そういえば・・・
先般、某通信制大学の歴史の先生と話していたときのことを思い出した。私の出身大学の文学部から博士課程まで修了されて先生になられた方である。その昔、私が経済学部を抜け出して文学部で歴史の授業を履修していたことをお話したところ、「歴史と言えばA先生とか・・・」という話になったのである。
A先生!なんと、ピンポイントで私が「古文書学」を履修していた先生である。その先生は文学部だけではなく、教育学部でも歴史の授業の一環として「古文書学」を教えていた。
押入から探し出した「成績証明書」を見てみると、文学部の「古文書学」が評価「良」で、教育学部の「古文書学」が評価「優」となっている。記憶では文学部「可」で教育学部「良」だと思っていたのだが、「古文書学」で「優」ですか!凄いな~
先生の授業は文学部でも教育学部でも同じ。プリントした古文書を順番に読んでいくというもの。当然のことながら、他学部の生徒は私だけである。それくらい歴史が好きだったのか、経済学が嫌いだったのか不明である。
それにしても、文学部の授業を履修していてよかった!仕事では全く使わないけれど「古文書って、如件(くだんのごとし)で終わるんですよね~」と、十分、歴史の先生との話のネタになる。あるいは、機構で「学士(文学/歴史学分野)」の学位を取得した際に書いたレポートの内容を話して、ちょっとは勉強していることを伝えることができる。
概ね、大学の先生は学習する人に対して好意的に接してくださる。時に、大学院で学び続けているって感じの話題に至った瞬間、居住まいを正し、言葉遣いも変わり、「身内」ぐらいの親密さでかかわってくださる方もいる。ある意味露骨であるが、そもそも、産能の恩師も「銀行員は大嫌いだ!」って公言していたし(笑)。
そんな銀行員が学習しているから奇異に見えるのだろう。しかも、仕事と関係ない分野の大学院での学習。私が持つ教育関連の方々のイメージは、自分の研究分野については、全ての面において、ある意味、譲れないと意固地になる方が多いものの、自分の専攻以外は学習への過程が誤っていなければ中身を度外視して受け入れてくださる方が多いと感じている。
だからこそ、学び続ける社会人に対して寛容なんだろうな・・・と思っている。逆に「教育関係者は理屈っぽくて苦手だ」とほざく人は、己の不勉強を見透かされるのが怖くて、勝手なイメージを語っているのではないかと疑ってしまう。専門分野に知識は及ばなくても、学び続けてさえいれば、教育者の方と語る際には、何らおそれることはないのだから。
先般、某通信制大学の歴史の先生と話していたときのことを思い出した。私の出身大学の文学部から博士課程まで修了されて先生になられた方である。その昔、私が経済学部を抜け出して文学部で歴史の授業を履修していたことをお話したところ、「歴史と言えばA先生とか・・・」という話になったのである。
A先生!なんと、ピンポイントで私が「古文書学」を履修していた先生である。その先生は文学部だけではなく、教育学部でも歴史の授業の一環として「古文書学」を教えていた。
押入から探し出した「成績証明書」を見てみると、文学部の「古文書学」が評価「良」で、教育学部の「古文書学」が評価「優」となっている。記憶では文学部「可」で教育学部「良」だと思っていたのだが、「古文書学」で「優」ですか!凄いな~
先生の授業は文学部でも教育学部でも同じ。プリントした古文書を順番に読んでいくというもの。当然のことながら、他学部の生徒は私だけである。それくらい歴史が好きだったのか、経済学が嫌いだったのか不明である。
それにしても、文学部の授業を履修していてよかった!仕事では全く使わないけれど「古文書って、如件(くだんのごとし)で終わるんですよね~」と、十分、歴史の先生との話のネタになる。あるいは、機構で「学士(文学/歴史学分野)」の学位を取得した際に書いたレポートの内容を話して、ちょっとは勉強していることを伝えることができる。
概ね、大学の先生は学習する人に対して好意的に接してくださる。時に、大学院で学び続けているって感じの話題に至った瞬間、居住まいを正し、言葉遣いも変わり、「身内」ぐらいの親密さでかかわってくださる方もいる。ある意味露骨であるが、そもそも、産能の恩師も「銀行員は大嫌いだ!」って公言していたし(笑)。
そんな銀行員が学習しているから奇異に見えるのだろう。しかも、仕事と関係ない分野の大学院での学習。私が持つ教育関連の方々のイメージは、自分の研究分野については、全ての面において、ある意味、譲れないと意固地になる方が多いものの、自分の専攻以外は学習への過程が誤っていなければ中身を度外視して受け入れてくださる方が多いと感じている。
だからこそ、学び続ける社会人に対して寛容なんだろうな・・・と思っている。逆に「教育関係者は理屈っぽくて苦手だ」とほざく人は、己の不勉強を見透かされるのが怖くて、勝手なイメージを語っているのではないかと疑ってしまう。専門分野に知識は及ばなくても、学び続けてさえいれば、教育者の方と語る際には、何らおそれることはないのだから。
気がついたら、アクセス件数が6,001,494件となっておりました!
