ふと、常々書いておきたいと思っていたことが浮かんできた。
私には独自の思想概念がある。1つは人間とは「何らかの役割期待をもって生まれてきている」ということと、「人生は生れ落ちたときに既に終わりまでプログラムされている」とういうことである。
このように書くと、きっと反論される方も多数いるだろう。でも、私の自由な思想として勝手に思っていることなのでご容赦願いたい。
「何らかの役割期待をもって生まれてきている」とういのは、人の人生は無為に浪費されてはいけないという概念である。前にも少し書いたが、今、この瞬間、世界中の人間が活動を停止してしまえば、人類の文明は後世に続かず崩壊する。だから、現世の人々は、自分の役割期待に応え、持ち場持ち場で後世に文明・文化を伝えていく義務があるといえる。
「後の世のことなんか考えてられるかい!自分だけよければいいんだよ!」って言う人がいるなら、その人は「フリーライダー」と言わざるを得ない。過去の人類が発見し、開発し、培ってきた文明の利器や、利便を享受しているにもかかわらず、生きている中で、それ以上のものを還元しないなら、その人は己の役割期待に応えられなかったフリーライダーと言っても過言ではなかろう。
「人生は生れ落ちたときに既に終わりまでプログラムされている」という点については、「努力すれば人生は変えられる」と思っている人からクレームがくるかもしれない。しかし、その「努力する」という行為そのものも、人生を終えて振り返ってみれば、既にプログラムされていたことだと私は思っている。
「××という出来事があって目が覚めて努力を始めた」というのが、多くの方々の回顧録で出てくる。しかし、その出来事というものも、神の見えざる手に導かれるがごとく、人生の要所で配置されているのだ。それに気づかない人も多いが、気づいた人にとっては人生のターニングポイントとなる。
「左遷された」という人は、左遷されたことに悲観的になるのではなく、「努力する機会」として、人生のスケジュールにプログラムされていると考えるべきなのだ。そして、そこで努力したことで新たな人生が拓けるように組み込まれている。
ただ、困ったことに、その「チャンスともいえる逆境」にショックを受け、役割期待から逃避してしまう人も意外と多い。
「職業に貴賎なし」というのが私の考えであり、たとえ、不本意な仕事を与えられたとしても、その仕事のスペシャリスト=日本トップクラスになるまでやってやるのが「天命論」の真髄である。辞めるのはいつでもできる。せっかく、天からその仕事を与えられたのだから、一度、比類なきレベルに至るまで、業務に没頭するべきだと思っている。
「自分が出来なければ他にできる人がいるわけがない」というレベルにまで達して、それでもまだ余力があるなら、きっと、それは「空いた時間で何かしろ」という天からのメッセージなんだろう。私の場合、空いた時間に、興味のあることを学習することで国内MBAになり、教育学修士になってしまった。仕事以外にも専門分野が2つできたこととなる。
今すぐ役立つこともないだろうが、死ぬまでに、ひょっとしたら使えるときがくるかもしれない。なんせ、学位は取得するのに何年もかかるから、「必要」と言われたときにスタートしても数年遅れになってしまう。ただの紙切れなのだが、資格と一緒で取得に時間がかかることと、時間をかけても必ず取得できるという保証がない「不確実性ステイタス」なので、興味のある分野は前倒しで押さえておくほうが「天命」に適っている。
長々と書いてきたが、天命により、あなた自身の「人生の役割」もきっと決まっているはずである。私は生まれながらに「ムダ」で「不必要」だという人間はいないと信じている。だからこそ、早く、自分の役割期待に気づいて、その目標に対して精進すべきである。無論、天は気まぐれなので、時として試練を与えるやもしれぬ。しかし、それを克服して、新たなスキルや能力を加えることで、より、進化した己を形成することが可能となる。
先月末、期待していた若手が長期休暇の後、退職した。そんなこともあって、私の勝手な思いを書いてしまった。気分を害された方がいたら、ご勘弁願いたい。
優秀な若手行員であったが、転勤して、職場が変わったことも影響したのだろうか・・・
昔、よく失敗して「銀行への適性がないのかな・・・」と落ち込んでいた私に、先輩が「あくまはダメだよ」と言ってくれた。「焦るな」「腐るな」「負けるな」のかしら文字をとって「あ」「く」「ま」ということだった。最初に配属された店の先輩で、最後の高卒での総合職入行の方の言葉だった。今では、某店で課長をされている。20年も前の話だが、昨日のように覚えている。
それが、最近の風潮として、「焦って」「腐って」「負けてしまう」という構図が浸透してしまっている。というより、本人は「負けてしまった」という意識はなく、簡単に会社を辞めてしまう。わずか数年で辞めてしまうことが「天命」であったかのように・・・
