気がついたら、アクセス件数が6,001,494件となっておりました!
これも、ひとえに、皆さまのご愛顧の賜物と深く感謝しております。ブログ開設から3,984日で訪問者数は1,216,601人ということですので、一日平均、アクセスが1,506件、訪問者数が305人となっております。いただいたコメントについても7,240件を日数で割ると1日1.8件。自分の返事を勘案すると、1日約1コメントを頂戴しているという計算でしょうか。
550万件が1月15日ですので、約5ヶ月強ぶりの御礼ということとなります。書き綴った記事は11,772件。概ね・・・つまらない記事。生涯学習とは無関係の、日常の些末な出来事が中心になっております。本当に申し訳ございません・・・
正直、生涯学習のみの硬派なブログをお届けしたいのですが、そうすると、1ヶ月に1回も更新できないかもしれません。ゆえに、身の回りに起こった出来事も取り上げることとなります。とはいえ、このような些末な記事を入れることで、「学習ばっかりでなくても、それなりに成果は上がる」ということも証明しています。
本当、仕事を持つ社会人が学習することは大変です。仕事との調整、ままならぬ日常、いろいろなしがらみ・・・そういうものから解放されたら、「どれだけ自由に生涯学習にいそしむことができるだろう!」さえ思えてしまいます。
しかし、人間とは怠惰な生き物であり、易きに流される性質が本能的に備わっています。もし、人間が恐れるほどに勤勉であったなら、原始のうちにすべての食べ物を一気に取りつくし、絶滅していたことでしょう。生きるために最低限必要なものを必要なだけ狩猟・採取していたから、食物連鎖のクサリを断絶することなく、つないでこれたのでしょう。
その怠惰かつ安穏としたがるDNAを証明するのであれば、「夏休み」や「正月休み」といった長期休暇でも、それほど学習できない経験を振り返ってみればよい。あるいは、週休二日が基本となった現代においても、それほど、学習していない日本人の習慣を見ても明らかでしょう。読書もほとんどしない国民性。昨日も図書館に行きましたが、社会人の男性はほとんどおらず、おじいさんやおばあさん、あるいは、子どもが中心。ネットで検索すると、月1冊程度しか読まない人が最多で、約1/4が「全く本を読まない」とのこと。そして、月間読書量わずか0~2冊が約3/4も占める国。
私も社会人として仕事をしており、日常の仕事で精一杯という気持ちがよくわかります。それに、生涯学習より遊びに行ったり、食べに行ったりする方がに「幸せ」を感じます。その理由は、学習には苦痛がつきものだから。
もし、「私は生涯学習に勤しんでいるが、まったく苦痛を感じていないぞ!」という人がいるなら、それは新の生涯学習ではないと思います。「学習したつもり」になっているだけ。だって、それは自分の好きな学習以外やっていない結果だから。その生涯学習は、生涯学習の一面しかみていないのと同値と感じています。
「生涯学習を愛しています。」と言い切るためには、その楽しい部分も、苦しい部分も、すべてを愛すると断言できることが必要ではないでしょうか。新しいことを学習するのは苦痛です。知らないことを学習するのは恐怖です。ゴールの見えない学習をするのは不安です。そういった、意識の中に存在する生涯学習の負の面を、すべて引き受けるだけの覚悟がなければ、生涯学習と一体化することはできません。
とはいえ、負の面をすべて一気に引き受ける必要もありません。私のように、怠惰な日常の中、だましだまし、生涯学習を組み込む程度で、何もしない社会人より、それなりの成果を積み上げることが可能です。「人生のすべてを生涯学習に!」っていうほど、極端である必要は全くないのです。釈尊のいうところの中道でよいのです。あるいは、上野陽一先生がいうところの「ムリ・ムダ・ムラの三ムをなくす」ことを心掛ける程度でよいのです。
その些細な一歩を、この繁忙な日常と、安逸を貪る本能と、「社会人」「家庭人」等々の役割期待とが押しつぶしてしまう。そして、多くの方々が、その要因を、都合のいいエクスキューズに使って、わずかな一歩を惜しんでしまう。そして、何も変わらない己自身に幻滅してしまう。
後悔するくらいならやればいい。ただそれだけなのに、多くの人が後悔を選択してしまう・・・私自身、「あの時もっと勉強しておけば」とか「あの時申し込んでおけば」と少なからず悔いる人生を送ってきました。今でもよくある習慣ですが、成果構築型の生涯学習を目指すのなら、その遅れは致命的となります。成果を構築する=学位や資格といった目に見える成果を構築するためには、チャンスは年に1回、あるいは数年かけての目標達成となります。1日の遅れで申し込みが締め切られ、その1日は1年の遅れに直結します。「1日遅れた!」という後悔は、残り人生の何十分の1を浪費する結果になるのです。だから、苦しくても、デッドラインを守るわけです。
非常に弱く、脆く、すぐに安易な方向に流される私ですが、この「デッドライン学習法」で、多くの学びを成果に変えてきました。無論、それが正解とは言えないのですが、それなりの成果が蓄積されていることを振り返れば、不正解だったとは言い切れないでしょう。「家族との団欒」「経済的蓄積」「余暇」等々、失ったものも多々あるし、蓄積した成果の中にも腐ってしまったり、維持しきれなかったものがあるのも事実。一方で、得難い友人や恩師と出会えたことは、それ以上の喜びといえるのかもしれません。
長々と書き綴ってきましたが、これからも、細く長く、このブログを維持できればと思っています。これからも、温かく見守っていただければ幸甚です。