなくなった」とか仰せなのですが、そもそも、昔の人は本を読んでいたのでしょうか?

まず「平安時代」を考えてみましょう。人々は読んでいるでしょうか?というか、考える以前に、どれだけの本が日本に存在していたでしょう?次に「鎌倉時代」。日本人のうち、何割が文字を読めたのでしょう。あるいは「明治時代」。何割の日本人が「大学」に行っていたでしょう。明治時代といわず、昭和時代でもいいです。進学率はどれくらいでしょう。

そう、誰が考えてもわかることですが、大学進学率が高くなり、第三次産業に労働がシフトしている以上、昔以上に学ばないと仕事を得ることができないのです。加えて、日進月歩の技術革新や新しい学問が生まれている現代は、昔と比べて学んでいかないと生きてはいけないのです。

本当に、数十年前の人々と比べ、我々日本人はIT技術を学び、誰でもスマホや携帯で情報を湯水のごとく吸収しています。現代人は「教養がなくなった」と著者は嘆いておられますが、その昔、教養があったのはごく一部の文化人で、当時は「ブルーカラー」が大勢を占め、教養を持ち合わせてもいない、「肉体労働者」としての日本人がいた訳です。

この著者が書いたところで残念なのが「大学教授を引きずり下ろすテレビ」(pp.22-23)ってところ。バラエティ番組で大学の先生が失敗したところばかりが編集で残され、大学の先生がリスペクトされなくなったという感じのことが書かれているのですが、「おいおい、教養があるなら間違えるなよ!」って突っ込んでしまいます。編集されても失敗されたところが残る程度の、「ちんけな教養」であれば、そもそも、テレビ番組に出ることをお断りするのが、一般教養というか、社会人の身だしなみだろう!って思ってしまいます。

あるいは「東大生の蔵書の変遷」(P.89)ってのも残念。東大生に「読み捨てにするものを除いてあなたがいまもている本の冊数」を聞いたものがあるのですが、100冊以下のクラスが1974年の15%から2000年には37.1%に倍増しているとのこと。それを「少なくなった」と指摘しているわけです。
本当にそれが教養低下の証拠になると思います?

1974年と2000年では何が違うか?そう、インターネットの普及です。本を読まなくても、文字は読んでいるのです。加えて、ネット環境や娯楽の高度化が進み、色々なIT関連や娯楽関連のグッズが部屋を占拠していきます。本を置いておくスペースも縮小されます。あるいは、不動産が高騰し、そもそも部屋のスペースが狭くなっていき、本の置き場がなくなったのかもしれません。

ちなみに・・・著者は指摘していませんが、1974年と1989年の比較でも100冊以下は15%⇒34.8%となっております。34.8%と37.1%ならそんなに変化がありません。その前提条件において・・・2000年では201冊以上と集計基準が変わっており比較できないのですが、1974年で601冊以上蔵書のある人は7%、1989年は6.3%とほとんど変わっていません。著者は、このことをどう説明するのでしょうか?自分に都合のいいデータは取り上げ、都合の悪いデータは黙殺するのでしょうか?

人類が進化している以上、旧石器人より縄文人、縄文人より弥生人・・・といった感じで、時代が進むにつれ、文化は進展し、熟していきます。当然のごとく、平均的な個体を比較すれば、時代が進んでいくにつれ「知識」をはじめ「文化性」は高度化していきます。高度化していく過程において、学習しなければなりません。強制的かもしれませんが、中には自発的に学ぶ者もいるはずです。だからこそ、高校進学率は100%近くなり、大学進学率も右上がりになっているわけです。

その背景を無視して、昔の立派な人と、今の凡人を比較して、「学ばなくなった・・・」とまで言い切るのは、結構、勇気がいることだと思うのですが・・・

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『まずいラーメン屋はどこへ消えた?』

2017年10月29日 07時46分08秒 | 読書
鶴舞中央図書館で借りた本。

「まずいラーメン屋はどこへ消えた?」というタイトルだけで借りてしまいました。その昔、そう、私が大学生の時、それはそれは、大変「まずい定食屋」がありました。正式な名前はあったはずですが、私と友人たちは「水屋」と呼んでいました。命名フラ夫。理由は、「その定食屋で最も安心して口に入れることができるのがお冷(=水)だから」というもの。