これも、ひとえに、皆さまのご愛顧の賜物と深く感謝しております。ブログ開設から3,984日で訪問者数は1,216,601人ということですので、一日平均、アクセスが1,506件、訪問者数が305人となっております。いただいたコメントについても7,240件を日数で割ると1日1.8件。自分の返事を勘案すると、1日約1コメントを頂戴しているという計算でしょうか。
550万件が1月15日ですので、約5ヶ月強ぶりの御礼ということとなります。書き綴った記事は11,772件。概ね・・・つまらない記事。生涯学習とは無関係の、日常の些末な出来事が中心になっております。本当に申し訳ございません・・・
正直、生涯学習のみの硬派なブログをお届けしたいのですが、そうすると、1ヶ月に1回も更新できないかもしれません。ゆえに、身の回りに起こった出来事も取り上げることとなります。とはいえ、このような些末な記事を入れることで、「学習ばっかりでなくても、それなりに成果は上がる」ということも証明しています。
本当、仕事を持つ社会人が学習することは大変です。仕事との調整、ままならぬ日常、いろいろなしがらみ・・・そういうものから解放されたら、「どれだけ自由に生涯学習にいそしむことができるだろう!」さえ思えてしまいます。
しかし、人間とは怠惰な生き物であり、易きに流される性質が本能的に備わっています。もし、人間が恐れるほどに勤勉であったなら、原始のうちにすべての食べ物を一気に取りつくし、絶滅していたことでしょう。生きるために最低限必要なものを必要なだけ狩猟・採取していたから、食物連鎖のクサリを断絶することなく、つないでこれたのでしょう。
その怠惰かつ安穏としたがるDNAを証明するのであれば、「夏休み」や「正月休み」といった長期休暇でも、それほど学習できない経験を振り返ってみればよい。あるいは、週休二日が基本となった現代においても、それほど、学習していない日本人の習慣を見ても明らかでしょう。読書もほとんどしない国民性。昨日も図書館に行きましたが、社会人の男性はほとんどおらず、おじいさんやおばあさん、あるいは、子どもが中心。ネットで検索すると、月1冊程度しか読まない人が最多で、約1/4が「全く本を読まない」とのこと。そして、月間読書量わずか0~2冊が約3/4も占める国。
私も社会人として仕事をしており、日常の仕事で精一杯という気持ちがよくわかります。それに、生涯学習より遊びに行ったり、食べに行ったりする方がに「幸せ」を感じます。その理由は、学習には苦痛がつきものだから。
もし、「私は生涯学習に勤しんでいるが、まったく苦痛を感じていないぞ!」という人がいるなら、それは新の生涯学習ではないと思います。「学習したつもり」になっているだけ。だって、それは自分の好きな学習以外やっていない結果だから。その生涯学習は、生涯学習の一面しかみていないのと同値と感じています。
「生涯学習を愛しています。」と言い切るためには、その楽しい部分も、苦しい部分も、すべてを愛すると断言できることが必要ではないでしょうか。新しいことを学習するのは苦痛です。知らないことを学習するのは恐怖です。ゴールの見えない学習をするのは不安です。そういった、意識の中に存在する生涯学習の負の面を、すべて引き受けるだけの覚悟がなければ、生涯学習と一体化することはできません。
とはいえ、負の面をすべて一気に引き受ける必要もありません。私のように、怠惰な日常の中、だましだまし、生涯学習を組み込む程度で、何もしない社会人より、それなりの成果を積み上げることが可能です。「人生のすべてを生涯学習に!」っていうほど、極端である必要は全くないのです。釈尊のいうところの中道でよいのです。あるいは、上野陽一先生がいうところの「ムリ・ムダ・ムラの三ムをなくす」ことを心掛ける程度でよいのです。
