生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

好きなことには誰でも120%の力を出せる

2015年08月13日 07時12分24秒 | 読書
本を読んでいて見つけたフレーズ。

「好きなことには誰でも120%の力が出せる。いくら仕事で疲れていても、好きなことなら苦にならない。」と書かれている。まあ、理解できないことではないし、納得感がある一文である。

ふと、思ったことは、「私の好きなこと」は何なのだろうという点。正直、自分自身、好きなことをが何かはっきりしていない。「生涯学習が趣味」とは、常々言っていることだが、その趣味は何かと聞かれると困ってしまう。

「勉強が好き」と見られがちだが、勉強するより昼寝が大好き。思い返すと「好きなことなら苦にならない。」というものは、それほどない。自分から窮地に追い込むことで学業を続けている。それが、本当に「好きなこと」といえるだろうか?

おかげさまで、「強制的学習法」を実践してきた結果、他者と比較して120%の力を発揮できる分野は多数築いてきたと思っている。しかし、自分を基準にして120%も力を出せる分野ってあるのだろうか。正直、何もせず、ゴロゴロしている方が大好きなのだから。

何かしら、120%の力を発揮できる分野を見つけたいものである。
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読書法

2015年08月13日 06時05分53秒 | 読書
夏休み、自宅でゴロゴロとしているが、ゴロゴロしている中でも少々の読書は続けている。

その読書の中で、読書法について書かれている一文を見つけた。「読書法は、ただひとつ、濫読せよという説があり、私もこの説に大賛成である。読書法はそれ以外にはない。言葉をかえれば、好奇心を失うなということになるだろうか。とくに若いうちは絶対に濫読が必要である。濫読の時期のなかった人は大成しないと極言してもいい。」

「凄い」説である。まず、「読書法はそれ以外にはない。」と言い切るところが「凄い」のである。私は、濫読の部類に入るだろうが、それは、読むに必要な本が見つからないからである。「いい本いっぱいあるよ!」って教えられた本は、教えてくださった方が、よほどの信奉者の方でなければ、天邪鬼な性格だからきっと読まない。芥川賞とか直木賞の本も読まない。とはいえ、図書館のおススメ本のコーナーなんかで、知らず知らずの間に読んでしまうこともあるだろうが。

そもそも、万人受けする本がすばらし本とは限らない。自分の感性にシンクロしないと感動しない。だから、線形代数とか、複素関数なんかのテキストを読んでも感動しない。逆に、わずか一文でも、心が震えるような表現を見つけると「この本を読んで得したな~」と思ってしまう。

さて、先の読書法に戻るが、次に「凄い」と思うところは、「濫読」≒「好奇心を失うな」としている点である。何も、読書でなくても、好奇心を維持する方法はいくらでもある。野外に出てもいいし、電車に乗ってもいい。あるいは友人と会話してもいいし、偉い方の講演会に参加してもいい。インターネットでも、テレビでも好奇心は充足できる。

そもそも、本がない時代にも、人間は好奇心を持ち続けてきた。だから人間となりえたのである。活版印刷術が発明されたため、大量の情報が大量の本となって世に出てきただけのことである。

そして、読書法突っ込みの最後だが「濫読の時期のなかった人は大成しないと極言してもいい。」と言い切っている。まず、私は大成していない(笑)。そもそも、大成とは何を指すのか?大金を得ることなのか、それとも出世することなのか、あるいは議員になることなのか・・・それぞれ、本を読んでいないけど、それなりに有名人になっている人は掃いて捨てるほどいると思う。

まあ、この読書法を書いた方の説は極端なのだが、首肯すべき点もあるし、この読書法の考え方には好感すら覚えている。読書万能論を展開するつもりはないが、読書にはそれなりの効用がある。何せ、気軽に、活字で、知らないことを知ることができるのだから便利である。時代を乗り切った本は、長い時間の中で精査され、信頼性が高い。作家が長年培ってきた経験をわずかな時間で吸収できる。場所を選ばない。廉価である。図書館から借りればタダである。