私の思想概念の範疇を、既に越えてしまっているんだな・・・
私には独自の思想概念がある。1つは人間とは「何らかの役割期待をもって生まれてきている」ということと、「人生は生れ落ちたときに既に終わりまでプログラムされている」とういうことである。
このように書くと、きっと反論される方も多数いるだろう。でも、私の自由な思想として勝手に思っていることなのでご容赦願いたい。
「何らかの役割期待をもって生まれてきている」とういのは、人の人生は無為に浪費されてはいけないという概念である。前にも少し書いたが、今、この瞬間、世界中の人間が活動を停止してしまえば、人類の文明は後世に続かず崩壊する。だから、現世の人々は、自分の役割期待に応え、持ち場持ち場で後世に文明・文化を伝えていく義務があるといえる。
「後の世のことなんか考えてられるかい!自分だけよければいいんだよ!」って言う人がいるなら、その人は「フリーライダー」と言わざるを得ない。過去の人類が発見し、開発し、培ってきた文明の利器や、利便を享受しているにもかかわらず、生きている中で、それ以上のものを還元しないなら、その人は己の役割期待に応えられなかったフリーライダーと言っても過言ではなかろう。
「人生は生れ落ちたときに既に終わりまでプログラムされている」という点については、「努力すれば人生は変えられる」と思っている人からクレームがくるかもしれない。しかし、その「努力する」という行為そのものも、人生を終えて振り返ってみれば、既にプログラムされていたことだと私は思っている。
「××という出来事があって目が覚めて努力を始めた」というのが、多くの方々の回顧録で出てくる。しかし、その出来事というものも、神の見えざる手に導かれるがごとく、人生の要所で配置されているのだ。それに気づかない人も多いが、気づいた人にとっては人生のターニングポイントとなる。
「左遷された」という人は、左遷されたことに悲観的になるのではなく、「努力する機会」として、人生のスケジュールにプログラムされていると考えるべきなのだ。そして、そこで努力したことで新たな人生が拓けるように組み込まれている。
ただ、困ったことに、その「チャンスともいえる逆境」にショックを受け、役割期待から逃避してしまう人も意外と多い。
「職業に貴賎なし」というのが私の考えであり、たとえ、不本意な仕事を与えられたとしても、その仕事のスペシャリスト=日本トップクラスになるまでやってやるのが「天命論」の真髄である。辞めるのはいつでもできる。せっかく、天からその仕事を与えられたのだから、一度、比類なきレベルに至るまで、業務に没頭するべきだと思っている。
「自分が出来なければ他にできる人がいるわけがない」というレベルにまで達して、それでもまだ余力があるなら、きっと、それは「空いた時間で何かしろ」という天からのメッセージなんだろう。私の場合、空いた時間に、興味のあることを学習することで国内MBAになり、教育学修士になってしまった。仕事以外にも専門分野が2つできたこととなる。
今すぐ役立つこともないだろうが、死ぬまでに、ひょっとしたら使えるときがくるかもしれない。なんせ、学位は取得するのに何年もかかるから、「必要」と言われたときにスタートしても数年遅れになってしまう。ただの紙切れなのだが、資格と一緒で取得に時間がかかることと、時間をかけても必ず取得できるという保証がない「不確実性ステイタス」なので、興味のある分野は前倒しで押さえておくほうが「天命」に適っている。
長々と書いてきたが、天命により、あなた自身の「人生の役割」もきっと決まっているはずである。私は生まれながらに「ムダ」で「不必要」だという人間はいないと信じている。だからこそ、早く、自分の役割期待に気づいて、その目標に対して精進すべきである。無論、天は気まぐれなので、時として試練を与えるやもしれぬ。しかし、それを克服して、新たなスキルや能力を加えることで、より、進化した己を形成することが可能となる。
先月末、期待していた若手が長期休暇の後、退職した。そんなこともあって、私の勝手な思いを書いてしまった。気分を害された方がいたら、ご勘弁願いたい。
優秀な若手行員であったが、転勤して、職場が変わったことも影響したのだろうか・・・
昔、よく失敗して「銀行への適性がないのかな・・・」と落ち込んでいた私に、先輩が「あくまはダメだよ」と言ってくれた。「焦るな」「腐るな」「負けるな」のかしら文字をとって「あ」「く」「ま」ということだった。最初に配属された店の先輩で、最後の高卒での総合職入行の方の言葉だった。今では、某店で課長をされている。20年も前の話だが、昨日のように覚えている。
それが、最近の風潮として、「焦って」「腐って」「負けてしまう」という構図が浸透してしまっている。というより、本人は「負けてしまった」という意識はなく、簡単に会社を辞めてしまう。わずか数年で辞めてしまうことが「天命」であったかのように・・・
私の思想概念の範疇を、既に越えてしまっているんだな・・・