その些細な一歩を、この繁忙な日常と、安逸を貪る本能と、「社会人」「家庭人」等々の役割期待とが押しつぶしてしまう。そして、多くの方々が、その要因を、都合のいいエクスキューズに使って、わずかな一歩を惜しんでしまう。そして、何も変わらない己自身に幻滅してしまう。
後悔するくらいならやればいい。ただそれだけなのに、多くの人が後悔を選択してしまう・・・私自身、「あの時もっと勉強しておけば」とか「あの時申し込んでおけば」と少なからず悔いる人生を送ってきました。今でもよくある習慣ですが、成果構築型の生涯学習を目指すのなら、その遅れは致命的となります。成果を構築する=学位や資格といった目に見える成果を構築するためには、チャンスは年に1回、あるいは数年かけての目標達成となります。1日の遅れで申し込みが締め切られ、その1日は1年の遅れに直結します。「1日遅れた!」という後悔は、残り人生の何十分の1を浪費する結果になるのです。だから、苦しくても、デッドラインを守るわけです。
非常に弱く、脆く、すぐに安易な方向に流される私ですが、この「デッドライン学習法」で、多くの学びを成果に変えてきました。無論、それが正解とは言えないのですが、それなりの成果が蓄積されていることを振り返れば、不正解だったとは言い切れないでしょう。「家族との団欒」「経済的蓄積」「余暇」等々、失ったものも多々あるし、蓄積した成果の中にも腐ってしまったり、維持しきれなかったものがあるのも事実。一方で、得難い友人や恩師と出会えたことは、それ以上の喜びといえるのかもしれません。
長々と書き綴ってきましたが、これからも、細く長く、このブログを維持できればと思っています。これからも、温かく見守っていただければ幸甚です。
これも、ひとえに、皆さまのご愛顧の賜物と深く感謝しております。ブログ開設から3,984日で訪問者数は1,216,601人ということですので、一日平均、アクセスが1,506件、訪問者数が305人となっております。いただいたコメントについても7,240件を日数で割ると1日1.8件。自分の返事を勘案すると、1日約1コメントを頂戴しているという計算でしょうか。
550万件が1月15日ですので、約5ヶ月強ぶりの御礼ということとなります。書き綴った記事は11,772件。概ね・・・つまらない記事。生涯学習とは無関係の、日常の些末な出来事が中心になっております。本当に申し訳ございません・・・
正直、生涯学習のみの硬派なブログをお届けしたいのですが、そうすると、1ヶ月に1回も更新できないかもしれません。ゆえに、身の回りに起こった出来事も取り上げることとなります。とはいえ、このような些末な記事を入れることで、「学習ばっかりでなくても、それなりに成果は上がる」ということも証明しています。
本当、仕事を持つ社会人が学習することは大変です。仕事との調整、ままならぬ日常、いろいろなしがらみ・・・そういうものから解放されたら、「どれだけ自由に生涯学習にいそしむことができるだろう!」さえ思えてしまいます。
しかし、人間とは怠惰な生き物であり、易きに流される性質が本能的に備わっています。もし、人間が恐れるほどに勤勉であったなら、原始のうちにすべての食べ物を一気に取りつくし、絶滅していたことでしょう。生きるために最低限必要なものを必要なだけ狩猟・採取していたから、食物連鎖のクサリを断絶することなく、つないでこれたのでしょう。
