思い返すとこのブログを始めたのは、資格を皆さんに紹介するためであった。
それが、最近は、資格のことなど、ほとんど、触れないようなブログに成り下がってしまった。
支店長が私を役員に紹介するときも、「資格マニア」として紹介され、かなり不本意に思うこともある。だが、逆に言えば、私ほど、資格を持っている人間がいないことの裏返しでもある。
一般社会人で、資格を仕事のネタにしていない人間では、日本でも214の資格はかなり上位に位置するのではないだろうか。言えば、超暇人で、超奇人、超変人ということでもある。
資格を持つと、世界が広がるのも、また事実。毒物劇物取扱責任者として、餃子事件を見るのと、一般の人が餃子事件を見るのとでは、少し、見方も違ってくるってもんだ。「毒物」と「劇物」の違いが判るだけでも、人生、豊かになる(そんなことなかろう・・・)。
メンテナンスをしていないから、たくさんある資格も飾り物程度にしかならない。いや、飾り物どころか、飲み会での、お笑いグッズにしかならないのが、残念無念でもある。
いくつか取りたい資格もあるにはあるのだが、時間がないからなかなか手を出せない。時間がないのは言い訳ではなく、今は「学位」を取得するのに、多分なエネルギーをかけているのが実情である。
学位をとるのがこんなに面白いとは思わなかった。面白いというと語弊があるが、資格と違って、エネルギーのかけ方が一発勝負ではないことが、生涯学習というものと、非常にマッチしている。
学位をとるには、まず、単位をとらなければいけない。単位を取るためには授業にでなければならない。授業に出るためには事前の学習をしなければならない。したくない勉強も必要なときがあるし、興味のない科目も学習しなければならないこともある。その苦労や努力の積み重ねが、一枚の「学位記」として、等価交換される。時間もかかる。一発勝負でない分、ある意味、最悪、違う単位を修得することで許される場合もある。
「資格」はSTALE=腐ってしまうものであるが、「学位記」は腐らない。なぜなら、使い方が違うからだ。今の日本では「資格」は即戦力の証明書と位置付けられるため、力不足=資格が腐ってしまうこととなる。
一方、「学位記」=卒業(あるいは修了)証明は、それを即戦力として扱わず、学習の履歴としか見なさない。つまり、東大だろうと、他の大学であろうと、その「学位記」だけで、初任給が変わるケースは、非常にレアといえる。大卒=いくら、あるいは、院卒=いくらという、給与体系、すなわち、学位記=いくらの世界である。
日本では、学位記は最低限度のレベルをあらわす、華道や茶道のお墨付きくらいの意味しかない。つまり、それでは食っていけない、面白い紙切れといえる。だから、10年たとうが、30年たとうが、作家の方々の人物紹介なんかに「××大学卒業」や「○○大学院修了」と書かれている。それは、決して、その人の現有能力を現すものではなく、その人の過去の履歴を表すもにしか過ぎない。
そう、腐らないのだ・・・何故だろう?
ただ、「資格」も「学位」も、それにしがみつくようになっては、醜く思えてしまう。ただ、私の名刺を持っている方は、たくさん資格の並んでいることを知っていると思う。それは、決して、資格の数を誇っているのではなく、あくまで、飲み会の席での「話題の提供」のため、「お笑い」で作っているものなのであしからず・・・
それはそうと、そろそろ、新しいバージョンの名刺を考えないとな~
それが、最近は、資格のことなど、ほとんど、触れないようなブログに成り下がってしまった。
支店長が私を役員に紹介するときも、「資格マニア」として紹介され、かなり不本意に思うこともある。だが、逆に言えば、私ほど、資格を持っている人間がいないことの裏返しでもある。
一般社会人で、資格を仕事のネタにしていない人間では、日本でも214の資格はかなり上位に位置するのではないだろうか。言えば、超暇人で、超奇人、超変人ということでもある。
資格を持つと、世界が広がるのも、また事実。毒物劇物取扱責任者として、餃子事件を見るのと、一般の人が餃子事件を見るのとでは、少し、見方も違ってくるってもんだ。「毒物」と「劇物」の違いが判るだけでも、人生、豊かになる(そんなことなかろう・・・)。
メンテナンスをしていないから、たくさんある資格も飾り物程度にしかならない。いや、飾り物どころか、飲み会での、お笑いグッズにしかならないのが、残念無念でもある。
いくつか取りたい資格もあるにはあるのだが、時間がないからなかなか手を出せない。時間がないのは言い訳ではなく、今は「学位」を取得するのに、多分なエネルギーをかけているのが実情である。
学位をとるのがこんなに面白いとは思わなかった。面白いというと語弊があるが、資格と違って、エネルギーのかけ方が一発勝負ではないことが、生涯学習というものと、非常にマッチしている。
学位をとるには、まず、単位をとらなければいけない。単位を取るためには授業にでなければならない。授業に出るためには事前の学習をしなければならない。したくない勉強も必要なときがあるし、興味のない科目も学習しなければならないこともある。その苦労や努力の積み重ねが、一枚の「学位記」として、等価交換される。時間もかかる。一発勝負でない分、ある意味、最悪、違う単位を修得することで許される場合もある。
「資格」はSTALE=腐ってしまうものであるが、「学位記」は腐らない。なぜなら、使い方が違うからだ。今の日本では「資格」は即戦力の証明書と位置付けられるため、力不足=資格が腐ってしまうこととなる。
一方、「学位記」=卒業(あるいは修了)証明は、それを即戦力として扱わず、学習の履歴としか見なさない。つまり、東大だろうと、他の大学であろうと、その「学位記」だけで、初任給が変わるケースは、非常にレアといえる。大卒=いくら、あるいは、院卒=いくらという、給与体系、すなわち、学位記=いくらの世界である。
日本では、学位記は最低限度のレベルをあらわす、華道や茶道のお墨付きくらいの意味しかない。つまり、それでは食っていけない、面白い紙切れといえる。だから、10年たとうが、30年たとうが、作家の方々の人物紹介なんかに「××大学卒業」や「○○大学院修了」と書かれている。それは、決して、その人の現有能力を現すものではなく、その人の過去の履歴を表すもにしか過ぎない。
そう、腐らないのだ・・・何故だろう?
ただ、「資格」も「学位」も、それにしがみつくようになっては、醜く思えてしまう。ただ、私の名刺を持っている方は、たくさん資格の並んでいることを知っていると思う。それは、決して、資格の数を誇っているのではなく、あくまで、飲み会の席での「話題の提供」のため、「お笑い」で作っているものなのであしからず・・・
それはそうと、そろそろ、新しいバージョンの名刺を考えないとな~