「何故、こんなにまずい料理を出すことができるんだ?」というくらいの味。まあ、学生相手なので、確か、ご飯の大盛無料とかはあったと思うのですが、如何せん、「味付け」やら「食材」なんかがいただけない。

「まずいなら、そんなところ行かなければいいじゃん!」という方もいるかもしれませんが、入っていたクラブの部員が結構いたので、みんなで一緒に食事をするとなると、「絶対席が空いている」=「水屋」でないといけない訳で・・・

「水屋」の店頭には「犬」が繋がれていました・・・テーブルに炊飯器が置いてあって、ご飯食べ放題のトンカツ屋が満席、駅の飲食街にある和食の店も満席・・・仕方なく、私たちは「水屋」を選択するしか道が残されていませんでした。その日、「水屋の犬」は犬小屋のみで、その存在が消し去られていました。そして、、、その日の「水屋」のおすすめは「焼肉定食」でした・・・頭の中で、私たち全員、「水屋の犬」を心配してしまいました。無論、その日のおすすめを注文する仲間はいなかったのですが。

さて、話は戻って「まずいラーメン屋はどこへ消えた」のでしょう?私は、基本的に「ラーメンが大好き」なのですが、求めるレベルが高いので、巷のラーメン屋は、概ね、まずいラーメン屋となってしまいます。というか、「ラーメン通」を名乗っている人々で、中国や台湾に行って、そして、そこの路地裏で提供されているラーメンまで食している人々がどれくらいいるでしょう?

日本の有名店だけで満足し、それで「ラーメン通」を名乗ることは、もし「研究」に例えるなら、ちやほやされている分野の研究だけやって「専門家」を名乗っているのとあまり変わらないのでは・・・と思ってしまいます。ただ単に「ラーメン好き」の範囲内なら、ネットで上位の有名店だけを漁っていれば十分ですが、「ラーメン通」や「ラーメン専門家」を名乗るなら、まだまだ奥は深いわけで。私には、それができないから、ラーメンから撤収してしまいました。

それほど麺は奥が深い・・・私が到達した結論です。今から毎日ラーメンを食べたとしても、残り30年の人生だとすると、30年×365日×3食=約3万3千食べか食べることができません。日本だけで、ラーメン店は3万2千店あるそうです。あるいは、中華料理店等合算すると約20万店との話もあります。まあ、1日3食ではなく、5食とか10食食べればその数はもっと増えるかもしれませんが、日本ですら食べきれないわけですから、世界中のラーメンを食べつくすことは不可能です。

人生をかけて食べれる回数は決まっています。だからこそ、我々は「おいしいラーメン屋」を探して、極力「まずいラーメン屋」には行きたくないのです。しかし、昔は、それを効果的に行うことができなかった。もし、仮に「スマホ」も「タブレット」も「PC」もない状況で、「ラーメン小平」という店があったとすれば、そこが「美味しい」か「不味い」か判断できます?一度、食べてみないとわからないという結論に陥ると思います。

ネットが普及する前は、まさにその状況でした。ゆえに、どれほどまずくても、一見客の需要等があったわけです。だが、ここまでネットが発展すると、事前に口コミ情報をネットで検索するため、偶発的に来ていた一見客までいなくなってしまい、まずいラーメン屋は淘汰されてしまったのです。

本当、便利な時代と思えますが、私には、逆に恐ろしい時代としか見えません。いうなれば、「ネット至上主義」。どんなに繁盛していても、ネットで叩かれると、一気にアウトになってしまう時代。先ほど述べた「ラーメン通」ぶっている人にさえ、それなりの応対をしておかないと、「あること、ないこと」書かれて、一気に炎上してしまいます。

だからこそ、ネットの検索にものってこない、肝炎のリスクを冒してまで食べた、中国上海の路地裏ラーメンの記憶が貴重だと感じています。そう、信じることができるのは、己の舌と、インスピレーションのみですから。
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