その怠惰かつ安穏としたがるDNAを証明するのであれば、「夏休み」や「正月休み」といった長期休暇でも、それほど学習できない経験を振り返ってみればよい。あるいは、週休二日が基本となった現代においても、それほど、学習していない日本人の習慣を見ても明らかでしょう。読書もほとんどしない国民性。昨日も図書館に行きましたが、社会人の男性はほとんどおらず、おじいさんやおばあさん、あるいは、子どもが中心。ネットで検索すると、月1冊程度しか読まない人が最多で、約1/4が「全く本を読まない」とのこと。そして、月間読書量わずか0~2冊が約3/4も占める国。
私も社会人として仕事をしており、日常の仕事で精一杯という気持ちがよくわかります。それに、生涯学習より遊びに行ったり、食べに行ったりする方がに「幸せ」を感じます。その理由は、学習には苦痛がつきものだから。
もし、「私は生涯学習に勤しんでいるが、まったく苦痛を感じていないぞ!」という人がいるなら、それは新の生涯学習ではないと思います。「学習したつもり」になっているだけ。だって、それは自分の好きな学習以外やっていない結果だから。その生涯学習は、生涯学習の一面しかみていないのと同値と感じています。
「生涯学習を愛しています。」と言い切るためには、その楽しい部分も、苦しい部分も、すべてを愛すると断言できることが必要ではないでしょうか。新しいことを学習するのは苦痛です。知らないことを学習するのは恐怖です。ゴールの見えない学習をするのは不安です。そういった、意識の中に存在する生涯学習の負の面を、すべて引き受けるだけの覚悟がなければ、生涯学習と一体化することはできません。
とはいえ、負の面をすべて一気に引き受ける必要もありません。私のように、怠惰な日常の中、だましだまし、生涯学習を組み込む程度で、何もしない社会人より、それなりの成果を積み上げることが可能です。「人生のすべてを生涯学習に!」っていうほど、極端である必要は全くないのです。釈尊のいうところの中道でよいのです。あるいは、上野陽一先生がいうところの「ムリ・ムダ・ムラの三ムをなくす」ことを心掛ける程度でよいのです。
その些細な一歩を、この繁忙な日常と、安逸を貪る本能と、「社会人」「家庭人」等々の役割期待とが押しつぶしてしまう。そして、多くの方々が、その要因を、都合のいいエクスキューズに使って、わずかな一歩を惜しんでしまう。そして、何も変わらない己自身に幻滅してしまう。
後悔するくらいならやればいい。ただそれだけなのに、多くの人が後悔を選択してしまう・・・私自身、「あの時もっと勉強しておけば」とか「あの時申し込んでおけば」と少なからず悔いる人生を送ってきました。今でもよくある習慣ですが、成果構築型の生涯学習を目指すのなら、その遅れは致命的となります。成果を構築する=学位や資格といった目に見える成果を構築するためには、チャンスは年に1回、あるいは数年かけての目標達成となります。1日の遅れで申し込みが締め切られ、その1日は1年の遅れに直結します。「1日遅れた!」という後悔は、残り人生の何十分の1を浪費する結果になるのです。だから、苦しくても、デッドラインを守るわけです。
非常に弱く、脆く、すぐに安易な方向に流される私ですが、この「デッドライン学習法」で、多くの学びを成果に変えてきました。無論、それが正解とは言えないのですが、それなりの成果が蓄積されていることを振り返れば、不正解だったとは言い切れないでしょう。「家族との団欒」「経済的蓄積」「余暇」等々、失ったものも多々あるし、蓄積した成果の中にも腐ってしまったり、維持しきれなかったものがあるのも事実。一方で、得難い友人や恩師と出会えたことは、それ以上の喜びといえるのかもしれません。
長々と書き綴ってきましたが、これからも、細く長く、このブログを維持できればと思っています。これからも、温かく見守っていただければ幸甚です。