次の大学評価・学位授与機構での学位申請を検討するため、「新しい学士をめざして」(ぎょうせい)を読んでいたところ、P.71にタイトルの文章があった。
大学評価・学位授与機構で学士の学位を取得することと、大学卒業とは同値ではないと私は思っている。ただ、重箱のスミをつつくがごとく吹聴することはナンセンスであると思っている。
例えば、防衛大学校あるいは職業訓練大学校を出てベンチャー企業を起こした人がいる。これらの方々は学士ではない。大学卒ではなく大学校卒である。
もっと、分かりやすい例を言えば、同じ大学を卒業しても、夜間部や通信教育部で卒業した人は社会的には同じと見られているとはいいがたい。同じ卒業証書なのに・・・である。
しかし、そのことに悲観的になっている以上は、何も進展しない。私の知っている意欲のある人には、高卒から大学院生になったし、別の方は短大卒から大学院生になった。当然、機構の学位があれば、それだけで十分大学院の受験資格を得ることができる。
「卒論を書いてないと××大学院は合格できない」といわれて、あきらめる人も多い。でも、本当にやる気がある人なら、卒論がないなら学会に発表した論文を卒論に代替するとか、教授の研究室を訪問するとか、教授の主催するイベントに潜り込んで話を聞いてもらうとか、次のアクションへ労力を投下するはずである。それもしないで、あきらめて、身の不幸をうらむのはどうだろう?
一般の企業の場合でも同じことが言える。著名な方の立身出世伝を読むと、とんでもないような、あるいは奇想天外な方法で採用され、自分の能力を存分に発揮してトップに上り詰めた人もいる。
偉くなることが人生のゴールではないが、学歴を理由に自分の夢を放棄するのは納得がいかない。日本という国では、大学を出ていなくても総理大臣になった人もいれば、日本を代表する経営者になった人もいる。
大学の卒業証書も、機構の学位記も、あるいは、言うなれば資格の合格証書も、いわば、その人物の、ちょっとした「保証書」みたいなものだ。最低限このような能力があるといった証明書。保証書があっても、壊れる製品があるように、時には、見掛け倒しのものもあるが、あれば、なんとなく安心ができるもの。
しかし、世の中には「保証書」がなくても、非常に便利で役に立つものがあるのと同様、学位や卒業証書がなくても、有能な人はたくさんいるのだ。それが、企業のニーズと合致すれば、取り立てて学歴も、合格証書も不要で採用されるのである。
ただ、少なくとも、「機構の学位は大卒ではないから意味がない」と、細かいことを言っている人には、その学位の有効性を見出すことができないはずである。有能な人であれば、機構の学位を大卒の証明書より、うまく、有効に活用して、自分の夢の実現に進んでいくはずである(無論、学位がなくても夢の実現に向かってアクションを起こすはずなのだが、あるものは、最大限活用するはずである)。
機構で学士を取得された方には、一般の大卒にはないユニークな学歴があるはずだ。それは、基礎資格を取得した際の学歴(短大、専門学校あるいは大学中退)、他大学で単位を積み上げた際の学歴(科目履修生等)、そして、機構の学位という三段構えとなる。
また、卒業論文なしでも卒業できる学部が増えている中、卒業論文に相当するレポートの作成が義務付けられている。
加えて、機構の学位取得者は、全部合わせても5万人程度。単位を積み上げたものに限定すれば3万人もいない。いわば、希少価値がある。それに、基礎資格は文系だけど、取得学位は「科学技術研究(学芸)」とか、基礎資格は理系だけど、取得学位は「経営学」なんてこともできる。
機構の学士取得者には、大卒者にはないメリットがある。逆に大卒者にも、クラブ・サークル活動や充実したキャンパスライフ等、機構での学位取得者には機会の少ない面でのセールスポイントがある。
それをどれだけ有効に活用できるかは、その人の個性というか、夢に対する思い入れ次第ではなかろうか。
大学評価・学位授与機構で学士の学位を取得することと、大学卒業とは同値ではないと私は思っている。ただ、重箱のスミをつつくがごとく吹聴することはナンセンスであると思っている。
例えば、防衛大学校あるいは職業訓練大学校を出てベンチャー企業を起こした人がいる。これらの方々は学士ではない。大学卒ではなく大学校卒である。
もっと、分かりやすい例を言えば、同じ大学を卒業しても、夜間部や通信教育部で卒業した人は社会的には同じと見られているとはいいがたい。同じ卒業証書なのに・・・である。
しかし、そのことに悲観的になっている以上は、何も進展しない。私の知っている意欲のある人には、高卒から大学院生になったし、別の方は短大卒から大学院生になった。当然、機構の学位があれば、それだけで十分大学院の受験資格を得ることができる。
「卒論を書いてないと××大学院は合格できない」といわれて、あきらめる人も多い。でも、本当にやる気がある人なら、卒論がないなら学会に発表した論文を卒論に代替するとか、教授の研究室を訪問するとか、教授の主催するイベントに潜り込んで話を聞いてもらうとか、次のアクションへ労力を投下するはずである。それもしないで、あきらめて、身の不幸をうらむのはどうだろう?
一般の企業の場合でも同じことが言える。著名な方の立身出世伝を読むと、とんでもないような、あるいは奇想天外な方法で採用され、自分の能力を存分に発揮してトップに上り詰めた人もいる。
偉くなることが人生のゴールではないが、学歴を理由に自分の夢を放棄するのは納得がいかない。日本という国では、大学を出ていなくても総理大臣になった人もいれば、日本を代表する経営者になった人もいる。
大学の卒業証書も、機構の学位記も、あるいは、言うなれば資格の合格証書も、いわば、その人物の、ちょっとした「保証書」みたいなものだ。最低限このような能力があるといった証明書。保証書があっても、壊れる製品があるように、時には、見掛け倒しのものもあるが、あれば、なんとなく安心ができるもの。
しかし、世の中には「保証書」がなくても、非常に便利で役に立つものがあるのと同様、学位や卒業証書がなくても、有能な人はたくさんいるのだ。それが、企業のニーズと合致すれば、取り立てて学歴も、合格証書も不要で採用されるのである。
ただ、少なくとも、「機構の学位は大卒ではないから意味がない」と、細かいことを言っている人には、その学位の有効性を見出すことができないはずである。有能な人であれば、機構の学位を大卒の証明書より、うまく、有効に活用して、自分の夢の実現に進んでいくはずである(無論、学位がなくても夢の実現に向かってアクションを起こすはずなのだが、あるものは、最大限活用するはずである)。
機構で学士を取得された方には、一般の大卒にはないユニークな学歴があるはずだ。それは、基礎資格を取得した際の学歴(短大、専門学校あるいは大学中退)、他大学で単位を積み上げた際の学歴(科目履修生等)、そして、機構の学位という三段構えとなる。
また、卒業論文なしでも卒業できる学部が増えている中、卒業論文に相当するレポートの作成が義務付けられている。
加えて、機構の学位取得者は、全部合わせても5万人程度。単位を積み上げたものに限定すれば3万人もいない。いわば、希少価値がある。それに、基礎資格は文系だけど、取得学位は「科学技術研究(学芸)」とか、基礎資格は理系だけど、取得学位は「経営学」なんてこともできる。
機構の学士取得者には、大卒者にはないメリットがある。逆に大卒者にも、クラブ・サークル活動や充実したキャンパスライフ等、機構での学位取得者には機会の少ない面でのセールスポイントがある。
それをどれだけ有効に活用できるかは、その人の個性というか、夢に対する思い入れ次第ではなかろうか。