本当に本はすばらしい。聖書も、仏典も、書籍だから、正しく、多くの人に伝わる。本がなければ、稗田阿礼並の記憶力がないと追いつかない。昔なら、人生をかけて目にする活字の分量を、我々現代人は1日で目にすることができる。そして、読もうという意欲さえあれば、過去の人々の人生を1日でコンプリートすることができるのだ。無論、そんな昔なら、本を読めなかった人が99.9%以上なのだが。

忙しいから読めないというのは詭弁である。自分より忙しい人がコンスタントに本を読んでいるケースはザラにある。こんな、つまらぬブログに目を通す時間があるなら、本屋で一番山積みになっている本から読書を始めることをおススメしたい。
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「面倒だから、しよう」

2015年06月06日 09時18分59秒 | 読書
曰くありげなタイトルの本であるが、まともな本である。

筆者はノートルダム修道女会のシスターであり、ノートルダム清心学園理事長だそうだ。キリスト教精神に基づくものの、ところどころに、人としての煩悩っぽい反省がかかれた本であり、内容については首肯できるものが多い。

その中で、1点、ハッと気付かされたところが、pp.155-156に書かれた看護についての部分。「看護の「看」という字は「手」と「目」と書きます。お薬などももちろん大事ですが、看護の原点は温かい手とまなざしであり、そのぬくもりにより人の心は癒され、満たされるのです。」と書かれています。

いや~気がつかなかった。看護の「看」は「手」と「目」なんですね。本当に、尊く感じてしまいます。
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『「本当に使える」勉強法』

2015年04月17日 05時09分18秒 | 読書
ある意味、凄い本だと思う。

私が「勉強法」として書いてきたことを、ほとんど網羅している。そして、「500冊を読んでわかった究極の勉強法!」と書かれている・・・この著者は、なんと無駄な時間を投下してしまったのだろう。とはいえ、私も同じように、多数の自己啓発本に、無駄な時間を費やしているのだが(笑)。

さて、この本では「実用性」「読みやすさ」「おススメ度」の3項目において、「A」「B」「C」の評価がなされているのであるが、取り上げられたほとんどの本が「C」「C」「C」とこき下ろされている。

本当に、数冊ぐらいしか肯定的に書かれていない。まあ、勉強法の本当はそういうものなのだろう。すべての人々に普遍的に合致する勉強法などないのだから。

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『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』

2015年02月11日 11時18分16秒 | 読書
小平市立図書館で借りてきた本。

筆者は2012年10月2日に41歳で逝去された。流通ジャーナリストとして活躍し、各種メディアにもよく出ておられたので知っている方も多いかもしれない。

私のような生涯学習に勤しんでいる者にとっては、2009年に京都産業大学大学院経済学研究科(通信教育課程)を修了されたことで有名な方でもある。

で、今回、この本を読んでみたところ、故金子氏は高野山大学大学院にも在籍していたことを発見した。

「6月初頭にがんの可能性を指摘された後、真言宗の総本山にある高野山大学大学院の通信教育課程の願書を取り寄せることもしていた。やはり死にたくない、死ぬのが怖い・・・だから大学院に通って、死生学を学ぼうと思ったのだ。オペの後、受験し、無事に合格することができた。」(p.87)と書かれている。

しかし、「高野山大学大学院を志半ばで病気により辞めた」(p.121)とある。

「夏に願書を出し、入学したのが2011年9月。面接試験や論文も、あの状態でよく受かったものだと思う。生きるか死ぬかについて真剣に学びたかった。正しい死に方を勉強したかった。でも実際は、日々の仕事のスケジュールをこなすのに精一杯で、勉強どころではなかったのだけれど」(p.140)と書かれている。

京都産業大学大学院で修士を取得されており、学位的に見れば、再び高野山大学大学院に入学する必要はないはずである。しかし、必要に駆られて?故金子氏は死に方がわからなかったため、すがる思いで密教学専攻の大学院に入学されたのだろう。

でも、間に合わなかった・・・だから、志半ばで退学せざるを得なかったし、勉強どころでもなかったのだろう。

ありがたいことに、私は偶然、死生学と出会うことができた。そして、学習に苦しみ、その結果、「何か」を見つけることができた。死生学だけでなく、グリーフケアやターミナルケア、老年学、人間学、仏教、宗教といったいろいろなことを学ぶこともできた。完全ではないけれど、何とか間に合った。

なんせ、ほどなく、今、生きている人々は死ぬのである。死に方がわかっていても、わかってなくても、平等に死は人間に訪れる。地球の歴史的な観点からすれば、人間の人生、長くても百数十年は、一瞬の出来事でしかないのである。

愛別離苦の言葉のとおり、愛する人々との別れは、必ず訪れる。苦しいことだが、受容せざるを得ないのである。

ムリして死に急ぐ必要もないが、同様に、ムリをしてまで死を避ける必要もない。なんせ、「死」は「生」の対義語ではなく、「生」という道の最後の終着点として鎮座しているものなのだから。だから、生きている以上、その「生」に意味があるように生きていきたいと願っている。

言葉では表現しにくいのだ、それが、私の学んだ「死生学」である。
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図書館へ!

2015年02月08日 23時29分16秒 | 読書
先週借りた本10冊が読み終わったので小平市立中央図書館に本を返却に行ってきました。

午後から雨が止んだので車ではなく自転車で。再度10冊借りてきました。各方面から借りている本は39冊。1日4冊のペースなら10日ほどで読み終えてしまいそうですが、ちょっと、難解な本もあるのでもう少し時間がかかりそうです。
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やる気がない中でも・・・

2015年01月26日 21時48分15秒 | 読書
なかなかやる気が出てこない。

まるで、修士を取得した後によく罹患する「燃え尽き症候群」のようである。まあ、8月9日からレポートを提出し始めて、1月12日までの5ヶ月強で、25通のレポートを書き終えたのだから、燃え尽きるのもやむを得まい。

最後の最後で「書けない病」も発症し、もう、精神的にも、肉体的にも破綻寸前まで戦ったというのが実情だろうか。レポートを書くために多数の本を読み漁った。よくは数えていないけど、武蔵野だけで150冊以上借りているのではないだろうか。放送大学でも借りたし、小平市の図書館でも本を借りた。

で、昨日、自転車で小平市立中央図書館に本を20冊返却し10冊借りてきた。武蔵野大学図書館で借りた本も、既に13冊読み終わっている。何もできないと言っているものの、コンスタントに本だけは読んでいるようである。

院生をやっていると、本を読まないことには始まらない。あるいは、論文を読んだり、学会誌に目を通したりしないことには、何のために学生をやっているのかわからなくなってしまう。そういう恐怖感に、いつも苛まれているから、精神的にも安定しないし落ち着かないのである。

私は仏教徒であるが、お坊さんではない。在家の門徒であり、仏教の素人である。その素人が小手先の学習で学ぶには限界がある。やはり、まずは100冊、仏教の本を読まないことには始まらない。

とりあえず、3つの図書館を活用して200冊以上読んでいるのだが、まだ、何も見えてこない。やはり、仏教の奥は深く、ちょっとやそっとでは体得できない。しかし、やらなければならない。やる気がなくても、やる気を喚起し続けるしかないのである。

ということで、やはり、本を読むしかないのだろう。

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いっせんだい

2014年11月13日 22時23分44秒 | 読書
その昔、そう、子どものころにはやった?ナゾナゾに「北海道から500台、鹿児島から500台の車が、お互い、南に、北に走った場合、どこで遭遇するでしょう」というものがあった。

賢明な読者の方々なら、簡単なナゾナゾである。間違っても、「大阪」とか「名古屋」とか言ってはならない。

答えは・・・「仙台」である。500台+500台=1000台だからという、取るに足らないナゾナゾ。

なら、タイトルの「いっせんだい」とは「一千台」なのか?いや、違う。漢字で書くと「一闡提」である。最近、中国仏教やら仏教史などでよく出てくる言葉なので、ひそかな「マイブーム」となっている。

『仏性とはなにか『涅槃経』を解き明かす』という本では、「仏教内では悪人の代名詞として使われていて、極悪人という人物である」(p.185)とされている。中国仏教で三階教を学習していたときも、「一闡提」というキーワードがでてきた。あるいは、『大般涅槃経』では、「信心をもたない者」「よい方便をみずからのものにできない者」「精進を持続できない者」「記憶を維持できない者」「注意をもたない者」「智慧をもたない者」「無常の善を持たない者」(前掲書pp.186-187)と言った、まあ、ひどい言われようである。

で、一闡提は救われるかというのが、よく問題として取り上げられる。一闡提は悟りを得ることはできないとされる。要は救われないということである。あらゆる衆生は救われるのではと思っても、一闡提は救われない。しかし、もし、その一闡提が少しでも仏法を信じるこころを起こしたなら・・・そう、その瞬間から、一闡提は一闡提ではなくなるのである。だから、本来救われるはずがない一闡提であったとしても、例えば「重罪を犯す者でも、重罪を消したら、その時、ブッダになることができる」(前掲書p.191)のである。

きっと、この「一闡提」という言葉も、仏教学を学ばなければ、知らずに死を迎えていたかもしれない。本当に、学びは奥が深く、際限を知らぬものといえる。人並みに語ることさえおこがましく、己の知識の浅はかさを嘆くのである。
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昨日は飲み会!

2014年09月05日 21時41分41秒 | 読書
歓送迎会という名の飲み会・・・

少々、風邪気味(鼻水・喉の痛み・だるさ等)だったので大変でした・・・なんとか、今日一日働いて、ヘトヘトの状況で帰宅。体重計に乗ってみると、飲み会翌日にもかかわらず、64.7キロと65キロを割っていました。

体調も優れないので、早いですが、就寝したいと思います。おやすみなさい。
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「はじめて知る 珍説・異説の仏教論」

2014年08月07日 21時33分48秒 | 読書
レポートは書けないものの、ようやく本を読むだけのモチベーションは復活してきました。

毎日、数冊~5,6冊程度は読み尽くしています。周り中、本だらけなので、読まないことには始まらない。そんな中、通勤途上で読んだのがタイトルの本。

結構、読むのに時間のかかった本(=内容が読むに値する本)だったのですが、感じ入ったのが、p.78の文章。

『とんちで有名な一休禅師の名前の由来は「有漏地より無漏地に帰る一休み、雨ふらば降れ 風ふかば吹け」の句からきたものだ。この句の中の「有漏地」とは欲と迷いの現世をさし、無漏地とは覚りを得て安定した世界のことである。有漏の「漏」は、樽や桶から水や油が漏れ出ることである。従って、煩悩にまみれ、悩み尽きない生きざまを繰り返す現世が、有漏の地ということとなる。この句の意味を大雑把にまとめていえば、生きているうちは苦しいが、それはほんのわずかな時間。やがて、悩みの無い世界に帰れるのだから、なにが起きようと恐くない、という人生の応援歌と捉えられよう。』

そう、人間の人生なんて、地球の誕生から考えれば、ほんの一瞬。どんなに長く生きても、100年強ぐらいしか生きられない。そんな現世で、あくせくしても仕方が無い。正直、明日まで、絶対生きながらえることができると断言できる人は、誰一人いないのだから。もし、死んでしまったら、それが寿命とあきらめるしかない。とはいえ、そんなに遠くない未来に、必ず私も、後に続くのだから。

だからこそ、人生は「一休み」にしか過ぎないといえるのだろう。

永遠の命を欲する気持ちもわからなくはない。でも、それが許されるとしたら、ここ東京には、平将門と徳川家康が暴れまわり、京都方面では、織田信長と明智光秀とともに、藤原道長と一休宗純がたむろしているやもしれぬ。奈良には蘇我入鹿とともに後醍醐天皇が大仏の前で同席しているかもしれぬ。

それ以上に、数千年前の旧石器人、縄文人、弥生人~現代人がごった返している世界も住みづらいことであろう。永遠の命が許されると、愛する人との別れはなくなるかもしれないが、人口爆発で、食べるものはほとんど行き渡らず、空腹のうちに、永遠の時間を生きながらえざるを得ない、ある意味、無気力に時間を浪費するだけの地獄絵図が繰り広げられるやもしれない。

いつか終わりが来るからこそ、時間を大切にして、精一杯生きようと思うことができる。それこそが、人生の応援歌というものではないだろうか。
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